●犬山にて(2010-9-8)
【犬山にて】(名鉄犬山ホテル)
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昨日は、母の三回忌の供養のため、
郷里のG県のM町に向かった。
日帰りは無理と判断したので、
犬山で一泊することにした。
愛知県犬山市の犬山である。
泊まったのは、名鉄犬山ホテル。
木曽川沿いに立つ、立派なホテル。
そのすぐ横に、あの犬山城が見えた。
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●扁桃腺炎
朝、友人を駅に見送る。
京都から、山陰の町へと旅立った。
そのあと私たちは、G県へ。
TOYOTAのプリウスに乗り換えてから、最初の遠出。
やや不安だったが、ハッチバックをバタンと閉めたとき、覚悟が決まった。
体の調子は、あまりよくない。
昨日から、軽いめまいがある。
子どものころは、慢性中耳炎に苦しんだ。
そのせいか、風邪の引きはじめに、よく同じような症状が出る。
三半規管のどこかに問題があるらしい。
素人療法だが、そういうときは、ビタミンC(アスコルビン酸)を、大さじに
2、3杯、水に溶かして飲む。
(読者のみなさんは、まねをしないでほしい。)
扁桃腺にしみることもある。
が、そのあとしばらくすると、症状は消える。
●G県M町へ
台風の影響で、厚い雲が空を覆っていた。
自宅に一度もどったあと、荷物を車に積む。
それに飲み物。
昨日までの暑さが、気になっていた。
こういうときは水分の補給が何よりも大切。
ミネラルウォーターに、ジュース。
それに頭痛薬を溶かしたウーロン茶。
私は夏場には、昼だけでも、2~3リットルの水を飲む。
飲まないと、頭がボーッとしてしまう。
「低血圧のせい」と、自分ではそう思っている。
つまり水分を補給して、血圧を調整している。
(これも素人療法なので、読者のみなさんは、まねをしないでほしい。)
●台風
東名高速道路に入る前に、ガソリンを満タンにする。
寺へのみやげはギョーザ。
住職の好物。
店で買う。
そのころから、大粒のはげしい雨が降り始めた。
時刻は午前9時半。
「一度M町へ行き、それから犬山に戻ろう」と私。
「もし途中で疲れたら、犬山で休憩し、明日M町へ行けばいい」とも。
が、東名に入ると、意外と車が楽に走り始めた。
「さすがプリウス!」と、私は思った。
加速性がよい。
乗り心地もよい。
そのときワイフが言った。
「まっすぐM町へ行きましょうよ。
早く片づけたほうが、気が楽よ」と。
●三回忌
2年前、実兄と実母が相次いで他界した。
今年は三回忌にあたる。
その三回忌をどうしようか、このところずっと悩んでいた。
だからといって誤解しないでほしい。
三回忌が無駄とか、そういうことを言っているのではない。
「したくない」と言っているのでもない。
人、それぞれ。
事情は家庭によって、みな、ちがう。
あなたにはあなたの家庭がある。
私には私の家庭がある。
つまりあなたにはあなたの考え方がある。
私には私の考え方がる。
ただ私は60歳を過ぎるころから、急速に柔軟性を失ってしまった。
がんこになったというよりは、「私」が強く表に出てくるようになった。
いやなことは、いや。
納得できないことは、いや。
もう少しわかりやすく言えば、自分を捻じ曲げることができなくなった。
●妥協?
ワイフは、いつもこう言う。
「あまり深く考えないで、気楽に妥協したら」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
その「妥協」ができなくなった。
ほかのことならともかくも、自分の哲学に関することについては、とくにそうだ。
宗教観は、まさにその哲学の一部。
宗教観というより、死生観。
ときに自分のもつ哲学は、死生観に集約される。
●拒否反応
もちろんお金の問題ではない。
今まで、私は実兄の葬儀にせよ、実母の葬儀にせよ、その費用は言われるまま、
全額負担してきた。
葬儀費用だけで、軽く計400万円を超えた。
それに僧侶への葬儀料や戒名料などなど。
仏壇も新調した。
葬儀のあとは、七七の法要や百か日の法要と、つづいた。
その間に、祖父の三三回忌の法要も入った。
(33年目の三三回忌だぞ!)
