●賢い子ども
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 2011年 1月 23日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【今週から、数の勉強】(年長児)「1~100までの数」
Hiroshi Hayashi+++++Dec.2011+++++はやし浩司
●宇宙人との接近遭遇(冬の夜のロマン、2011年版)
+++++++++++++++++++++
先日、義兄と会ったときのこと。
義兄が、おもしろいことを言った。
「もしね、浩司君、ぼくがね、宇宙人に会ったら、
宇宙船(UFO)を一機、もらえないかと頼んでみるよ。
でね、もらえたら、その宇宙船の構造を徹底的に分析し、
同じものを作るよ。
その技術を、いろいろなものに応用する。
でもね、その技術は、ぜったいに外国には渡さない。
日本だけのものにするよ」と。
++++++++++++++++++++
●「猿の惑星」
「猿の惑星」という映画があった。
あの映画の中の猿は、人間と同等か、それ以上に知恵もあり、賢い。
が、それでも私は、猿の惑星には住みたくない。
「王様にしてやるから、どうか?」と誘われても、断る。
あんな猿たちの上に、最高権力者として君臨したからといって、それがどうだというのか。
何が、楽しいのか。
●野生の猿
もう少し現実的な話をしよう。
私の山荘の近くに、野性の猿が出没するようになって、もう10年になる。
奥のほうで第二東名の建設が進んでいる。
そこから逃げてきた猿たちである。
20~30匹が1つの群れをつくり、その群れが、数組ある。
ときどき群れどうしが、はげしく対立することもある。
あの猿。
山荘のすぐ下の道にまで来る。
が、私たちの姿を見ても、逃げようともしない。
ふてぶてしいというか、堂々としているというか……。
で、あの猿を見ていると、ときどき猿が人間に見えてくるときがある。
しぐさも、表情も、人間そっくり。
反対に人間のほうが、猿に似ていると感ずることもある。
で、そんなとき、ときどき同じことを考える。
猿がある日私のところへやってきて、こう言ったとする。
「林さん、どうか私たちのリーダーになってくれ」と。
……私は、その申し出を、即座に断るだろう。
●猿の世界
猿の世界にも、序列があるらしい。
私にはよくわからないが、研究者の話によれば、ボス猿がいて、一群を率いているという。
で、そのボス猿。
猿の世界でも、威張っているらしい。
たとえばミカンの木を独占するとか……。
メス猿をすべて自分の妻にするとか……。
人間の私から見れば、バカげた世界だが、猿どうしは、そんなふうには考えていない。
逆に、人間の世界をながめてみれば、それがよくわかる。
●権力者
権力者と呼ばれる人がいる。
独裁国家の「長」を思い浮かべれば、よい。
そういう人は、その国のありとあらゆる富を独占する。
で、そういう権力者は権力者で、結構、得意になっているのかもしれない。
「オレが一番、偉いんだ」と。
私にはそういう感覚は理解できない。
が、国家の最高権力者にでもなると、自分が神になったような気分になるらしい。
事実、神のように振る舞う最高権力もいる。
●宇宙人→人間→猿
そこで宇宙人。
宇宙人に登場してもらう。
上下関係で考えるなら、(宇宙人)が(人間)の上。
(猿)が(人間)の下。
並べると、(宇宙人)→(人間)→(猿)ということになる。
つまり宇宙人にすれば、私たち人間を見る目は、ちょうど私たち人間が猿を見る目と同じではないかということ。
で、たとえば宇宙人にこう頼んでみる。
「人間という生物は争いばかりしています。
どうか人間のリーダーになって、人間を指導してください」と。
人間がそう頼んだら、宇宙人は何と答えるだろうか。
恐らくこう答えるだろう。
「断ります」と。
●UFO
ところで少し前、YOUTUBEで、UFOの映像を見た。
この世界も、奥が深い。
長い間、いろいろなUFOの映像を見ていると、偽物か本物か、だいたい区別がつくようになる。
その(だいたい)という部分を、さらにきびしく切り落としていくと、中には、「これは本物」というようなものに出会うときがある。
ポイントは、飛び方というより、その消え方。
私とワイフが見たUFOは、夜空に溶け込むようにして、消えていった。
独特の消え方というよりは、この世のものとは思えないような消え方をしていった。
それが私の脳裏に焼きついている。
私はUFOの映像が本物かどうかを判断するとき、いつもその消え方を見る。
……話は脱線したが、UFOがもつ技術力は、人間がもつ技術力を、はるかに超えている。
恐らく猿が、自動車を見るようなものではないか。
やっと木片を叩くことを覚えた猿に、自動車を作れと言っても、無理。
●願う
で、私はときどきこう思う。
UFOでもよいが、死ぬまでに一度は乗ってみたい、と。
UFOを一機くれなどというような、ぜいたくなことは願わない。
しかし一度だけでよいから、乗ってみたい。
で、そのことをワイフに言うと、ワイフはこう言った。
「それくらいなら、宇宙人も、あなたの言うことを聞いてくれるかもしれないわよ」と。
が、つぎの言葉は、ショックだった。
ワイフはこう言った。
「そう言えば、昔、動物園などでは、子どもが乗る電車を、猿が運転していたわよ」と。
……!
