Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, February 02, 2011

●人生の密度






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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   7日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【保護と依存について】

●保護と依存

 今朝、ワイフと食事中に、こんな会話をした。
いつもの「保護と依存」の問題。
一度保護と依存の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではない。
保護するほうは、いつもまでも保護を求められる。
負担感に苦しむ。
一方、依存する側は、いつまでも依存する。
依存して当たり前と考えるようになる。
だから保護、依存の関係は、できるだけ作らないほうがよい。
親子でも、兄弟でも、親類でも、また友人でも。

●甥、姪の学費を全額負担したT氏

 T氏というドクター(内科医)が2年前に他界した。
私の30年来の友人であった。
そのT氏は、それぞれの親を通して、4~5人の甥、姪の学費を負担した。
そのつど、ほぼ全額、負担したという。

 その話をT氏から生前、よく聞いていたから、私は当然、それらの甥や
姪が、葬儀に来ているものとばかり思っていた。
が、葬儀には、甥や姪はもちろんのこと、その親たちすら来ていなかった。
T氏の奥さんに、「どういうことですか?」と聞くと、奥さんはこう言った。
「主人が現役を退いてからも、みな、よくお金を借りにきました。
が、主人がそれを断っていたからです」と。

 俗な言い方をすれば、それまでさんざん世話になっておきながら……ということになる。
これが「保護と依存の関係」ということになる。

 私の母にしても、私は20歳のはじめから、収入の半分を母に届けていた。
27歳くらいのときから、法事の費用もすべて負担した。
しかし母はそのことを、だれにも話さなかった。
で、私が40歳を過ぎてから、姉に、そういう話を母から聞いているかと尋ねてみた。
が、姉は「そんな話は聞いていない」と。
その話をしながら、私がワイフに、「金を借りた人は自分の手柄と思うから、だれにも
話さないものだよ」と言うと、ワイフは、「そうね」と。

 母は質素な人だった。
無駄遣いはしなかった。
それは認める。
しかし私から得たお金で、母は母の実家や親類の人たちを助けていた。
従弟たちの学費にもなっていた。
このことは最近になってわかったことだが、もちろん母の実家や親類の人たちは、
そうしたお金の出所を知らない。
知らないから、母のことをほめちぎっても、私には礼の一言もない。
今にしてみると、私もバカなことをしたものと思う。
つまりこれが「保護と依存の関係」ということになる。

●子どもの学費

 子どもの学費についても、同じようなことが言える。
今、高校でも、さらに大学でも、親に感謝しながら高校や大学へ通う子どもはいない。
皆無と断言してよい。
お金が必要になると、電話をかけてくる。
で、親は、爪に灯をともしながら、学費を送る。
が、そんな親の苦労など、どこ吹く風。
親からのお金をかすめとっては、遊びほける。

 ……と断言するのも、失礼なことかもしれない。
中には、そうでない学生もいる。
しかしそういう学生は、少ない。
本当に少ない。

 それもそのはず。
子どもは子どもで、小さいときから、「勉強しろ」「宿題はしたか」「成績はどうだった」と、
尻を叩かれてばかりいる。
親は子どものためと思って、そうしている。
しかし子どもは、そうは思っていない。
「したいこともできず、勉強ばかりをさせられた」と思う。
だから高校へ入っても、また大学へ入っても、親に感謝などしない。
するはずもない。
中には、「親がうるさいから、大学へ入ってやる」と言う子どもさえいる。

 一方、親は親で、「大学まで出してやったのだから、息子(娘)は感謝しているはず」
と考える。
しかしこれは幻想。
まったくの幻想。
親はその幻想にしがみつき、自分の親バカを正当化する。
自分を慰める。

 もっとも親子の間に、一本でも良好な親子関係が残っていればよい。
それさえないと、自己否定から絶望感すら覚える。
ふと気がついてみると、老後の資金さえない。
そんな状態になる。

 つまりこれも「保護と依存の関係」ということになる。

●これからの親子関係

 私は63歳。
が、これは私だけの問題ではない。
40代、50代の人にも、共通の問題と考えてよい。
それがわからなければ、息子や娘が巣立ったとき、あなたが何歳になっているかを
計算してみればよい。
簡単な足し算をしてみれば、わかるはず。

