●老人の生き様論
●老人心理(前向きに生きるvs後ろ向きに生きる)
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老人は、老人独特のものの考え方をする。
先の見えない死生観が、ものの考え方に
大きな影響を与える。
が、その考え方を大きく、2つに分けると、
つぎのようになる。
(1)開放型(前向き型)
(2)閉塞型(後ろ向き型)
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●年金で家?
少し前、ある老人(男性)が死んだ。
2年近い、苦しい闘病生活のあとに、死んだ。
何かの難病だったと記憶している。
その様子を、あるテレビ局が取材した。
レポーターが話しかけると、老人の妻が、こう言った。
「2年もがんばってくれたおかげで、娘の家が建ちました」(某テレビ局)と。
つまり2年間生き延びてくれた。
その分の年金で、娘のために家を建てることができた、と。
この話は以前にも書いた。
私のBLOGに、その話を書いた(2009年9月)。
その記事をそのまま紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【損得論】
●損と得
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60歳をすぎて、「損と得」についての考え方が、大きく変わってきた。
「損とは何か」「得とは何か」と。
それをしみじみと(?)、心の中で思いやりながら、
「老人になるというのは、こういうことなのか」と思う。
「老人」といっても、使い古された、老いぼれた人のことではない。
少し照れくさいが、「円熟した人」をいう。
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●何が損か
この世の中で、「損かどうか」を考えること自体、バカげている。
どんなにあがいても、「死」というもので、私たちは、すべてを失う。
この宇宙もろとも、すべてを失う。
「死」を考えたら、それほどまでの「大きな損」はない。
たとえばあなたが地球上の、ありとあらゆる土地を自分のものにしたとする。
北極から南極まで。
一坪残らず、だ。
が、死んだとたん、すべてを失う。
つまり「死」にまさる(?)、損はない。
これには、自分の死も、相手の死もない。
そのため「死」をそこに感ずるようになると、日常的に
経験する損など、何でもない。
損とは感じなくなる。
●「金で命は買えん」
たとえば私の友人の中には、数か月で、数億円も稼いだ人がいた。
その友人は、数年前、死んだ。
莫大な財産を残したが、死んだとたん、「彼の人生は何だったのか?」
となってしまった。
私の母ですら、死ぬ直前、こう言っていた。
「金(=マネー)で命は、買えん」と。
あれほどまで、お金に執着していた母ですら、そう言った。
●得
一方、「得」と思うことも多くなった。
昨日も、秋の空を見たときも、そう思った。
澄んだ水色の空で、白い筋雲が、幾重にも重なって流れていた。
それを見て、「ああ、生きていてよかった」と思った。
ただ「損」とちがって、「得」という感覚は、実感しにくい。
大きな青い空を見たからといって、大きく得をしたとは思わない。
反対に、小さな花を見たからといって、大きな青い空を見たときに感ずるそれに、
劣るということはない。
もちろん私も、金権教にかなり毒されている面もあるから、お金は嫌いではない。
たいていのばあい、金銭的な価値に置き換えて、ものの損得を考える。
たとえば予定外の収入があったりすると、「得した」と思う。
しかし同時に、そこにある種の虚しさを覚えるようになったのも事実。
「だから、それがどうしたの?」と。
●長生き
では、長生きはどうか?