●「差」
宇宙人と人間の差は、どれくらいあるのだろうか。
一説によると、宇宙人は自分たちのDNAを、猿人に移植し、私たち人間を創造したという。
「改造」でもよい。
また宇宙人に会ったと証言する人もいる。
信ぴょう性は低いとしても、そういう人たちの話によれば、姿、形は、私たち人間に似ているという。
目撃例の多い「グレイ」と呼ばれる宇宙人にしても、基本的には人間の姿、形に似ている。
が、知的能力は、どうだろうか。
それについては、私はそれほどないのでは……と思っている。
少なくとも、人間と猿ほどの差はない。
おとなと幼児程度の差ではないか。
●宇宙人の住む世界
逆に考えてみよう。
あなたは月の奥深くに住む、宇宙人である。
月の中心部は、広い空洞になっていて、その中心部には、怪しげな光を放つプラズマ太陽が、輝いている。
人口は、それほど多くない。
せいぜい数十万人程度。
宇宙人たちは、月の内部の内側にへばりつくようにして、生活している。
もちろん住宅もあれば、工場もある。
水もあれば、植物もある。
一説によれば、宇宙人の寿命は、3000年ほどと言われている。
グレイのような宇宙人は、宇宙人の中でも、人造ロボットに近いそうだ。
つまり宇宙人の手下となって働く、奴隷。
ここでいう宇宙人というのは、もっと上位にいる、高度な宇宙人をいう。
そういう宇宙人であるあなたは、はたして地球へやってきて、人間のリーダーになりたいと思うだろうか。
その答は、あなたが猿たちに、「リーダーになってくれ」と頼まれたばあいを想像してみればよい。
答は、「NO!」。
宇宙人にしてみれば、人間など相手にしても、どうしようもない。
●男と女
で、問題は、なぜそうなのか、ということ。
私たち人間は、こう考える。
猿の世界なんかでリーダーになっても、ゼンゼン、楽しくない。
おもしろくない。
なぜだろう?
……その理由のひとつに、男と女の関係がある。
ずいぶんと飛躍した考えに聞こえるかもしれない。
それを説明してみよう。
●AKB48
現在、子どもたちの世界では、AKB48が、たいへん人気がある。
私から見れば、まるで子ども。
またそのAKB48を見て騒いでいるのも、これまた、まるで子ども。
その子どもたちが私のところへやってきて、私にこう頼んだとする。
「私たちのリーダーになってくれ」と。
が、私ならやはり、さっさとその申し出を断るだろう。
またリーダーになっても、意味はない。
それは幼児や小学生に、「先生のこと、好き」と言われるのと同じ。
35歳前後の女性にそう言われたら、私はうれしい。
しかし相手が幼児や小学生では、どうしようもない。
つまり、ここにヒントがある。
「35歳前後の女性」である。
宇宙人や猿には、それがない。
つまりロマンがない。
もっと言えば、種族としての未来がない。
相手が宇宙人や猿では、子孫を残すことができない。
「残すことができない」という部分で、ロマンがスーッと萎えてしまう。
35歳前後の女性が作る、「女の惑星」があれば、私は喜んで、リーダーになるかもしれない。
……なってもよい。
つまり私自身の判断を決めるのは、ここでも「性的エネルギー」(フロイト)ということになる。
先に「男と女の関係」と書いたのは、そういう意味。
●義兄の話
冒頭に書いた義兄の話に戻る。
私が宇宙人なら、自分たちのもつ技術を、人間には与えない。
与えたら、たいへんなことになる。
そうでなくても、人間は強欲で、喧嘩ばかりしている。
そんな人間に、宇宙人がもつ技術を分け与えたら、それこそ地球そのものを破壊してしまうかもしれない。
平和利用というのは、こと人間に関して言えば、絵に描いたボタモチ。
100人の善人がいても、1人の悪人がいたら、それで地球は、おしまい。
だから私は義兄にこう言った。
「もしそんな技術を兄さんが手にしたら、兄さんはあっという間に、国によって抹殺されてしまうでしょうね」と。
●資格
……ということで、結論は出た。
私たち人間は、宇宙人から、高度な技術をもらってはいけない。
たとえ「あげる」と言われても、もらってはいけない。
またそんな程度のことなら、宇宙人も知っているはず。
「人間に高度な技術を与えたら、自分たち(=宇宙人)だって、あぶないぞ」と。
言うなれば、猿に機関銃を渡すようなもの。
つまり私たち人間には、その資格はない。
たしかに人間は、産業革命以来、科学、技術面では、飛躍的な進歩を遂げた。
しかし「心」は、昔のまま。
原始時代のままとまでは言わないが、その時代から、ほとんど進歩していない。
事実、人間の中には、原始人そっくりなのが、いくらでもいる。
携帯電話を片手に、高級車を乗り回しているが、原始人。
こんな状態で、人間がさらに高度な科学や技術をもったら、どうなるか。
それこそこの地球は、おしまいの、そのまた、おしまいになってしまう。
●冬のロマン
毎年秋になると、「秋のロマン」を書く。
が、今年は「冬」?
……実はこのあたりでは、今ごろが秋、まっさかり!
