Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, September 03, 2009

*Oct 2nd Magazine

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年   10月   2日号
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10月2日……1260号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもは、家族の「代表」

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子どもは、家族の「代表」。
代表にすぎない。
今では、それは、常識。
子どもに何か問題があったとしても、
それは子どもだけの問題ではない。
家族全体の問題。
そのように、考える。
またそのように考えないと、子どもの問題は
解決しない。

しかしそれだけでは足りない。
足りないという話を、今までの経験を交えながら
書いてみたい。

+++++++++++++++++++

●優等生

 その母親(当時60歳)は、自分の息子(33歳)をさして、「うちの子ほど、
すばらしい息子はいない」と言った。
自分の息子をさして、「すばらしい」と言う親は、珍しい。
外国では多いが、日本では珍しい。
そこで私はその息子氏に会ってみたくなった。
が、その日は、その直後にやってきた。

 ある葬儀に出たときのこと。
その息子氏は母親のそばに寄り添うように、そこに座っていた。
「ああ、これがあの息子か」と、私は思った。
思いながら、私はその息子氏にあれこれと話しかけてみた。

 が、第一印象は、言うなれば、完璧に近いほど、マザコン。
穏やかで、おとなしいが、覇気がなく、静か。
私が話しかけても、はにかむだけ。
満足な返事もない。
どこかの電気会社の下請け企業で、技術者として働いているということだった。

私「仕事はどう?」
息「うん、まあまあ」
私「暑いときは、たいへんだね」
息「うん、ふふふ……」と。

●同一性の確立

 親はそれぞれの思いをもって、子育てを始める。
自分の夢や理想、思いを子育てに凝縮させる。
自分なりの(子ども観)をもつ人も多い。
それ自体は、悪いことではない。

 が、親が思い描く子ども観を、子どもに押し付けてはいけない。
「求める」ことまではしても、押し付けてはいけない。
それが度を越すと、過干渉となる。

 その息子氏は、母親の過干渉で、人格そのものまで、押しつぶされてしまっていた。
思春期前期から、思春期にかけて、自我の同一性の確立に失敗した。
私は、そう判断した。
だから人格の「核」がない。
「この人は、こういう人だ」という(つかみどころ)を「核」という。
その「核」がない。

 軟弱で、ひ弱。
たしかに(いい人)だったが、それだけ。
面白みがない。
迫力もない。 

●過干渉

 原因は、ここにも書いたように、母親にあった。
口うるさい人だった。
葬儀の席だったが、そんなとことでさえ、こまごまとしたことを、矢継ぎ早に
指示していた。
「あの扇風機を、こちらに向けなさい」
「ざぶとんを、あの人に出しなさい」
「お茶をわかしてきなさい」と。
息子氏は、黙ってそれに従っていた。

 つまりこうした親子のリズムが、その息子氏をして、そのような息子にした。
が、ここで最大の問題は、息子氏のことではない。
母親自身にその自覚がないということ。
先にも書いたように、母親自身は、そういう息子を、「すばらしい子ども」と誤解して
いた。

●病識

 精神病の世界にも、「病気意識(病識)」という言葉がある。
「私はおかしい」「へんだ」と思っている人は、まだ症状が軽い。
しかし「私はだいじょうぶ」「何でもない」とがんばる人ほど、症状は重い。
まったく病識のない人さえいる。

 同じように、自分の子どもの問題点に気がついている母親は、まだよい。
指導ができる。
そうでない母親は、指導そのものが、できない。

 たとえば年中児(4~5歳児)でも、親の過干渉が原因で、精神そのものまで
萎縮してしまったような子どもがいる。
けっして少なくない。
10人のうち、1人はいる。
程度の差も含めれば、10人のうち、2~3人はいる。

しかしそういう子どもの親ほど、「うちの子どもはできがいい」と思い込んでいる。
またそういう子どもにしようと、無理をしている。
で、その一方で、ほかの子どもを、「できの悪い子ども」として、排斥してしまう。
自分の子どもから遠ざけてしまう。

●極端化

 小さな世界に閉じこもり、自分だけの世界で、子育てをする親がふえている。
以前はそれを「核家族」と呼んだ。
今は、「カプセル家族」と呼ぶ。

 このタイプの家族は、大きく2つに分けられる。

(1) 親たち自身が高学歴で、外の世界の価値を認めない。
(2) 親たち自身が低学歴で、外の世界の価値を理解できない。

 どちらであるにせよ、一度カプセルの中に入ってしまうと、その狭い世界で、
自分だけの価値を熟成させてしまう。
結果として、独善的になったり、社会から孤立化したりする。
これがこわい。

 一度カプセルの中に入ってしまうと、同じ過保護でも極端化する。
過干渉でも極端化する。
これが子育てそのものを、ゆがめる。

●A君(小2)の例

 A君は、幼児期のときは、まだ明るかった。
何かの勉強をしていても、楽しそうだった。
が、小学校へ入学したとたん、表情が暗くなった。
もともと勉強が得意ではなかった。
言葉の発達も遅れ気味だった。
そのため母親が、かかりっきりで、A君を指導した。
A君は、月を追うごとに、やる気をなくしていった。
私の教室でも、フリ勉(勉強をしているフリをする)、
ダラ勉(ダラダラと時間ばかりかけて、何もしない)、
時間つぶし(ほかの作業をして、時間をつぶす)などの症状が見られるようになった。

 こうなると、つまりこの時期に一度、こうなると、症状は、ずっとつづく。
「直る」のは、ほぼ不可能とみてよい。
(ますます勉強から遠ざかる)→(無理な家庭学習が日常化する)の悪循環の
中で、症状は、ますますひどくなる。
それ以上に、学校での学習量がふえる。
学校での勉強が追いかけてくる。
A君はその負担に、ますます耐えられなくなる。

●迷い
 
 こういうケースでは、親にそれを告げるべきかどうかで悩む。
親にそれだけの問題意識があればよい。
が、そうでないケースのほうが多い。
「まだ何とかなる」「うちの子にかぎって……」「やればできるはず」と。
それにこの時期、「過負担を減らしましょう」と言うことは、親にしてみれば、
「勉強をあきらめなさい」と言うに等しい。
親がそれを受け入れるはずがない。

 とても残念なことだが、親というのは、行き着くところまで行かないと、自分では
気がつかない。
これは子育てというより、家庭教育のもつ宿命のようなもの。
私の立場では、自分のできる範囲で、また自分の世界で、(最大限)、指導するしかない。
この世界には、『内政不干渉の大原則』という原則もある。

 で、実際問題として、この時期、それを親に告げると、私のほうにはその意図が
なくても、親は、「拒否された」ととる。
そのまま私のところを去っていく。

●いい子論

 話を戻す。
そんなわけで、「いい子論」は、家庭によって、みなちがう。
子育ての目標がちがうように、みなちがう。
冒頭に書いた息子氏について書く。

 母親は、かなり権威主義的なものの考え方をする人だった。
「親絶対教」の信者でもあった。
「先祖」「親孝行」という言葉をよく使った。
ものの言い方が威圧的で、一方的だった。
一見穏やかで、やさしそうな言い方をする人だったが、それは仮面。
息子氏や、ほかの娘たちが口答えでもいようものなら、烈火のごとく、それを叱った。
「親を粗末にするヤツは、地獄に落ちる」が、その母親の口癖だった。

