●オーストラリアへ(1)
【年長児に、展開図を教えてみる】(実験教室byはやし浩司)2011-02-28
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Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司
【心は、オーストラリアに】
●青春時代
青春時代が、人生の入り口?
青春時代が、人生のスターティング・ポイントと、だれが言ったか。
とんでもない!
これはウソ。
青春時代は、人生のスターティング・ポイントなどではない。
人生のゴールそのもの。
人は青春時代という門をくぐって、おとなの世界に飛び込む。
それはその通りだが、青春時代は、いつも私たちの行く道を照らす。
丘の上に立つ灯台のようなもの。
私たちはその灯台の照らす道に沿って、前に進むだけ。
行けども行けども、その先にあるのは、あの青春時代。
●戦後のあのドサクサ
とくに私は、戦後のあのドサクサの時代に、生まれ育った。
教育の「キ」のない時代だった。
親たちも食べていくだけで精一杯。
貧しいには貧しかった。
少し前のベトナム。
現在のアフガニスタン。
あるいはベトナムやタイでもよい。
そういう国々を見れば、それがわかる。
そういう国々を見ると、私は子どものころの日本を思い出す。
当時の日本と、それほどちがわない。
が、それほどちがわないことは、今になってわかること。
そのときはわからなかった。
貧しいのが当時は、当たり前。
私だけではない。
みな、そうだった。
● 拾ったお金
すべてをあの時代の責任にすることはできない。
しかし私たちは、よい意味で、たくましく、悪い意味で、小ずるかった。
またそうでないと生きていかれなかった。
たとえば道路にお金が落ちていたとする。
そういうお金は、先に見つけた者のもの。
あるいは走って駆け寄り、先に手にした者のもの。
だれが交番などに、届けただろうか。
だから今でも、私は子どもたちにこう教えながら、心のどこかで違和感を覚える。
「拾ったお金は、交番に届けよう」と。
そういう私が、自分の人生の中で、かろうじて、ほんとうにかろうじて、
道を踏み外さなかったのは、あの灯台があったから。
青春時代という、あの灯台があったから。
「私は最高の教育を受けた」という、その誇り。
それが私の道を照らしてくれた。
●1日が1年
ほとんどの宗教は、「聖地」というのをもっている。
心のより所。
冒(おか)してはいけない、神聖な場所。
もし私にも聖地というものがある。
それがまぎれもなく、あのカレッジ。
「241 ローヤル・パレード インターナショナル・ハウス」。
私はそこで、毎日、1日を1年のように長く感じながら生きた。
ある夜のこと。
一日が終わり、ベッドに身を横たえたとき、こう思った。
「まだ、たった3か月しかたっていないのか!」と。
私には、それまでの3か月が、何十年も長く感じた。
けっして、誇張しているのではない。
大げさに書いているのでもない。
本当に、そう感じた。
私は石川県の金沢市にある金沢大学を出た。
そこで私は4年間を過ごした。
が、たった数日で、私は4年分の思い出を作った。
本当にそう感じた。
そしてベッドから天井を見上げ、こう思った。
「まだこんな生活が、9か月も続くのか!」と。
そんな自分が、うれしくてたまらなかった。
●自由
すべてが珍しかった。
まだ日本には、綿棒もバンドエイドもなかった。
買い物にしても、そうだ。
オーストラリア人は、オレンジを袋単位で買っていた。
今では、日本のどこでも見られる光景だが、日本人の私には信じられなかった。
私たちの時代には、一個買いが常識だった。
私たちは、ミカンにせよ、リンゴにせよ、一個、いくらで買っていた。
が、何よりも驚いたのは、男女の関係だった。
大学の構内でも、男女が手をつないで歩き、ときどき抱き合って、接吻をしていた。
金沢大学では、見たこともない光景だった。
すべてが珍しく、すべてが驚きだった。
そのひとつひとつが、私の脳に、強烈な印象を残した。
私はオーストラリアで、生まれてはじめて「自由」というものを知った。
見せかけの自由ではない。
作られた自由でもない。
本物の自由である。
オーストラリアには、それがあった。
同時に、日本には、それがなかった。
その落差には、ものすごいものがあった。
●豊かな生活
オーストラリアは豊かな国だった。
1970年代は、そうだった。
世界でも1、2位を争っていた。
そういうオーストラリアを、オーストラリア人自ら、「ラッキーカントリー」と