が、今度は、三回忌。
率直に一言。
介護もたいへんだが、葬儀もたいへん。
息子たちへの学費がやっと終わったと思っていたところへ、その追い討ち。
さらに出費が重なった。
今までのことを思うなら、なんでもない法要ということになる。
が、ここにきて突然、拒否反応が起きるようになった。
●母の介護
拒否反応といえば、こんなことがあった。
晩年、母は死ぬまでの2年間、浜松にいた。
うち1年間は、私の家にいた。
その間、母の世話は私がした。
とくに便の始末は私がした。
ワイフにはさせなかった。
といっても、それが苦痛だったというわけではない。
「赤ん坊の世話よりも楽」と、いつも私はそう思っていた。
朝起きるとまず、おむつの取り替え。
それが終わると、便器の清掃、部屋の掃除。
朝食の用意。
デイサービスがある日は、服を着替えさえ、迎えのバスを待つ。
母はおとなしく、何一つ、不平不満を言わなかった。
が、だからといって、気が休まる日はなかった。
家をあけるときも、まず母の様態をうかがってから出かけた。
「ショートスティ」というサービスもよく利用させてもらった。
しかしだからといって、一泊旅行ができたわけではない。
いつ何どき、何があるかわからない。
それが老人介護。
●特別養護老人ホーム
その母が、たいへん運よく(?)、特別養護老人ホームへ入居できた。
「150番待ち」とか、「2年待ち」とか言われていた。
が、たまたまある日、順番を申し込むためにホームを訪れると、「明日から
どうですか?」と。
あとでわかったことだが、応対してくれた女性が、そのホームの園長だった。
こうしてちょうど2年目の冬、母は、ホームへ入居した。
とたん、私の家から緊張感が消えた。
抑うつ感?
それまではそういう負担感があるとは思ってもいなかった。
が、消えたとたん、それまでそれがあったことがわかった。
私の体を取り巻いていた無数のクサリが、パラパラとはずれた。
●拒否反応
が、ちょうど1か月目のこと。
母が脳梗塞で倒れた。
それまでは冗談もわかるほど、頭の回転はよかった。
が、その日を境に、極端に反応が鈍くなった。
そのときのこと。
入院先の医師が、こう言った。
「入院しますか?」と。
入院といっても、最長1か月間という。
「1か月はいられますが、それ以後は、再び自宅へ連れ戻ってもらいます」と。
(ホームではなく、自宅。)
特別養護老人ホームといっても、医師が常駐しているホームはほとんどない。
看護師はいるが、医療は受けられない。
また1~2週間ならともかくも、1か月ともなると、ホームから籍を
消されてしまう。
それこそ今度は、「150番待ち」「2年待ち」ということになってしまう。
そのときのこと。
私は、はげしい拒絶反応を覚えた。
あれほど何でもなかった母の介護だったのだが、「再び自宅で介護」という話に
なったとき、体中が固まってしまった。
だから医師に、私は強く言った。
「2、3日で、病院から出してください」
「ホームへ母を戻してください」と。
●臨界点
今までは、それほど深く考えないで、行動することができた。
が、三回忌となったとたん、体が固まってしまった。
それまで感じていた矛盾が、臨界点を超えたせいかもしれない。
似たような話は、教師経験者たちからも聞く。
たとえば退職したような教師。
そういった教師に、「もう一度、子どもを教えてみませんか」と声をかけてみる。
そのとき「二度といやです」と、はき捨てるように言う人は少なくない。
それまでのいろいろな思いが、そういう言葉となって、はね返ってくる。
こういう拒絶反応を、心理学の世界ではどう説明するのか。
症状としては、恐怖症、あるいは強迫観念に似ている。