 息子氏はそういう環境の中で、ますます萎縮していった。

 で、悲劇は、その数年後に起きた。
妻のほうが、一方的に離婚を宣言し、子どもを連れて、家を出てしまった。
息子氏の母親は、息子氏の妻(嫁)を、はげしくののしった。
が、そういう面もなかったとは言わない。
いろいろあったのだろう。
しかし離婚を宣言した妻の気持ちも、よくわかる。

 「あの息子と、あの姑(しゅうとめ)では、だれだって離婚したくなる」と、
私は、そのときそう思った。

●では、どうするか

 「まず、自分を知る」。
それが子育てにおいては、必須条件ということになる。
この世界では、無知は罪悪。
無知であることを、居直ってはいけない。

 そのためには、もしあなたの生活がカプセル化しているなら、風穴をあけ、
風通しをよくする。
もしそれでも……ということであれえば、私が用意した「ママ診断テスト」を
受けてみてほしい。
(私のHPより、「最前線の子育て論」→「ママ診断」へ。)
平均的な母親たちと、どこがどうちがうかを知ることができる。
平均的であればよいということにはならないが、自分の子育てを、ほかの人と
比較することはできる。

 つぎに、たとえば学齢信仰、学校神話、出世主義、権威主義に毒された子育て観を
改める。
世界も変わった。
世間も変わった。
しかし子育ての基本は、変わっていない。
子育ての基本は、1000年単位、2000年単位で、繰り返されるもの。
その原点に立ち返る。

 というのも、子どもというのは、子ども自身が自ら伸びる(力)をもっている。
あらゆる動物や、植物がそうである。
その(力)を信じ、その力を(引き出す)。
それが子育ての原点ということになる。
言うなれば、子育ての原理主義ということか。
しかし何かのことで迷ったら、そのつど原点に立ち返ってみる。
意外とその先に、「道」が見えてくるはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子育ての原理主義 無知は罪悪 萎縮する子ども 過干渉 いい子論 はやし浩司 
よい子論 覇気のない子供 家族の代表 代表論 子供の問題)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●温泉の注意書き

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このところ毎週のように、温泉街のひとつに
ある温泉浴場に、足を運んでいる。
最近オープンしたばかりの、温泉浴場である。

そこでのこと。
毎回のように、注意書きがふえているのに
気がついた。

最近見たのには、こうあった。
「おむつ、尿取りパッドなどを使用している
方の入浴は、ご遠慮ください」と。

おむつというのは、赤ん坊のそれをいう。
それはわかる。
尿取りパッドというのは、老人のそれをいう。
それも一応、わかる。
わかるが、40代、50代の女性でも、
日常的に尿漏れを起こしている人は多い。
(男性は少ないと思うが・・・。)

しかしこれから先は、こういう注意書きが、どんどんと
ふえてくるのでは・・・?
要するに、「老人の入浴は、遠慮してくれ」と。

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●嫌われる老人

 このところどこへ行っても、老人の姿が目立つようになってきた。
温泉だけではない。
映画館でも、バス旅行でも、そしてレストランでも・・・。
通りをふらふらと歩いている老人も、目立つようになってきた。
やがて75歳以上の、後期高齢者の数が、人口の3分の1、つまり
3人に約1人になると言われている。

 そうなったとき、私たち老人族は、どう扱われるのか。
想像するだけで、さみしくなる。

 老人は、老人特有の臭いがする。
いわゆる「加齢臭」というのである。
映画館へ入ったようなとき、それがプンと臭うときがある。
そういう臭いがすると、(私たち自身も老人の仲間なのだが・・・)、即、席をかわる
ようにしている。
が、それは明日の、私たち自身の問題でもある。
やがて映画館の入り口にも、こういう注意書きが並ぶようになるかもしれない。

「加齢臭のある方の入場は、お断りします」と。

 が、それはしかたないとしても、マナーの悪い老人が多いのも事実。
気力が弱くなるせいか、自分で自分を律することができなくなる。

 痰を吐く。
服装がだらしなくなる。
入浴の仕方が、いいかげんになる。
態度が横柄になる。
マナーを守らなくなる。
もちろん加齢臭を放つ。

 つい先日は、コンビニで、ウンチを漏らしたまま歩いている老人を見かけた。
ズボンの後部が、下痢か何かで、べっとりと汚れていた。
そういう老人が、コンビニで買い物をする!

 世の中がそういう老人を受け入れてくれればよい。
「老人というのは、そういうもの」と理解してくれればよい。
が、そうは寛大ではない。
寛大でないことは、若い人たちのBLOGを読めば、よくわかる。

「昨夜、車をぶつけられた。相手は70のクソジジイだった」とか何とか。
「老人」というだけで、白い目で見られる。
差別される。
こうした傾向は、今後加速することはあっても、減速されることはない。

●新たな老人問題

 今はまだ、社会のほうも遠慮している。
表だって、老害論を説く人は少ない。
しかしこうした(やさしさ)も、いまや、風前のともしび。
そのエネルギーは、爆発寸前といってもよい。

 温泉にしても、映画館にしても、バス旅行にしても、さらにレストランにしても、
そのうち年齢制限が設けられるようになるかもしれない。
「65歳以上の方は、ご遠慮ください」とか、なんとか。

 さらに深刻な問題として、(事実、そうなりつつあるが・・・)、がんなどの重病の
ばあい、ある一定年齢以上の老人は、治療そのものを拒否されるようになってきた。
私の実母も、実兄も、そして義兄も、それを経験している。

 自分がそういう立場になったら、どうするか?
いさぎよく死ぬか?
その覚悟は、できているか?

 今のままでは、あと10年を待たずして、全国の火葬場は、飽和(満員)状態に
なるという。
今の今でさえ、夏場や冬場には、3~4日待ちというのは、当り前。
そこで東京都では、大型船を改造して、船そのものを火葬場にする構想まで考えられて
いる。

 火葬場ですら、そうなのだから、そうなれば、老人は、満足な治療すら
受けられなくなる。
さらに一歩進んで、「もう、死んでください」となるかもしれない。

●老人よ、自分の存在価値を高めよう!

 こうした老人問題に対処するためには、老人自身が、自分の存在感を高めることでしか
ない。
わかりやすく言えば、(価値ある老人)になること。
若い人たちから見て、「老人は必要な存在なのだ」と思ってもらえるような老人になること。

 名誉や地位や財産ではない。
過去の名誉や地位をぶらさげれば、かえって嫌われるだけ。
(価値)である。
(存在価値)である。
そのための努力を怠ってはいけない。

 代替的な方法として、「お金を貯める」という方法もあるかもしれない。
お金で老後を買う。
あるいは息子や娘に依存するという方法もあるかもしれない。
息子や娘にめんどうをみてもらう。
しかしこうした方法では、今度は、私たち自身の(生きがい)を満たすことはできない。
それについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略するが、
やはり結論は、ここにくる。

「私たちは私たちで、自分の存在価値を高めるしかない」である。


+++++++++++++++++++++++++++

●親と子、意識のズレ

+++++++++++++++++

私が母に嫌われていると知ったのは、
私が40歳も過ぎてからではなかったか。
それまでは、そう思っていなかった。
母の気持ちを、みじんも疑わないでいた。
「母は、私を好いているはず」と。