長生きをすればするほど、得なのか、と。
が、これについても、最近は、こう考える。
「それが無駄な生き方なら、長生きしても、意味はない」と。
「生きることが無駄」と言っているのではない。
「どうせ生きるなら、最後の最後まで、意味のある生き方をしたい」と
いう意味で、そう言う。
もちろん、できれば、長生きしたい。
たった一度しかない人生だから、それは当然のこと。
問題は、どうしたら、意味のある人生にすることができるか、ということ。
●今のままで、よいのか
未来は現在の延長線上にある。
とするなら、今の生き方が、未来の生き方になる。
となると、「今のままでいいのか」となる。
今、意味のある人生を送っていない私が、この先、意味のある人生を
送れるようになるということは、ありえない。
言い換えると、今の生き方そのものが、大切ということになる。
「今日」という「今」ではなく、「この瞬間」における「今」ということになる。
「私は、この瞬間において、意味のある生き方をしているのか」と。
●命の換算
この話は前にも書いたので恐縮だが、テレビでこんな人を紹介していた。
ある男性だが、何かの病気で、2年近い闘病生活のあと亡くなった。
その男性について、妻である女性が、こう言った。
「がんばって生きてくれたおかげで、娘の家が建ちました」と。
つまり夫であるその男性が、死の病床にありながらも、がんばって生きて
くれたので、その年金で、娘のための家を建てることができた、と。
私はその話を聞いたとき、「夫の命まで、金銭的な価値に置き換えて
考える人もいるのだなあ」と、驚いた。
まあ、本音を言えば、だれだってそう考えるときがある。
私もあるとき、ふと、こう思ったことがある。
「1年、長生きをして、1年、仕事がつづけられたら、○○○万円、
得をすることになる」と。
しかしこの考え方は、まちがっている。
もしこんな考え方が正しいというなら、私は自分の命すら、金銭的な
価値に置き換えてしまっていることになる。
仕事ができること自体が、喜びなのだ。
収入があるとすれば、それはあとからついてくるもの。
生きる目的として、収入があるわけではない。
●奇跡
さらに言えば、アインシュタインも言っているように、「この世に生まれた
ことだけでも、奇跡」ということになる。
(あなた)という人間が生まれるについても、そのとき1億個以上の精子が1個の
卵子にたどりつけず、死んでいる。
もしそのとき、隣の1個の精子が、あなたにかわって卵子にたどりついていたら、
あなたという人間は、この世には存在しない。
そのことは、二卵性双生児(一卵性双生児でもよいが)を見れば、わかる。
外の世界から見れば、(あなた)かもしれないが、それはけっして、(あなた)
ではない。
他人が見れば、(あなた)そっくりの(あなた)かもしれないが、けっして、
(あなた)ではない。
つまり私たちは、この世にいるということだけ、この大宇宙を手にしたのと
同じくらい、大きな得をしたことになる。
●統合性の確立
若いときは、生きること自体に、ある種の義務感を覚えた。
子育ての最中は、とくにそうだった。
働くことによって収入を得る。
その収入で、家族を支える。
しかし今は、それがない。
どこか気が抜けたビールのようになってしまった。
生きる目的というか、心の緊張感が、なくなってしまった。
「がんばって生きる」とは言っても、何のためにがんばればよいのか。
そこで登場するのが、「統合性」ということになる。
(自分がすべきこと)と、(現実のしていること)を一致させていく。
それを「統合性の確立」というが、この確立に失敗すると、老後も、みじめで
あわれなものになる。
くだらない世間話にうつつを抜かし、自分を見失ってしまう。
そんなオジチャン、オバチャンなら、いくらでもいる。
あるいは明日も今日と同じという人生を繰り返しながら、時間そのものを無駄に
してしまう。
が、その統合性の確立には、ひとつの条件がある。
無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は霧散する。
こんな話を、ある小学校の校長から聞いた。
●植物観察会
ある男性(80歳くらい)は、長い間、高校で理科の教師をしていた。
その男性が、今は、毎月、植物観察会を開いている。
もちろん無料。
で、雨の日でも集合場所にやってきて、だれかが来るのを待っているという。
そしてだれも来ないとわかると、そのまま、また家に帰っていくという。
その男性にとっては、植物観察会が生きがいになっている。
参加者が多くても、またゼロでも構わない。
大切なことは、その(生きがい)を絶やさないこと。
が、もしその男性が、有料で植物観察会をしていたら、どうだろうか。
月謝を計算し、収入をあてにしていたら、どうだろうか。
生徒数がふえることばかり考えていたら、どうだろうか。
同じ植物観察会も、内容のちがったものになっているにちがいない。
つまり、無私、無欲でしているから、その男性の行動には意味がある。
「統合性の確立」というのは、それをいう。
●変化
損か、得か?