それまではそれほど苦労なくできていたことが、ある日を境に、急にできなくなる。
できなくなるだけではない。
体が固まってしまう。
●重圧感
が、車がG県に向かい始めると、言いようのない懐かしさがこみあげてきた。
足で蹴飛ばすようにして去った町だが、故郷は故郷。
生まれ育った故郷。
それに今度は、今までのような重圧感はなかった。
ただの法事。
寺の住職にあいさつをして、それで帰ってくればよい。
やるべきことは、すべてきちんとやった。
負い目はない。
後ろめたさもない。
過去40年の中でも、もっとも気楽な帰省ということになる。
が、それでも固まった心はそのままだった。
主義主張を貫くべきか。
それとも適当に妥協すべきか。
●キリスト教
宗派にもよるのだそうだが、一般的にキリスト教には、そうした儀式はない。
たまたま我が家にいるオーストラリアの友人は、こう言った。
彼が属する宗派では、遺灰は、教会の横にあるバラ園にまくことになっているという。
地面に小さなプレートが置いてあり、そこに故人の名前が刻んである。
もちろん和式仏教でいうような、~~回忌というのは、ない。
で、その話をすると、その友人は、こう聞いた。
「どうして日本では、そんなことをするのか?」と。
簡単に言えば、こうした儀式は、故人を偲ぶためというよりは、「家」制度維持のため。
それが背景にあって、~~回忌というのが、日本では定着した。
私が子どものころには、どこの家でも、~~回忌の儀式をこぞって派手にやった。
親戚中を集めて、みなで飲み食いをした。
つまりそれをすることによって、「家」のプライドを守った。
●死生観
が、今は時代も変わった。
初盆をする家も少なくなった。
「やっても三回忌まで」と考える人も、多くなった。
私も含めて、「死んだら、遺灰は、~~へでもまいてくれればいい」と考えている人も多い。
直葬とか、自然葬とかいう言葉も、よく聞かれるようになった。
日本人の死生観が大きく変わりつつある。
が、その理由のひとつに、ありきたりの和式仏教に疑問をもつ人がふえたことがある。
「戒名」も、そのひとつ。
ノーブレインの人(=思考力のない人)は、何も考えず、過去を踏襲する。
踏襲しながら、「それが正しいこと」と信じて疑わない。
それだけではない。
自分がノーブレインであることを棚にあげて、そうでない人を、平気で排撃する。
「親の三回忌もしないヤツは、バチ当たり!」と。
今ではどこの寺も葬儀屋と結託して、戒名料を決めている。
が、どうして戒名なのか?
その昔には、生きている人が出家をしたとき、戒壇の道場で受戒を受けて、戒名を
授かった。
あるいは古来中国には、成長する段階で、改名するという習慣はあった。
日本にもあった。
それが今では、死者につけられる。
で、どうしてそれをしないことが、仏の教えに反するということになるのか。
(このあたりは、私の常識的な記憶によるものなので、不正確。
興味のある人は、一度、自分で詳しく調べてみたらよい。)
●住職
結果的に私は妥協した。
が、敗北感は、あまりなかった。
私が所属する寺の住職は、よい人だ。
憎めない。
穏やかな表情に、誠実そうな人柄。
会うと、にこやかに話しかけてくれた。
それを見て、私は安堵した。
私とワイフは型どおりのあいさつをかわし、本堂にあげさせてもらった。
下座にすわり、手を合わせた。
「こんなやり方でいいですか」と住職に聞くと、「ああ、それで結構です」と言って
くれた。
あとは世間話。
が、居心地は、あまりよくなかった。
心のどこかで、私は自分を捻じ曲げていた。
言うなれば、私は不誠実な信者ということになる。
それとも面従腹背?
