Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, May 26, 2010

●6-4

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      6月   4日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゲーム脳(ゲーム中毒)

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この日本では、どうして「ゲーム脳」が
問題にならないのか。
「ゲーム脳」という言葉が悪いなら、
「ゲーム中毒」でもよい。

隣の韓国では、すでに10年以上も前から、
また最近では中国でも、「ゲーム中毒」の
若者たちが、問題になりつつある。
ゲーム中毒の子ども(若者も)を集めた
更正施設や、更正プログラムまで、用意
されている※。

が、この日本では、問題にならない。
「ゲーム脳」という言葉を使って、エッセーを
書いただけで、猛烈な抗議に嵐にさらされる。
ゲームの世界そのものが、カルト化している。
ゲームに日夜夢中になっている子ども(若者)は、
まさにその信者ということになる。

(ためしに、「はやし浩司」で検索してみるとよい。
私を、口汚く中傷しているサイトやBLOGがある。
そのほとんどが、ここでいう「信者」たちである。
私が書いた『ポケモンカルト』(三一書房)などは、
出版してから11年になるが、いまだに叩かれつづ
けている!)

が、日本人だけが特別ということは、ありえない。
日本人の脳みそだけが、韓国人や中国人と、構造が
ちがうということは、ありえない。
今の今も、この日本には、ゲーム中毒の子ども(若者)は、
いる。
日に、何時間も何時間も、ゲームに夢中になっている。
真夜中でも、ゲームに夢中になっている。
が、日本では、そういう子ども(若者)が、どういうわけか、
問題にならない。
考えてみれば、これほどおかしな話はない。

ここでは、別の角度から、「ゲーム脳」について
考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++

●まねる(観察学習)

 発達心理学の世界には、「観察学習」という言葉がある。
子どもは、教えられて学ぶことよりも、まわりを観察しながら、自ら学ぶことの
ほうが多い。
量的に、はるかに多い。
「学習効果」ということを考えるなら、またそのほうがはるかに効果的。

 たとえば以前、何かにつけ、ツッパリ始めた子ども(小5男児)がいた。
言動が粗野になり、独特の目つきで、独特の話し方で話すようになった。
「ウッセー」「コノヤロー」と。
紫の地に、金色の刺繍をほどこしたコートを着てきたこともあった。

 で、その子どもを、高校生の受験クラスに入れてみた。
高校生の間に座らせて、好きな勉強をさせてみた。
最初は、体をかたくしていたが、週を追うごとに、ぐんぐんと変化していった。
あとで聞いたら、高校生の中の1人を、自分の理想像のように思いようになったらしい。
その高校生は、野球部の部員だった。

その子どもは、日曜日など、こっそりとその試合の応援に出かけたりしていた。
家に帰っても、その高校生の話ばかりするようになった。

 これは観察学習というわけではないが、その子どもは、まわりの様子から、
多くのものを学んだことになる。
それは「学ぶ」という行為というよりは、「まねる」に近い。
その「まねる」という行為を、「モデリング」という。

●自己認識能力

 ものごとは常識で考えよう。
まだ判断力や自己管理能力がじゅうぶん育っていない子どもが、ゲームを相手に、
「殺せ!」「やっつけろ!」と叫んで、心によい影響を与えるはずがない。
こんな実験が知られている。

 ある一定時間、暴力映画を見せた子どもは、その直後、行動が暴力的になるという
(バンデュラ、ほか)。
多くの研究者が、同じような実験結果を報告しているので、今さら改めて説明する
までもない。
つまり子どもというのは、そのつど環境の中で、自分を作っていく。
作られていく。
それもそのはず。

 子どもが現実検証能力、つまり自分、あるいは自分と他者との関係、さらには自分の
置かれた立場を、客観的に判断できるようになるのは、小学3年生(9歳)以上。
それ以前の子どもには、その能力はない。
たとえば病院や図書館で騒いでいる幼児がいる。
そういう幼児に向かって、「静かにしなさい!」と叱っても、意味はない。
「騒いでいる」「迷惑をかけている」という意識そのものがない。
そういう行為がどういうものかさえ、わかっていない。
叱られたあと静かになるのは、こわいからそうしているだけ。

 つまり小学3年生(9歳)以前の子どもに、その判断能力はない。
判断能力がないというよりは、思考力が未熟。
だからこの時期の子どもは、理性や知性を使って「学ぶ」ことよりも、周囲を
観察し、それを「まねる」ことによって、自分の思考パターンや行動パターンを
形成していく。
それがモデリングということになる。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、『疑わしきは罰せず』という。
が、教育の世界では、『疑わしきは罰する』という。
なんでもあやしいものは、先手先手で、子どもの世界から遠ざける。
安全性が確認されるまで待っていたら、それこそ手遅れになってしまう。

