●日記 はやし浩司 2010-11-19
●63歳の誕生日
63歳になりきれないでいる。
理由はわかっている。
今年の誕生日には、プレゼントをもらっていない。
例年だと、何かプレゼントをもらっている。
が、今年は、もらっていない。
それをワイフに言うと、「そんなはずはない!」と。
私がほしいもの。
(1) TOSHIBAのMXパソコン。
(2) SONYのアルファ(α)カメラ。
(3) 機能がめちゃめちゃ複雑な、腕時計。
(4) パナソニックの「旅ナビ」カメラ。
あえて順位をつけてみた。
しかしパソコンは、今でも5~6台が稼動中。
カメラも、3~4台が稼動中。
腕時計は、どうせすぐあきてしまう。
「旅ナビ」は、口コミ評判(ネット)が、あまりよくない。
やはりTOSHIBAのMXか?
キーボードが独立していて、打ちやすい。
それに表面のザラザラ感が気に入った。
難点を言えば、今使っているMXより、バッテリーのもちがやや短いこと。
しかし同じ仲間だから、バッテリーを共有できるという利点もある。
どうしよう?
●2011年
私の仕事では、毎年今ごろになると、翌年の様子がわかってくる。
40年近くも、同じ仕事をしている。
ある程度の予想ができるようになった。
で、それによれば、2011年は、私にとっては忙しい年になりそう(?)。
たとえば幼児教室にしても、現在の年中児クラスが、そのまま年長児
クラスになる。
不景気な年だと(?)、生徒数が3~4人にまでさがる。
今も基本的には不景気だが、このところ教室への問い合わせが多くなった。
そういう(動き)が、翌年への予想へとつながっていく。
ワイフに「来年もがんばるよ」と声をかけると、ワイフはうれしそうに笑った。
●仕事は自分で作る
私の世界では、「仕事は作るもの」。
「もらうもの」ではない。
魚取りにたとえるなら、水の中に自らもぐり、モリでつく。
釣竿をもって、釣れるまで待つのは、私のやり方ではない。
で、最近の若い人たちを見ていて、たいへん気になることがある。
そのひとつが、ガッツ魂。
ガッツ魂がない。
生き様が受け身。
仕事に対する考え方にしても、そうだ。
仕事はもらうものと考えている。
就職活動というのが、それ。
どうして自分で作らない。
自分で社会に切り込んでいかない。
私には、どうしてもそれが理解できない。
●外国
同じように、「外国へ出ていこう」という若者が少ないのに、驚く。
「外国へ出て働け」というのではない。
外国で、1、2年、暮らしてみる。
「世界を見る」という言い方でもよい。
たとえば『沈まぬ太陽』という映画があった。
その中で映画の主人公が、懲罰左遷とかで、アフリカや中近東へ転勤になる。
そんな場面が出てきた。
が、どうしてそれが懲罰左遷なのか?
当時の世相は、逆だった。
私も商社マンだったからよく知っているが、「外国へ出る」というのは、
それ自体がステータスだった。
私は三井物産という会社にいた。
社員は7000人あまりだった(当時)。
しかしその三井物産にあっても、海外勤務ができる人は、全体の30%。
残りの70%は、国内勤務だった(当時)。
商社マンは、外国で活躍してこそ、商社マン。
当時の私だったら、アフリカだろうが、中近東だろうが、転勤を命じられたら、
喜んでそれに従ったであろう。
日本航空(当時)の社員にしても、そうだ。
山崎豊子氏(原作者)には悪いが、山崎豊子氏はそういう当時の常識すら、
知らなかったのでは?