しかも嫌われたのは、私が高校2、3年生のころ。
そのころの、私は、「荒れた」。
気持ちがすさんでいた。
親というより、「家」そのものが、私には
負担だった。
居場所もなかった。
それに自分が進むべき方向さえ定まらなかった。
やや遅い思春期だったが、たぶん、母には、
それが理解できなかったのだろう。

数日おきに、「親に向かって何てこと言う!」
「うるさい、このバカヤロー!」と、まあ、
よく覚えていないが、そういうような言い争い
をよくしたと思う。

母は、悪玉親意識が強かった。
親風をよく吹かした。

が、それでも私は幻想を抱いていた。
「親だから……」という幻想である。
「親だから、どんなことがあっても、私を嫌う
はずがない」と。

しかしいつしか母は、私を恨むようになった。
私が結婚したことについても、そうだった。
「浜松の嫁に、息子を取られた」と、
親類にはもちろん、近所の人たちにまで、
泣きついていた。

+++++++++++++++++++++

●似たような話

 冒頭に書いたのは、私と私の母についての話である。
しかし似たような話は多い。
たまたま今日も、耳にした。
こういう話である。

 Aさん(女性、40歳くらい)は、現在、近くの特別養護老人ホームで介護師を
している。
その女性が話してくれた。

 ひとりの老人(女性、80歳)がいるのだが、その老人は、ことのほか、自分の娘
(50歳)を嫌っている。
どう嫌っているかについては、ここに書いても意味はない。
が、介護師をしているその女性には、それがよくわかる。
が、肝心の娘には、それがわからないらしい。
「自分が見舞いに来たことで、母親は喜んでいるはず」と思い込んでいる。
しかしその女性(80歳)は、娘が見舞いに来るのを、何よりもいやがっている。
 
●思い込み

 だれにでも、(思い込み)というのはある。
一般的には、自己中心性の強い人ほど、思い込みがはげしい。
一度、「こうだ」と思い込んだら、そのワクから抜け出せない。

私「そういうのをありがた迷惑というんだよ」
ワ「そうね。でもその女性(50歳)には、わからないのよ」
私「どうしてだろ?」
ワ「親だから、娘の自分が見舞いに行けば、喜ぶはずと思い込んでいるのね」
私「……う~ん、そういうケースは多いよ。ぼく自身が、そうだったからね」と。

 (思い込みのはげしさ)という点では、よくストーカーが例にあげられる。
ストーカー行為を繰り返す男性にせよ、女性にせよ、(思い込み)から始まる。
「相手は、自分のことをきにかけているはず」
「相手は、自分のことを好きなはず」
「嫌っているフリをしているだけ」と。

 親子の間でも、似たような(思い込み)が、起きることがある。
ここに書いた女性(50歳)も、その1人ということになる。

●なぜ、起きるか

 こうした思い込みは、なぜ起きるか。
ほかによくある例が、うつ病タイプの人の思い込み。
このタイプの人は、ひとつのことにこだわり始めると、そのことばかり考えるようになる。
脳みそのカベに、そのことがペタリと張り付いたような状態になる。
その結果、取り越し苦労、ぬか喜びを繰り返す。
繰り返しながら、どんどんと深みにはまっていく。

 では、私のばあいは、どうだったか。

 ひとつには、これはずっとあとになってからワイフが教えてくれたが、私はかなりの
マザコンだったということ。
学生時代、野口英世の母、シカの手紙を読んで、涙をこぼしたことさえある。
窪田聡の『かあさんの歌』は、日本が誇る名曲と思っていたこともある。
森進一の歌う、『おふくろさん』でも、そうだった※。

 しかし自分が親になってみて、急速に、私の中のマザコン性は、消えていった。
というより、仕事を通して、マザコンタイプの子どもたちを観察するうち、自分の中の
マザコン性に気がついた。

 そのマザコン性は、乳幼児期の刷り込みによって、作られる。
人間にも、ある種の鳥類に見られるのと同じ、(刷り込み)があることが、わかってきた。
0歳から生後7か月前後までの期間と言われている。
この時期を、とくに「敏感期」と呼ぶ人もいる。

 子どもは、こうして作られた(刷り込み)を基盤に、成長する。
成長しながら、修正する。
その鍵を握るのが、父親ということになる。
イギリスでは、『母親は子どもを産み育てるが、父親は、子どもに狩の仕方を教える』
と教える。

 父親の役目は、(1)母子関係の是正と、(2)社会性の構築である。
が、その父親の存在感が薄いと、子どもは(刷り込み)を修正できないまま、マザコン化
する。
私のばあい、父親の存在感がきわめて薄い家庭に、生まれ育った。

●隠れマザコン

私「自分の中から、マザコン性が抜けないかぎり、親、とくに母親に対して、幻想を
もちつづけるだろうね」
ワ「理想の女性像を、母親に求めるわけね」
私「そう。だから、マザコンタイプの男性のばあい、離婚率が高いと言われている」
ワ「理想像を求められたら、妻だって疲れてしまうわ」
私「そう、まったく、そのとおり」と。

 そのマザコン性が、子どもの側の心を盲目にする。
書き忘れないうちに書いておきたいことがある。

 ふつう「マザコン」というと、「男性」を想像する人は多い。
しかし女性にも、マザコンは多い。
(ひょっとしたら、男性より女性のほうが多いかもしれない。)
男性のマザコンは目立つが、女性のマザコンは、同姓であるという点で目立たない。
たとえば母親と娘がいっしょに風呂に入っていても、それを「おかしいこと」と思う人
は少ない。

 私は女性のマザコンを、「隠れマザコン」と呼んでいる。

●容赦なかった、私の母

 私の母は、そういう母だったから、私からお金を(まきあげる)のは、平気だった。
「取る」とか、「奪う」などというようなものではなかった。
「まきあげる」。
容赦なかった。

長男が生まれたときも私のアパートへやってきて、母は、貯金全額を、
もって帰っていった。
私は私で、マザコンだったから、そういう母の行為をみじんも、疑わなかった。
母は、そのつど言葉巧みに、こう言った。
「私が、あなたの代わりに、貯金しておいてやる」と。

 ワイフはそういう母を、薄々疑い始めていた。
が、私は、「ぼくたちがもっているより、安全だから」と、そのつどワイフを説得した。
そういう関係が、それからあと、25年以上もつづいた。

●その女性(50歳)

 冒頭にあげた女性(50歳)のばあい、「自分は母親に好かれている、すばらしい
娘」と思い込んでしまっている。
母親への依存心も、その分だけ、強い。
自分が本当は嫌われているにもかかわらず、それすら客観的に判断することもできない。
そのため、自分勝手な行動を繰り返す。
その仕方は、被害者を追いかけ回す、ストーカーと、そっくり。
どこもちがわない。

 で、この話には、つづきがある。
……というか、ここまで現在形で書いたが、実は、過去の話である。

 最近(09年の春)、その女性(50歳)の母親が、他界した。
それについて、その女性(50歳)は、こう言っているという。

「施設に入れないで、私がめんどうをみてやればよかったア」と。
そして母親が他界したあと、毎週のように墓参りをしているという。
その女性(50歳)は、いまだに自分のことが、まるでわかっていない。
恐らく死ぬまで、自分の(思い込み)に気づくことはないだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
マザコン 自己中心性 親の気持ちがわからない娘 刷り込み 敏感期 思い込み 思い
込みの激しい人 人の心がわからない人)