 ゲームにしても、しかり。
もちろん中には、良質なソフトもある。
そういうものまで、ひとまとめにして、「反対!」と、私は言っているわけではない。
しかし良質なソフトにまぎれて、悪質なソフトがあるのも事実。
そういう悪質なソフトまで野放しにしては、いけない。
有害とは証明できないかもしれない。
しかし少なくとも、安全と証明されたわけでもない。
だったら、遠ざける。
それくらいの配慮というか、子どもの世界に対する思いやりは、あって当然の
ことではないか。

……と私は書いている。

●付記

 あるBLOGには、こうあった。
「(右脳教育を創始者の)SDも、(ゲームを批判する)はやし浩司も、
同じようなもの。
一度、この2人を、バトルさせてみたい」と。

 SD氏(2009年死去)は、ゲームは、右脳の刺激になると説いていた。
そのSD氏と私も、同じ、と。
しかし(右脳教育)と(ゲーム脳)とは、どこでどう結びつくのか。
その右脳教育にしても、安全が確認されたわけではない。
むしろ幼児期においては、左脳教育(論理と分析)こそ、重要。
そうでなくても、映像文化に発達とともに、あえて右脳を刺激しなくても、
子どもたちは、じゅうぶん過ぎるほどの刺激を受けている。
反対に、今、静かにものを考える子どもが少なくなった。

頭に飛来した情報を、ペラペラと口にする。
しかし中身がない。
薄っぺらい。
子どもたちの世界が、バラエティ番組化している。
「これでいいのか!」と叫んだところで、この話はおしまい。

【補記】

 私は、右脳教育には、懐疑的である。
10年以上も前から、そういう趣旨で、原稿を書いてきた。
その気持ちは、いささかもゆらいでいない。
「まちがっている」と言っているのではない。
「あえて必要ない」と言っている。
フォト化とか、直観像とか、いろいろ言われているが、安全が確認された
わけではない。
ある幼児教室の案内書には、こうあった。

「これからは、右脳教育を受けた子どもたちが、ゾロゾロと(東大の)
赤門をくぐることになるでしょう」と。

それから10年。
そろそろその結果が出ているはず。
もしSD氏とバトルするようなことがあれば、(天国なら天国でもよいが)、まず
そのあたりの資料を出してもらうところから始めたい。

(注※)

●ゲーム脳

+++++++++++++++++

「ゲーム脳」というのは、大脳生理学上の
問題ではない。
「現象」の問題である。
「大脳生理学上、ゲーム脳というのはない」と
説く学者もいる。
その世界では神格化され、「つぎつぎと商品企画
が、もちこまれている」(某雑誌)とか。

結構な話だが、こういう学者は、つぎのような
現象を、どう考えるのだろうか。
産経新聞をそのまま転載させてもらう。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

【産経新聞・10-02-08】

『・・・世界最大となる3億3800万人のインターネット人口を抱える中国で、240
0万人の青少年がオンラインゲームやチャットにのめり込む(ネット中毒)に陥っている。
中国青少年インターネット協会が8日までに発表した調査結果で明らかになった。 

 中国のネット人口のうち3分の1は、19歳以下の青少年が占めている。6~29歳の
青少年7千人を対象に行われた調査結果によると、ネットに依存している青少年は200
7年の9・7%から14%に増加。「ネット中毒」が社会問題化し始めた05年ごろは40
0万人程度で、4年間で6倍に増えた計算だ。娯楽の少ない発展が遅れている地域に中毒
者が多いことも、特徴の一つに挙げられている。

 中毒を誘因している一番の原因はオンラインゲームだ。「ネットを通じて何をしている
か?」との問いに対し、47・9%が「ゲーム」と回答。2位の「アニメや映画、音楽の
ダウンロード」の23・2%、3位の「チャットで友達を作る」の13・2%を大きく引
き離した。

 中国では08年11月、人民解放軍北京軍区総医院が策定した「ネット中毒臨床診断基
準」を公表し、ネット中毒を「繰り返しネットを使用することで一種の精神障害をきたし
た状態」と定義付けた。今回の調査でも、ネット中毒になっていない人の66・5%は「他
人を殴るのは間違っている」と答えたのに対し、中毒者は48%にとどまった。

 国際情報紙、環球時報(英語版)によると、中国青少年精神保健センターの創設者は「ネ
ット中毒者の40%は、(不注意や衝動的な症状などが出る)注意欠陥・多動性障害といっ
た精神疾患にかかっている」と警鐘を鳴らしている』(以上、産経新聞)。