 現在、日本の若者で、(あなた自身もそうかもしれないが)、「将来、親のめんどうを
みる」と考えている若者(成人)は、30%もいない。
この数値は、欧米やアジアの若者たちと比べても、極端に低い。
つまりあなたの老後は、そういう息子や娘たちの上に、載っている。
独居老人、無縁老人、そしてその先では孤独死。
それが今、あたりまえの老後になりつつある。

 だったら……というか、ここまで書けば、では子育てはどうあるべきか、賢明な
あなたにならわかるはず。
子どもに向かって、「勉強しろ」というのは、親の勝手。
しかしそう言えば言うほど、その責任を取らされるのは、あなた自身ということ。
それでももしあなたが「私はだいじょうぶ」「うちの子にかぎって、親を裏切ることは
ない」などと思っていたら、それは幻想。
まったくの幻想。

 先日もある男性(長野県出身)と、近くの温泉でこんな会話をした。
S町という、北信から来ていた。
その北信でも、過疎化に併せて、墓地の放棄が目立ってきたという。
そこで地域ごと、寺ごとに、無縁仏用の大きな石碑を建て、そこに遺骨を納めなおし、
集団で供養しているという。

 その男性は、こう言った。
「一度、都会へ出たら、今の若者たちはぜったいに戻ってきませんね。
それだけの社会システムが整っていればよいのですが、それが不完全です。
だから私が住んでいるS町でも、独居老人がどんどんとふえています。
私もその1人です」と。

 で、私が「息子さんや娘さんのところに会いに行かないのですか」と聞くと、
こう話してくれた。
「行きません。もう20年来、会ったこともありません。そのかわり、今は、
弟と仲よくしています。
その弟も、豊橋(愛知県)で独居老人です」と。
言い忘れたが、その老人は、「今、82歳です」と言った。

 こうした傾向は、この先、20~30年はつづく。
つまりこの原稿を読んでいるあなた自身も、その独居老人になる可能性は高い。
おおざっぱな試算によるものだが、約60%(某評論家)がそうなると言われている。
この数字が決して誇張されたものでないことは、あなたの周辺に住んでいる老人を
観察してみればわかる。

●保護と依存(2)

 だから保護と依存の関係については、慎重に対処したらよい。
相手が自分の子どもであっても、慎重に対処したらよい。
つまり過剰な保護意識は禁物。
禁物というより、危険。
子ども自身も、不幸になる。
保護に慣れきってしまった子どもは、保護なしでは生きていかれなくなる。
だからあのイギリスのバートランド・ラッセル(イギリス・ノーベル文学賞受賞者、
哲学者)もこう言っている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれ
ども、決して限度を超えないことを知っている、そんな両親のみが、家族の真の喜びを与
えられる」と。

 けだし名言である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 保護と依存 保護と依存の関係)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【Independent Thinker】

●ひとりで考える人(Independent Thinker)

 イギリスの哲学者でもあり、文学者でもあった、バートランド・ラッセルは、「宗教論(In
Religion)」の中でつぎのように書いている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves
no
effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than
his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a
very
exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later
life. It
causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that
position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there
are
few who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so
aristocratic a good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far commoner
in
the young than in grown mean and women. Among children it is very common, and
grows naturally out of the period of make-believe and fancy. It is rare in later life
because everything is done to kill it during education... The wish to preserve the
past
rather than the hope of creating the future dominates the minds of those who control
the teaching of the young. Education should not aim at passive awareness of dead facts,
but at an activity directed towards the world that our efforts are to create

教師の知恵をそのまま、受動的に受けいれるということは、ほとんどの少年少女に対して
は、楽なことであろう。それには、ひとりで考えるindependent thoughtという努力をほ
とんど要しない。

また教師は生徒より、ものごとをよく知っているわけだから、一見、合理的に見える。そ
れ以上に、この方法は、その教師が、とくにおかしなexceptional人でないかぎり、生徒

とっては、教師に気に入られるための方法でもある。

しかし受動的にものごとを受けいれていくという習慣は、そのあとのその人の人生におい
て、大きな災いdisastrous oneをもたらす。その人は、リーダーを求めさせるようになる。
そしてそれがだれであれ、リーダーとして、その人を受け入れることになる。