(注※…日本には、この種の「マザコン・ソング」が多い。
母親を実際以上に美化し、たたえ、そしてそこに理想的な女性像を織り込む。
すべてを許し、すべてを受け入れてくれるような女性である。
しかしそんな女性(=母親)など、どこにもいない。
いるはずもない。
本能的な母性愛というのは、子どもに対してのものであり、夫に対してのものではない。
またそういう女性を求めてはいけない。

もし「どうしても……」と考えるなら、どこかの寺の観音様でも拝んでくればよい。
……というのは言い過ぎかもしれない。
が、夫の側にマザコン性が強すぎると、その分だけ妻側に負担感がます。
この負担感が、夫婦関係そのものを、ぎくしゃくさせる。
おかしくする。
「マザコン男性の離婚率は高い」というのは、そういう理由による。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 マザコン マザコン夫 離婚率)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●8月29日

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暑いといえば、暑かった。
しかし全体としてみれば、異常なほど、
涼しい夏だった。
その夏も、もう終わり?
気象庁の発表によれば、9月に入れば、
今度は残暑がきびしくなるとか。
今日は、8月29日、土曜日。

振り返ってみるが、今月も、何かと
あわただしく過ぎていった。
それだけ。
何かをやり残したという実感が、
ほとんど、ない。
たった今、大きなあくびが、出た。
このあくびが、この8月を象徴して
いる。
「これではいけない」と、気を引き締める。
やりたいことは、そこに山のようにある。
が、どれから手をつけたらよいのか、
わからない。

今日も、忙しい1日になりそう。
がんばるしかない。
自分の体に、ムチ打って……。

みなさん、おはようございます。

++++++++++++++++++

●老害問題(価値ある老人をめざして)

+++++++++++++++++++

やがて……というより、もうすぐ、「老害」
という言葉が、日常的に使われるようになる。
現に今、若い人たちの老人を見る目が、
大きく変わりつつある。

「そこにいる老人」から、「そこにいては
いけない老人」へと大きく変わりつつある。
彼らの目に映る老人の姿そのものが、ちがってきた。
今後、私たち老人を見る、若い人たちの目が、
きびしくなることはあっても、やさしくなることはない。

が、ともすれば私たちは、老人の立場で、
自分たちの未来をどう守ればよいか、
それだけを考えやすい。
しかし本当の問題は、高齢化社会を
どうすれば守れるかではない。
どうすれば若い人たちに受け入れられる老人に、
私たちがなれるか。
それが本当の問題。

こうした問題を総合して、「老害問題」と、
私は呼ぶ。

+++++++++++++++++++

●健康な老人

 もう30年近くも前のこと。
当時の三世代同居家庭の若い母親たちを対象に、私は、
祖父母(=同居の舅、姑)に何を望むかというアンケート調査をしたことがある。
その結果、第一の答が、「健康であること」であった。
(ついでに、第二が、「子どもの教育に口出しをしないこと」。)

 今、調査をしても、同様の結果が出ると思う。
私たち老人族は、第一に、健康でなければならない。
そのための努力を怠ってはいけない。
老人の問題は、その老人だけの問題ではない。
家族全体の問題である。
「迷惑をかけないからいい」という問題ではない。
(老人が同居している)ということ自体が、みなに迷惑をかけている。
もっと言えば、私たちが老人であること自体が、みなに迷惑をかけている。
つまり老人の問題は、自分のためというよりは、家族全体の「和」
のための問題と考えるべき。
こんなことを言う人がいた。

「親の介護が3年つづくと、兄弟姉妹はメチャメチャになる」と。

 先日、健康診断に行ったら、そこにいた看護士の女性が、そう教えてくれた。
つまり介護問題はこじれやすく、それが原因で、兄弟姉妹関係がメチャメチャになる。
そういうケースが多い、と。

 老人というのは、できるだけギリギリまで健康でいて、死ぬときは、さっさと死ぬ。
それが理想ということか?
要するに、家族には迷惑をかけない、ということ。
老人問題は、それに始まって、それに終わる。

 ……とまあ、書くのは簡単なことだが、実際には、そのようにうまくはいかない。
「死ね」と言われても、死ねるものではない。
さりとて生きていくのも、むずかしい……。
多くの老人は、最後は、「死ぬこともできないから、生きている」という状況に
追い込まれる。
わかっていても、どうしようもない。
それ以上に、私たちは無力。
加齢ともに、さらに無力になっていく。

●勤労寿命

 人間には3つの寿命がある。
(1)絶対寿命、(2)平均寿命、それに(3)健康寿命。

 絶対寿命というのは、その年齢を超えて生きることはないという寿命をさす。
現在、満130歳が、絶対寿命と言われている。
それ以上の年齢を生きた人はいない。

 平均寿命については、すでにみなさんご存知のとおり。
問題は、健康寿命。
ふつう平均寿命から、10歳を引いた年齢が、健康寿命と言われている。
満84歳が平均寿命なら、健康寿命は、満74歳ということになる。
死ぬまでの、最後の10年は、病魔との闘いということになる。

 そのため平均寿命を延ばすことも大切だが、健康寿命を延ばすことのほうが、
もっと大切。
健康というのは、(病気のない)状態をいう。
もう少しつっこんで言えば、(死の恐怖を感じない)状態をいう。

で、さらにこれら3つに、もうひとつ寿命を加えるとしたら、(4)勤労寿命というのも
ある。

 いくら健康でも、庭いじりと、孫の世話だけで、老後を過ごせといっても無理。
老人には老人の生きがいが必要。
(生きがい)なくして、長い老後を生き延びることはできない。

その(生きがい)となると、働くことを考えるのが、いちばんわかりやすい。
働くことによって、私たちは社会とのつながりを維持することができる。
その働ける限界を、「勤労寿命」という。
勤労寿命は、健康寿命からさらに10年を引いた年齢をいう。
健康寿命が、満74歳なら、満64歳ということになる。

●徴兵制

 これから書くことは極論ということは、私もよく承知している。
あくまでもひとつの(例)として理解してほしい。
その上で、私は、こう考える。

現在、世界で、徴兵制を敷いていない国は、そうはない。
とくにこのアジア地域で、徴兵制を敷いていない国は、この日本だけ。

 だからといって、徴兵制を敷けということではない。
それに賛成しろというのでもない。
しかしこの日本が、かろうじて平和を維持できているのは、日本人がそれだけ平和的
であるからではない。
平和を守っているからでもない。
さらに言えば、日本人のもつ哲学観が、それだけすぐれているからでもない。
戦後、65年の長きにわたって、日本が平和を守れたのは、たまたまアメリカ軍という、
世界最強の軍隊が、日本に駐留しているからにほかならない。

 あるパキスタン人(友人)は、こう言った。
「日本が核武装していないだってエ? とんでもない。そう思っているのは、君たち
だけだ。君たちの国には、アメリカ軍が駐留しているではないか」と。

 つまり日本以外の世界の人たちは、「日本は核武装している」と、思っている。
核武装していないと思い込んでいるのは、この日本人だけ。
『核の傘』というのは、そういう意味である。

日本の平和というのは、言うなれば薄氷の上に立った楼閣のようなもの。
さらに言えば、日本という国は、丸裸のうさぎのようなもの。
で、こうした事実を冷静に積み重ねていくと、その先に浮かび上がってくるのが、
「徴兵制」ということになる。