+++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ゲーム脳 中国の現状 ゲーム中毒 ネット中毒者 障害 中国のネ
ット中毒者 ゲーム 疑わしきは罰する)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自己評価と現実検証能力(見舞い論)

+++++++++++++++++

「自分」を客観的に評価するのはむずかしい。
「自分」と「他者」との関係を、客観的に
評価するのは、むずかしい。
さらに「自分」が置かれた立場を、客観的に
評価するのは、むずかしい。

+++++++++++++++++

●自己評価力

 「自分」をどう見るか。
どう判断するか。
それが「自己評価」ということになる。
「私はすぐれた人間」と思うのも、また反対に、「私はつまらない人間」と思うのも、
自己評価のなせるワザということになる。

 子どもの世界では、自己評価の高い子どもほど、よく伸びる。
わかりやすく言えば、ややうぬぼれ気味の子どものほうが、よく伸びる。
「私はできる!」という自信が、子どもを前向きに引っ張っていく。
(あまりうぬぼれすぎるのも、よくないが……。)

 この自己評価の基本となるのが、現実検証能力。
まず現実の「自分」を知る。
それが自分を評価する、第一歩ということになる。

●現実検証能力

 一方、「自分」というものを、客観的に検証する能力を、「現実検証能力」という。
これには、

(1)自分を客観的に検証する。
(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する、の3つが含まれる。

(3)の「立場」には、現在の立場と未来の立場がある。
「今、自分はどういう立場に置かれているか」
「将来、自分はどのような立場に置かれるか」
……それを客観的に検証する。
(「過去の立場」もあるが、すんだことを、とやかく悩んだところで、しかたない。)

 「あの人は、自分のことが、まるでわかっていない」というときの、「あの人」は、
それだけ現実検証能力の劣っている人ということになる。
たとえば現在(2010・4・28)の、民主党の小沢幹事長。

 検察審議会が「起訴相当」と判断したにもかかわらず、「職務をまっとうする」などと、
トンチンカンなことを平然と述べている。
いわく、「私といたしましては、意外な結果で驚いておるところでございます。私自身、何
もやましいこともありませんので、与えられた職務を淡々と全力でこなしていくというこ
とに尽きると」(TBS、iニュース)と。

●程度の問題

 とは言っても、「自分」を知ることはむずかしい。
程度の問題ということになるが、「自分」を知れば知るほど、自分がわからなくなる。
ひとつの例として、すばらしい肩書きをもった、1人の男性を想定してみる。

彼は、大会社の部長という肩書きを背負っていた。
彼は部下からも、また取引先の人たちからも、一目、置かれていた。
盆暮れには、山のようなつけ届けが届き、年に数回は、家族と海外旅行を楽しんでいた。

 そこでその男性は、「私はすばらしい人間」と思うようになった。
「すばらしい人間だから、それにふさわしい生活をしているだけ」と。

 が、それから10数年後。
その男性は退職する。
現在は年金生活。
企業年金も含めて、50万円弱の年金がある。
生活には困らない。
しかし今、その男性は、だれからも相手にされない。

 こういうケースのばあい、その男性に、現実検証能力を期待することはできるだろうか。
が、私が知るかぎり、それはたいへんむずかしい。
ある女性(60歳)は、こう言った。
「私の兄がそうですが、いまだに威張っています。
自分を軽んじる人がいたりすると、ものすごく怒ります」と。

 みながその人に頭をさげたのは、その人がそれだけすばらしかったからではない。
その人の「肩書き」に頭をさげた。
現実検証能力のある人には、それがわかる。
しかしそれがない人には、それがわからない。

●謙虚になる

 要するに「程度の問題」ということになる。
「自分のことは、私がいちばんよく知っている」と言う人ほど、意外と自分のこと
を知らない。
反対に「自分がよくわからない」と思っている人ほど、意外と自分のことを、
よく知っている。

 わかりやすく言えば、「謙虚になる」ということ。
『謙虚さこそ、自分を知る最大の武器』ということになる。
たとえばMさん(65歳、女性)は、ことあるごとに、「私はだまされた」と
言いつづけている。
「私は兄に、親の財産をすべて奪われました」と。

 しかしそういうMさんだが、自分の小ずるさには、気がついていない。
それまで、さんざん、小ずるいことを重ねてきた。
小ずるく生きることが、Mさんの処世術にもなっていた。
親の葬儀のときも、なんだかんだと理由にもならない理由を並べて、1円も、葬儀費用を
負担しなかった。
実際には、親がタンス預金としてもっていた現金を、すべて自分のものにしている。
そういうことを棚にあげて、「私はだまされた」は、ない。