それに当時は、短期出張と言えば2年が常識だった。
が、その2年で帰ってくる人は、少なかった。
短期出張のハシゴというのもあった。
派遣先から、さらに別の派遣先へ転勤を命じられる人が多かった。
日本は、まだ貧しかった。
1970年当時、羽田―シドニー間の往復航空運賃が42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超えた時代である。
今のように、自由に飛行機に乗ることさえむずかしかった。
●留学
私は留学生試験を受けた。
結果、インドとオーストラリアの両方に合格した。
オーストラリアのほうを選んだ。
(もしインドのほうを選んでいたら、今ごろは死んでいただろう。
当時はまだ風土病についての理解も乏しかった。
肝炎もそのひとつ。
コップ一杯の水を飲んだだけで、急性肝炎になり、命を落とした人は多い。)
が、もし留学生試験に落ちたら、私は船員になってでも、アメリカへ
渡るつもりだった。
船員として働き、アメリカへ渡る。
向こうへ着いたら、そこで働く。
真剣に、それを考えていた。
●日本の若者たち
日本の若者たちが、どうしてこうまで受け身になってしまったのか。
もちろん中には、外国へ出かけていき、そこで働いている日本の若者も多い。
しかしそういう若者は、マイナー。
多くは「外国で苦労するなら、日本で暮らしたほうがいい」と考えている。
たまたま先ほど、高校生のクラスで、みなに聞いてみた。
「君たちの中で、卒業後、留学するとか、外国へ行きたいとか、そういう
ふうに言っている友だちはいるか」と。
が、その答に、私は心底、失望した。
「・・・だれもいない・・・よなあ・・・」と。
私「いないのか?」
高「いないよなあ・・・」
私「外国へ出て、外国を知ってみるというのは、どうか?」
高「先生、そんなのは、旅行で行けばいいんじゃない」
私「旅行で行っても、表面的なことしかわからないよ」
高「そんなことないよ。わかるよ」
私「わからない」
高「わかる」
私「わからない」
高「・・・わかったところで、先生、それがどうなの?」と。
●飼い慣らされてしまった?
どうして日本人は、こうまで飼い慣らされてしまったのか・・・と
聞くだけ、ヤボ。
日本の教育のシステムそのものが、そうなっている。
子どもたちを指導する教師たちが、組織の中で飼いならされてしまっている。
もう10年になるだろうか。
ある高校の校長が、「フリーター撲滅運動」なるものを始めた※。
「撲滅」(=たたきつぶす)だぞ!
「私の高校は、100%就職をめざす」と。
この日本では自由に生きていくことすら、むずかしい。
「自由」とは、「自らに由りながら」という意味である。
このことと直接関係があるとは言えないが、おととい、こんな話を聞いた。
岐阜県の高校では、自転車にも「車検」に似たような制度があるという。
たとえばタイヤの溝にしても、何ミリ以下になると、タイヤそのものを
交換しなければならない。
で、ある母親(岐阜県在住)は、電話でこう言った。
「自転車は安物です。ショッピングセンターで1万円で買ったものです。
そのタイヤ交換に、1万円もかかったんですよ」と。
私「車検みたいですね」
母「そうなんです。自転車屋さんの証明書がないと、その自転車には乗れない
のです」
私「それは暴力団のやり方ですね」
母「そうなんです。だから値段が高くても、ほかの人たちは自転車屋さんで
自転車を買うしかないのです。中には、ほかの店で買った自転車は、修理しません
と断わる店もあります」と。
人間管理、ここに極まれり!
人間は管理されればされるほど、体制に依存性をもつようになる。
依存性をもてばもつほど、生き様が受け身になる。
現在の若者たちは、その結果ということになる。
自転車がパンクすれば、そこから先は、引いて歩けばよい。
チェーンがはずれたら、自分で直せばよい。
ブレーキがきかなくなったら、自転車を倒して止めればよい。
どうしてそういう野生臭を、もっと大切にしないのか?
今、そういう野生臭が、日本の若い人たちから、消えた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 若者の野生臭 たくましさ たくましさとは 日本の若者論)
(注※)「フリーター撲滅運動」(2007-12月記)
●働けど、働けど……(Working Poor)
One third of the Japanese belongs to so-called “Working Poor”, who works less than 1.9 ~5.4 million yen per year. As to the young me aged from 15~24 years old), abt. 50% of them are not-employed workers. The number of not-employed workers has increased abt. 4.9 million in these ten years. Not-employed workers work with less payment without any sufficient insurance. This means that Japanese traditional working system has collapsed where workers could work in their whole lives in one single company. To solve this problem, I insist, deregulation of the society is more and more important. Otherwise there would be more and more working-poor people, especially working-poor young men.
