ジジババ・ゴミ論(2)
【第4章】
●格安ホテル
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今日は、日曜日。
といっても、今朝は、何と朝帰り。
昨夜は、近くの浜名湖ロイヤルホテルに一泊。
ワイフと息子と、それに私の3人で
泊まった。
1名、1泊、3000円+入湯税。
ただし食事なし。
が、20畳以上もある広い部屋。
洋室。
当日の朝、旅行会社のHPを、チェック。
部屋に空きがあると、格安で泊めてくれる。
この方式は、あのLCC(格安航空会社)の
それと似ている。
EUでは、みな、こうして飛行機に乗っている。
ネットをチェックしながら、格安航空をさがす。
離陸直前ほど、料金が安くなる。
ばあいによっては、パリから地方空港まで、
300円で乗れることもあるという(Sさん)。
ただし満席になると、そこでストップ。
飛行機にしても、ホテルにしても、空席や
空き室をつくるよりは、そのほうがよい。
平たく言えば、従業員を遊ばせておくよりは、
よい。
一方、私たちには、あの豪華な料理は必要ない。
簡単な食事でよい。
のんびりと温泉に入れれば、それでよい。
それで満足。
ホテルに泊まれば、食事前、就寝前、それに早朝の
3回、温泉に入れる。
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●ホテルにて
いつもなら私はパソコン相手に、キーボードを叩く。
が、このところ、(……といっても、この数日のことだが)、どうも気が重い。
書きたいことはいくつかあるのだが、頭の中が整理できない。
整理できないというより、ぼんやりとしていて、「形」にならない。
……というわけで、昨日は、数年ぶりにプラモデル屋を訪れてみた。
ドイツのタイガー戦車の模型を買ってみた。
子どものころは、よく作って遊んだ。
あとはPSP(ソニーのポータブル・ゲーム機)。
現在は、「将棋・ゲーム」にハマっている。
クラス分けのリーグ戦があり、現在S1クラスの15位。
Cクラスから始まり、Bクラス、Aクラス、S1へと勝ち進む。
今のS1クラスを制覇すると、つぎは……?
何かあるはず。
ワイフは、「ボケ防止にはよいかもね」と言う。
私も、そう思う。
が、たかがPSPとあなどってはいけない。
結構、強い。(=私が、弱い?)
昨夜は、そんなわけで私はベッドの上で、PSPと格闘していた。
ワイフはDVDを観ていた。
息子は、タイガー戦車を組み立てていた。
それぞれの土曜日。
土曜日の夜。
●将棋
将棋というのは、集中力のゲーム。
集中力が途切れたとき、スキを作る。
そのスキを、すかさず、相手(コンピューター)が突いてくる。
おもしろくないのは、ヘマをしないこと。
相手が人間のときは、ヘマをしてくれる。
それがおもしろい。
が、コンピューターはヘマをしない。
だからおもしろくない。
もちろん弱点もある。
負け戦になると、自滅的な戦法に出てくる。
相手が人間なら、途中で投了ということもある。
コンピューターは、投了するとしても、最後の最後。
それに思考ルーチンが同じなのか、繰り返し、同じ手を使ってくることがある。
それを繰り返していると、相手方(コンピューター)に、駒がなくなってしまうことが
ある。
こういうとき人間なら、1回でやめ、別の手を考える。
同じ手を使って、駒を失うのは、まずい。
が、コンピューターには、そういう判断ができない。
また「王将」を左右交互に動かしていると、つまり時間稼ぎをしていると、
やはり思考ルーチンに従って、どんどんと駒を前に進めてくる。
そのとき相手方(コンピューター)に、スキが生まれる。
私はそこを突けばよい。
が、クラスがあがるごとに、たしかに強くなっていく。
Cクラスのときは、こちらが駒を動かすと、すかさず相手方(コンピューター)も
駒を動かした。
ほとんど考えていない。
が、Aクラスになると、反応が鈍くなる。
S1クラスになると、さらに鈍くなる。
時に10~15秒ほど考えてから、駒を動かしてくる。
つまりそれだけコンピューター側も、考えているということ。
ワイフは「囲碁もしたら?」と言ってくれる。
Sクラスをクリアしたら、つぎに囲碁に挑戦してみる。
学生時代は、下宿で囲碁ばかりしていた。
楽しみ。
●HD(ハーディスク)交換
またまたHD交換に挑戦している。
数か月前、何度目かに挑戦し、失敗した。
で、昨日、新しい交換ソフトを購入。
しかしそれでも途中で、STOP。
原因がわからない。
理由もわからない。
で、このあと、つまり今日の午後、もう一度、挑戦してみる。
うまくできても、4~5時間はかかる。
やってみるしかない。
で、なぜ今、HD交換か?