●では、どうするか

 「自分」を知るためには、まわりにいる「相手」が、自分をどう思っているか、
それを冷静に想像してみる。
配偶者でもよい。
子どもでもよい。
親でもよい。
友人でも、親類でもよい。
そういう人たちを、1人1人、頭の中で思い浮かべながら、「自分」をどう見ているか、と。
相手の視点の中に、自分を置くという方法もある。
相手の目を通して、自分を見る。

 その結果として、「自分」が、そこに浮かんでくる。
かなりの空想力と想像力が必要となるが、裏を返していうと、自己中心的な人というのは、
その空想力と想像力のとぼしい人ということになる。
他者から見た自分が想像できないから、自分勝手なことを繰り返す。

たとえば「見舞い」。
病気の人を見舞うときは、相手の気持ち、相手の気持ちがわからないときは、介護する
家族の気持ちを確かめてからする。
それが、常識。
いきなり押しかけて行って、「見舞いに来ました」は、ない。
相手によっては、見舞いに来られた人は、それを苦痛にすら思うことがある。

●今日の目標

 今日は4月28日。
今日の目標ができた。
私はそのつど、相手の視点の中に自分を置いてみる。
そしてその人から、自分がどう見えるかを想像しながら、自分を見つめてみる。
これから朝食だから、とりあえず、私のワイフの中に、自分を置いてみる。
どう見えるだろうか?
どんな姿に見えるだろうか?

 少し楽しみ?
少しこわい?
この結果は、また明日にでも、報告の形で、書いてみたい。

 最後に一言。

民主党の小沢さん、もうやめなさい!
今となっては手遅れかもしれないが、もうこれ以上、民主党をどん底から、さらに
どん底へ落とす必要はないでしょ。
あなたは権力の座に溺れるあまり、現実検証能力、つまり自分を見失ってしまった。
その姿は、醜いというより、醜悪。
ぞっとするほど、醜悪。
一度でよいから、私たちの目の中に自分を置いて、自分の姿を見てみてみたらいい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自分 現実検証能力 自己評価力 私探し 自分探し 自分を知る 
己を知る 民主党 小沢幹事長 小沢一郎 小沢一郎幹事長)

【補記】

●自分が見えない人たち

 私の知人の中には、退職してもう10年以上もなるのに、いまだに退職前の
肩書きを背負って生きている人がいる。
一見すると腰が低く、ヘラヘラしているが、しかしそれは演技。
人に軽く扱われたりすると、とたんに不機嫌になったりする。
つまり、まるで自分のことがわかっていない。

 その知人だが、親類に入院者が出たりすると、足軽く見舞いに行ったりする。
「自分が行けば、相手は喜ぶはず」と考えて、(あるいは何も考えないで)、
そうする。
が、来られたほうこそ、えらい迷惑。
中には、自分の無様な姿を、人に見せたくない人もいる。
あの故・山城新吾について書いた原稿を思い出した。
まだ母が生きていたころに書いた原稿である。

それを先に、紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●見舞い

+++++++++++++++++

週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。
週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。
それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。
私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。

母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。
母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。
さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。
母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。
治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。

それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。
相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。
これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

++++++++++++++++++++

形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。
ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……
ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。
身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

++++++++++++++++++++

総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がりすぎ、その分だけ複雑になったとも考えられる。
そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。

葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。
何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。

線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。
それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。
「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。
そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。
母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。
むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。

経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。

それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。
だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と答える。
形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。
だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。

そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。
で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)

死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。
それも「形」なのかもしれない。

が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。
こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。

その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。
葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 山城新伍 山城S伍 形だけの人間関係)

+++++++++++++以上、08年8月記+++++++++++++

●「そんなもん、会いたくないやろ」

 山城新伍は、こう言ったという。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
 この一言だけで、山城新伍を判断するわけではないが、しかしこの
一言だけでも、山城新伍は、ものすごい人ということがわかる。
大物というか、自分に正直。

だれしも山城新伍のような生き方をしたいと思いつつ、それができないでいる。
見栄や体裁に振り回される。

 こんなことがあった。

 私の母が死んでちょうど1年になる。
その当時を思い出しながら、ある女性(66歳)がこう言った。
「もっと、あなたのお母さんを見舞ってやればよかった」と。

 私はその言葉を聞いて、その女性の自己中心性に驚いた。
まるで自分のことがわかっていない。
生前、母は、その女性のことをたいへん嫌っていた。
私が知るかぎり、死ぬ間際まで、嫌っていた。
母にしてみれば、見舞いに来てほしくない第一の女性だった。
そんな女性が、自分だけの判断で、「もっと見舞ってやればよかった」とは!