 その徴兵制について、たとえばこんな徴兵制はどうか。
「満60歳になったら、5年間、徴兵義務を負う」と。

 これに対して、「老人に戦争は無理」と思う人も多いかと思う。
しかしそれは、使用する武器の問題。
年齢の問題ではない。
老人用に、携行する武器を軽くするとか、いくらでも方法はある。
今では戦争の仕方も、大きく変わってきた。
戦闘機は無理でも、戦車くらいなら、私でも操縦できる。(……と思う。)

それに若い人たちを戦場へ送るよりは、はるかに合理的。
若い人たちには、(未来)という人生がある。
が、私たち老人には、すでに(過去)という人生しかない。
若者が死ぬか、老人が死ぬかと問われれば、私たち老人が死んだ方がよい。

 もし「満60歳になったら、5年間、徴兵義務を負う」ということになったら、
私たち老人を見る若い人たちの目も、少しは変わってくるのではないだろうか。

 徴兵制を例にあげたが、これはあくまでも(例)。
老人たちにも、しなければならないことがある。
できることがある。
それが(老人)ということになる。

●老害問題(私たちが老害にならないために……)

 私は(老害問題)を考えるたびに、そこにあのユダヤ人問題を重ね合わせてしまう。
第二次大戦前のドイツと、現在の日本は、よく似ている、と。

 戦前のドイツには、ユダヤ人たちが、1千万人単位で住んでいた。
そういうユダヤ人たちが、ドイツ社会に同化することもなく、自分たちの宗教をもち、
自分たちの言葉で話した。
ドイツの経済を牛耳るようになった。
もちろんドイツが迎えた人たちではなかった。
そのほとんどは、今で言う、違法難民であった。

 その結果、こうした事実が、あの忌まわしい、ユダヤ人虐殺へとつながっていく……。
問題は、あれほどまでに高い文化を誇った、ドイツで、そういう虐殺事件が起きたという
こと。
多くの日本人は、「日本人は、あんな残虐なことはしない」とか、「日本人の私たちは
ちがう」と思っている。
しかし本当に、そうか?
そう断言できるか?

 ユダヤ人虐殺事件はともかくも、これからの日本で、似たような事件が起きないか、
私はそれが心配でならない。
3人に1人が、75歳以上の後期高齢者になったとき、ひょっとしたら、老人排斥運動
が始まるかもしれない。
表立った行動をする人はいないだろうが、人々の心の奥深くで、それは静かに進行する。

 現に今、医療機関において、後期高齢者に対する治療拒否などの問題が、起きつつある。

●やるべきことを見つけよう!

 老人たちよ、けっして今の立場に安住してはいけない。
安住したまま、若い人たちを、上から見下ろしてはいけない。
老人たちだけの別世界を作り、自分たちをその中に隔離してはいけない。
たとえばこんな光景を想像してみるとよい。

 あるみやげものセンターに、一台の大型のバスが止まった。
見ると、60歳以上の老人たちが、ゾロゾロとバスを降りてくる。
どこかの観光地を回ってきた団体である。

 一方、みやげものセンターでは、20代、30代の若い人たちが、声を張り上げて、
こう連呼する。
「いらっしゃいませ!」と。
せわしく動き回りながら、老人たちの落とすお金を、ねらっている……。

 こういう光景が、ごく日常的なものになったとき、はたして私たちは、それを
望ましい社会の姿と言ってよいのだろうか。
もちろん老人には老人の言い分がある。
それはよくわかる。
わかるが、しかしそうした言い分だけでは、若い人たちが感じ始めている矛盾を、
溶かすことはできない。

 老人は老人で、自分たちが生きてきた人生を、若い人たちに還元していかねば
ならない。
「命」を、還元していかねばならない。
「還元」という言葉は、藤沢市に住むI先生が教えてくれた言葉である。
すばらしい言葉だ。
知恵や知識を伝え、人生の先輩として、どう生きるべきかを伝えていく。
それをしてはじめて、私たちは、「老人」と胸を張ることできる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 命の還元 老人問題 はやし浩司 老害)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●分かっていないのは、だれ?

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NIKKEI NEWSは、
つぎのように伝える。

『麻生太郎首相は25日、宮城県多賀城市で街頭演説し「政治はばくちじゃない。(民主党
に)ちょっとやらせてみようか、というのは違う話だ。全く優先順位が分かっていない人
が多すぎる」と、いら立ちを見せた。報道各社が衆院選情勢調査で自民党の劣勢を伝えて
いることが背景にあるとみられる』(Nikkei NEWS 09年8月26日)

++++++++++++++++++++

●方向音痴

 「もう、いやだ」「たくさん」というのが、浮動票層の本音。
選挙もせず、政権をたらい回しにし、あれこれと理由にもならない理由をこじつけて、
政権の座に居座りつづけている……。
そういうAS首相に、生理的嫌悪感すら覚える。

 むしろ浮動票層の私にしてみれば、いまだにAS内閣の支持率が、20%前後も
あるということのほうが、驚き。
だれが、いつ、どこで、AS首相を支持した?
裏工作に裏工作を重ね、自分で勝手に総理大臣の椅子を手にしただけではないのか?

 まったく分かっていないのは、AS首相本人。
「この怒り、どこに向かうべきか」(尾崎豊「卒業」)。
本来なら、行き過ぎた民主党支持に対して、ブレーキをかけるのが、私たち浮動票層
の役目。
ふつうなら、「民主党のひとり勝ちはよくないぞ!」と。
しかし今度ばかりは、そのブレーキが働かない。
理由の第一は、AS首相自身にある。

 民主党は300議席以上を確保するだろうと言われている。
が、このままでは、300議席ではなく、320議席以上。
そういう数字も視野に入ってきた。

 ところで、私とワイフは、年間、49万円近い国民健康保険料を支払っている。
7回に分けて支払っているので、1~2か月ごとに7万円!
もうすぐ国民年金が手に入る年齢になるが、国民年金は、月額6万3000円。
わかるか?
たったの6万3000円。
2人で、13万円弱!

 国民年金など、国民健康保険料だけで、吹っ飛んでしまう。
こんなバカげた国が、どこにある。
……と、みなが、思い始めている。
今に、自営業を営む人は、ひとりもいなくなるぞ!
この怒り、どこに向かうべきか!

それが今度の総選挙ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●意識vs無意識

++++++++++++++++++++++

 簡単に説明してみよう。
まず、意識を、(意識)と(無意識)に分ける。
今どき、こんな単純な分け方をする人はいないが、ここではそうする。

 つまり(今、意識している意識)を、(意識)という。
それに対して、意識できない意識、それを(無意識)という。
(意識)というのは、わかりやすい。
今、あなたは考えたり、思ったりしていることが、(意識)ということになる。
では、無意識とは何か。
それがわかりにくい。
平たく言えば、それ以外の、表に出てこない意識を、(無意識)という。

 これを簡単に図示すると、つぎのようになる。

――――
意識
====
無意識
――――

意思として自覚する(意識)。
意識として自覚しない(無意識)。
今は、そう考えて、話を先に進める。

ここで、それぞれの強弱を、仮に3段階に分けてみる。

するとそれぞれの組み合わせは、9通りになる。
(意識が強くて、無意識が強い人)、(意識が強くて、無意識が中くらいの人)、
(意識が強くて、無意識が弱い人)……、と。