ご存知の方も多いと思うが、HDも、時として故障する。
寿命もある。
そこで古いHDを、新しいHDに丸ごとコピー。
そのあとHDを交換する。
古いHDをそのまま保管しておけば、(新しいHDでもよいが……)、HDに何かトラブルが起きたようなとき、ハードディスクを取り替えることで、トラブルを回避することができる。
つまり安全策。
パソコンとつきあうときは、いつもファイルの保存に心がける。
いつ何時、何があるかわからない。
それがパソコンの世界。
●今日(日曜日)の予定
今日の予定は、とくになし。
書きたいテーマはあるが、どうも気が進まない。
が、これではいけない。
たとえば昨日、こんな原稿を書いた。
もう一度、ここにその一部を掲載する。
++++++++++++++++
●鬼嫁
……最後に、こんな話。
これから書くことは、事実。
「事実」と断らなければならないほど、そうでない人には信じられないような話。
こういう話。
毎週のように、嫁が、夫の実家にやってくる。
(嫁が、夫の実家にやってくるのだぞ!)
そして夫の両親から、小遣いをせびる。
「夫の給料だけでは、生活が苦しい」と訴える。
「夫の給料だけでは、子どもを進学塾へ通わせることもできない」と訴える。
で、最近、こんなことがあったという。
いつものように、嫁が夫の実家にやってきた。
こう言った。
「100万円が必要。100万円、出してほしい」と。
が、両親といっても、80歳を過ぎている。
義父は元薬剤師。
義母は元看護士。
財産があるといっても、無限にあるわけではない。
そこで母親(=夫の母親)が、5万円を渡すと、その嫁は、「それでは足りない!」と言い、
その5万円を机の上に置いたまま、家に帰ってしまったという。
ドラ娘も、ここに極まれり!、というような話である。
苦労を知らない人間というのは、そうなる。
+++++++++++++++
繰り返しになるが、この話は事実。
直接、その「義父」から聞いた。
(もちろんその人とわかるような部分は、変えてあるが……。)
その「義父」が、「うちの嫁さんはねえ……」と言って、この話をしてくれた。
ワイフもその席にいた。
その嫁については、あれこれ聞いていたので、ワイフも私もさほど、驚かなかった。
しかし今回の話は、明らかに度を越している。
「エスカレートしてきた」と書くべきか。
年老いた義父母。
ともに80歳近い。
判断力も鈍ってきた。
それをよいことに、義父母を手玉にとって、もてあそぶ。
つまりこの話には、いくつかの問題点が隠されている。
(1)老夫婦の財産管理は、どうすべきか。
(2)「嫁」とのつきあいは、どうすべきか。
で、この話にはもうひとつ伏線がある。
嫁は、そのつど3人の孫を連れてくる。
つまり孫をダシに、義母から、小遣いをせびる。
いろいろ考えさせられる。
が、今朝はこれまで。
このつづきは、またあとで!
では、みなさん。
おはようございます!