 またこんな話もある。

 ワイフの友人(55歳・女性)が、子宮筋腫の手術で、1週間ほど
病院に入院した。
それについて、ワイフの友人は、そのことをだれにも話さなかった。
自分の夫にすら、「だれにも言わないでほしい」と念を押していたという。

 さらにこんな話もある。
このことは以前にも書いたが、Yさんという友人の夫(43歳)が、交通事故
で入院した。
それについて夫の友人の1人が、その日のうちにあちこちへ電話をかけ、みなに
知らせてしまった。
親切心からそうしたのだろうが、Yさんの気持ちを、先に確かめるべきだった。
Yさんは、こう言った。

「入院したその日に、ドヤドヤと、いろいろな人が見舞いに来て、その応対だけで
疲れてしまいました」と。

 見舞いといっても、みながみな、それを望んでいるわけではない。
また来てほしい人というのは、かぎられている。
で、それなりの立場でないなら、安易に見舞うというのは、やめたほうがよい。
かえってありがた迷惑になるだけ。

Yさんのケースにしても、そっとしておいてやることこそ、大切。
 もう一例、こんな話もある。

 2年前に、私の友人が亡くなった。
で、その初盆が昨年の7月にあった。
私はすっかりその日を忘れてしまっていた。
(私の生まれ故郷では、8月に盆供養をする習わしになっている。)

 それでそれをわびるために出向くと、奥さんは、こう言った。
「正直に言いますとね、初盆のほうが、葬式よりたいへんでした。
そのあと体の調子を崩してしまい、1週間ほど、寝込んでしまいました」と。

 周囲の人にしても、そうだ。
「親だから・・・」「子だから・・・」という理由だけで、それを前提として
ものを考えてはいけない。
親といってもさまざま。
子どもといってもさまざま。
親子関係となると、さらにざまざま。
「親の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
「子の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
それがわからないのは、あなただけ。

 いろいろなケースがある。

しかしこと病気の見舞いとなると、それを望まない人のほうが多いのでは?
(あるいは私の意見が、否定的すぎるかな?)
そこで大切なことは、一度家族の人の意見を聞いてみるということ。
その上で、見舞いに行くかどうかを決めればよい。

「私が見舞いに行けば、相手は喜ぶはず」という、「ハズ論」だけでものを
考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 見舞い 病気見舞い エチケット)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●一貫性

 現実検証能力のない人は、悪い意味で、一貫性がある。
自分のことがわからないと同時に、他人の心も、わからない。
自分の置かれた立場もわからない。
先に書いた、3つの分野で、共通して、現実検証能力が乏しい。

(1)自分を客観的に検証する。(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する。

つまり、ノー天気。
そうそうその知人だが、そのときの気分に応じて、盆や正月時でも、平気で
親類を訪ねて、寝泊まりしているそうだ。
「自分は尊敬されているはず」「歓迎されているはず」という、強い思いこみが
あって、そうしている。
本当は、みな、迷惑しているのだが、そういうことすらわからない?

 私は「あの男は、ボケているんじゃない?」と言っている。
ワイフは、「ああいう人を、おバカと言うのね」と言っている。
どうであるにせよ、現実検証能力の欠ける人というのは、そういう人をいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自分のわからない人 迷惑な人 現実検証能力 自己評価 自己評価
力 はやし浩司 無神経な人 病気の見舞い)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【自分のない人たち】
  
●虚栄

+++++++++++++++++++

虚栄の世界に生きる人は多い。
概して、女性に多い。
つまりそれだけ他人の目を気にしている。
が、さらにそのルーツをたどれば、
自我の確立に失敗した人ということになる。
わかりやすく言えば、「自分がない」。

+++++++++++++++++++

●1万円のチップ

 虚栄を張る人は、いくらでもいる。
家計は火の車なのに、冠婚葬祭に金をかける人から、学歴や経歴、
さらには家系を偽る人まで、さまざま。
年金生活をしながら、美容院で、1万円のチップを払っていた女性
もいた。
しかも驚くなかれ、年齢は、80歳!