子どもには、精神的な冒険mental adventureをする喜びなどというものは、なく、それを
理解する子どももほとんどいないし、ふつうの教育のもつ、貴族主義的なaristocratic教

のよさが、子どもには、わからないと言う人もいるかもしれない。

しかし私は、そんなことは信じない。精神的な冒険というのは、おとなたちよりも、若い
人たちの間でのほうが、ずっとありふれたことである。幼児たちの間でさえ、ありふれた
ことである。

そしてその精神的な冒険は、幼児期の(ものを信じたり、空想したりする期間)the period
of make-believe and fancyの中から、自然に成長する。むしろあとになればなるほど、す
べてが教育によって、これがつぶされてkillしてしまうので、よりまれになってしまう。

若い人たちを教育する教師たちは、どうしても、未来を想像したいと願うより、過去を保
全したいとい願いやすいdominates。子どもの教育は、死んだ事実を受動的に気がつかせ
ることpassive awareness of dead facts,ではなく、私たちの努力がつくりあげる世界に

って、能動的に向わせることを目的としなければならないthe world that our efforts are
to
create。

バートランド・ラッセル(1872~1970)……イギリスの哲学者でもあり、ノーベ
ル文学賞受賞者

++++++++++++++++++++はやし浩司

●精神的な冒険(mental adventure) 

 精神的な冒険……つまり、今まで経験したことがない世界に自分自身を置いてみて、そ
のときの精神的な変化を、観察する。そしてその中から、新しいものの考え方や、新しい
自分を発見していく。

 それはとても、おもしろいことである。

 新しい発見に出あうたびに、「今まで、こんなことも知らなかったか」と驚くことがある。
それが自分に関することなら、なおさらである。

 その精神的な冒険について、バートランド・ラッセルは、「教育というのは、死んだ過去
の事実を、子どもたちに気づかせることではなく、私たちが創りあげる、未来に向かって
能動的に向わせることを目的としなければならない」(Education should not aim at
passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that
our
efforts are to create)と書いている(「In Religion」)。

 では、それを可能にする方法は、あるのか。そこでバートランド・ラッセルは、教育論
の中で、「Independent Thought」という言葉を使っている。直訳すれば、「独立した思想」
ということになる。もう少しわかりやすく言えば、「ひとりで、考えること」ということに
なる。

 少し前、恩師のT先生が指摘した、「Independent Thinker」と、同じ意味である。訳せ
ば、「ひとりで考える人」ということになる。

 ……こう書くと、「ナーンダ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。しかしそう思う
のは待ってほしい。

 「ひとりで考える」ということは、たいへんなことである。私たちは日常生活の中で、
そのつど、いろいろなことを考えているように見える。しかしその実、何も考えていない。
脳の表面に飛来する情報を、そのつど、加工しているだけ。それはまるで、手のひらで、
頭をさすりながら、その頭の形を知るようなもの。

 ほとんどの人は、その「形」を知ることで、脳ミソの中身まで知り尽くしたと錯覚する。
しかしその実、何もわかっていない。

 それがわからなければ、北海道のスズメと、沖縄のスズメを、見比べてみることだ。そ
れぞれが、別々の行動をしているように見える。一羽のスズメとて、同じ行動をしていな
い。が、その実、(スズメ)というワクを、一歩も超えていない。

 つまり私たち人間も、それぞれが自分で考えて行動しているように見えるが、その実、(人
間)というワクを、一歩も超えていない。北海道のオバチャンも、沖縄のオバチャンも、
電車に乗ると、世間話に、うつつをぬかす。大声でキャーキャーと騒ぎながら、弁当を食
べる。

 つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれな
いということ。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、
そのワクを踏み超えなければならない。

 しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメ
というワクを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先
に巣をつくらないで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。

 人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)
の条件ということにもなる。

 恩師のT先生は、科学研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)の重要
性を説いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。バー
トランド・ラッセルは、それを指摘した。

 ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、
ありふれた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽な
こと。しかしそのワクを超えることは、たいへんなことである。

 しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味があ
る。私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰
りかえしているだけ。

 もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たち
も、若いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言っ
た。

 するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。

 本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事
実は、私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。
やがて君も母親になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。
つまり繰りかえしているだけだよ。

 もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなけれ
ばならない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。