住職への申し訳なさが、先に立った。
私はたしかに住職を裏切っていた。
住職は住職で、私を、熱心な信者と思ったかもしれない。
●犬山へ
ワイフにせかされて、私は寺を出た。
車のナビを、「犬山」にセットした。
その日は、犬山の名鉄犬山ホテルに宿泊することになっていた。
エンジンをかけると、底で大きな砂利を踏みつける音がした。
山門をくぐるとき、一度だけ振り返ってみたが、住職の姿は見えなかった。
何となく、私はほっとした。
細い路地だった。
小さな家々が、軒を重ねて連なっている。
私には、どの家も、見覚えのある家だった。
が、懐かしさは消えていた。
かわりにあの独特の息苦しさが、よみがえってきた。
●名鉄犬山ホテル
暗い話がつづいた。
少し話題を変える。
旅館にせよ、ホテルにせよ、「やる気」を見て選ぶ。
従業員のやる気。
活気。
それが感じられる旅館やホテルは、すばらしい。
そのやる気満々のホテル。
「名鉄犬山ホテル」。
電話は0568-62-5750。
若いころ、この川沿いの旅館にはときどき来たことがある。
しかしこれほどまでにすばらしいというか、立派なホテルがあるとは、
私は知らなかった。
何と言っても、風呂がすばらしい。
長い大理石張りの通路を歩いていくと、その先に大浴場がある。
露天風呂にサウナ風呂もある。
●星は4つ!
風呂から出たとき、通路で待っていたワイフに、思わずこう言った。
「いい風呂だったよ」と。
それが受付の従業員にも聞こえたらしい。
2人の男女が、うれしそうに私を見て、笑った。
浜松にも、これほどまでのホテルは、そうはない。
星は、4つか5つの、★★★★プラス。
建物はやや古いが、何と言っても従業員のやる気。
それが心地よかった。
私たちは夕食にバイキングコースを選んだ。
が、鮎の塩焼きが食べ放題というのは、うれしかった。
私は2匹食べた。
ワイフは1匹食べた。
ほかの料理が、それ以上においしかった。
……そのワイフは、今、再び風呂に行っている。
ここの露天風呂が、よほど気に入ったらしい。
私はこうしてひとりで、パソコンのキーボードを叩いている。
●有楽苑(ゆうらくえん)
書き忘れたが、名鉄犬山ホテルのすぐ裏側に、隣接して、「有楽苑」という
日本庭園がある。
夕食前に、ワイフと散策してみたが、「すばらしい」の一言。
庭園の中にある「茶室如庵」は、日本でも三名席のひとつ、国宝に指定されている。
「こんなところに!」と驚くこと、しきり。
庭を歩きながら、「日本もいい国だなあ」と、そんなことまで考えてしまった。
犬山へ来て、名鉄犬山ホテルへ泊まったら、ぜひ訪れてみてほしい。
一見の価値はある。
入園料はおとな1000円。
名鉄犬山ホテルの宿泊客は、割引券がもらえるとか。
私たちはそれをもらわないで、行ってしまった。
私は夢中になって、デジタルカメラのシャッターを切った。
(写真は、無料電子マガジン、HTML版のほうで紹介。)
台風一過。
空はどんよりと曇っていたが、それがかえってよかった。
園内の客は私たち2人だけ。
のんびりと、ただひたすらのんびりと、日本庭園を楽しむことができた。
●和式仏教
話を戻す。
若いころ、こんな話を聞いた。
ある中学校の修学旅行でのこと。
生徒たちは京都へ行った。
そこでのこと。
あるグループの中学生たちが、神社の鳥居をくぐるのを、がんとして拒否したという。
いわく、「ぼくたちは神社には、参拝しない」と。
理由を聞くと、仏教系のある宗教団体に属する生徒たちだった。
神社を参拝するだけでも、バチが当たると恐れていた。
もう少し詳しく説明すると、そうした行為は、自分たちの信仰を「無」にする行為という。
常識のある人なら、一笑に付すだろうが、信仰をしている人たちにとっては、そうでない。
生死にかかわる問題。
で、「それでも……」と、担任の教師が参拝を促すと、その中の1人はその場に座り、
彼らがいうところの題目を唱え始めたという。
その話を聞いたとき、私はそれほど驚かなかった。
信仰には、そうした盲目性、狂信性はつきもの。
それがまったくないという宗教はない。
今回迷った三回忌にしても、そうだ。
「三回忌はすべきもの」と考えるのも盲目性なら、それをすることに抵抗を覚えるのも
盲目性ということになる。
つまり私自身にも、盲目的な(こだわり)があることになる。
ただの儀式(失礼!)と思えば、それですむ話。
するとかしないとか、おおげさにこだわるほうがおかしい。
おかしいが、なぜかこだわってしまう。
どうしてか?