それを考えるとき、これだけは忘れてはいけない。
今、ここに生きていること自体、たいへんな得をしているということ。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。
そして損ということになれば、「死」ほど、大きな損はない。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。
つまり生まれたこと自体、大きな得。
死ぬこと自体、大きな損。
私たちは、その得と損の間の世界で、ささいな損得に惑わされながら生きている・
・・・というようなふうに、このところ考えることが多くなった。
私自身が「死」に近づいたせいなのか。
それとも「生」の意味が少しはわかるようになったせいなのか。
どうであるにせよ、「損と得」について、私の考え方が大きく変わってきた。
この先のことはわからないが、人は老人になると、みな、そう考えるようになるのか。
それとも、私だけのことなのか。
どうであるにせよ、今は、自分の中で起こりつつある変化を、静かに見守りたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 老後 損得論 損か得か 自己の統合性 統合性の確立 2年の闘病生活 おかげで 娘の家 建った)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「1円も渡したくない」
冒頭にあげた老人の話は、原稿の内容からして、2009年の9月より、さらに以前の話ということになる。
それはともかくも、その妻の言葉は、老人心理をうまく表現していて、たいへん興味深い。
というのも、このタイプの老人は、たいへん多い。
たとえば、ある老人は、1か月でも長生きをすれば得と考えている。
その分だけ、年金が余計に入るからという。
また別の老人は、反対にそれまでもっていた土地(実家の跡地)を、市に寄付してしまった。
その土地は、現在、「記念公園」になっている。
理由を聞くと、「息子や娘には、1円も渡したくないから」と。
一見、正反対の老人のようにみえるが、中身は同じ。
ものの考え方が、後ろ向き。
つまり閉塞型。
が、こんな話は、どうだろう。
●失う
ある老人(75歳くらい)は、マラソンが趣味。
若いころは、いろいろな大会に出ては、賞を取っていた。
そのこともあって、今でも、毎朝、1~2時間ほど、走っている。
で、こういう話を聞くと、みなこう思う。
「健康のために走っている」「すばらしい老人」と。
しかしその老人のばあいは、中身が、かなりちがう。
その老人は、失うことを恐れて走っている。
つまり「走れなくなること」を恐れて、走っている。
わかるかな?
その中身は、金持ちが金(マネー)を失うのを恐れる心理と、同じ。
……と書いても、一般の人には、なかなか理解できないかもしれない。
●優越感
その老人にとっては、「走れる」ということが、ステータスになっていた。
ちょうど金持ちが、貧しい人を見下すように、それでもって、いつも不健康な人を見下していた。
そしてその分だけ、優越感に浸(ひた)っていた。
「あいつは、もう歩けなくなった」とか、「あいつはもう車いすに乗っている」とか。
その優越感を守るために、毎朝、走っていた。
●老人心理
もちろん、みながみな、そうであるというわけではない。
またそうした損得感や優越感を、「悪」と決めつけて考えるのも、正しくない。
年金を1か月でも長くもらうために長生きするのも、人生。
優越感を保つために、毎朝走るのも、これまた人生。
人は、それぞれの人生を、それぞれの思いをもって生きる。
が、先にも書いたように、老人の心理というのは、若い人たちが考えているより、はるかに複雑。
年季が入っている分だけ、複雑。
一筋縄では理解できない。
……というようなことを、年々、より強く感ずるようになった。
●開放型
では、開放型の老人は、どうか?
それについては、ワイフが今夜、散歩の途中で、私に聞いた。
「どこで見分けるの?」と。
私「簡単だよ」
ワ「どこ?」
私「そのあとに、……だからそれがどうしたの?、という言葉をつなげてみるとわかる」
ワ「どういうこと?」
私「いいか、たとえば毎朝ランニングしている老人がいたとする。そういう老人に、『だから、それがどうしたの?』という疑問を、そのままぶつけてみればいい。前向きに生きている老人のばあい、答が直接、はね返ってくる。そうでなければそうでない」と。
話が、入り組んできたので、話題を少し変える。
●Nothing(虚無)!