+++++++++++++++++
働けど、働けど……、一向に、生活が楽にならない。
そんな人がふえている。
G市に住む従兄弟(いとこ)と、電話で話す。
夫は、運送会社に勤め、妻は、銀行でコンピュータ管理の仕事をしている。
3人の子どもがいる。
夫は正規社員だが、妻は、非正規社員。
妻の身分は、10年以上、そのままだという。
従兄弟のケースは、まだ恵まれているほうだが、それでも、生活は、毎月ギリギリだという。
夫も妻も、朝から、夜遅くまで働いている。
総務省統計局の調査によれば、この97年から02年までに、いわゆるワーキングプア世帯(非勤労世帯を含む全世帯)は、16・3から22・3%に、ふえたという。
ワーキングプア世帯というのは、「働く貧困層」をいう。
ここでいう「貧困基準」というのは、
1人世帯……年収190万円以下
2人世帯……年収300万円以下
3人世帯……年収394万円以下
4人世帯……年収463万円以下
5人世帯……年収548万円以下(2002年度)の人たちをいう。
現在、日本では、約3分の1の世帯が、そのワーキングプア層に該当するという。
が、ここで注意しなければならないことは、たとえば妻が専業主婦で、子どもが2人いるばあい、4人世帯となるということ。
年収が、463万円以下だと、ワーキングプア層に入ってしまう。
つまり、子どもが多ければ多いほど、生活が苦しくなる。
しかし実際、1人の男性(夫)が、500万円の年収をあげることは、容易なことではない。
正規社員はともかくも、非正規社員だと、なおさらである。年収で、約30%~前後の開きがあると聞いている(浜松地域)。
その正規社員は減り、非正規社員はふえている。同じく総務省統計局の調査によれば、この10年間で、正規社員は約450万人減り、非正規社員は約490万人ふえているという(IMIDAS)。
わかりやすく言えば、企業は、正規社員を減らし、その穴埋めを、給料が安くてすむ非正規社員で補っているということ。
しかしこんなことをつづけていれば、勝ち組と負け組の2極化がますます進む。
が、それだけではすまない。
社会そのものが、不安定化する。
子どもの世界について言うなら、ますます受験競争がはげしくなる。
ついでに言えば、それがストレスとなって、子どもたちの世界を、ますますゆがめる。
いじめもふえるだろう。
子どもの自殺もふえるだろう。
不登校児もふえるだろう。
中に、「能力のある人がいい生活をして、そうでない人が、いい生活ができないのは、しかたのないこと」と説く人がいる。
しかしそれには、大前提がある。
雇用の機会が、だれにも、平等に、かつ均等に与えられなければならない。
しかしこの日本では、人生の入り口で、運よくその世界へ入った人は、生涯にわたって、安楽な生活をすることができる。
またそういう人たちが、自分が得た権益を、手放そうとしない。
公務員の天下りに、その例を見るまでもない。
何か、おかしい?
何か、へん?
総務省統計局の調査を見ると、1996年から99年あたりから、この日本は、大きく変化し始めた。
この時期というのは、ちょうど団塊の世代以下が、リストラにつぐリストラで、職場を追われ始めた時期にあたる。
では、どうするか?
どう考えたらよいか?
私たちの世代は、それでしかたないとして、これからこの日本を支える、これからの若者たちのためには、どうしたらよいか?
今のように、若者(15~24歳)の非正規雇用が、50%前後(男子44%、女子52%、06年)にもなったら、雇用社会そのものが崩壊したと考えたほうがよいのではないか。
わかりやすく言えば、フリーターであることのほうが、今では、当たり前。
であるなら、若者たちがフリーターとして生きていくために、生きやすい環境を、用意する。
つまりそのためには、規制緩和、あるのみ。ただひたすら、規制緩和あるのみ。
たとえばオーストラリアでは、電話1本と、車1台があれば、若者たちは、それで仕事が始められる。
日本で言うような、資格だの、許可だの、認可だの、そういったものは、ほとんど必要ない。
日本は世界的に見ても、管理の上に、「超」が、10個ぐらいつく、超管理国家である。
官僚主義国家の弊害と言えば、それまでだが、一方でこうして若者たちの世界を、がんじがらめに縛りつけている。
簡単に言えば、一方でフリーターをつくりながら、他方で、フリーターには、生きにくい社会にしている。(そう言えば、数年前、『フリーター撲滅論』を唱えた、どこかのバカ校長がいた。「撲滅」だと!)
これを矛盾と言わずして、何と言う。
私はそのフリーターを、40年近くしてきた。
浜松に来たころには、市の商工会議所に登録している翻訳家は1人しかいなくて、私が2人目だった。
私は工業団地の電柱に張り紙をして、仕事を取ってきた。
資格も認可も、いらなかった。
今、そういう「自由」がどこにある?