●「家」
こうしたこだわりを理解するためには、「家」について理解する必要がある。
今の人たちとちがって、一昔前の時代の人たちは、「家」にこだわった。
「家」という建物にこだわった。
これについては、私には、こんなエピソードがある。
オーストラリアへ留学生として渡ったときのこと。
向こうの人たちは、収入に応じて、つぎつぎと家を住み替えていく。
高額な収入を得るようになると、より大きな家に移っていく。
私はそれを知って、たいへん驚いた。
本当に驚いた。
「家というのは、そういうふうに、住み替えるものではない」と。
つまりそれがそれまでの私の常識だった。
日本で作られた、私の意識だった。
当時の私の常識では理解できなかった。
だからたいへん驚いた。
が、私はそうした常識が、けっして世界の常識ではないことを知った。
むしろ世界の非常識。
しかしそれをそのままこの日本へ持ち込むことは、できなかった。
へたにそんなことを口にすれば、私のほうがはじき飛ばされてしまう。
とくに私の祖父母、両親、兄弟にとっては、そうだった。
みな、日本で生まれ育ち、日本しか知らなかった。
●実家
昨年(2009年)、私はその家を売った。
実家の土地は、33坪。
それに私名義の家屋。
その15年ほど前に、私が全額負担して立て直した。
が、そのときすでに4年以上、空き家になっていた。
だから売った。
しかし私にとっては常識的な行為であっても、そうでない人たちにとっては、そうでない。
とくに姉が悲しんだ。
「判を押した覚えはない」とか、そう言って騒ぎ出した。
私はちゃんと法的手続きを踏んだ上で、そうした。
またそうでないと、土地の売買は、できない。
姉の気持ちは理解できなくはない。
しかし40年近く、税金を払い、母に生活費を仕送りしてきたのは、この私。
やむをえない行為だった。
ふつう20年分の税金は、その土地の評価額と一致する。
つまり20年間、土地や家を放置すれば、土地や家の価値は差し引きゼロになる。
●団塊の世代
言い忘れたが、私は結婚する前から、収入の約半分を実家に納めてきた。
現在の若い人たちには、理解できないことだろう。
しかし当時の人たちにとっては、それがふつうの行為だった。
「集団就職」という言葉も、まだ残っていた。
が、それから受ける負担感には相当なものがある。
金銭的負担感というよりは、社会的負担感。
家族関係が良好な間は、まだ救われる。
が、そこに一度ヒビが入ると、社会的負担感がどっと倍加する。
こうした仕送りは、途中でやめるわけにはいかない。
額を減らすこともできない。
祖父と父は、私が20代のときに他界した。
一方、私の収入も、安定していなかった。
が、「今月は余裕がないから、仕送りをやめます」などとは、口が裂けても
言えない。
それが社会的負担感となって、はね返ってきた。
その重圧感は、経験したものでないと理解できないだろう。
●再び「家」
が、「家」がもつ問題はそれだけではない。
祖父母もそうだったが、とくに母は、「家」にこだわった。
江戸時代の「家」意識をそのままもって、今の林家(「林・家」と、「家」をつけるような
家柄でもないが……)へ、嫁いできた。
だから「家」にことさらこだわった。
その犠牲になったのが、兄ということになる。
兄は生涯、家にしばられ、家から一歩も外に出ることを許されなかった。
また私についても、母はいつもこう言っていた。
「親が先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。
私名義の土地を、母が勝手に転売してしまったこともある。
つまりそれが母の常識だった。
母には、もちろん罪の意識はなかった。
私が泣きながらそれに抗議したとき、母はこう言った。
「親が先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」。
●呪縛感からの解放
私は心に決めた。
母が他界したら、「家」を片づけよう、と。
姉にも何度も、そう伝えていた。
「家」がもつ呪縛感には、相当なものがある。
私はそれから早く解放されたかった。
平たく言えば、「もうたくさん! いい加減にしてほしい!」と。
そういう思いの中で、実兄と実母の葬儀をし、昨年、実家を手放した。
が、それで終わったわけではない。
最後に寺との関係が残った。
一周期、三回忌……と。
この先、墓が郷里にある間、その関係は一生つづく。
私にはそのつもりはなくても、向こうのほうから追いかけてくる。
冒頭でこだわった、三回忌も、そのひとつ。
●日本人の意識
今、日本人の意識が大きく変わりつつある。
たとえば私の3人の息子たちにしても、「家」意識は、まったくない。
「老後になったら、売るからな」と言っても、「そうすれば……」と言う。
私たちの葬儀にもこだわっていない。
私自身もこだわっていない。
大切にすべきは、今、ここに生きている人たち。
生前の世界でもなければ、死後の世界でもない。
(そんなものは、あるわけないが……。仮にあるとしても、そんな世界は
死んでからのお楽しみ!)
