*What I learnt from my G-son, Sage...The Japanese are less independant from others
【日本人の依存性】
●孫から学んだこと(What I learnt from my G-son)
孫の誠司と接して、学んだことは多い。
たとえば、誠司は、こう言う。
(のどが渇いたとき)……「何か、飲み物をもっているか?」
(風呂に入るとき)……「足がやけどする」
(おなかがすいたとき)……「グレープフルーツを食べたい」と。
同じような場面のとき、日本の子どもなら、(だから、何とかしてくれ言葉)を使う。
たとえば、
(のどが渇いたとき)……「のどがかわいたア! (だから何とかしてくれ)」
(風呂に入るとき)……「熱い! (だから何とかしてくれ)」
(おなかがすいたとき)……「腹、減ったア! (だから何とかしてくれ)」と。
こうした日本人独特の依存性は、おとなになってからも、消えない。
私の叔母のひとりは、50代のころから、いつもこう言っていた。
電話で、話を始めるたびに、
「おばちゃん(=叔母自身)も、歳を取ったからねエ~。(だから、何とかしてくれ)」と。
何も叔母を責めているのではない。
その地方では、そういう言い方が、ごくふつうの言い方となっている。
が、ときとして、イヤミに聞こえることもある。
たとえばしばらく実家に帰っていないでいたりすると、
「浩司君の家の横に、ゴミがたまっていたぞ。(だから何とかせよ)」、
「J君(=私の実兄)が、猛スピードで、坂を、自転車で走っていたぞ。(だから何とかせよ)」と。
「浩司君の夢を見たから」とか何とか、おかしな理由をつけて、電話をかけてくる。
一方、私が住んでいるこの浜松では、そうした言い方は、あまりしない。
とくにワイフの家族は、しない。
みな、独立心が旺盛で、それぞれが高次元な立場で、尊敬しあっている。
そんな私でも、誠司の言葉には、そのつど、驚く。
誠司は、日本語をほとんど話せない。
日本人というよりは、アメリカ人である。
いつもYES・NOをはっきりと言う。
会話は、そこから始まる。
だから何かほしいものがあったりすると、直接、「~~がほしい」などと言う。
わずか10日間ほどのつきあいだったが、そのつど、私は、こう思った。
「こんな5歳の子どもでも、日本人とは、ちがうなア~」と。
その日本人の依存性については、たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、5年前(03年)に書いた原稿である。
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●拉致(らち)問題
昨日の記者会見で、官房長官のF氏は、さかんにこう言っていた。「日本の立場は、アメリカも韓国も、よくわかっていてくれるはずです」「日本の立場は、じゅうぶん説明してあるので、わかってくれているはずです」と。
まさに日本という国家そのものが、依存国家とみてよい。こういう会話は、依存性の強い人ほど、好む。
少し前だが、こんな子ども(小五女児)がいた。「明日の遠足を休む」と言うので、「担任の先生に連絡したのか?」と聞くと、「先生は、わかっていてくれるはず」と。
「どうして?」と私。
「だって、今日、おなかが痛いと、言ったから」と、子ども。
「しかし休むなら休むで、しっかりと先生に言ったほうがいいのでは?」
「いいの。先生は、わかっていてくれるはずだから」と。
日本語には、「だから、何とかしてくれ言葉」というのがある。たとえばのどがかわいても、「水がほしい」とは言わない。「のどがかわいたア~」と言う。子どもだけではない。ある女性(五〇歳)は、子どもや親類に電話をかけるたびに、「私も年をとったからネー」を口ぐせにしていた。つまり、「だから、何とか、せよ」と。
しかし国の「長」ともあろうF氏まで、そういう言い方をするとは! 「ハズ論」で動かないのが、国際社会。少なくともアメリカ人には、通用しない。そう言えば、五、六年前、ときの外務大臣のK氏が、あの北朝鮮に、百数十万トンもの米を援助したことがある。そのときも、K氏は、そう言っていた。「日本も、これだけのことをしてあげたのだから、北朝鮮も、何か答えてくれるはず」と。
が、結果は、ゼロ。K氏は、「これで北朝鮮が何もしてくれないなら、私は責任をとる」とまで言い切ったが、その責任をとった形跡は、どこにもない。
こうした依存性は、親子の間にもある。
「これだけのことをしてあげたのだから、うちの子どもは、私に感謝しているはず」「親子の絆(パイプ)は、太くなったはず」と。つまり日本の親たちは、まず子どもに、いい思いをさせる。ついで親としての優越性を、子どもに見せつける。「私に従えば、いいことがある」「私には、これだけの力がある」と。
つまり外堀を埋めるような形で、子どもの周辺を、少しずつ、しばりあげていく。そして結果として、子どもに依存心をもたせ、ついで、自分も、子どもに依存していく。
ついでに拉致問題について。
本来なら、日本の軍隊が突入し、被害者を救出しても、おかしくない事件である。しかしこの日本には、おかしな平和主義がはびこっている。「ことなかれ主義」を、平和主義と誤解している人もいる。平和主義もよいが、相手が、日本を攻めてきたときには、どうするのか? あるいはそんなときでも、日本は、「アメリカが何とかしてくれるはず」「世界が黙っていないはず」とでも、主張するつもりなのだろうか。
日本政府の考え方は、甘い。本当に、甘い。「大国」としての誇りも、自覚もない。現に今、北朝鮮のあの金XXは、核兵器の開発をしている。もちろんターゲットは、日本。韓国やアメリカではない。この日本。本来なら、アメリカや韓国の先に立って、この問題を解決しなければならない。しかし「ハズ論」だけで、みなのうしろをついていく?