山荘周辺の紅葉も、今が見ごろ。
「冬のロマン」と書きながら、中身は「秋のロマン」。
浜名湖周辺は、照葉樹林帯とも呼ばれ、一年中緑の木々が生い茂っている。
木の種類も、日本一と言われている。
で、このままこの地方は本格的な冬を迎えることもなく、春になっていく。
今朝も寒かったが、それでも気温は9度前後。
書斎には、暖房器具は、いっさい、なし。
脳みその活動には、そのほうがよい。
今朝(2011/12/11)は、『第4種(宇宙人との)接近遭遇』※について、考えてみた。
(注※)(ウィキペディア百科事典より)
●接近遭遇
接近遭遇には、大きく分けて4段階ある。
• 第一種接近遭遇は空飛ぶ円盤を、至近距離から目撃すること。
• 第二種接近遭遇は空飛ぶ円盤が、周囲に何かしらの影響を与えること。
• 第三種接近遭遇は空飛ぶ円盤の搭乗員と、接触すること。
• 第四種接近遭遇は空飛ぶ円盤の搭乗員に誘拐されたり、インプラントを埋め込まれたりすること。また、空飛ぶ円盤の搭乗員を捕獲、拘束すること。
(以上、ウィキペディア百科事典より)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 第4趣接近遭遇 秋の夜のロマン 2011 冬の夜のロマン)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●情報と思考(物知りと賢い子)
数日前、テレビを見ながら、ワイフが何かを言った。
言った内容は忘れた。
テレビの内容も忘れた。
何かを言ったのは、覚えている。
そのとき、つぎのように言った。
「情報というのは、頭の中で反芻(はんすう)し、加工しなければ意味がないよ」と。
つまり情報の一方的な受け入れは、意味がない。
●野球中継
このことは野球中継を見ているとわかる。
たとえば10年前の野球中継を、音声を切った状態でながめてみる。
サッカーの試合でもよい。
(実際に、そういう実験をしたわけではないが……。)
そのときその中継を、10年前のものだとわかる人は、まずいない……と思う。
よほどの野球通でも、わからないだろう。
いわんや、野球中継をたまにしか見ていない人には、ぜったいにわからない。
端的に言えば、10年前の野球中継も、5年前の野球中継も、そして今見る野球中継も、同じ。
情報というのは、そういうもの。
つまり覚えては忘れる。
その繰り返し。
●反芻(はんすう)と加工
手に入れた情報は、一度脳の中で、反芻する。
一方的に受け入れてしまうのは、危険なことでもある。
情報を提供する側に、よいように操られてしまう。
野球中継にしてもそうだ。
興業側の餌にされながら、自分が餌になっていることに、気がつかない。
……思い出した。
ワイフが見ていた番組は、太極拳についてのものだった。
1人の女性が中国本場の太極拳を取材していた。
女優だったかもしれない。
「C式太極拳」の取材だったと思う。
その番組を見ながら、その女性が日本人離れしている体型であることに気づいた。
日本人というより、欧米人。
背が高く、細い体をしていた。
足も長かった。
●スタイル
たまたまその日、別のニュースサイトで、日本の中高校生たちが、細くなっているという記事を読んだ。
「スタイルを気にする若者がふえた」と。
私はその記事のことが頭に残っていたので、その女性を見ながら、こう思った。
「最近の若い人は、こういう体型にあこがれているのだ」と。
その女性は、周囲の中国人とは、明らかにちがう体型をしていた。
が、私が気になったのは、「胸」。
ほかの女性たちは、太極拳をしながら、ユラユラと胸を揺らしていた。
その女性の胸は、大きさは周囲の中国人の女性と、それほどちがわなかった。
しかしまったく、揺れなかった。
……なぜか……ということについては、私にはわからない。
しかしそういう体型が、健康的な体型かというと、私は、そうは思わない。
アジア人にはアジア人の体型がある。
それを無視し、体型を欧米人のそれに近づけようと、無理をすればするほど、健康を害する。
もちろんその女性が、そうというのではない。
が、気にはなった。
●太極拳
さらに言えば、こんな心配もある。
太極拳については知らないが、こうした健康法は、得てしてカルトと結びつきやすい。
オウム真理教を例にあげるまでもない。
オウム真理教は、ヨガと教義を巧みに混ぜ合わせながら、信者を獲得していった。
番組の中でも、指導(?)を始める前に、「老師」と字幕の出た指導者が、(中国語では「老師」というのは、年齢に関係なく、「先生」という意味なのだが)、先祖の墓に参るシーンが出てきた。
「先祖にあいさつしてから、指導する」と。
まさに宗教的行為!
さらに気になったのは、その老師の家での食事。
「日本から来た客(?)」ということで、もてなしをしたのだろう。
テーブルの上には、所狭しと、料理が並んでいた。
しかしよくよく考えてみると、へん(?)。
どうしてその老師は、まったくの素人に近いその女性を、そんなにも歓待するのか。
ふつうなら、そんな歓待はしない。
なぜか?
テレビカメラを背負った人が、そばにいたからなのか。
テレビカメラを背負った人は、どこへでもズカズカと入り込んでいく。
よい例が、NHKの「昼時~~」何とかいう番組。
平気で民家へあがりこみ、ときには、そこに並べてあった昼食までいっしょに食べていく。
が、どうもそれだけではないようだ。
老師は、こう言った。
「日本へも、たびたび(指導に)行っています」と。
それでピンと来た。
宣伝に利用している!
……であるなら、なおさら、疑ってみる必要がある。
こうした健康指導団体は、組織化しやすい。
「法輪功」と呼ばれる教団も、そのひとつ。
組織化が悪いというのではない。
が、どうして組織化するのか。
健康指導団体が、どうして組織化するのか?
(そのC式太極拳がそうであるというのではない。誤解のないように!)