 しかしこれは私自身のテーマでもある。

 ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。
私の家の近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、
自分の人生を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前
と同じ生活を繰りかえしているだけ。

 もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとした
ら、そのままつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。

 死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むこ
とである。

 ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いて
いる。

 私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろ
んその女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、
そうした。

たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の心
をキズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさらけ
出す勇気を、自分のものにすることができた。

 だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでい
くというのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そし
てそのつど、さらにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知
る。

 はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そして
そのあと、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、
Independent Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこ
に何か、目には見えない糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。

 そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。

(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人) (はやし浩司 家庭教育 育
児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 保護と依
存 バートランド・ラッセル ラッセルの言葉)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人生の密度(感動と驚き)


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人生の密度は、何によって決まるか。
もちろん密度は、濃いほど、よい。
仮に人より2倍、密度の濃い人生を
送ることができれば、同じ時間でも
人より2倍長く生きることができる。
そうでなければ、そうでない。


++++++++++++++++


●サイエンス


 人間にも、コンピューターに似た、「クロック数」のようなものがあるのか?
脳にも回転速度のようなものがあるのか?


 それについては最近では、脳科学が急速な進歩を遂げ、科学的にそれが証明され
つつある。
たとえば2008年、アメリカのサイエンス誌に、こんな興味深い論文が
掲載された。


 それは人間の、(これは人間にかぎらない)、条件反射についての論文だったが、
人間を基本的な部分で動かすシグナルは、どうやら脳下垂体の下部から
発せられているらしいということがわかってきた。
そこからシグナルが発せられると、たとえばドーパミンという神経伝達物質が
放出され、それが線条体などを刺激する。
ドーパミンというのは、人間の欲望と快楽を調整している神経伝達物質をいう。


 わかりやすく言うと、脳の中心部、奥深くで、(生きるための信号)が
常に発せられ、それが生きることの原点になっている。


●子どものシグナル


 子ども、とくに幼児のシグナルは、おとなの私たちより2倍は、速い。
(これはあくまでも私の印象によるものだが……。)
つまり頭の切り替えというか、回転が速い。
もしおとなのもつリズムで、幼児を指導していたら、幼児はそのリズムに乗れず、
あっという間に飽きてしまうだろう。
そのことは、幼児を教えてみれば、よくわかる。
テンポを速くし、小刻みに内容を変えていく。
そうでもしなければ、幼児を、50分なら50分の指導に引きつけておくことはできない。


●クロック数


 脳下垂体から発せられるシグナルに、「クロック数」という概念が当てはまるか
どうかは知らない。
そういう議論もあるかと思う。
が、ここではあくまでも仮説として、こんなことを考えてみたい。


 1秒間に発振する(電圧の最大値と最小値を繰り返す)回数を、クロック周波数という。
コンピューターの世界では、そのクロック数によって、CPU(中央演算装置)の
性能が決まる。
たとえば私が現在使っているパソコンは、インテル社製で、3・06GHzの性能を
もっている。
1秒間に、約3000000000回のスイッチON/OFFを繰り返す。
(すごいね!)
が、もし脳のシグナルの速さを計測できるとしたら、それが脳のクロック数という
ことになる。


 たとえば人間のクロック数が、1000回/秒であるとする。
実際には、それほどもないと思うが、もし1000回/秒であるとするなら、
私のコンピューターは、300万倍の能力をもっていることになる。
能力というよりは、計算速度をもっていることになる。
平たく言えば、私が脳の中で、23x45の1つのかけ算を暗算する間に、
コンピューターは、同じようなかけ算を、300万回、計算できることになる。


 が、ここで重要な問題が起きてくる。
脳の大きさと、伝達速度の問題である。


●伝達速度


 庭を見ていると、今朝もスズメたちがやってきて、餌をついばんでいる。
そのスズメたち。
チョコチョコと動いては、また別の行動をチョコチョコと繰り返す。
行動が素早い。


 3メートルほどの高さなら、ヒョイヒョイと上下し、木々の間を飛び回っている。
人間に例えるなら、100メートル近い山を瞬時に上り下りするようなもの。
また目と脳の距離も短いから、とらえた信号には、即座に反応する。
私が庭へ顔を出した瞬間に、サーッと高い木へと逃げていく。