イラクのフセイン大統領は死刑になった。
エジプトのムバラク大統領は、失脚した。
もっとも悲劇的だったのは、リビアのカダフィ大佐。
最後は下水管の中で発見され、射殺された。
『すべてをもつ者は、すべてを恐れる』という。
あるいは『すべてをもつものは、失うことを恐れる』でもよい。
へたに余計なものをもっているから、失うことを恐れる。
何も独裁者だけの話ではない。
ある女性(70歳)の口癖は、いつも同じ。
「そんなことすれば、貯金が減る」と。
貯金に異常なこだわりをみせている。
つまり人生も、(もの)と考える。
(もの)と考え、失うことを恐れる。
(反対に、長生きすることを得と考える。)
そういう人は、万事において、生き方が後ろ向き。
表面的な様子にだまされてはいけない。
一方、数は少ないが、「命」を別の人たちに還元しながら生きている人もいる。
そういう人たちは、(失うこと)を恐れない。
自分の命すらも、他人に捧げてしまう。
そういう人を、ここでいう「開放型の人」という。
(ネーミングがあまりよくないかもしれないが、ほかによい言葉を思いつかなかったので、「開放型」とした。)
それを知るために、私は「……だから、それがどうしたの?」という言葉を思いついた。
カダフィ大佐が、すべての権力を手に入れた……だから、それがどうしたの?、と。
そう問いかけてみると、カダフィ大佐のばあい、そのあとに、何も残らないのがわかる。
つまり、Nothing(虚無)!
●「……だからそれがどうしたの?」
わかりやすく言えば、生きる意味を、常に他人と結びつけていくのを、開放型という。
反対に自己満足のためだけに生きている人を、閉塞型という。
どちらがよいかといえば、開放型がよいに決まっている。
が、自分を開放型にするのは、並大抵の努力では、できない。
つまりそこらの、(私も含めての話だが)、凡人には無理。
ほとんどの人は、その一歩も二歩も手前で、その先に進むことをあきらめてしまう。
が、そうであってはいけない。
そこでひとつのヒント。
何かを言ったり、したりしたら、すかさず、「だからそれがどうしたの?」と自問してみればよい。
前向きに生きているときには、そのとたん、ズシリとした答が返ってくる。
が、そうでないときは、そうでない。
スーッとそのまま答がどこかへ消えてしまう。
たとえば……。
新しい車を買った……だからそれがどうしたの?
今夜はおいしいものを食べた……だからそれがどうしたの?
息子がよい大学へ入った……だからそれがどうしたの?、と。
……しかしこれについては、以前にも書いたことがある。
原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
書いた日付はわからないが、No.600となっているから、
10年ほど前(2000年ごろ)に書いた原稿ということになる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(600)
●「xxxx」を読んで……
どういうわけか、ポロッと、古い本が、出てきた。「アレッ」と思って表紙を見ると、20年ほど前に買った、単行本(新書版)だった。
タイトルは、「xxxx」。
そのときは、1ページごとに、頭をハンマーでたたかれるような衝撃を受けた。
著者は、ST。
今まで気づかなかったが、M大学の元学長だったそうだ。
奥付を読みながら、ふと、「今でも生きているのだろうか?」と思った。
ほぼ20年ぶりに、その本を読みなおす。「感動よ、再び……」と思って、読みなおす。が、読めば読むほど、「そうかなあ?」と思ってみたり、「私なら、こう書くのに……」と思ってみたりする。
奥付から計算すると、ST氏が、60歳くらいのときに、書いた本ということになる。
当時は、週刊誌にも連載記事を書くなど、よく知られた評論家だった。
そのST氏の書いたことに、「?」をもつようになったのは、それだけ私に、「私」ができたためか。
それとも、私に、「クセ」ができたためか。
本の内容より、そうした自分自身の変化のほうを知ることが楽しい。
その本は、いわば、私の心のカガミのようなもの。
20年ほど前の私の心を、その中に、映(うつ)し出してくれる。
このところ、ヒマさえあれば、その本ばかり、読んでいる。
(追記)ST氏のことを、ヤフーで検索してみたが、同姓同名が多くて、消息を知ることができなかった。