●ウソと本当
こうして番組を見ながら、自分の頭で考え、判断をくだす。
これが「反芻と思考」ということになる。
が、それをしないで、一方的に、「すばらしい」「私もやってみよう」などと、短絡的に行動してはいけない。
中には「天下のBSで紹介されていたから、安全」と考える人もいるかもしれない。
が、NHKがアテにならないことは、今回の3・11大震災で証明された。
「ウソは言わないが、本当のことも言わない」。
●情報に操られる
私たちは知らず知らずのうちに、情報に操られる。
子どもの世界も、また同じ。
1年前のこと。
PSP(ソニーのゲーム機)のソフトで、「モンスター・ハンター・サード(3rd)」が発売になった。
そのソフトについて、予約で買った子どもが、私の生徒の中にも何人かいた。
「中身を確かめてから買ったのか?」と聞くと、「そんな必要はない」と。
「どうして?」と聞くと、「おもしろいに決まっている」と。
子どもたちの世界では、いかに他人より1歩抜きんでるかが、重大事。
1日でも早く先へ進むのが、ステータスにもなっている。
が、そんな子どもたちは、(もちろんそれだけの知恵も経験もないから、しかたないが)、自分たちが情報に操られていることに、気づいていない。
もっと辛辣な言い方をすれば、おとなたちの金儲けの餌になっているだけ。
●では、どうするか
情報を得たら、反芻し、その情報をもとに、自分の思想を組み立てる。
方法はいろいろある。
近くの人と議論するのもよし。
日記風に書きとめるだけでもよい。
さらに言えば、それについて、自分なりの意見をまとめてみる。
こわいのは、情報の渦に、のみ込まれてしまうこと。
それを無批判なまま、脳の中に格納してはいけない。
もし「反芻する時間がない」というのであれば、むしろそういう情報には接しないほうがよい。
そうでなくても、現代社会は、情報にあふれている。
10分、ネットサーフィンしただけで、頭の中が満杯になる。
が、さらにこわいことがある。
情報には、中毒性がある。
●情報中毒
「情報中毒」について、以前、こんな原稿を書いたことがある。
日付は、2007年10月になっている。
●情報、過剰社会(2007年10月に書いた原稿より)
++++++++++++++
いつも音を聞いていないと、
落ち着かない……とまあ、
そんな人は多いですね。
何かの雑誌に書いてあったので
すが、日本では、エレベーターの
中、バス停でも、音声ガイダンス
が流れますね。それについて、ある
外人が驚いていたそうです。
日本人には、静かな環境で、静かにものを
考えるという習慣そのものがない?
あるいは、日本人は、静かに
ものを考えるという習慣そのものを
放棄してしまったのかもしれません。
情報、また情報。
情報の洪水の中で、情報が途切れたとたん、
不安になってしまう?
よい例が、バスガイドのガイドです。
聞いてもすぐ忘れるような情報を、
つぎからつぎへと流す。
またそれをもって、サービス?、と
誤解している。
どこかおかしいですね。
++++++++++++++
●情報の洪水
先日、パソコンで、メモリー診断をしようと思いついた。VISTAには、メモリー自己診断ツールが標準でついている。以前には、何度か使ったことがある。
が、である。その何度か使ったはずのツールがどこにあるかわからない。あちこちをさがしてみたが、結局は、見つからなかった。その説明をしてある雑誌をさがしてみたが、その雑紙もどこかへ、なくしてしまった。
たった数か月前にできたことが、できない? 私は改めて、脳みその底にできた(穴)に驚いた。私たちは情報の洪水の中で生きている。それはわかる。が、一方で、その情報は、容赦なく、脳みその底にできた(穴)から、外へ流れ出てしまう。
情報の洪水は、つぎつぎとやってきて、またどこかへ消えていく。脳みその中に残る情報というのは、ほんとうに少ない。その少ない情報も、時間とともに、どこかへ消えていく……。
●情報中毒
いつも情報にさらされていないと落ち着かないという人は、多い。情報の流入が途切れたとたん、不安になるらしい。少し前まで、私の母がそうだった。
実家に行くたびに、テレビはガンガンとかけっぱなしだった。私がそれを止めようとすると、母は、がんこに抵抗した。「見ていないのだからいいだろ?」と言っても、母は納得しなかった。母は、テレビの音が聞こえていないと、落ち着かなかったのだ。
こういうのを、「情報中毒」という。意味のある情報とか、ない情報とか、そういうことは、考えない。選択することもない。料理番組、健康番組、ニュース……まさに、何でもござれ。そういう情報を、つぎつぎと脳みその中に入れ、また出していく。
何かの雑紙に書いてあったが、日本へ来た外人が、こんなことに驚いていた。日本では、エレベーターの中、バス停にすら、音声ガイダンスがある、と。その記事を最初に読んだときには、「どうして?」と私は、思った。「どうして、そんな程度のことで、驚いたのか?」と。
少し前、観光バスで、オーストラリアの友人夫妻を長野県のほうへ連れていってやったのだが、そのときも、そうだった。オーストラリアの友人夫妻は、情報の洪水に驚いていた。バスガイドが、間断なくしゃべりつづけていたからだ。それにどこの観光地へ行っても、ガイド、ガイド、またガイド。「右に見えますのが~~山、左に見えますのが、~~湖」と。
一度、情報中毒にかかると、情報なしでは、落ち着かない。つまり音が聞こえていないと落ち着かない。
●情報と思考
何度も書くが、(情報)と(思考)は、まったく別のもの。情報量が多いからといって、その人に思考力があるとはかぎらない。たとえていうなら、幼稚園児が、かけ算の九九を暗記して口にするようなもの。それができたからといって、「算数ができる子ども」ということにはならない。
しかしほとんどの人は、幼児が、かけ算の九九を口にしただけで、「算数のできる子ども」と思い込んでしまう。しかしそれは誤解。まったくの誤解。
同じように、バスガイドが、観光地にまつわる歴史的な話をしても、だれも、そのガイドが、歴史のプロだとは思わない。(思う人もいるかもしれないが……。)どうせどこかのガイドブックに出ていたような内容を、丸暗記しているだけ(失礼!)。