しかしそれにしても、北朝鮮の小さいこと、小さいこと。小細工ばかりしている。先週も、拉致被害者の子どもたちに、手紙まで書かせている。そんな些細なことにまで、気を配っている。あきれるより先に、ゾッとする。
私が金XXなら、拉致被害者の子どもたちを、すぐ日本へ返す。恥ずかしいか、恥ずかしくないかということになれば、つぎからつぎへと脱北者が出ることのほうが、よほど、恥ずかしい。金XXよ、恥を知れ!
で、近く、六か国協議が始まる。しかしそれを望むわけではないが、この協議は、失敗する。理由は簡単。北朝鮮は、核査察など、絶対にさせない。そんなことをすれば、金XXの悪行の数々が、白日のもとにさらされてしまう。一説によると、あの金XXは、すでに数十万人以上の人を、殺害しているという。
つぎにアメリカにしても、(安保理決議)→(経済制裁)→(金XX体制の崩壊)という図式を、すでに描いている。中国やロシアを参加させるのは、「やれるだけのことはやってみなさい。どうせダメだから」ということを、証明するためのものでしかない。
日本にしても、あの金XX体制を経済援助するということは、隣の暴力団に、資金を手渡すようなもの。そう簡単には、できない。してはならない。
問題は中国とロシアだが、彼らにしても、日本のマネーがほしいだけ。日本に金を出させ、その金で、中国やロシアのものを買わせる。あるいは今までの借金を、返済させる。ただこの力が強ければ、皮肉なことに、六か国協議は、成功する可能性はある。しかしそのときは、日本は、屋台骨を数本、抜くぐらいの覚悟はしなければならない。「東京で、核兵器が爆発するよりは、いいだろう」と。
さらに中国人や韓国人の、反日感情には、ものすごいものがある。仲よくなりかけると、アホな政治家が、S国神社を参拝したり、「南京虐殺はウソ」などと言っては、相手を怒らせている。S国神社を参拝するのに反対しているのではない。「何も、こういう時期に、あえてしなくてもいい」ということだ。
どちらにせよ、今度の六か国協議は、日本にとっては、戦後、最大の山場になる。決裂すれば、この秋には、米朝戦争が始まるかもしれない。もしそうなれば、日本も未曾有の大惨事に巻き込まれる。日本だけが無事ということは、絶対にありえない。
六か国協議で日本がどのような主張をするか。また世界は、どのような反応を示すか。拉致問題もあって、目が離せない。
(030805)
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もう1作、同じような内容の原稿です。
これは4年前(04年)に書いたものです。
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● 「年だから……」という言い方
7月のはじめ、豪雨が、新潟県から福井県を襲った。
今は、その雨もやっと一息つき、各地で復旧作業が始まった。連日、その模様を、テレビが、ニュースとして伝えている。
その模様を見ていたときのこと。一つ、気になったことがあった。
何人かの老人が出てきたが、たまたまどの老人も、こう言った。
「私ら、年ですから……」
「年ですからね……」
「私も、この年ですから……」と。
つまり老齢だから、こうした復旧作業は、きびしい、と。
実は、無意識だったが、私も、ときどき、同じ言葉を使うようになってしまった。ワイフに向って、「オレも、年だからなあ」とか、息子たちに向って、「パパも、年だからな」とか。
つまりは、私はそう言いながら、ワイフや息子たちに、依存しようとしている。甘えようとしている。自分でそう言いながら、ハッと我にかえって、「いやな言い方だ」と思ってしまう。
もちろん復旧作業にあたっている老人たちには、きびしい作業だろう。やりなれた仕事ならまだしも、こうした仕事は、使う筋肉もちがう。何よりもたいへんなのは、「ゴロリと横になって、体を休める場所がない」(ある老人の言葉)ということだそうだ。
だからそういう老人たちが、つい、「年だから……」と言いたくなる気持は、よく理解できる。しかし……。
この言葉は、どこか(だから何とかしてくれ言葉)に似ている?