その中でもわかりやすいのを、3通り、ここに書き出してみる。

(1)(意識・強)-(無意識・強)……精神力の強固な人
(2)(意識・中)-(無意識・中)
(3)(意識・弱)-(無意識・弱)……精神力の軟弱な人

そこでさらに一歩、話を進めてみる。
たとえば(意識が強くて、無意識が弱い人)と、反対に(意識が弱くて、
無意識が強い人)を考えてみる。

(4)(意識・強)-(無意識・弱)……臨機応変に自由に行動できる人
(5)(意識・弱)-(無意識・強)……がんこで、融通がきかない陽と

 たとえば、たいへんがんこな子どもがいる。……いたとする。
一度、こうと言い出したら、テコでも動かなくなるタイプである。
たとえばこんな子ども(年中児)がいた。

 幼稚園でも、自分の座る席が決まっていた。
それ以外の席には、座らなかった。
先生がいくらていねいに指導しても、「ぼくは、この席!」と譲らなかった。

 ズボンもそうだった。
毎日、幼稚園へはいていくズボンが決まっていた。
「青いズボン」と決めると、毎日、そればかりをはいて、幼稚園へ出かけた。
母親が、いくらほかのずぼんを勧めても、それは、はかなかった。

 こうした(こだわり)は、自閉傾向(自閉症児のことではない)のある子どもに、
共通して見られる症状である。
いわゆる(根性)とちがうところは、(理由)がないということ。
理由もなく、「この席でないといやだ」とか、「青いずぼんでないといやだ」とか言って、
カラにこもる。

 このタイプの子どもは、(意思の力)というよりも、その子どもを裏から操る、
(無意識の力)のほうが、強いということになる。
先の分類法によれば、(5)の(意思・弱)-(無意識・強)というのが、それに当たる。

●(意識・強)-(無意識・弱)

 反対に、意識が強く、無意識の力が弱いばあいは、どうか。

 このばあいは、意識できる意思が強く、無意識の世界からの影響を受けないので、
臨機応変に、自分で考えて、自由に行動する。
無意識の世界から、いろいろな命令があがってきたとしても、それすらも、自分の
意思でコントロールしてしまう。

 ただ誤解していけないことは、無意識の力が弱いからといって、それだけ無意識の
世界が狭いということではない。
脳のもつキャパシティは、同じと考えてよい。

●発達段階

 これらのことは、子どもの発達段階を観察してみると、納得がいく。

 いわゆる3~4歳期の、幼児期前期の子どもを観察すると、(言われたことをきちん
と守る)という習性があるのがわかる。
何か母親が言ったりすると、「幼稚園の先生がこう言ったから」と、かたくなに
言い張ったりする。
最初にきちんとした形で入った情報を、絶対的と思い込む。

 そのため、この時期は、(しつけ)がしやすい。
エリクソンは、「自律期」と呼んでいるが、それはそういう理由による。

 しかしその幼児でも、満4・5歳を過ぎると、なにごとにつけ、急に反抗的に
なってくる。
母親が、「新聞をもってきて!」などと言うと、「自分のことは自分でしな」などと
言い返したりする。

 つまり(決められたこと)を、自由な意思で、コントロールするようになる。
上記の分類法によれば、(4)の(意識の力が強くなり)-(無意識の力が弱くなった)
状態を考えればよい。

●思考の融通性

 思考の融通性は、(意識の力)と(無意識の力)の強弱によって決まる。
意識の力が強く、無意識の力が弱ければ、融通性があるということになる。
これを(a)の人と呼ぶ。

 反対に、意識の力が弱く、無意識の力が強ければ、融通性がきかなくなる。
ものごとに、よりこだわりやすくなる。
これを(b)の人と呼ぶ。

 が、それはあくまでも相対的な力関係に過ぎない。
意識の力が弱い人でも、さらに無意識の力が弱ければ、融通性のある人ということに
なる。
このばあいは、軟弱な印象を、人を与える。
覇気がない。
何か指示すると、だまってそれに従ったりする。
同じ融通性がある人といっても、(a)の人のような、強い意識の力を感ずることはない。

●応用

 この分類法を使うと、子どもの様態が、より明確に区分できるようになる。

 たとえば、かん黙児の子どもについて言えば、(意識の力が弱く)-(無意識の力
が強い)ということから、上記(5)のタイプの子どもと位置づけられる。

 反対に、AD・HD(注意力欠陥型多動性児)のばあいは、(意識の力が強く)-
(無意識の力が弱い)ということから、上記(4)のタイプの子どもと位置づけられる。

 このことは年齢を追いかけながら、子どもを観察してみると、よくわかる。
たとえばかん黙児の子どもにしても、AD・HD児にしても、加齢とともに、症状が
緩和されてくる。
自己管理能力が発達し、自分で自分をコントロールするようになるためである。

 で、そのとき、かん黙児の子どもにしても、(がんこさ)はそのまま残ることは多い。
一方AD・HD児のばあいは、もちまえのバイタリティが、よいほうに作用して、
自由奔放な子どもになることが多い。
モーツアルト、チャーチル、エジソン、さらには最近では、あのアインシュタインも、
子どものころ、AD・HD児だったと言われている。

●無意識の世界

 話はぐんと変わるが、ダメ押し的な補足として、こんなことを書いておきたい。

 催眠術という「術」がある。
あの催眠術を使って、被験者に、たとえば「あなたはキツネになった」と暗示をかけると、
あたかもキツネになったかのように、ピョンピョンとはねたりする。
こうした現象は、(意識の世界)が、(無意識の力)に支配されたことによって起こると
考えると、わかりやすい。

 意識の世界で、いくら「私はキツネではない」と思っても、無意識の力の前では、
無力でしかない。
それだけ無意識の世界の力が強力であるとも考えられるが、言い換えると私たちは、
意識の力と、無意識の力の、絶妙なバランスの上で行動しているということになる。

 意識の力だけで行動していると思っても、常に無意識の力の影響を受けている。
しかし意識の力だけで行動しているわけではない。
無意識の力だけで行動しているのでもない。

 それをわかりやすくするために、上記(1)~(5)の仮説を立ててみた。
「私」をよりよく知るための、ひとつのヒントにはなる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 無意識 意識 意識vs無意識論 意識の強弱)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++はやし浩司

●学問のすすめ(福沢諭吉)

(未完成原稿)

++++++++++++++++++++++

いまだに学問を否定する人が多い。
それには、驚かされる。
本当に驚かされる。
学問無用論すらある。
(「学歴無用論」ではない。「学問無用論」である。)

「学問」という言葉に問題があるなら、「学識」
でもよい。
重要なのは、学識。
いくら学歴や学問を否定しても、学識まで
否定してはいけない。

++++++++++++++++++++++

●福沢諭吉

 あの福沢諭吉は、こう書いた(『学問ノススメ』)

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるに
は、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心と
の働きをもって天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、
互いに人の妨げをなさずして、おのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されど
も今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、
富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは、
何ぞや。その次第甚だ明らかなり』と。

 『学問のすすめ』については、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『・・・原則的にそれぞれ独立した17つのテーマからなる、初編から十七編の17の分
冊であった。 1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月
25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合
本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。その前書きによると初出版
以来8年間で、合計約70万冊が売れたとの事である』(ウィキペディア百科事典より抜粋)
と。

●1872年(明治5年2月)