呼んでいた。
「それほど働かなくても、豊かな生活ができる」と。
今でこそ、どこの家にもDVDの再生装置があり、大画面で映画を観ることができる。
が、私が友人の家で、映画『アラビアのロレンス』を観たときには、仰天した。
「自宅で、映画を観ている!」と。
当時の日本人には、想像もつかない生活だった。
●ガーデン・シティ
が、それだけではない。
私がいた当時のメルボルン市は、世界でももっとも温暖で、住みやすい都市として
知られていた。
常に偏東風が吹き、夏と冬の気温差も、日本よりはるかに小さかった。
町の3分の1が、公園とも言われていた。
が、3分の1というと、町の中に公園があるというよりは、公園の中に町がある。
そういった感じになる。
だから今でも、メルボルン市のことを、「ガーデン・シティ」という。
車のナンバープレートにも、そう書いてある。
●トロイ・ドナフュー
今回、オーストラリアへ行くのは、そのあと、はじめてではない。
そのあと、何回か行っている。
が、今回はちがう。
意味がちがう。
私は、ワイフを連れていく。
「何だ、そんなことか!」と思う人もいるかもしれない。
しかし私にとっては、聖地。
心の聖地。
友人の取り計らいで、今回は、そのインターナショナル・ハウスに泊まる。
当時は、(現在もそうだろうが)、世界各国からノーベル賞級の学者たちが来ると、
決まってその中にある、ゲストハウスに泊まった。
珍しい人物では、トロイ・ドナフューという映画俳優もいた。
背が高いというより、恐ろしく足の長い男だった。
『ルート66』というテレビ番組に出ていた。
ランチを食べているとき、みながトロイ・ドナフューを見て、こう言った。
「あいつ、トロイ・ドナフューではないか?」と。
そこで仲間の1人が声をかけてみると、「Yes!」と。
彼はあっさりと、それを認めた。
今度は、私がそのゲストハウスに泊まる。
ちょうど42年という歳月を経て、今度は、私がそのゲストハウスに泊まる。
●王子や皇太子
インターナショナル・ハウスは、不思議なカレッジだった。
どのフロアにも、世界中から集まった王子や皇太子たちがいた。
が、慣れというのは、恐ろしい。
私はそこに住んだときから、一度も、彼らの立場を意識したことはない。
相手も、ごくふつうの学生として、私たちと過ごした。
ただ「金持ちだな」と感じたことは、よくある。
中には、いつもパリッとしたスーツを着ていた男もいた。
あるいはいつも、数人の「友」に囲まれていた男もいた。
私はその男の「友」と思っていたが、あとになって、その国の大使館から
派遣された護衛官と知った。
そのことは、別の『世にも不思議な留学記』に書いた。
●私1人、だけ
一方、オーストラリア人たちは、ごくふつうの学生ばかりだった。
それなりに頭のよい学生たちだったが、卒業後の進路は、当時の日本人とは、
それほど違わなかった。
ただ当時から、(今でもそうだが)、日本人がもっているような「大企業意識」
というのは、なかった。
オーストラリアでは、個人プレーが基本。
子どものときから、「独立心」を徹底的に叩き込まれている。
言い忘れたが、カレッジには、200人の学生がいた。
内、100人が、各国からの留学生。
内、100人が、オーストラリア人だった。
日本人の留学生は、私1人だけ。
300万人とも言われたメルボルン市全体でも、私1人だけ。
そういう時代だった。
当時の為替レートは、1ドルが400円。
大卒の初任給がやっと、5万円という時代である。
そのレートで計算してみると、農家の年間収入は、1200万円から1500万円にも
なった。
月額にすると、100~150万円!
日本人の私には、信じられない金額だった。
●北朝鮮
……この話が理解できない人は、こんな計算をしてみればよい。
あの北朝鮮では、労働者の平均給与は、4000~5000ウォンだそうだ。
現在、じゃがいも10キロが、1000~2000ウォン(2011年2月)。
じゃがいもを、20キロ買っただけで、給料が消えてしまう。
その4000ウォンを、アメリカドルに換算すると、実勢レートで、2~3ドルにも
ならない。
日本円で、200~300円。
(月給が、だぞ!)
日本とオーストラリア。
現在の北朝鮮ほどではないが、しかしその間には、はっきりとした「差」があった。
カレッジの一室に、乾燥装置(ビルの1階から最上階まで、いつも温風が、
吹き上がっている)なるものもあった。
それを見たとき、その「差」を強く感じた。
生活の質そのものが、日本人のそれとは、まったく違っていた。
●便器のフタの上で、便!