ここに生きている人たちが、より自分らしく生きること。
「家」というワクにこだわるほうが、おかしい。
今、その(おかしさ)に、みなが気づき始めている。
若い人たちだけではない。
私たちの世代、つまり団塊の世代も、気づき始めている。
●負の遺産
で、ここで余計なことを一言。
世の中には、あの江戸時代以前の封建時代を美化してやまない人たちがいる。
武士道だとか、何とか。
「恥の文化」を主張する学者もいる。
が、それはそれ。
同時に、そういったことを主張できる人たちは、ハッピーな人たちと考えてよい。
何の苦労もない?
が、あの封建時代には、「負の遺産」というものもある。
その負の遺産に目をくれることもなく、一方的に封建時代を美化するのも、どうか?
それがわからなければ、福沢諭吉たちが合流した明六運動に、一度は目を通してみたら
よい。
悲しいかな、私たち日本人は、あの封建主義時代を、一度とて歴史の中で清算していない。
だから今の今でも、封建時代を美化してやまない人は多い。
負の遺産をそのまま引きずっている人は多い。
私自身は、吹けば飛ぶような小さな商家に生まれ育ったが、その負の遺産に、とことん
苦しんだ。
そういう苦しみは、私の代で終わりにしたい。
何が家だ!
何が先祖だ!
バカヤロー!
●「家」で苦しんでいる人たちへ
こうした過去の亡霊と戦う唯一の方法は、あなた自身が賢くなること。
あなた自身が情報を集め、自分で考え、自分で結論を出すこと。
たとえば私も「戒名」なるものに疑問をもったとき、それを自分で調べた。
とことん調べた。
自分が納得できるまで、調べた。
今では、インターネットという、すばらしい利器もある。
そこに巨大な図書館があると思えばよい。
その気になれば、瞬時、瞬時に、ものごとを調べられる。
法事や仏教の儀式についても、そうだ。
ついでに封建時代の「家制度」についても、調べてみるとよい。
この世界は調べれば調べるほど、矛盾だらけ。
同時に、いかに私たちが和式仏教というカルトの世界で生きているかがわかるように
なる。
カルトだ。
迷信そのものが、常識化している。
その常識の中で、自分を見失っている。
それがわかってくれば、こわいものはない。
「地獄へ落ちる」と脅されても、ひるむことはない。
で、今回、私は自分の信念を試された。
やるべきか、やるべきでないか。
ほとんどの人は、こう思うだろう。
「たかが三回忌ではないか?」と。
しかし私のようにこだわる人も、一方にいるはず。
こだわって苦しんでいる人もいるはず。
冒頭にも書いたように、この問題は、その人の死生観、さらには宗教観や哲学と
深く結びついている。
妥協して、適当にすませればそれでよいという問題ではない。
●扁桃腺炎
名鉄犬山ホテルでは、ひとつの失敗をした。
消灯するとき、エアコンのスイッチを切ってしまった。
おかげで寝苦しいこと、この上なし。
夜中の1時にそれに気づくまで、私もワイフも、何度も目を覚ました。
加えて案の定、夜になって扁桃腺が痛み始めた。
私は再び、アスコルビン酸をジュースに溶かしてのんだ。
幸い、症状はそのまま消えた。
時刻は午前2時。
ワイフは、うしろのベッドで静かに眠っている。
私はテーブルの上のパソコンに向かって、この文章を叩いている。
私にとっては、至極の時。
こうしてものを書いているときだけ、静かに自分を見つめることができる。
そうそう友人のデニスは、今夜はあの「城之崎」で泊まっている。
志賀直哉の『城之崎にて』でよく知られた、「城之崎」である。
その志賀直哉とは比較にはならないが、私は今、犬山にいる。
だからこの原稿のタイトルは、決まった。