 ……つまりいくらクロック数が速くても、脳の中の伝達速度が遅ければ、その分だけ、
頭の回転は遅くなる。
つまり脳の大きさと、伝達速度は、反比例する。
(正確に反比例するというわけではないだろうが……。)


 で、私はあるときこう考えた。
もし数億年後、現在のゴキブリが進化し、ゴキブリ人間のようなものが現れたとする。
彼らは時計の秒針よりさらに細かく分けた、1秒を60に分けた針のあるような
時計を作るだろうな、と。
体だが小さい分だけ、脳内の伝達速度は速くなる。
(反対に像のような巨大な生物ともなると、少なくとも秒針は必要ない。)


 結論を先に言えば、クロック数は同じでも、伝達速度が遅くなれば、その分だけ、
脳の活動は鈍くなる。
つまり密度は薄くなる。
(いろいろ反論はあるだろうが……。)


●頭の回転


 ここでは割愛するが、「信号の伝達」という点では、動物の脳は、たいへんのんびり
というか、非効率な方法を用いている。
電線を伝わる電気信号のようなわけにはいかない。
ちょうどドミノ倒しに似た方法で、ひとつずつの神経細胞が、信号をつぎの神経細胞へと
伝えていく。
つまり脳が大きくなればなるほど、人間はより知的にはなるが、その分だけ、反応が
鈍くなる。
単純に考えれば、おとなより、子どもの方が、脳が小さい分だけ、頭の回転が速いという
ことになる。


●密度


 密度……もしここでいう密度が、2倍速くなったらどうなるか……?

 たとえば1時間に1本の映画を観ることができたとする。
もし密度が2倍になれば、それぞれの映画を早送りして、1時間に2本の映画を観る
ことができることになる。
4倍になれば、さらに早送りして、1時間に4本の映画を観ることができるように
なる。


 言い替えると、1時間に4本の映画を観ることができる人は、1時間に1本の映画を
観ることができる人の、4倍、密度の濃い人生を送ることができる。
(実際には、ここまで単純に計算できないとは思うが……。)
しかし密度を濃くするということは、とても重要なことである。
そのことは、あなたの今の生活と、あなたが子どものころの生活を比較してみればわかる。
たとえば10歳から20歳までの10年間と、30歳から40歳までの10年間。
同じ10年間のはずだが、「長さ」そのものが、ちがう。


 このことは、50歳、60歳になってみると、さらによくわかる。
よく「年を取れば取るほど、時間が短くなる」という。
それが実感として、よくわかる。
つまり子どものころのほうが、密度が濃かったということになる。


●密度の計算


 そこで多くの学者たちは、密度の計算式を求めた。
いろいろな説がある。
が、どれも「?」。
で、私は「爆発説」を考えた。
人生をある一定量のガソリンにたとえてみる。


 誕生と同時に、人間は爆発的にガソリンの大半を消費する。
そのあと10年ほどで、2分の1とか、3分の1を消費する。
そのあと10年ほどで、さらに4分の1とか、5分の1を消費する。
それ以後は、わずかに残ったガソリンを、少しずつ使って生きていく。
63歳になった今は、言うなれば燃えかすのようなもの。
残っているガソリンもわずか。
そのことは特養で生活する老人たちを観れば、よくわかる。


 今日は昨日と同じ。
明日は今日と同じ。
そんな生活を毎日、繰り返している。
1年前も、今年も同じ。
10年生きたとしても、10年前と同じ、と。


 つまり人生の密度は、反比例のグラフのように、加齢とともに、小さくなっていく。


●では、どうするか


 具体的に考えてみよう。


 私は今朝は、午前7時に起きた。
昨夜は長男とワイフと3人で、舘山寺(浜松市内から40分ほどの温泉街)へ行って、
温泉につかってきた。
帰りに回転寿司屋に寄って、遅い夕食。


 私はそれからYOUTUBEに動画を1本、アップした。
床に就いたのが、午前0時。
目を覚ましたとき、外気は冷たかった。
が、そのまま眠っていても、起きて運動をしても、1時間は1時間。
私は思いきって起きて、ウォーキングマシンの上で、30分、歩いた。
(ときどき駆け足もするが……。)


 30分も運動すると、全身に汗をかく。
その運動をしながら、いろいろ考える。
今朝は、今ここに書いている「人生の密度」について考えた。
で、そのままの状態で書斎へ。
メールやニュースを読んだあと、原稿を書く……。


 かなり密度の濃い(?)時間の使い方をしていることになる。
が、その実感が、あまりない。
これはどうしたことか。


 そう言えば、昨夜車の中で、長男がこう言った。
「記憶というのは、感動したり、驚いたりしたときに、強く残るもの」と。


 ナルホド!