よく依存性の強い子どもは、「のどがかわいたア!」「おなかがすいたア!」「退屈ウ!」と言う。その子どもは、そう言いながら、親に向って、「だから何とかしてほしい」と言っている。
同じように、「年だから……」という言葉の裏で、こうした老人たちは、「だから、何とかしてほしい」と言っている? 私にはそう聞こえる。
昔、私の伯母にも、そういう人がいた。電話をかけてくるたびに、「オバチャンも、年だからねエ……」と。
今から逆算してみると、そのときその伯母は、まだ、50歳になったばかり。今の私の年齢より、若い。
そこで私は、気がついた。人はともかくも、私は、死ぬまで、その言葉を使わないぞ、と。自信はないが、そう心に決めた。
このマガジンを書くときも、ときどき、似たような弱音を吐くことがある。しかし弱音は、弱音。「もう、使わないぞ」と。
年なんか、関係ない。体が弱くなり、頭の活動はにぶるかもしれない。しかしそれは当然のことではないか。年のせいにしてはいけない。人間には、年はない。そんな数字にふりまわされて、自分をごまかしては、いけない。他人をあざむいては、いけない。
なまけた心、たるんだ体……、それは年のせいではない。
……ということで、今日の教訓。私の辞書から、「年だから……」という、あのどこかずるい、どこか甘えた言い方を、消す。
そう言えば、私のワイフなどは、そういう言葉を使ったことがない。どうしてだろう。あとで、その理由を聞いてみよう。
【ワイフの言葉】
「私やね、年だなんて、思っていない」と、一言。ワイフの言うことは、いつも、単純、明快。
今でも、20歳の娘のようなつもりでいる。……らしい。おもしろい心理だと思う。
「それにもう一つは、だれかに何かしてほしいとか、してもらいたいとか、そういう気持ちにはならない。自分のことは自分で何とかしようと、いつも、それしか考えていないから」と。
ナルホド!
「お前はいいダンナをもったな」と私が言うと、ワイフはヘラヘラと笑った。
「そうじゃないか。オレが、苦労を全部、引き受けているからな」と私。
ああ、これも依存性の変形か? ともかくも、私は、「年だから……」という言葉を使わないことを、心に決めた。自信はないが……。
【追記】
山荘の近くに、Kさんという男性がいる。いわゆる老人である。老人と書くのは、失礼な言い方だが、年齢からすれば、老人ということになる。そのKさん。今年は、78歳になるが、今でも、現役で、山の中で仕事をしている。
畑もあちこちにもっている。会うたびに、ヒョイヒョイと、体を動かして、農作業をしている。
一方、50歳になったばかりというのに、太った体をもてあまし、ハーハーと、息も苦しそうに歩いている人もいる。Sさんという男性である。聞くと、毎日、1、2本のビールを飲み、ヒマさえあれば、ソファの上で、ゴロ寝をしているという。
趣味は、テレビでプロ野球をみることだそうだ。
この二人を頭の中で、単純に比較しても、やはり人間には、年はないということ。たしかにKさんは、この10年の間に、かなりの畑を減らした。ミカン栽培もやめた。しかしいつも、できる範囲で、仕事をしているといった感じ。決して、「年だから……」という弱音を吐かない。
一方、Sさんは、いつも、「年には勝てないよ」とか、「オレも、年をとってしまったよ」と言っている。どこか生きザマが、うしろ向き。しかしそういうSさんにしたのは、Sさん自身ではないのか……と、考えて、この話はここまで。
しばらくこのテーマについて、考えてみたい。
(040723)
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こうした日本人の依存性を鋭く追及したのが、
土居健郎「甘えの構造」である。
5年前(03年)に、こんな原稿を書いた。
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●依存心
依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言わない。「おなかが、すいたア~」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。
おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話をするたびに、「私も、年をとったからネエ~」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求していることになる。
依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そういう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、ある女性(60歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言った。「そのときになったら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。
自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。
一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだけ。
総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好んで使われる言葉である。
こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。
● してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買ったりする。「~~してあげたから、~~してくれるハズ」「~~してあげたから、感謝しているハズ」と、「ハズ論」で行動することが多い。
● 自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをしてくれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーですまそうとする。
● 子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、どうしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、できのよい子と位置づける。
● 親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的であればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくことは、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。
依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として確立していない。
あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の全体主義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界からみて、日本や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が国際人の仲間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03-1-2)
● 人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルである日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」の一節)
+++++著作権BYはやし浩司++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
●日本人の依存性
日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人がそれに気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・リーブズが主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。
その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら気づかない……。
子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、もう50歳代のときから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とかしてくれ)」と言っていた。
こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会も国民も、それぞれが相互に依存しあっている。
こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海外へ移住した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで生まれた子ども(二世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼んでいる。依存性が強い分だけ、新しい社会に同化できない。
もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。
反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って嫌う。そしてそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」と依存し、子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。
こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のところで話すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。
イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日本人は、大きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。年配の人が多い。もう一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者が多い」と。
今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期にあるとみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさわしいほどの転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎにやってくるのかは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時代であることも事実のようだ。
あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。
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