その一方で、こんな話もある。
コロンボ計画というのが、あった。
アフリカの貧しい国々の学生を、先進国で学ばせるという計画だった。
そのコロンボ計画でハウスに来ていた留学生も、何人かいた。
しかしこの学生が、しばしばトラブルを引き起こした。
たとえば便器のフタの上で大便をする。
大便のあと、便を流さないで、出てくる。
だからトイレには、いつもこう書いてあった。
「Flash after each use(使ったあとは、洗え)!」と。
中には、オーストラリアの生活になじめず、部屋に引きこもってしまうのもいた。
日本も貧しかったが、アフリカの国々は、さらに貧しかった。
●遠くて遠い国
が、そんな私でも、日本がここまで豊かになるとは、夢にも思っていなかった。
当時書いた日記には、こうあった。
「50年たっても、日本はオーストラリアに追いつけないだろう」と。
しかしその日本は、その後20年を待たずして、オーストラリアを追い抜いた。
今度は、その日本を、シンガポールが追い抜いた。……これは余談。
相対的に、オーストラリアの地位はさがった。
今では、オーストラリアへ行っても、私が感じたような「差」を見る人はいない。
日本がオーストラリアぽくなったというよりは、オーストラリアのほうが、
日本ぽくなった。
そんな場面にも、よく出会う。
●修学旅行にオーストラリア
日本人の高校生が、修学旅行で、オーストラリアへ行く。
何百人単位という大人数で行く。
信じられないというより、そういう話を聞くたびに、「本当に、あの国へ?」と
思ってしまう。
私には遠くて、遠い国だった。
今でも、その感覚は残っている。
そう、あのオーストラリアを去るとき、私はこう思った。
「二度と、オーストラリアへ来ることはないだろうな」と。
●グーグル・アース
話はぐんと21世紀の現在に飛ぶ。
最近では、グーグル・アースというサービスを使うと、一瞬にして、世界中、
どこへでも「行く」ことができる。
住所を打ち込めばよい。
するとその地域の家々が、まるで数十メートルの高さから見るように見える。
私はそれを使い始めたとき、一番先に、インターナショナル・ハウスをさがした。
もう4、5年前のことだろうか。
そのときは解像度もそれほどよくなかった。
ぼんやりとした建物でしかなかった。
それでもそれを見たとき、目頭が熱くなり、ついで涙がこぼれた。
で、さらに解像度があがった。
さらに鮮明な画像で、ハウスを見ることができる。
夢の中でしか見ることがなかった、ハウス。
それが今では、居ながらにして、パソコンの世界で見ることができる。
それがよいことなのか、どうかは私にはわからない。
●聖地
こんな簡単に、過去を見ることができるようになると、ありがたみが消えてしまう。
言うなれば、聖地の奥の奥まで、見えてしまう。
だからときどき、こう思う。
「こんなサービスなど、ないほうがいい」と。
夢の中で、探し回るほうが、聖地らしい。
実際、私は若いころ、そういう夢をよく見た。
そこにハウスがあるはずなのだが、なかなかたどりつけない。
やっとたどりついたと思ったら、また別の場所。
そんな夢だった。
……そんなとき、私はいつも夢の中で、涙をこぼしていた。
●決定
私は30歳になる少し前、飛行機事故を経験している。
あのままあの飛行機が、あと100~200メートル先に進んでいたら、
私は死んでいただろう。
そういう事故だった。
以来、飛行機恐怖症になってしまった。
飛行機に乗ることはできるが、旅先で、不眠症になってしまう。
その不眠症に苦しむ。
それもあって、飛行機に乗るのは、特別のばあいだけ。
が、今回はちがう。
その前に、胃ガン検診を受けた。
2センチ大の腫瘍が見つかった。
ドクターは、1~2センチと言った。
で、生体検査。
結果がわかるまで、1週間かかると、ドクターは言った。
その1週間。
いろいろ考えた。
死を身近に感じた。
結果は、シロ。
Group1。
その結果が出たとき、決めた。
ワイフをオーストラリアへ連れていってやろう、と。
●結婚
こんな話もある。
オーストラリアの友人が、こんな内容のメールをくれた。
娘の1人が、結婚することを決意したという。
そのきっかけが、今回の、ニュージーランド地震。
多くの日本人も犠牲になった。
そのとき友人の娘のボーイフレンドも、たまたま仕事で、クライスト・チャーチ
にいた。
かなりあぶなかったらしい。
で、「2人は、結婚することにした」と。
私もそのボーイフレンドに会ったことがある。
それから3年。
別れたり、くっついたり。
それを繰り返していた。
が、その地震で、友人の娘は、本気でそのボーイフレンドを心配したらしい。
俗な言い方をすれば、それで自分の愛を確認したらしい(?)。
友人のメールでは、そこまでは書いてなかった。
しかし私はそう解釈した。
だから返事には、こう書いた。
「ぼくも同じ。ぼくには、2人の気持ちが、よく理解できる」と。
●緊張
しかしやはり緊張してしまう。
どういうわけか、緊張してしまう。
大きな会場で、講演をする前の気分に似ている。
「あれもしなければならない」「これもしなければならない」と。
そんなことばかりを考える。
「飛行機はタクシーより安全」と、人は言う。
しかし私にとって飛行機とは、棺桶のようなもの。
閉ざされた、狭い空間。
金属のかたまり。
それが弾丸にように空を飛ぶ。
今までもそうだった。
が、今回は、ワイフも行く。
だから余計にしっかりと書く。
私は飛行機に乗る前には、かならず、遺書を書く。
遺書を、しっかりと書く。
ひとつだけちがうことがあるとすれば、遺書の相手。
「今度は死ぬときは、いっしょだからね」とワイフに言う。
ワイフはそれを聞いて笑う。
(つづく)
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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