ふつうの常識のある人なら、他人の目など気にしない。
気にしたところで、どうにもならない。
どうにもならないことを、よく知っている。

●自我の確立

 思春期から青年期にかけての最大のテーマは、自我の確立。
(したいこと=自己概念)と(していること=現実自己)を、一致させる。
「私」は、その上に積み上げられる。

 が、この自我の確立に失敗すると、人生そのものが、混乱する。
糸の切れた凧のようになる。
概して女性にこのタイプの人が多いのは、結婚という(関門)をくぐり抜ける
とき、それまでの(私)を捨てるように強要されることによる。
結婚と同時に、それまでのキャリアをあきらめる女性は多い。
またそれから生まれる欲求不満には、相当なものがある。
それが変形して、子どもの教育に狂奔するようになったり、ここに書いたように、
虚栄で身を飾ったりするようになる。

●限りない自己中心性

 自己中心性が肥大化した状態を、「自己愛」という。
その自己中心性が肥大化すればするほど、その人の住む世界は狭小化する。
つまり小さくなる。
本当はだれも、その人のことを気にかけてはいないのに、自分が世界の中心にいるかの
ように錯覚する。
みなが、自分を注目しているかのように錯覚する。
そのため、世間体を気にする。
見栄やメンツを気にする。
  
●見栄を張る人たち

 見栄を張る人は、どこまでも見栄を張る。
おかしいほど、見栄を張る。
コミカル漫画とまちがえるほど、見栄を張る。
その張り方には、際限がない。
定型もない。
自分のことだけではない。
配偶者のこと。
子どものこと。
さらには孫のこと。
家系や先祖のこと。
学歴や財産のこと。

 わかりやすく言えば、ウソにウソを塗りかためる。
そしてそれを他人に吹聴する。
吹聴してもしかたのない人にまで、吹聴する。

●ふつうの行為

 ……といっても、だれしも、ある程度の見栄は気にする。
無意識のまま、気にする。
こんなことがあった。

 私は講演に招かれるたびに、服装に気をつかう。
私というより、ワイフのほうが、気をつかう。
そんなある日、二男が、ある中学校での講師に招かれた。
そのときのこと。

 二男は、ヨリヨレのシャツに、ジーパン姿で出かけていった。
シャツには、いくつか、穴まであいていた!
(これは本当の話。)

 そこで私が、「人前で話をするなら、それなりのかっこうをしていけ」と忠告した。
が、二男は平気だった。
ギターをかつついで、そのまま出かけていった。

 つまり見栄や体裁を気にしないと言いながら、私は私で、結構、見栄や体裁を
気にしていることを知った。
言い替えると、傍から見るとおかしいほど虚栄を張っている人でも、その人にとっては
それがふつうの行為ということになる。
その人自身は、それに気づいていない(?)。
またそう考えないと、そういう人たちの心理が理解できない。

●例

 いろいろな例がある。

★N氏(農業)は、車検の切れた、古いが、しかし見た目にはそれほど傷んでない
大型高級車を納屋の裏に、カバーをかけて、隠し持っていた。
都会から大切な客が来たときだけ、こっそりとそれを出して使っていた。

★T女は、いつもサイフに札束を入れて、もち歩いていた。
いちばん上と下だけ、1万円札。
間はすべて1000円札。
買い物をするときも、レジの人に、いちいちサイフの中身を見せつけるかのようにして、
お金を払っていた。

★G女は、家の居間に、東京のT女子大学の同窓会名簿を飾って、置いていた。
それとなく、客に、自分の出身校を示すためだったというが、実際には、G女は、
高校しか出ていなかった。

★Y女は老齢年金と、息子からの仕送りだけで生活していた。
しかし近所の人たちには、「祖父の代からの財産で、遊んで暮らしています」と、
死ぬまで言いつづけていた。

★B氏は官庁を退職してからも、過去の役職と肩書きにしがみついていた。
そしてことあるごとに、大物ぶって見せていた。
たとえば大型店がその地方に進出するという計画を耳にすると、その地域に住む
親類に、こう言って電話をかけたりしていた。
(そのため経済情報誌だけは、片時も離さず持ち歩いていた。)
「今度、ぼくの友人が、そちらに大型店を出すことになりましたから、よろしく」と。
もちろんB氏とその大型店は、縁もゆかりもない。
つまりホラ!

●特徴

 こうした虚栄を張る人には、いくつかの特徴がある。

(1)慢性的な欲求不満が根底にある。
(2)異常なまでの自尊心や、過去へのこだわりをもっている。
(3)表面的には、努めて善人ぶり、他人の評価を気にする。
(4)口がうまく、それとなく自分を大物に見せる術にたけている。
(5)自己愛者の特徴として、他人が批判するのを許さない。
(6)自分がない分だけ、ものの考え方が流動的で、コロコロと変わる。
(7)いつも自分がその場の(中心)にいなければ、気が済まない。
(8)他人との良好な人間関係を築きにくい。そのため、孤独。
(9)虚栄を気にする一方、他人を見かけだけで判断しやすい。
(10)幸福観が相対的。「他人より幸福なら、自分は幸福」と考える。
(11)そのため、他人の不幸話を、何よりも楽しむ。