先日も、紀伊半島のほうへ行ったときも、織田信長ゆかりの地を、あちこち回った。そのつど、ガイドは、もの知り顔に、あれこれ説明してくれた。が、どれも、まちがいだらけ。しかしそういう話を聞いて、質問する人は、いない。かけ算の九九を暗記している幼児に向かって、その意味を問いただしても意味はない。それと同じ。
●考えるという習慣
考えるという習慣のない人に、(考える)ことの重要性を説いても意味はない。(考える)という意味すら、理解できない。できないばかりか、情報の量をもって、つまりもの知りであることをもって、「私は頭がいい」と思いこんでいる。
しかし重要なのは、(考えること)。さらに言えば、(考えるという習慣)。
たとえば健康を維持するため、毎朝、ジョギングしている人がいる。毎日の運動が、健康にとっていかに大切であるかを、そういう人たちは知っている。運動をした日と、しない日とでは、体の調子はまるでちがう。運動したあとには、体の細胞のひとつひとつが、ピチピチとはじける音すら、感ずる。
しかしそういう習慣のない人に、運動の大切さを説いても意味はない。ないばかりか、たとえばテレビの健康番組に流されるまま、「酢がいい」と聞けば、酢を買い、「ニンニクの焼酎漬けがいい」と聞けば、自分でそれを作ってみたりする。無駄とは思わないが、そのつど情報に振り回されているだけ。
同じように、重要なのは、(情報)ではなく、(それを選択し、加工するという習慣)である。
●考えさせない社会
日本の社会は、騒々しい。ほんとうに騒々しい。どこへ行っても、騒音、また騒音。情報の洪水、また洪水。
また観光バスの話にもどるが、うるさいのはガイドだけではない。静かな人も多いるが、その一方で、おしゃべりな人も多い。バスに乗っている間中、となりの人と、ペチャペチャと間断なくしゃべっている。概してみれば、女性に多いが、男性にもいる。
話している内容といえば、たわいもない世間話。あるいはその繰りかえし。私はそういう人たちを見ながら、「こういう人たちは、どこでものを考えているのだろう」と思う。「あるいは、どこでそういう時間をもっているのだろう」とも。
もっと言えば、日本の社会構造そのものが、そうなっている。つまり、人が静かにものを考えるという社会構造になっていない。さらにもっと言えば、教育の段階で、ものを考える子どもを育てていない。
●情報の選択
だからといって、情報が無駄であると言っているのではない。良質で、適確な情報は、思考の基盤となる。その情報に上に、私たちは自分の思考を組み立てることができる。
そこで私たちがすべきことは、情報の選択。洪水なら洪水でもよい。しかしその中から、情報を選択していく。たとえて言うなら、無数の絵画の中から、名画と、そうでないものを選ぶのに似ている。これはそれほどむずかしいことではない。ほんの少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。
私自身は、つぎのようにして選択している。
(1) その人自身の言葉であるか、どうか。
(2) その人自身が、どういう思想的背景をもっているか。
(3) その人自身が、どういう経験をしているか。
(4) その人自身が、どういう経緯で、その情報を手に入れたか。
(5) 普遍性はあるのか。視野の広さはどうか、公正であるか、など。
つまりその人自身の言葉でないと、意味がないということ。その人自身を見て、判断するということ。
当然のことながら、苦労に苦労を重ねた人の言葉は、重い。意味がある。そうでない人の言葉は、そうでない。人生も永遠なものであれば、無駄な情報も、それなりに生きることを楽しくしてくれるかもしれない。しかし今は、もうそうではない。今さらパチンコの攻略本を読んで、それを応用してみようなどという気持ちには、とてもなれない。
●生きるということは、考えること
人は、考えるから、人である。考えない人は、人というより、サル。だからといって、サルが人より劣っているというのではない。サルのほうが、ひょっとしたら、人間より考えているかもしれない。幼児だって、そうだ。
私たちは、幼児イコール、幼稚と考えやすいが、これはとんでもない誤解。幼児は幼児なりに、懸命に考えている。そういう幼児に出会うと、心底、感動を覚える。ずいぶんと前のことだが、こんなことがあった。
ある日、幼稚園へ行くと、1人の子ども(年長男児)が、地面を掘っていた。「何をしているの?」と聞くと、その子どもは、こう言った。「石の赤ちゃんをさがしている」と。
その子どもは、石は、土の中で生まれるものと思っていた。だから地面を掘れば、石の赤ちゃんがそこにあると思っていた。その幼児は、その幼児なりに、懸命にそう考えて、穴を掘っていた。
レベルの問題ではない。たしかに私たちおとなから見れば、幼稚(?)な行動かもしれないが、そこに、私は、生きる価値を見た。もしそれを否定するとなると、つまり私たち自身も、否定されることになる。
人間にしても、まだ進化の過程にある。1000年後、あるいは1万年後の人たちが、現在の私たちを見て、幼稚だと思うかもしれない。しかしだからといって、それを批評することは、許されない。それを許すということは、とりもなおさず、私たちが、私たち自身を否定することになる。
私たちは私たちで、懸命に生きている。考えている。内容は幼稚かもしれないが、そこに人が生きる価値がある。それがわからなければ、ここに書いた幼児を頭の中で、もう一度、想像してみてほしい。
●考えることのすばらしさ
ところで考えることは、宝さがしに似ている。ひとり荒野の中を歩いている。そこで小さな宝石を見つけるのに似ている。小さな宝石かもしれないが、キラリと輝く。それを見つけたときは、うれしい。ほんとうに、うれしい。
が、考えることは、けっして、楽な作業ではない。難解な数学の問題を前にして、その問題を解くようなもの。考えることには、苦痛や苦労がともなう。しかもその問題は、必ずしも、解けるとはかぎらない。解答用紙もない。
だからできるなら、考えないですませたいと思う。もっとも手っ取り早い方法は、宗教なら宗教に身を寄せること。思想をだれかに注入してもらうこと。しかしそれは同時に、その人の「死」を意味する。
パスカルの言葉を借りるまでもなく、たとえか弱く、細いアシであっても、人は、自らの足で立ち上がる。そこに人が生きる意味があるし、気高さも、そこから生まれる。しかし、その価値はある。