1872年(明治5年2月)というから、2009-1872=137年前ということ
になる。

 遠い昔に思う人もいるかもしれないが、137年というのは、私の年齢(61歳)に
してみれば、たったの2倍強にすぎない。
で、この137年の間に、教育、教育を取り巻く環境、人々の教育観は大きく変わった。
といっても、明治の昔にはどうであったか。
それについては、ただ想像するだけでしかない。
が、手掛かりがまったくないかというと、そうではない。
私のばあい、子どものころを思い出せば、その片鱗をかぎ取ることができる。

●学歴時代

 学問を鼓舞するために、学歴が利用された。
あるいは江戸時代の身分制度を、別の形で温存させるために、学歴が利用された。
明治の終わりですら、東大生のほとんどが、華族、士族、豪商の子弟たちで占められた。
(詳しくは、別のところで……。)
そういういきさつはあるが、結果として、世界に名だたる学歴制度というの
が、日本に生まれた。

 私が子どものころには、「学卒」、つまり大学卒と言われる人たちは、
それだけで一目置かれた。
ところが身近にいる人というと、学校の教師か、医者くらいなもの。
そのため学校の教師や、医者は、飛びぬけた存在だった。
「学校の先生がこう言った」と言うだけで、親たちですら、黙った。

●高学歴時代

 それが今では、さらに一歩進んで、大学などというのは、当り前。
修士号か博士号をもっていないと、一人前に扱われないという時代になった。
それがさらに一歩進んで、今はもう、学歴をぶらさげて生きる時代ではない。
「学歴より中身」というわけである。

 この意見には異論はない。
まさにそうあるべきだし、またそれが正しい方向ということになる。
が、こうした(流れ)に対して、その一方で、学問そのものを否定する人が多いのには
驚かされる。

 (学歴の否定)が、一足飛びに、(学問の否定)につながっている(?)。
若い人を中心に、しかも中高校生あたりにも、そのように考える子どもは多い。
これには驚かされる。

●勉強より部活

 たとえばこの浜松市あたりでも、約60%前後の中学生は、受験勉強すらしていない。
たいはんは、「部活でがんばって、推薦で高校へ入る」などと考えている。
「有名進学校なんか入ると、勉強でしごかれるから、いや」などと言う子どもも多い。
つまり頭から、勉強、つまり学問を否定してしまっている。

 が、このことと、(学歴の否定)とは、まったく別問題である。
学歴というのは、あくまでも結果。
しかしいくら学歴を否定しても、学問、つまり学識まで否定してはいけない。
またそういう考え方は、まちがっている。

●50歳
 
 満50歳前後になると、その人のそれまでの生きざまが、そのまま集約され、表に
出てくる。
それまでにどんな生き方をしてきたかが、大きな(ちがい)となって表に出てくる。

 こんなことがあった。

 それまでにほぼ20年ぶりに、X氏という名前の男性(私と同年齢)と会った。
通りで会って、そのまま喫茶店に入った。
しばらくは会話がはずんだが、そのあとがつづかない。
どんなことをしているのかと聞くと、X氏は、こう言った。

「趣味は、プロ野球の実況中継を見ること。
天気のよい日は魚釣り。
雨の日は、パチンコ・・・」と。

 そういう生活が積み重なって、X氏は、X氏のような人物になった。

●学識

学識のある人からは、学識のない人がよくわかる。
が、学識のない人からは、学識のある人がわからない。
それはちょうど山登りに似ている。
どんな小さな山でも登ってみると、意外と視野が広いのがわかる。
下から見上げているときは、それがわからない。

 だから学識のない人は、自分に学識がないことに気づかない。
「私も平均的だ」とか、「ふつうだ」とか、思ったりする。
だからといって、私には、学識がある。
X氏には学識がないと言っているのではない。

 学識のあるなしは、相対的なもの。
学識のある人でも、さらに学識の高い人から見れば、学識の低い人ということになる。
恩師のTK先生から見たら、私など、いまだにヒヨコ以下かもしれない。

●学識の否定

 その学識を否定する。
そうでない人には、信じられないような話だが、実際には、そういう人もいる。
ある人は、こう言った。

 「林君、いくら偉くなっても、死ねばおしまいだよ。
10年もすれば、総理大臣ですら、忘れさられる」と。

 名誉や地位についてはそうかもしれない。
しかし名誉や地位にしても、あとからついてくるもの。
その前に立つのが、(学識)ということになる。
学識は残る。
人から人へと、(心)の形で残る。

(そう言えば、たった今、インターネットを通して、こんなニュースが飛びこんで
きた。
あのおバカ首相が、またまた大失言。
昨日は、どこかで、「貧乏人は結婚するな」式のことを言った。
今日は、豪雨の被災地で、こう言った。
「引き続き捜索にあたっている方々が努力しておられると思うが、ぜひ遺体が
見つかるように今後とも努力をしていただきたい」と。
「行方不明者」と言うべきところを、「遺体」と言った。

 あきれるというよりも、あのAS首相をながめていると、「学識とは何か」、
そこまで考えさせられる。)

 名前を残すか、残さないかということになれば、AS首相は、確実に名を残す。
「自民党を解体した、最後の総理大臣」として。
つまり学識のあるなしは、名を残すかどうかということとは、関係ない。
あくまでも個人の問題。
個人の(知的世界)の問題。

●雲と泥

 福沢諭吉は、「知的世界」の重要性を説いた。
なかんずく、「知的世界の広さ」の重要性を説いた。
『学問ノススメ』という本は、そういう本である。

『……今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあ
り、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たる
は何ぞや。その次第甚だ明らかなり……』と。

 「人間はみな、同じ。同じだが、人によって、雲と泥ほどのちがいがある」と。

 そのちがいは、何によって生まれるか。
それが、言わずと知れた、「学識」ということになる。
つまり学ぶことを忘れたら、人間は「サル」(福沢諭吉)になりさがる。

 そこで……。
いきなり結論ということになるが……。

 さあ、あなたも本を開こう。
考えよう。
そして文を書こう。
それは遠くて険しい道かもしれない。
しかしほんの少しでも視野が広がれば、あなたはそれを喜びに感ずるはず。
その喜びは、ほかのありとあらゆる喜びにまさるものであることを知るはず。
そしてそれこそが、人間が人間であるという証(あかし)ということになる。

●補記

 福沢諭吉の時代から、ほぼ140年。
人間を取り巻く知的環境は、大きく変わった。
が、その分だけ、人間が賢くなったかといえば、それは疑わしい。
たとえばそのあと、日本人にしても、福沢諭吉が説いたように、もっと
知的世界を広め、磨いておけば、あの太平洋戦争はなかったかもしれない。

 現在にしてもそうだ。
21世紀に入って10年にもなるのに、どうして今、武士道なのか?
福沢諭吉らは明六社に参画し、封建時代の清算を試みた。
が、それはきわめて中途半端なもので終わってしまった。
あるいはそれにつづく軍国主義の台頭とともに、しぼんでしまった。

 ついでながら、たいへん興味深いのは、福沢諭吉が、あの『忠臣蔵』を、
批判しているということ。
たいした批判ではないのだが、当時としては、たいへんな批判だったにちがいない。
『学問ノススメ』の中の「赤穂不義士論」が、それである。

 その中で福沢諭吉は、『国法の貴きを論ず」において、赤穂浪士の討ち入りは私的制裁で
あって正しくないと論じている。さらに、浅野内匠頭が切腹になったのに吉良上野介が無
罪になったことの不当性を、本来は幕府に訴えて、裁判により明らかにすべきであると論
じている』(第6編、ウィキペディア百科事典より抜粋)と。

 これに対して、猛烈な批難の嵐が巻き起こった。
「義士を、批判するとは何ごとぞ!」と。

 福沢諭吉は、「こうげきばり ちやうじやう ゑんきん けふはくじやう たうらい
ちうこく しんぺん あやう ばあい」(=攻撃罵言の頂上を極め、遠近より脅迫状の到来、
友人の忠告など、今は、ほとんど、身辺も危うきほどの場合に迫れり)」と書き残して
いる。

 わかるかな?