 時間を小刻みに使ったからといって、密度を濃くしたことにはならない。
大切なのは、「感動」や「驚き」ということになる。


●ホメオスタシス効果


 が、感動や驚きにしても、それが繰り返されると、回を重ねるごとに、どんどんと
その感動や驚きが薄れていく。
よい例が旅行。


 あちこちへ旅行をし始めたころは、そのつど感動したり、驚いた。
が、回を重ねるにつれて、それが薄れてきた。
最近では、先月行った旅行先のことすら、よく思い出せない。
これもホメオスタシス効果と言ってよいのか。
ウィキペディア百科事典には、こうある。


「恒常性、ホメオスタシス(ホメオステイシスとも)は生物のもつ重要な性質のひとつで
生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず生体の状態が一定に保たれるという性質、
あるいはその状態を指す。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重
要な要素でもある。生体恒常性とも言われる」と。


 わかりやすく言えば、同じことを繰り返していると、マンネリ化しやすいということ。
言い替えると、密度を濃くするということは、「感動」や「驚き」を、どう自分の人生の
中に取り込んでいくかということ。
時間を有効に使えばよいということでもないらしい。
もっと言えば、忙しいから、それでよいということでもないらしい。
仮にスズメのクロック数が人間の2倍速いとしても、スズメが人間の2倍、密度の濃い
人生を送っていることにはならない。


●感動と驚き


 以上が、私の偏見と誤解による、「人生の密度論」である。
隙間だらけの、つまりは理論としてはボロボロの仮説に過ぎない。
しかしひとつの結論を得た。


 感動と驚き。


 これを大切にする。
……ということで、今日も始まった。
12月23日。
教室では生徒たちが、クリスマス会を楽しみにしている。
その準備をする。
買い物をする。
生徒たちとワイワイと騒ぎ、楽しむ。
それが直接、ここでいう感動と驚きにつながるとは思わない。
が、しかし心に何かしらのインパクトを与えるだろう。
少なくとも、寝て暮らすよりは、よい。


 さあ、今日も感動しよう。
驚こう。


 では、みなさん、おはようございます。
今日も、がんばります!!!


Merry Christmas!!!


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 人生の密度 ホメオスタシス効果 クロック数 視床下部 シグナル 
人生の密度論)


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08年と02年に、同じようなテーマで
原稿を書きました。
もう一度、ここに掲載します。


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●孔子の60代(Confucius on 60’s)


+++++++++++++++++++


60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。


孔子(前551~前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。


その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。


『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。


+++++++++++++++++++++


●66歳で


計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。


ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。


それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。


が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。


もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。


私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。


このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。


老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。


ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!


さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
孔子 論語 春秋時代 Confucius はやし浩司 密度の濃い人生)


●朝に道を聞かば……

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論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。


それについて以前書いた原稿を添付します。


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『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』


●密度の濃い人生


 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い
方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。


 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をい
う。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きて
いるだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実
感を与える。


 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生き
る目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と
生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。


 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまっ
た。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞
くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚
釣りかランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考え
ることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。


 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あ
なたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑い
ながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役

です」と。そういう女性は美しい。輝いている。


 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを
同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。
あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五~一九一〇)も、こう書い

いる。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。


 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一
歩、話を進める。


●どうすればよいのか


 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。
私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お
金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も
残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。し
かし何も残っていない。


 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口
三〇〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そん
なある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの

日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書
いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、
振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。


 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はま
だ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。


(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中
に、
広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。


 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度
が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世
界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからと
いって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くする

とになる。


 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これか
ら先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02-10-5)


(追記)


 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、二倍の人生を
生きることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一
年の人生と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生き
ることができる。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道

聞かば、夕べに死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方
に死んでも、悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、
そういう意味も含まれる。



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