考える人からは、考えない人がどういうものか、よくわかる。反対に考えない人からは、考える人がどういうものか、わからないだろう。だからいって、私がその考える人というわけではない。つまりは相対的な立場でしかない。
私よりものをよく考える人は、いくらでもいる。そういう人たちから見れば、私など、何も考えない部類の人間でしかない。しかし一度、考える習慣を身につけると、それまで見ていた世界が一変する。
それは山登りに似ている。下から見ると低く見える山でも、登ってみると、意外と視野が広いのには驚く。そのすばらしさは、山に登ったことがある人でないとわからない。
同じように、考えることによって、だれでも、思考の山に登ることができる。そしてその視野の広さに驚くことができる。
さあ、あなたも勇気を出して、考えてみよう。あなたも、きっとそのすばらしさを、実感するはず。……という結論で、この話は、おしまい。
(以上、2007年10月記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●再び、2011年12月(現在へ)
2007年に書いた原稿を、今、こうして読み直してみる。
内容的には、それ以前に、あちこちで書いたものを寄せ集めただけの原稿である。
で、ここが重要だが、そういう原稿を4年前に書きながら、ではその私は、この4年間で、4年分の進歩をしたかということ。
答は、「NO」に近い。
ただ情報を一方的に受け入れることだけは、2007年の当時も、今もしていない。
繰り返しになるが、あの3・11大震災を契機に、私は情報のもつ恐ろしさというか、洗脳されることの恐ろしさを、いやというほど、思い知らされた。
政府にせよ、NHKにせよ、「ウソは言わないが、本当のことも言わない」。
その(本当のことも言わない部分)で、私たちは日々に少しずつ、洗脳されていく。
すでに今ですら、「原発事故は片づいた」と考えている人は多い。
少し前だが、中学3年生のOさんですら、そう言った。
学年でもトップクラスの成績を収めている子どもである。
私「何も片づいていないよ」
O「ウッソー!」
私「あのね、被害が出てくるのは、これからだよ。チェルノブイリでも被害が出始めたのは、2年後から5年後。10年後にピークを迎えた。現在の今でも、チェルノブイリでは被害がつづいているよ」
O「今でも……?」
私「今でも、だ。そのとき汚染された子どもが母親になり、その母親が子ども産む。その子どもに症状が現れている」と。
不必要に心配することはない。
しかし必要以上に安心するのも、よくない。
今、「もう片づいた」と考えている子どもがいること自体、私たちが情報に操作されていることを示す。
もろもろのどうでもよい情報の洪水の中で、思考力そのものを失っている。
つまり、それが、コ・ワ・イ。
●最後に
ここに書いたことを参考に、(物知りな子ども)と、(賢い子ども)について考えてみてほしい。
遠回しな言い方をしたが、このエッセーで書きたかったことは、この1点に尽きる。
情報が多いことイコール、思考力があるということではない。
情報と思考は、まったく別のもの。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 情報と思想 情報中毒 思考力 反芻と思考 はやし浩司 物知り もの知り 賢い子ども 考える子ども はやし浩司 情報の反芻 はやし浩司 思想と情報 はやし浩司 情報論)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●はやし浩司 2011-12-10夜記(映画・リアル・スティール、ほか)
++++++++++++++++++
今夜は、映画『Real Steel(リアル・スティール)』を観てきた。
土曜日ということで、劇場内は、かなり混んでいた。
内容は、ロボットどうしの闘い。
結構、おもしろかった。
どこか『ロッキー・ザ・ファイナル』を思い起こさせるような映画だった。
最後のシーンでは、かなり涙が出た。
星は4つの、★★★★。
(最近は、映画の採点が甘くなったような記がする。
イコール、何かにつけ、涙もろくなった。)
++++++++++++++++++
●クリスマス・プレゼント
アメリカに住む孫たちに、クリスマス・プレゼントを送った。
合計で、5個になった。
最初の2個は、孫たちがほしがりそうなもの。
つづく3個は、使わなくなったパソコンとか、ゲーム機、それにカメラなど。
2年ほど前に買ってやったゲーム機を、まだ大切に使っている様子。
それを聞いて、ジー様の私としては、胸にジンときた。
それで今年は、5個も送った。
あとはクリスマス前に届くことを、願うばかり。
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●善と悪
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「この世の中には、4割の善と4割の悪がある」。
すべてが善ではない。
すべてが悪でもない。
が、悪もある。
その割合は、それぞれが4割前後ではないか?
……ということで、私は以前、「4割の善と4割の悪」という
エッセーを書いた。
中日新聞に載せてもらった。
が、この「4割」という数字は、けっして出任せではない。
こんな話を聞いた。
+++++++++++++++++++
●300円
よく道路沿いで、野菜や果物などを売っている。
無人の販売所で、それを買う人は、100円とか200円を貯金箱のような箱に入れて買う。
私もよく利用させてもらう。
このあたりだと、秋になると、ミカンを売るところが多い。
そういう販売所を出している人に、Kさんという人がいた。
昨年亡くなったが、山荘の造成では、たいへん世話になった。
自宅の周辺に、ミカン園ももっていた。
そんなKさんに、ある日、こう聞いた。
もう20年前近くも、前のことである。
「たとえば1000円分の果物を並べておくと、実際にはいくら、みな払っていきますか」と。
するとそのKさんは、すかさずこう言った。
「700円くらいだよ」と。
つまり料金をごまかしていく人が、(300円分)いる、と。
私が驚いていると、「車の通りの少ないところでは、600円くらいかな」とも。
それで私は「4割」という数字をはじき出した。
30~40%が、料金をごまかしていく!