●回顧性
若い人は、未来を見て、人生を考える。
これを展望性という。しかし加齢とともに、過去を振りかえることが多くなる。
これを回顧性という。
その展望性と回顧性が、交差するのが、満50歳から60歳にかけてと言われている。
しかし人間も、過去の栄華をしのび、それにぶらさがって生きるようになったら、お・し・ま・い。
問題は、回顧性が生まれるのはしかたないとしても、いつ、どこでどのようにして、その過去を切り離すか、だ。
「あのころはよかった……」「あの時代はすばらしかった……」と毎日、悶々として生きるようになったら、その人は、死んだも、同然。
その切り離しがうまくいかないと、結局は、「老後」と呼ばれる時代を、ムダにすることになる。
世間では、広く誤解されているが、「老後」というのは、終着駅ではない。
晩年でもない。「老後」と呼ばれる時代は、それ自体が、貴重な、人生の一期間である。
人生そのものである。「死」を考えるとしたら、その死が、目前に迫ってきてからでよい。
それまでは、私たちは、生きる。生きて生きて、生きまくる!
私たちは、「老後」という言葉そのものに、おかしな先入観を添えてしまった!
「老後は、ブラブラと、孫のめんどうでもみながら、悠々自適に過ごすのがよい」と。
だから、世の老人たちよ、もっと、外に出ようではないか!
外に出て、外の空気を吸おうではないか!
もしあなたの孫が、親のスネをかじって、毎日、道楽三昧。
仕事もせず、趣味ばかりに没頭していたら、あなたは、何と言うだろうか?
それと同じ言葉を、自分自身に言ってみようではないか。
それが生きるということ。
回顧性など、クソ食らえ!
もしあなたの息子が、学生時代の活躍ばかりを口にして、そのころのアルバムばかりを見ていたら、あなたは、何と言うだろうか? それと同じ言葉を、自分自身に言ってみようではないか。それが生きるということ。
回顧性など、クソ食らえ!
この回顧性という悪魔は、あなたがその年齢になると、必ず、あなたのところにやってくる。
それに打ち勝つか、それとも敗れるかは、これからの心構えで、決まる。
老後こそ、人生の始まりまのだ!
第4章
【世代性】(2010-11-07加筆)
●低俗性と低劣性
低俗性であることは、必ずしも悪いことではない。
俗世間とかかわりをもつ。
その中で豊かな人間関係を築いていく。
それがその人の人間的な幅を広くする。
たとえば回転寿司屋で寿司を食べたからといって、その人の人間性がさがるということではない。
破れたジーパンで、山の中を歩いたからといって、その人の人間性がさがるということではない。
が、低劣性は、別。
人の不幸話に聞き耳を立て、聞いた話をおもしろおかしく、別の人に伝えていく。
それだけではない。
この世界には「もまし」という言葉がある。
AさんとBさんを離反させるために、それぞれに告げ口を繰り返す。
若い人たちの話ではない。
50歳とか60歳、さらには70歳とかを過ぎた人が、それをする。
つまり他人のもめごとを作って、それを外から聞いて、楽しむ。
もめごとを作るから、「もまし」という。
●加齢とともに
とても残念なことだが、加齢イコール、人格の完成期というわけではない。
加齢とともに、むしろ低劣になっていく人は多い。
あるいは化けの皮がはがれていく?
若いころは、それなりの仮面をかぶる。
気力がそれを支える。
しかし加齢とともに、気力が弱くなり、ついで仮面がはがれていく。
言い替えると、若い人でも低劣な人は、いくらでもいる。
……というか、幼児でも低劣な幼児と、そうでない幼児がいる。
「そんな?」と驚く人もいると思う。
しかし事実は、事実。
ものの道理をしっかりとわきまえ、善悪を正しく判断できる幼児もいれば、そうでない幼児もいる。
私が「理」からはずれたことをすると、すかさず、「先生、おかしい!」と言ったりする。
そのちがいはといえば、自律性と自立性ということになる。
●世代性
今朝は、数年前に書いた「世代性」についての原稿を読みなおしてみた。
私たちはある年齢を超えたら、私たちが得た知識や経験、知恵をつぎの世代に伝えていく。
それを「世代性」という。
言い替えると、世代性の追求こそが、老後のあるべき姿ということになる。
知人のI氏(藤沢市在住)は、「還元」という言葉を使って、それを主張する。
「今まで生きてきた命を、若い人たちに還元していく」と。
「世代性」と同じ意味と考えてよい。
●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
age.)