 赤穂の浪士たちは、暗殺劇を試みるのではなく、正々堂々と裁判で闘えばよかった
と福沢諭吉は説いた。
まさに正論である。
この正論に対して、福沢諭吉は、身の危険を感ずるほどの脅迫にさらされた。
『しんぺん あやう ばあい(身辺も危うき場合に迫れり)』と。

 今でも、毎年12月を迎えると、『忠臣蔵』が、顔を出す。
NHKの大河ドラマとしても、繰り返し取り上げられている。
が、『忠臣蔵』が問題というのではない。
この(進歩のなさ)こそが、問題なのである。
140年を経た今でさえ、何も変わっていない。
それが問題なのである。

 学識を磨くには、日々の鍛錬あるのみ。
立ち止まったとたん、学識は後退する。

(注:中途半端な原稿のまま、発表します。推敲、校正は、また後日します。ごめん!)
09年8月26日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 学識論 福沢諭吉 赤穂浪士論 忠臣蔵)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●新しい試み(WEBCAMERAを使って、YOUTUBEに直接アプロード)

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2=0xfebd01">value="true">value="always">src="http://www.youtube.com/v/DXlPZOKLgbU&hl=ja&fs=1&color1=0xe1600f&color2=
0xfebd01" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always"
allowfullscreen="true" width="480" height="385">


++++++++++++++++++++

インターネットの世界には、「YOU STREAM」
というサービスがある。
これは言うなれば、私設の放送局のようなもので、
これを使うと、話したことが、リアルタイムで
HPなどにアプロードできる。
みなさんに楽しんでもらえる。

が、問題がある。
せっかくアプロードしても、1年を待たずして、
削除されてしまう。
(あるいは半年くらいか? 確かめていない。)
しかしこれでは使い物にならない。

一方、YOUTUBEのほうは、今のところ、10年前に
アプロードした動画も、そのまま残っている。
今後のことはわからないが、今のところ、息が長い。

が、これにも問題がある。
カメラに向かって話したことを、直接アプロード
する方法もあるらしいが、何度試しても、うまくいかない。
(どこかに操作ミスがあると思うが、それがよくわからない。)

そこで今は、一度、ビデオカメラに動画を収めて、
編集したのち、YOUTUBEにアプロードしている。
が、これには、けっこう時間がかかる。
10分程度の動画をHPに載せようとすると、
編集するのに、5~8分。
ファイル変換に、3~4分。
アプロードするのに、7~8分。
どんなにはやくやっても、計30分前後もかかって
しまう。

そこでいろいろ考える。
手元に「防犯24時」というソフトがある。
XPパソコン時代に購入したもので、今でも
使えるかどうかわからない。
しかしこの「防犯24時」には、撮った動画を
即、ファイル化してくれる機能がついている。
それを使えば、あとはYOUTUBEにアプロード
するだけ。

そうすれば、毎朝、文章ではなく、生の
声で、「みなさん、おはようございます」と
話しかけることができる。……はず。

試してみない手はない。
朝のルーティーン(日常行事)が終わったら、
さっそく試してみたい。
アプロードした動画は、別枠で新設した
BLOG上で、公開するつもり。

ともかくも、8月27日。
みなさん、おはようございます!

今日はやや湿った空気。
どこか肌寒さを感じるが、心地よい。
もうすぐ9月だなあと、今、そう思った。

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(追記)

たった今、WEBCAMERAを使って、
直接動画を、YOUTUBEにアプロードしてみた。
今度は、うまくできた。
が、音声がうまく録音できない。
マイク自体の性能が悪いのか?
設定が悪いのか?

どうであるにせよ、あとは小さな問題。

よかった!
……と、自分で喜んでいる。
ハハハ。

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(追記2)

結局、5回トライアルしてみた。
音声が録音されない原因はよくわからないが、マイクは、ヘッドフォンのもの、
スピーカーは外付けの大型のものを、それぞれ使っている。
それが原因ではないか?

……ということで、いろいろ試行錯誤の結果、やっと満足に録画、録音できるように
なった。
この日記に添えて、YOUTUBEでのあいさつ、第一号をBLOGに公開してみる。

ホ~~ッ!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●60キロ(肥満論)

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体重が60キロになった。
(4か月前には、68・5キロ!)
喜んでいたら、義兄も60キロという。
妻の義姉も、60キロという。

見ると、義兄のほうは、丸々と太っている。
腹もポカリと丸く突き出ている。
「兄さんが、……それで60キロ?」と驚いていると、
「そうだと」と。
横にいた義姉も、「私もよ・・・」と言った。
それを聞いて、笑った。

同じ60キロといっても、太り方は、さまざま。
義兄のばあいは、小さな相撲取りといった風。
メタボリック。
見た感じでは、70キロ以上。
一方、義姉は、典型的なずん胴(ごめん!)。

私のばあいは、このところ骨と皮だけといった
風になってきた。
同じ60キロなのに、どうしてみな、太り方が
ちがうのだろう?
義兄と私は、身長は、それほど変わらない。

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●太り方

「りんご太り」とか、「洋ナシ太り」とかいう言葉がある。
内臓脂肪の付き方で、太り方がちがってくるそうだ。
「りんご太りのほうはよくないが、洋ナシ太りはよい」とか、言う。
正確には・・・

リンゴ型肥満(内蔵脂肪型)・・・ビール腹とも言われる。
中年男性に多い太り方。
内臓につく脂肪は生活習慣病を引き起こしやすいと同時に、
体内で悪玉物質の量を増やすので、糖尿病、脳梗塞、高血圧など、
成人病にかかる確率も、非常に高くなるといわれている(All About HP)。

洋ナシ型肥満(皮下脂肪型)・・・お尻、下腹、太ももなど下半身を中心に脂肪がつき、
女性に多く見られる太り方。
皮下脂肪は妊娠や出産時のエネルギー源となるため、あまり減らしすぎても危険だが、
皮下脂肪が蓄積されて代謝されないままでいると、セルライトができやすくなるので
注意が必要(同HP)。

 そこで私は、そもそも「りんご」とか「洋ナシ」という言葉が、日本人の体形には
合っていないのではないかと思うようになった。

 りんご太りは、「たぬき太り」「太鼓腹太り」「すいか腹太り」と言い換えればよい。
洋ナシ太りは、「ずん胴太り」「短足太り」「アヒル太り」と言い換えればよい。
アメリカで見る洋ナシ太りの人は、見るからに、それとわかる。
体の前部と後部の両方に、お尻がついているといった風。
日本人には、ああいう体形の人は、珍しい。
(最近、ふえてきたようには思うが・・・。)

 要するに、肥満は健康に悪いということ。
太り方は、そのあとの問題ということになる。

 そこで私の哲学。

『食べたら損(そこ)ねるのか、食べなければ損(そん)なのか』。
結局は、そこへ行きつく。

 よけいに食べれば、損(そこ)ねる。
食べたら、損(そん)なのである。


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