多分、もう亡くなってしまったのかもしれない。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●目的
目的のない人生は、地図の上で、右往左往するようなもの。
へたをすれば、同じ場所を、ぐるぐると回るだけ、ということになりかねない。
そこで、目的ということになる。
この目的が、その人を、前にひっぱっていく。進むべき、方向を決める。
が、ここで注意しなければ、ならないことがある。
つまり「だからそれがどうしたの?」という部分がないまま、我欲を追求する。
それは、ここでいう「目的」ではない。
たとえば、おいしい料理を食べる。
たとえば、すばらしい高級車に乗る。
たとえば、きれいな服を着る。
そのとき、ほんの一言でよいから、自分に問うてみる。
「だから、それがどうしたの?」と。
ほとんどの人は、その時点で、がく然とするはず。
それもそのはず、ほとんどの人は、ほとんどの時間を、目的など考えないで、過ごしている。
「ただそうしたいから、そうしているだけ」「ただ、そうできるから、そうしているだけ」と。
それが悪いというわけではない。
「生きる」ということは、そうした日常生活の積み重ねの上に、成りたっている。
が、それでは、満足できない。
そこで私たちは、その中から、自分の目的をさがし始める。もう少し、順を追って、説明してみよう。
たとえばA氏は、車に、関心があった。
そしていつか、ドイツのBxx車を買いたいと願っていた。
そこでA氏は、いつもより懸命に働き、そしてお金をためた。
ためて、念願のBxx車を手に入れた。
つまりA氏は、Bxxを買うことを目的とした。
それで働いて、その車を手に入れた。A氏にすれば、A氏の目的を達成したことになる。
その車は、A氏のものになった。
が、この段階で、もしA氏が、自分に、「だからどうしたの?」と、問うてみたとしたら、どうなるだろうか。
毎日、ワックスをかけて、ピカピカにみがくのが楽しい。
毎日、近くの行楽地を走ってみるのが、楽しい。
毎日、知人や友人を助手席に座らせて、ドライブするのが、楽しい。
それはわかる。しかし、それがどうしたの?
昨日、子ども(生徒、小3)たちと、こんな会話をした。
私「おとなになったら、何になりたい?」
A「野球の選手」
私「野球の選手になって、どうする?」
A「有名になって、お金を稼ぐ」
私「お金を稼いで、どうする?」
A[ほしいものを買う]
私「ほしいものを買って、どうする?」
A「(ほしいものが、手に入れば)、うれしい」と。
しかしそれで心の満足は得られるのだろうか。
……と考えたが、それは言わなかった。
私「がんばって、野球の選手になれよ。応援するよ」と。
つまり、こうした我欲の追求は、「目的」ではない。
たとえば織田信長。
今でも、織田信長を信奉する政治家や、実業家は多い。
それはわかる。信長自身は、毛利遠征の途上に逗留した本能寺(京都市)で、家臣の明智光秀に襲われ、自害した。
そのため彼がめざした、天下統一が、何であったのかは、今では、知ることができない。
私の印象では、ただがむしゃらに、殺戮(さつりく)、平定を繰りかえしただけの人物ではなかったかと思う。
信長が、商工業者に、楽市、楽座の朱印状を与え、経済を活性化させたとか、関所を廃止して、流通を自由にしたとかいうのは、あくまでも、自分の野望を完成させるためにした、その結果でしかない。
信長が、日本人全体の、安寧(あんねい)と、幸福を考えて、天下統一をめざしたかというと、そういうことは、ありえない。
いくら歴史書を読んでも、そういう意図が、浮かびあがってこない。
つまり信長も、結局は、明智光秀に自害を迫られるまで、「だからそれがどうなの?」という部分のないまま、生きたことになる。
そこで再び、目的論ということになる。
つまり私たちが「目的」としていることは、実は、目的ではなく、手段にすぎないということ。
そこに気づけば、これらの問題は、解決する。
「Bxxの車を買う」「野球の選手になる」「天下を自分のものにする」というのは、実は、目的にたどりつくための手段にすぎない。
では、目的は何かということになる。
たとえばあのアンネ・フランクは、当時、ただの少女でありながら、こう、看破(かんぱ)している。
We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same.