+++++++++++++++++
乳児期における信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の統合性は、その出口ということになる。
人は、この入り口から、人生に入り、そしてやがて、人生の出口にたどりつく。
が、誤解してはいけない。
出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、つぎの世代に還元しようとする。
こうした一連の心理作用を、エリクソンという学者は、「世代性」と呼んだ。
+++++++++++++++++
我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。
その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。
その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。
それが世代性ということになる。
その条件として、私は、つぎの5つを考える。
(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)
この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。
エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。
何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。
「無間地獄」。
つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。
大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。
が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。
「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。
さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。
我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。
●人生の正午
(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳前後である。
もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。
その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。
この問題だけは、そのときになってあわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。
身につかない。
……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。
孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。
しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。
もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめること。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老後の姿と考えるだろうか。
(付記)
統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。
「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。
ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくるものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。
それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。
なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。
大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。
60歳をすぎれば、さらにそうである。
我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。
●高邁(こうまい)性
私はこの中で、つぎの5つの項目を並べた。
(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)
今、ここで問題になるのは、(4)の高邁性ということになる。
いかに高邁性を追求するか。
またそのためには、どうすればよいか。
それを決めるのが、思考力ということになる。
ものを考える力。
もう少し言葉の定義を狭くするなら、「思索力」ということになる。
思索力のある人を、思慮深い人という。
その思慮深さが、その人の高邁性を決める。
長い時間をかけて、高邁性を決める。
●低劣さvs高邁性
私はよくこう言う。
「バカな人からは、利口な人がわからない。
しかし利口な人からは、バカな人がよくわかる」と。
低劣さと高邁性を対比させるなら、低劣な人からは高邁な人がわからない。
高邁な人からは、低劣な人がよくわかる。
それはちょうど山登りに似ている。
下から見ると低い山に見える山で、登ってみると、意外と視野が広いのがわかる。
たとえば浜名湖(浜松市の西)の北端に、大草山という山がある。
標高150メートルくらいか?
山の下は湾になっていて、舘山寺温泉街が並んでいる。
そんな山でも、登れば、遠く、浜松市が一望できるから不思議である。
が、もちろん上には上がある。
つまり低劣さにせよ、高邁性にせよ、相対的なものに過ぎない。
いくら自分が高邁と思っていても、より高邁な人から見れば、低劣ということになる。
言うなれば、「上」には、際限がない。
(もちろん「下」にも、際限がないが……。)
●では、どうするか?
老後は、脳みその下に開いた穴との闘いである。
その穴から、知識や経験、さらに知恵までもが、容赦なく、こぼれ落ちていく。
そうでなくても、こぼれ落ちていく。
さらに加齢とともに、加速度的にこぼれ落ちていく。
……となると、私たちはそれ以上の知識や経験、さらには知恵を補充していかねば
ならない。
「若いときだけで、勉強は終わった」などというのは、とんでもない話。
中には70歳を超えても、一流大学卒という学歴をぶらさげて歩いている人もいる。
もちろん中身はゼロ。
冒頭に書いた、(もまし)を生きがいにして、生きている?