 が、虚栄は虚栄。
わかりやすく言えば、「化けの皮」。
いつかは、はがれる。
そしてそのとき虚栄を張った分だけ、今度は自分が苦しむ。
ある母親は、自分の娘が高校に入学したときのこと。
毎日駅まで娘を車で送り、そこで衣服を制服に着替えさせていた。
娘の通学校を、近所の人に隠すためである。

●私の問題

 しかしこれは他人の問題ではない。
先にも書いたように、虚栄というのは、(もちろん程度の差はあるが……)、
だれしも気にしている。
しかも無意識。
そこで大切なことは、「では、私はどうか?」と自問してみること。
「私は虚栄心はない」と思っている人でも、意外といろいろな場面で、虚栄を
張っていることが多い。

 で、あえて言うなら、こうなる。

 まず、ありのままの自分をさらけ出してみる。
飾らない。
偽らない。
ウソをつかない。
(もちろん言いたくないこともあるだろう。
そういうときは黙っていればよい。)

その結果として、それまでの自分が、虚栄を張っていたことを知る。
自分自身のステージがあがったとき、それまでの自分が、低いステージにいたことを知る。
こうして少しずつ、自分のステージをあげていく。
その結果として、虚栄から脱却することができる。
「私」は、「私」らしく生きることができる。
自分を取り戻すことができる。

●補記

 この問題は、「生き様」の問題ということになる。
先に、「虚栄を張る人は、それだけ自分のない人」と書いた。
言い替えると、虚栄と闘うためには、自分を確立すること。
自分の生き様を確立すること。

 そのためには、考え、自分の生きる哲学をもつ。
そういう意味で、私は、二男には教えられた。
二男は、まったくと言ってよいほど、虚栄を張らない。
ありのままの姿で生きている。
「すばらしい」と思う前に、自分の息子ではないような気がする。
たとえば今、二男は、コンピュータの世界では、(ものすごいこと)をしている。
スイスにあるCERN(世界最大の量子加速器研究所)のコンピュータ技師をしている。
といっても、スイスにいるわけではない。
アメリカのインディアナ大学の研究室に籍を置いている。
全世界の研究者のコンピュータをつなぎ、CERNから出てくるデータを分析している。
(実際には、コンピュータをつなぐプログラムの開発に携わっている。)
が、一度だって、それを自慢したことはない。
(自慢しているのは、この親バカの私のほう。)

 「すごいなあ!」といくら言っても、「何でもないよ」と。
名誉にも、地位にも興味はない。
「東京ではできないのか?」と言っても、「東京には、ぼくのできる仕事はない」と。
そういう二男を見ていると、その反射的効果として、自分の愚かさを知る。
哲学のなさを知る。
そういうこともある。

 さて、今日も始まった。
今日こそ、虚栄と無縁の一日を過ごしてみたい。
(100427)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 虚栄 虚栄心 虚栄に生きる人 身を飾る人 見栄 メンツ 世間体 
はやし浩司 自分のない人 自我の確立 確立の失敗)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●怠けた心

++++++++++++++++++

今夜は、仕事が終わるのが9時半ごろ。
それはそれとして、今夜は、ワイフが、
仕事を手伝いに来てくれる。
そのため、家に帰るには、2つの方法が
ある。

(1) いつものように自転車で帰る。
(2) ワイフの車で、ワイフといっしょに
帰る。

4月もあと少しというのに、外はまだ肌寒い。
風は弱まったとはいえ、向かい風。
ワイフと自動車に乗って帰れば、楽。
しかし健康のためには、自転車のほうがよい。
こういうとき、私はどう判断したらよいのか。
どう行動したらよいのか。

++++++++++++++++++

●怠け者

 人間は、基本的には、怠け者。
できるだけ体を動かさずに、楽にしたい。
心のどこかで、いつもそう願っている。
もし私の肉体が、肉体自身の健康を考えるなら、肉体は何らかの形で、
脳に、「運動したい」という信号を伝えるはず。
このところやや(1~2キロ)、体重もオーバーぎみ。
が、どういうわけか脳のほうは、「自動車に乗って帰ろう」という方向に、
私を導きつつある。
肉体の側からの働きかけは、まったくない。
考えてみれば、これはおかしなことだ。

●無駄な運動?

