●親の依存性
●子離れ(親意識との決別)(親の依存性vs親の自立)
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70歳を過ぎても、子離れできない親がいる。
一方、子どもがまだ中学生なのに、さっさと
子離れしてしまう親もいる。
そのちがいは、何か。
どちらがよいのか。
また子離れするには、どうしたらよいか。
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●「なりすまし詐欺(オレオレ詐欺)」
いまだになりすまし詐欺が跡を絶たないという。
電話一本で、いとも簡単に親たち(祖父母たち)が騙(だま)されてしまう。
この話を、オーストラリアの友人(60歳)に話したら、こう言った。
「オーストラリアでは考えられない」と。
「もしそういう電話がかかってきたら、オーストラリア人の親なら、こう言うだろうね。
それは私の問題ではない。息子(娘)の問題。私は知らない」と。
つまりなりすまし詐欺というのは、きわめて日本的な現象ということになる。
その根底で、日本人独特の甘えの構造(=依存性)と、深く絡(から)みあっている。
●「二度と帰ってくるな!」
10年ほど前だが、こんなTV番組を見た。
深夜、東京のKB町にレポーターとカメラマンが入った。
2人の中学生らしい女の子をつかまえた。
その女の子たちに、「おうちの人は心配してないの?」と。
が、その女の子たちは、「心配してないヨ~」と。
そこでレポーターは何とか女の子たちの自宅の電話番号を聞き出した。
自宅に電話した。
電話に母親らしき女性が出た。
が、その母親らしき女性の言い方に驚いた。
娘たちの外出を心配しているかと思いきや、その逆。
「私には関係ありません!」「放っておいてください!」と。
そこで女の子(=娘)が電話に出ると、母親らしき女性は、電話口の向こうでこう
叫んだ。
「あんたなんか、二度と家に帰って来るんじゃないわよ。わかったア!」と。
●解放
親はどこまで子どものめんどうをみるべきか。
その内容と基準、それに程度は、それぞれの家庭によって、みなちがう。
子育ての意識そのものが、ちがう。
夫婦(父親vs母親)によっても、ちがう。
仮に70歳を過ぎても、ネチネチと子離れできない親を、(10)とする。
一方、子どもが小学生、もしくは中学生のころに、「私は関係ありません」と、
子どもを突き放す親を、(0)とする。
上記、テレビに出てきたような母親をいう。
が、これは意識の問題。
(10)の親から見れば、(0)のような親がいること自体、信じられない。
(0)の親から見れば、(10)のような親がいること自体、信じられない。
その一方で、ほとんどの親は、自分のもっている意識を、標準と考える。
ほかの親たちも、みな、そうと考える。
しかしそう考えてはいけない。
人、それぞれ。
意識も、それぞれ。
●私たち夫婦のばあい
私たち夫婦ですら、たがいに意識がちがう。
生まれ育った環境がちがうから、ちがって当然。
私はネチネチとした、濃密な親子関係のある世界で、生まれ育った。
ワイフは、幼いころ母親を亡くし、父親の手だけで育てられた。
そのため私から見ると、「親子感覚」が希薄。
上記(0)~(10)に基準に当てはめるなら、私は、(7)もしくは(8)。
ワイフは、(3)もしくは(4)。
実際、私のワイフが、3人の息子たちに向かって、「勉強しなさい!」などという
言葉を使って、息子たちの世話を焼いているのを、見たことがない。
息子たちがまだ小学生のころから、学校の宿題にしても、「やりたければやりなさい」
「やりたくなければ、やらなくてもいい」という接し方をしていた。
ほかにたとえばアメリカに住む孫に対しても、毎月のようにプレゼントを送ったのは
私。
ワイフはただの一度も、自分からは送っていない。
が、おかしなもので、いつも嫌われるのは、私。
好かれるのは、ワイフ。
どうして……?、と書きたいが、俗世間では、こう言う。
『うるさい親は、嫌われる』と。
●子離れ
子離れとは、何か?
つまるところ、いつ、どの時点で、「私とは関係ない」と、子どもを突き放すかで、
決まる。
言い替えると、子どもにもっている依存性を断ち切ることを、子離れという。
子離れと、親の自立は、紙で言えば、表と裏。
私も、さんざん辛酸をなめさせられたあと、やっと、こう思えるようになった。
「勝手にしろ!」「知ったことか!」と。
決別したというのではない。
息子たちを見捨てたというわけでもない。
息子たちに抱いていた、期待感を払拭した。
とたん、心の中が、スーッと軽くなったのを覚えている。
つまりそのとき、私は親として自立した。
……というか、親意識と決別した。
●それまでの私
それまでの私を総括すると、こうなる。
「いつか、めんどうをみてもらわなければならないときがあるかもしれない」
「息子や息子の嫁たちに、嫌われたくない」
「親として、優位な立場にいたい」と。
いつもそう考えていた。
が、息子たちにその気がまったくないことを知った。
仮に私が心筋梗塞で倒れたと連絡しても、「ああ、そう?」で終わってしまうだろう。
(だからといって、それが悪いというのではない。
それが現代の若者たちの標準的な意識ということになる。
また私自身も、そういうふうに息子たちを育ててきた。)
そういった息子たちの意識を、はっきりと自覚したとき、息子たちに抱いていた
依存性が消えた。
同時に、そこに私の人生があることを知った。
「私は私の人生を生きる」と。
つまり私は、子育てから、解放された!
●依存性
体にしみついた依存性と決別するのは、たいへん苦しい。
自己否定から、絶望感、さらには襲い来る孤独感と闘わねばならない。
意識を変えるというのは、並大抵の努力では、できない。
が、この問題だけは、自分たちの問題。
子どものもっている意識を変えようとしても、無駄。
子どものもっている意識と闘っても、これまた無駄。
親の私たちは、それを認め、受け入れるしかない。
少し前、「デジタル人間」について書いた。
ドライで合理的。
人間関係ですら、ON/OFFだけで片づけてしまう。
そういう人間をデジタル人間という。
「人情」というものが、通じない。
現代の若者たちが、そうであるなら、私たちはそれに合わせて生きていくしかない。
あるいは相手にしない。
今の私なら、仮になりすまし詐欺の電話がかかってきても、即座にこう言うだろう。
「それは私の問題ではない。息子(娘)の問題。私は知らない」と。
子離れについて、別の角度から考えてみた。
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Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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