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と。
……ということで、私たちは常に「上」をめざす。
あくことのない探求心と努力。
その2つを武器に、「上」をめざす。
それでも高邁性は得られないかもしれない。
しかしあきらめたとたん、低劣の世界へと、落ちていく。
つまらない世間話やゴシップで、時間を無駄にする。
人生を無駄にする。
命を無駄にする。
●相談
1か月ほど前、ある知人(62歳)と電話で話した。
知人には、1人の妹(55歳くらい)がいる。
その妹が、ときどき介護するフリをして実家へ行き、母親の隠し持っている現金を
盗んでくるという。
現在、母親は独り暮らし。
やや認知症(?)。
「どうしたらいいのかねえ?」という相談である。
こういうケースのばあい、回答はただひとつ。
「相手にしてはいけない」である。
そういう低劣な人間(妹)を相手にしていると、自分までその低劣な人間になって
しまう。
つきあえばつきあうほど、深みにはまってしまう。
「あきらめて縁を切ることですよ」と、私はアドバイスした。
私も親族の間で、似たような経験をしている。
低劣な人には、恐ろしいほどの魔力がある。
あの夏目漱石も、同じような問題をかかえ、悩んだ(『心』)。
高邁な精神世界と、低劣な親族間の問題で、自分の魂がバラバラになっていくのを
感じた、と。
人間も、60歳を過ぎたら、自分に正直に生きたらよい。
無理をして、つまりつまり自分の理性や知性をねじまげてまでも、つきあいたくない
人間とつきあうことはない。
したくもない(つきあい)をする必要もない。
どこまでも自分に正直に生きる。
それが重要。
私はそう考えて、その知人にはこう言った。
「頭とシッポ(=つまらない部分)は、妹さんにくれてやればいい。
私たちは中身(=大切な部分)を取ればいいのです」と。
● 老人観察
40歳を過ぎたら、老人観察を始めたらよい。
どんな人が、どんな老人になっていくかを観察する。
生き方は人さまざまだが、老人のなり方も、これまたさまざま。
当然のことながら、老人になればなるほど、その人の生き様が集約されてくる。
認知症とか、脳血栓症の病気は別にして、老人にもいろいろある。
大きく大別すると、(1)好かれる老人と、(2)嫌われる老人がいる。
どんな老人が好かれ、どんな老人が嫌われるか、それを観察する。
つぎにそれがわかったら、ではどうすれば好かれる老人になり、
またどうすれば嫌われない老人になるかを、知る。
「好かれようが、嫌われようが、そんなことは気にしない」と言う人も
いるかもしれないが、こと老人に関しては、これは深刻な問題と考えてよい。
嫌われるということは、即、周囲の人たちに迷惑をかけることを意味する。
老人のケア・センターにしても、そうした基準を公表してはいないが、
ある程度は面接をした上で、入居を認めたり、認めなかったりしている(?)。
大声で泣き叫んだり、暴力を振るうような老人は、嫌われる。
入居を敬遠される。
しかしそうした老人にしても、1年とか2年でそうなるわけではない。
10年とか20年をかけてそうなる。
だからこそ、老人観察が必要ということになる。
で、昔から『老いては子に従え』という。
つまりくだらない権威主義はできるだけ早い時期に、捨てたほうがよい。
「私は親だ」「親は偉い」「子は親に従うべき」などと考えていると、嫌われるのは、
親のほうということになる。
つぎに重要なことは、エリクソンも説いているように、『自我(自己)の統合性』。
「老後になったら、孫の相手と庭いじり」というのは、けっしてあるべき老後の姿
ではない。
老後になったら、(すべきこと)を(する)。
その(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
(やりたいこと)ではない。
むしろ(やりたいこと)をしていると、むなしさを覚えることが多い。
が、それでは自分の老後はない。
また(金儲け)と、(すべきこと)は、どこかで区別したほうがよい。
多くの人は「死ぬまで仕事」と考えている。
それはそれとして必要なことかもしれないが、どこかで一線を引く。
というのも、(すべきこと)は、常に(無)でなければならない。
損得を考えたとたん、「自我の統合性」は、霧散する。