『犬山にて』。
2010年9月9日、犬山にて。
(補記)
古い因習と戦うということは、同時に、その因習の中で生きる人たちと戦うことを
意味する。
古い因習を背負っている人たちは、「過去」を背負っている分だけ、強い。
「昔から、こうだった」を理由に、容赦なくあなたを攻撃してくる。
彼らにしても、因習を否定されることは、許しがたい行為ということになる。
この世界には、「自己否定」という言葉がある。
「自己否定」というのは、それまでの自分の人生が無意味だったと知ることをいう。
だからふつうの攻撃ではない。
徹底した攻撃。
命をかけた攻撃。
あなたは即、その攻撃にさらされる。
和式仏教には、こうした古い因習が、それこそ古い苔(こけ)のように重なりあって
いる。
もちろん「教え」はある。
が、今、その「教え」を説く僧侶は、いったいどれほどいるというのか。
「教え」に指導される信者は、いったいどれほどいるというのか。
つい数日前も、ある友人とこんな話をした。
浜松市内に住む友人である。
「林さん(=私)、私の寺の住職は立派な人ですよ。
父が死んだとき、戒名を頼みましたらね、あなたの父親は、それほど社会的貢献を
した人ではない。ふつうの戒名でじゅうぶんです。……ということで、ほとんどただで
戒名をつけてくれましたよ」と。
そしてこうも言った。
「うちの住職はね、そういうことで、檀家の人たちの戒名はみな、平等。お布施の額も
同じ。『人間はみな、平等』を口癖にしています」と。
友人はその住職の宗教観にたいへん感動したようだが、しかしこんなことは感動する
までもないこと。
常識。
世界の常識。
私のようなただの凡人ですら、少し考えればわかる。
私の母などは、「代々、あなたの家は、院号をつけています」と言われて、住職に
言われるまま、院号をつけてもらった。
しかし公家でもない私の母が、院号をつけてもらってどうする?
死んで、皇族の仲間入りでもするつもりなのか?
院号をぶらさげて、あの世でいばるのか?
つまり日本の和式仏教は、そこまでゆがんでいる。
つまりあたりまえのことを言うだけで、信者には、それが新鮮な意見に聞こえる。
人間がみな平等などということは、当たり前のこと。
不平等にして、ちがった戒名をつけているから、こういう珍現象が起きる。
信仰は儀式ではなく、教えに従ってするもの。
教えに始まって、教えで終わる。
あの日蓮だって、遺文の中で、そう書いている。
その教えなくして、信仰はない。
もちろん宗教もない。
儀式だけしっかりとしていれば、それでたとえば成仏できると考えるのは、カルト。
カルト以外の何ものでもない。
またそんなことで成仏できるというのなら、和式仏教そのものがまちがっている。
私たちがなぜ信仰するかといえば、この現世で、より人間らしく人生をまっとうする
ためである。
それには仏教もキリスト教もイスラム教もない。
儀式があるとすれば、そうした儀式を通して、心を整える。
浮ついた心では、静かに自分を見つめることはできない。
あくまでも(教え)が主。
(儀式)は従。
それを踏み外して、信仰はない。
これは信仰をする者の、イロハの「イ」。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 三回忌 3回忌 法事 法事論 犬山 犬山名鉄ホテル 戒名論 和式仏教 法要 法要論)
Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司
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