●善悪論
もっとも何を善といい、何を悪というか。
その判断は、むずかしい。
きわめて観念的な概念で、定義づけることは、不可能。
あえて言うなら、みなが常識と思っていることの中に、善はある。
みなが非常識と思っていることの中に、悪がある。
が、だからといって、その常識が正しいとはかぎらない。
非常識がまちがっているとはかぎらない。
12年ほど前に書いた原稿を探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【四割の善と、四割の悪】
子どもに善と悪を教えるとき
●四割の善と四割の悪
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。
その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。
ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。
●子どもの世界だけの問題ではない
子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。
私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。
「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。
●悪と戦って、はじめて善人
よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。
(参考)
子どもたちへ
魚は陸にあがらないよね。
鳥は水の中に入らないよね。
そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな、知っているからね。
そういうのを常識って言うんだよね。
みんなもね、自分の心に
静かに耳を傾けてみてごらん。
きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
してはいけないこと、
しなければならないこと、
それを教えてくれるよ。
ほかの人へのやさしさや思いやりは、
ここちよい響きがするだろ。
ほかの人を裏切ったり、
いじめたりすることは、
いやな響きがするだろ。
みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
あとはその常識に従えばいい。
だってね、人間はね、
その常識のおかげで、
何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
これからもその常識に従えばね、
みんな仲よく、生きられるよ。
わかったかな。
そういう自分自身の常識を、
もっともっとみがいて、
そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●善と悪
要するに、善と悪と、2つに区別することのほうが、まちがっている。
とくに善人と悪人を区別することのほうが、まちがっている。
善も悪も、紙一重。
善人も悪人も、紙一重。
同じ善(善人)でも、見る人がちがえば、悪(悪人)に見えることがある。
同じ悪(悪人)でも、見る人がちがえば、善(善人)に見えることがある。
だから私たちはそのつど常識をみがき、その常識に従って生きていくしかない。
それを決定づけるのが、(思考)(思索)ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 善と悪 善悪論)
Hiroshi Hayashi+++++Dec.2011+++++はやし浩司
●経済ニュース
またまた素人の経済論。
1週間ほど前、オーストラリアの友人からメールが届いた。
「金(ゴールド)は、買うべきか、どうか」と。
私は「今は、時期が悪い。2、3か月待て」と返事を書いた。
が、けっして憶測でそう書いたのではない。
長い間、貴金属の動向をながめていると、その動きがおおかた予想できるようになる。
理由の第一。
高騰のし過ぎ。
いくらリスクオフ資産とはいえ、現在の価格はメチャメチャ。
金(ゴールド)のほうが、プラチナよりも高い。
あんな延べ棒1キロ分だけで、TOYOTAのプリウスが1・5台も買える!
理由の第二。
資産の現金化が始まっている。
現金(キャッシュ)が、市場で回らなくなっている。
その分だけ、投資家は金(ゴールド)を売って、現金(キャッシュ)を手に入れようとする。
ふつう、経済が不安定になると、金(ゴールド)のような現物資産に、お金(マネー)が集まる。
が、今は、その逆。
みなが一斉に金(ゴールド)を売り始めた。
資産を現金化し始めた。
つまり金(ゴールド)の価格が急降下し始めた。
年末まで、この状態はつづく。
ともあれ、毎日ハラハラするようであれば、その金融資産は手放したほうがよい。
健康にもよくない。
●オーストラリア経済
ついで「株はどうか?」と。
その友人は、どこかのレアメタル採掘会社の株をもっているという。
株価は今まで上昇してきた。
現在も、安定している。
だから「どうしたらいいか?」と。
が、私はオーストラリア経済については、ほとんど知らない。
知らないが、私の経済論は、単純。
たとえば自動販売機で売っているペットボトルの値段を見て、それを知る。
つまり為替相場を知る。
現在、オーストラリアでは、日本で120円前後で売られているペットボトルが、3ドル50セント前後。
量は、日本のそれの約1・5倍。
それで計算すると、実勢レートは、120x1・5=180円=3・5ドル。
つまり1豪ドル=51円。
51円が、実勢レート。
(180÷3・5ドルで計算。)
現実には、1豪ドル=78円(12月16日現在)で取り引きされている。
51円の価値しかないものを、78円で取り引きされている。
つまり豪ドルは、まださがる。
加えて、オーストラリアの10年もの国債の利回りは、現在、3・786%。
この利率は、ニュージーランドの3・783%よりも、悪い。
フランスの3・036%よりも、悪い。
もう少していねいにみると、こうなる。
『……オーストラリアの輸出は、2010年後半は前年比で30%を超える高い伸びとなっていた。
が、2011年以降は豪州の洪水被害による石炭の輸出減や、3・11大震災による対日輸出などが減少し、2011年6 月には前年比+1・6%まで急減速した。
直近9月はそういった供給サイドの要因が剥落してきたことから、前年比+17・2%まで伸びが拡大している。
ただ、今後は9月から11月にかけて鉄鉱石の中国向けスポット価格が、3割程度急落しており、そういった影響が顕在化していくとみられる。
中国が12月に入って預金準備率の引き下げなど金融緩和に動いているものの、中国や欧米など世界景気の減速が2012年前半にかけて続くことから、輸出は当面、軟調な展開が想定される』(以上、MIZUHOリサーチ・要約)と。
こうした事実から、現在、オーストラリア政府は、豪ドルを何とか強く見せようと無理をしているのが、わかる。
わかりやすく言えば、化粧で、元気ぽく見せかけている。
が、長くはつづかない。
つまり豪ドルは、やがてドスンとさがる。
そのとき株価も、ドスンとさがる。
だから友人にはこう書いた。
「今、利益が出ているなら、現金に換えたほうがいい。株価がさがったとき、また買い戻せばいい」と。
どうであるにせよ、こういうときは、素人は株や債権には手を出さない方がよい。
素人が手を出せば、(私も含めてだが)、やけどを負うに決まっている。
すでにこの日本では、95%の一般投資家が、損をしているという(某経済誌)。
95%だぞ!