「教育」というと、私たちは(子どもの教育)を考える。
しかしそれ以上に大切なのは、(おとなの教育)。
しかも(自分自身の教育)ということになる。
それを怠ったとたん、(嫌われる老人)に向かってまっしぐら。
その先で待っているのは、みじめで暗い世界。
そこで再び、老人観察ということになるが、あなたの周辺で、どんな人が
どんな老人になっていくかを観察する。
その時期は、40歳ごろから始めても、早すぎるということはない。
●母
母が入居していたセンターの1階は、デイ・ケア・センターになっている。
日帰りの老人たちが集まる部屋である。
そこに1人、たいへん威張った老人がいる。
年齢は70歳くらいではないか。
昔の武士を思わせるような人で、とにかく威張っている。
介護師の人が機嫌をとろうとして話しかけても、「うるさい!」「いらぬ!」と。
自分は座っていても、介護師の人を上から見おろすような言い方をする。
話を聞くと、東京の某有名私大を出たあと、イギリスへの留学経験もある人という。
現役のときには、会社の中でもかなりの地位にいた人らしい。
しかし今は、だれにも相手にされない。
家族にも嫌われているのだろう。
いつも部屋の隅でポツンと孤立している。
また母がいる同じフロアには、若いころはさぞかし美人だっただろうなと
思わせる老人がいる。
背も高く、スラリとしている。
年齢は80歳くらいか。
そういう老人が、ときおりフロア中に聞こえるような大声で叫ぶ。
「飯(めし)は、まだかア!」「わっちゃア(=私は)、何も食べておらんゾ!」と。
その老人のばあい、認知症にかかっているということだが、こうした老人たちを見て、
だれが笑うことができるだろうか。
●老人病
老人になればなるほど、遺伝的要素が前に出てくるようになるという。
わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、自分の親に似てくるということ。
自分はそれでよいとしても、自分の子どもが自分に似るのは、不幸なこと(?)かもしれない。
そのためにも、つまり子どもに老後の見本を見せるという意味においても、老後になればなるほど、生き様を確立しなければならない。
これはひとつの例だが、たとえば(健康)という問題にしても、私は若いころから小雨の日でも、自転車通勤をつづけている。
そういう姿を、息子たちはどこかで見ていたのだろう。
気がつくと息子たちもまた、同じようなことをしている。
つまりこうして親の生き様というのは、とくに教えなくても、(また教えるという意識がなくても)、子どもに伝わっていく。
あなたの子どももいつか、あなたが歩んだのと同じ道を歩む。
歩んで老人になる。
そういうときのために、私たちはその(見本)を見せておかねばならない。
が、もし今、あなたが小銭の奴隷なら、あなたの子どもたちもまた、その小銭の奴隷になる。
そういう例は、あなたのまわりにも、いくらでもあるはず。
●金の亡者
ここまで書いて思い出した人がいる。
私が子どものころのことだが、近所に、金の亡者のような人がいた。
当時としては、かなりの成功者だった。
毎日、私の家にやってきては、「今日はいくら儲けた」「先週は株でいくら儲けた」と、そんな話ばかりをしていた。
が、それから50年。
最近、その息子氏に会うことがあった。
近所でも評判のケチということは、前から知っていたが、顔つきやしぐさはもちろんのこと、50年前のあの人そっくりになっていたのには、驚いた。
時代も変わったから、露骨に金(マネー)の話をするということはなかったが、何かにつけて、自分の自慢話ばかりしていた。
またそれをいろいろな言い方で、誇示していた。
「税金が高くて困るよ。このあたりでも、私がいちばんの高額納税者でね」
「毎週、つき合いでコースを回っているよ」と。
さらに驚いたのは、私がその人の父親について、批判めいたことを口にしたときのこと。
私は「あなたの父親は、いつも私の家で、金儲けの自慢をしていましたよ」と。
とたんその人は血相を変えてこう言い切った。
「林君、いくら君でも、親父(おやじ)の悪口を言うやつは許さん!」と。
かなりのファザコンとみた。
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