 もし人間が基本的に怠け者なら、ヒト(人類)は、とっくの昔に絶滅していたはず。
が、今にいたるまで、20数万年を生き延びてきたということは、それなりの健康
管理を自分でしてきたということになる。
運動もそのひとつだが、原始のヒトたちは、生きるために体を動かしていた。
運動のための運動ということは、しなかった。
そのことは、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればわかる。
彼らの動きは、すべて、(生きること)と直結している。
無駄な(?)運動はしない。

 が、人間の生活は便利になった。
私などは、一日の大半を、座って過ごす。
私の仕事は、そういうもの。
となると、(運動不足)→(不健康)の悪循環に陥りやすい。
が、それを判断するのは、肉体のほうではなく、脳のほうである。
肉体のほうは、むしろ「休め」「休め」と、私に命令している。

●肉体

 が、これはおかしい。
冒頭の話に戻るが、肉体にしてみれば、自身の健康を考えるなら、自転車で
帰るほうがよいに決まっている。
よいに決まっているが、それについては沈黙を守っている。

 たとえばエネルギーが不足してくれば、血糖値がさがり、それを視床下部にある
センサーが感知して、空腹感を引き起こす。
睡眠不足のときも、そうだ。
病気になったときも、そうだ。
しかしこと運動不足については、そういうセンサーが働かない。
エネルギー不足のときは、「腹が減った!」という意思を、脳に伝える。
が、運動不足については、それがない。
「運動したい!」という意思は、生まれてこない。
むしろ、「楽をしたい」と。

●矛盾

 つまり(肉体の状態)と(脳の反応)が、矛盾している。
本来なら運動不足を感知した肉体が、「運動したい」という意思を、脳に
伝えてもよいはず。
あるいは運動することによる快感を、引き起こさせてもよいはず。
が、そういう反応は、どこからも起きてこない。
で、ここでもし私が肉体の誘惑に負けたとしたら、明日は、もっと太ってしまうはず。
体の調子も悪くなるはず。

 一方、今夜家に帰るとき、ひと汗かけば、明日の朝は、爽快な気分で迎えられるはず。
もっともそれを知っているのは、肉体のほうではなく、脳のほう。

●命令

 そこで私の脳は、肉体に、あえて(「あえて」だ)、命令をくだす。
「今夜は自転車で帰れ!」と。
が、肉体のほうは、それにすなおに従うわけではない。
どこか躊躇している。
「できれば、車に乗って帰りたい」と。
これはどうしたことか?

 基本的には、やや疲れぎみということもある。
今日も、けっこう、忙しかった。
それに年齢的にも、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
つまり(怠け心)の正体は、実は、「寿命」と関係があるのではないかということになる。
話が少し飛躍したので、わかりにくいかもしれない。
つまり肉体は、すでに死に向かいつつある。
そのため、「怠けろ」「怠けろ」と、私に命令している。
またそういった意識が、DNAそのものの中に、組み込まれているのかもしれない。

 「怠けろ」「不健康になれ」「死ね」と。
しかしそう考えると、先にあげた「矛盾」が、説明できる。

●健康論

 私は決定した。
今夜はどんなことがあっても、自転車に乗って帰る。
このまま怠けた心の言いなりになっていたら、私はそのまま「死」に向かって
まっしぐら。
・ ・・というほど、大げさな問題ではないかもしれないが、日々の積み重ねが、
その人の健康を決める。
寿命を決める。

 が、ひとつだけ、誤解しないでほしい。

 運動というのは、それを始めるときには、いつも(つらさ)が伴う。
しかしひとたび始めてしまうと、私のばあい自転車にまたがったとたん、言いようのない
解放感を覚える。

 帰り道の途中には、ゆるい上り坂があって、その坂を上りきると、今度は、長い
下り坂になる。
その峠の部分までは苦しいが、下り坂を下っていくときの爽快感は、何とも言えない。
私はスキーをしたことはないが、スキーで、白銀の世界を突っ切っていくときは、
こんなものだろうなと、よく想像する。

 また汗をかき、家に帰って扇風機の前に立ったときもそうだ。
つまり肉体自身は怠け者だが、そうした爽快感を、肉体はよく知っている。
だから強くは抵抗しない。
「怠け心」というのは、そういうもの。
「がんばれるものなら、がんばってみな」と。

●センサー

 やがて人間もさらに進化すれば、脳の中に、こんなセンサーができるように
なるかもしれない。

「運動不足だから、運動せよ」と。
もっとも(命令)では、人間の肉体は動かない。
そこでエネルギー不足のときと同じように、空腹感に似たものを引き起こす。
それに応じて、脳のほうは、つぎの行動を決定する。
「自転車に乗って、運動せよ」と。
さらに進化すれば、「脚力をつけろ」「背筋力をつけろ」と、そうなるかもしれない。

 が、今はまだそういうセンサーはない。
ないから、どうしても脳のほうからの命令がないと、肉体は動かない。
動こうとしない。
つまりは、これも脳の自己管理能力の問題ということになる。

 私のばあい、まだその自己管理能力が、健在ということか。
この能力が衰退したら、私は楽なことばかりを願うようになる。
不健康になる。
「死」に向かう。
そのとき寿命が尽きる。


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