で、この「95%」という数字をどう読むか。
読み方にもいろいろある。
が、こうも読める。
「金融資産の95%を失った人もいる」と。
事実、私はそういう人を、何人か知っている。
なお株や債権がさがりはじめると、たいていの投資家は、「塩漬け」を決め込む。
が、これがますます墓穴を深くする。
気がついたときには、10分の1、あるいは20分の1になっている。
だからプロの投資家はこう教える。
「10%の損失を出したら、損切りをしろ」(某経済誌)と。
この鉄則は、私が商社マンだったころの40年前と、何も変わっていない。
それに一言。
株や債権で損をしても、だれも同情してくれないぞ。
助けてくれないぞ。
ただ笑われるだけ。
私ごとで失礼。
私は3・11の大震災直前に、株はすべて売り逃げた。
8月はじめのアメリカの債務上限問題直前に、債権はすべて売り逃げた。
債務上限問題のときは、おおかたの予想では、「追いつめられたアメリカは、結局は債務上限を棚上げにせざるをえない」「そのあと同時に株価は上昇するだろう」となっていた。
債務上限は棚上げにされたが、しかし直後、逆に全世界の株価は大暴落した。
EUの金融危機問題が発生した。
●貪欲
総じてみれば、今の世の中、狂っている。
みな、必要以上に貪欲になるから、こういうことになる。
みなが、みな、あるところで一線を引き、「これ以上は不要です」と言えば、こういうことにはならない。
が、現実は、そうではない。
「もっと欲しい」「さらに欲しい」と。
貪欲の追求こそが善であると、思い込んでいる。
それが世の中を狂わせる。
わかりやすく言えば、「だからそれがどうしたの?」という部分がないまま、人間はみな、今、暴走状態にある。
高級ワインを飲んだ……だからそれがどうしたの?……コンビニの120円チューハイでいいじゃないの?
高級な衣服で身を飾った……だからそれがどうしたの?……本当の美しさは健康から生まれるんじゃないの?
高級な車で買い物に行った……だからそれがどうしたの?……歩いて行ったほうが、体のためにもいいんじゃないの?
今、私たち人間に必要なのは、ほどほどのところで満足するという哲学。
欲望をコントロールする理性。
それを支える思考力。
それがないから、富や権力の偏在が起こる。
それが弱者をたたきのめす。
社会を不安定にする。
今朝は、経済問題を取りあげながら、別の心でそんなことを考えた。
これからもう一度、布団の中にもぐりこむ。
あの臭気が消えていることを願いながら……
2011/12/17朝記
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
心の別室論については、たびたび書いてきた。
原稿を探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●心の別室と加害意識
(Another Room in the Mind and Consciousness of Guilty)
2009年4月に発表した原稿より。
++++++++++++++++++++
カレー・ヒ素混入事件で、現在無実を争って
いる女性が、HM。
地下鉄サリン事件で、これまた無実を争って
いる男性が、OS教のMT。
現在刑事裁判が継続中なので、これらの人たちは
無実という前提で、ものを考えなければならない。
どんな被告人でも、有罪が確定するまで、推定無実。
カレーにヒ素を混入させたのは、別人物かも
しれない。
地下鉄サリン事件には、MTは関与していなかった
かもしれない。
そういう可能性が、1000に1つ、万に1つでも
あるなら、これらの人たちは、無実。
そういう前提で、ものを考えなければならない。
が、同じ無実でも、いまだに納得できないのが、
あの『ロス疑惑事件』。
Kさんの殺害現場に、一台の白いバンがやってきた。
そのバンが走り去ったとき、Kさんは、殺されていた。
Kさんのそばには、MKがいた。
白いバンは、近くのビルにいた男性たちによって
目撃されている。
MK自身が撮った写真の中にも、白いバンの
一部が写っている。
しかしMKは、「白いバンは見ていない」と。
そのMKは、ロス市警へ移送されたあと、留置場の中で
自殺している。
MKは無実だったのか?
無実だったのなら、自殺などしないで、最後の最後まで
闘ってほしかった。
どうもこの事件は、すっきりしない。
どう考えても、すっきりしない。
++++++++++++++++++++
●心の別室論(Another Room in the Mind)
人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、
そこへ押し込めてしまうという習性がある。
心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつ
と考えられている。
その防衛機制は、つぎの7つに大別される。
(1) 抑圧
(2) 昇華
(3) 同一化
(4) 投射
(5) 反動形成
(6) 合理化
(7) 白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)
この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを
無意識の中に閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」
という。
つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことを
いつまでも覚えている」と言われる。
(そう言っているのは、私だが……。)
この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは
忘れやすいという心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。
が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。
たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、
心配」「従順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われている。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。
これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ
従順だったことがわかる。
世間を騒がす、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。
話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、
仮面をかぶっているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。
このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。
よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、
20年前、30年前の話を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。
心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、
それは仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。
私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。
そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、
私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、
わからなくなるときがある。
ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、
重篤なケースもある。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。
ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、
カギをかけてしまっている(?)。
しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)
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