(私たちは、みな、幸福になるという目的をもって、生きるのよ。みんなの生活は、みな、ちがうけど、目的は、同じよ、と。
つまり、「幸福になるのが、目的」と。
今朝は、ここまでしか書けないが、ギリシャの劇作家のソフォクレスは、こう書き残している。
知恵のみが、幸福の最高の部分である。(Wisdom is the supreme part of happiness. )と。
モノや金ではない。知恵である、と。
私は、このソフォクレスの言葉を、信じたい。
この原稿のしめくくりとして、そしてあえて(?)、自分をなぐさめるために。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●真・善・美
教育に目標があるとするなら、未来に向かって、真・善・美を後退させないこと。
その基盤と方向性を、子どもたちの世界に、残しておくこと。
今すぐは、無理である。無理であることは、自分の過去を知れば、わかる。
若い人たちは、真・善・美を、そこらにころがる小石か、さもなければ、空気のように思っている。
その価値がわからないどころか、その価値すら、否定する。
しかしやがて、その、真・善・美に、気がつくときが、かならずやってくる。
そしてその価値にひれ伏し、それまでの自分の過去にわびるときがやってくる。
そのとき、その子ども(子どもというよりは、人)が、その基盤と方向性をもっていればよし。そうでなければ、その子どもは、まさに路頭に迷うことになる。
「私は何のために生きてきたのか?」と。
そしてやがて、その人は、真・善・美を、自ら、追求し始める。
そのときを予想しながら、子どもの中に、その基盤と方向性を残しておくこと。
それが教育の目標。
+++++++++++++++++++++++++++
【補記】
真・善・美の追求について、私は、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。
ものを書き始めたのが、40歳前後。
それまでは実用的な本ばかりを書いてきたが、「私」を書くようになったのは、そのあとである。
現在、私は57歳だが、本当に、遅すぎた。
どうしてもっと早く、自分の愚かさに気づかなかったのか。
どうしてもっと早く、真・善・美の追求を始めなかったのか。
今となっては、ただただ悔やまれる。
本当に悔やまれる。
もっと早くスタートしていれば、頭の働きだって、まだよかったはず。
どこかボケかけたような状態で、そしてこれから先、ますますボケていくような状態で、私に何が発見できるというのか。
これは決して、おおげさに言っているのではない。
本心から、そう思っている。
だからもし、この文章を読んでいる人の中で、若い人がいるなら、どうかどうか、真・善・美の追求を、今から始めてほしい。
30代でも、20代でも、早すぎるということはない。
今となっては、出てくるのは、ため息ばかり。
どんな本に目を通しても、出てくるのは、ため息ばかり。
「こんなにも、私の知らないことがあったのか」とである。
と、同時に、「後悔」のもつ恐ろしさを、私は、今、いやと言うほど、思い知らされている。
★読者のみなさんへ、
つまらないことや、くだらないことで、時間をムダにしてはいけませんよ。
時間や健康、それに脳ミソの働きには、かぎりがあります。
余計なお節介かもしれませんが……。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●これからの老人像
もう答は出たようなもの。
老人はけっして老人臭くなってはいけない。
後ろ向きになってはいけない。
そういう意味で、老人心理を知るひとつのヒントとして、ここで老人論を考えてみた。
あくまでも私自身の努力目標のひとつとして。
明日こそは、その目標に、少しでも近づいてみよう……ということで、今夜はここまで。
ワイフが横へ来て、「寝よう」「寝よう」と言っている。
高貴な哲学者にでもなったような気分だったが、それが消えた。
私のワイフは、どうしてこうまで俗っぽいのか?
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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