またそういう自由があるからこそ、社会に、ダイナミズムが生まれ、そのダイナミズムが、社会を発展させる。
働けど……、働けど……。
そんなわけで結局は、働くしかない。
ということで、言いたいこと、書きたいことは、山ほどある。あるが、ここは、「バカヤロー」と叫んだところで、おしまい。バカヤロー!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ワーキングプア ワーキング・プア working poor working-poor)
Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)
●はやし浩司 2010-11-19
●静かな朝
今朝はかなり早い時刻に、目が覚めた。
何か夢を見ていたようだが、思い出せない。
顔に冷気を感じながら、暗闇の中で、あたりを見回す。
朝日はまだのよう。
「何時だろう?」
そんなことを考えながら、あれこれ考える。
●運動
最初に迷ったのは、運動。
起きて、ルームウォーカーで運動すべきかどうか。
寝ているのも1時間。
運動するのも1時間。
寒い朝でも、20~30分もすれば、汗をかくほど体が暖まる。
それはよくわかっている。
しかしその踏(ふ)ん切りがつかない。
「何時だろう?」
また、そんなことを考えた。
「もう少しで明るくなるはず。そしたら起きよう」と。
昨夜は、いつもより早く床についた。
10時ごろだったかな……?
●生かされている
最近、私は、「生きている」のではなく、「生かされている」と思うことが多くなった。
その第一。
今、ここで死ぬわけにはいかない。
病気になることも許されない。
がんばるしかない。
がんばって、仕事をつづけるしかない。
今日、明日と講演がつづく。
怠(なま)けた体では、講演はできない。
それに私がいちばん恐れるのは、この(流れ)が止ること。
漢方の世界では、『流水は腐らず』という。
これは健康論について言ったものだが、漢方では肉体と精神の健康を区別しない。
肉体と精神の健康は、密接不可分のものと考える。
今の私に必要なのは、「流水」、つまり「日々の緊張感」。
これが止ったら、……というか、そのあと私はどう生きていけばよいのか。
その先が見えない。
まったく見えない。
肉体だけではない。
精神そのものも、ボロボロになってしまう。
だから生きていくしかない。
仕事をやめるわけにはいかない。
書くのをやめるわけにはいかない。
それが「生かされている」という思いにつながっている。
●二男
ふと、二男はどうしているだろうと思う。
息子は3人いるが、私がいちばん気にかけたのは、二男だった。
好きだった。
私なりに愛情を、いちばんかけた。
そのこともあるのだろう。
以前、近くのパソコンショップに、MKさんという店員がいた。
歩き方、話し方が、二男にそっくりだった。
もちろん顔つきまで、そっくりだった。
そのこともあって、私とワイフは、いつもその店に行くのが楽しみだった。
MKさんい会うたびに、「よく似ている」と笑いあった。
もちろんそのことは、その店員には言わなかった。
かわりに、多少値段が高くても、パソコンや関連商品は、その店で買った。
すべてMKさんを通して買った。
MKさんも、私たちによくしてくれた。
が、MKさんは、そのうち別の店に転勤になってしまった。
そのつど、「今、MKさんは、どちらに?」が、その店でのあいさつ言葉になってしまった。
さみしかった。
わざわざ会いに行こうかと考えたこともある。
・・・と、まあ、そんな話を、食事のときワイフとした。
「MKさんは、どの店にいるのかなあ」
「一度、聞いてみたら・・・」と。
そのときふと、あの正田氏のことを思い出した。
現在の美智子皇后陛下の故父君である。
あるときその正田氏に、食事をしながら、こう聞いたことがある。
「正田さんは、どうしてぼくを(留学生に)選んでくれたのですか?」と。
正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。
「浩司の『浩(ひろ)』が同じだろ」と。
私はそのときは、「ナーンダ、そんなことで」と思った。
が、今になってみると、そのときの正田氏の気持ちがよくわかる。
そしてしばらく間をおいて、正田氏はこう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。
それについて書いた原稿がある(中日新聞掲載済み)。
正田氏が亡くなる前に書いた原稿である。
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「最高の教育」について書いた
原稿です。
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最高の教育とは【15】
●私はとんでもない世界に!
私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。現在の皇后陛下の父君。このことは前にも書いた。そしてその正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本Y氏だった。坂本竜馬の直系のひ孫氏と聞いていた。
私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏はその委
員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに行くたび
に、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。そんなある日、私は正田氏に、「どうして私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞いたことがある。
正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の『浩(ひろ)』が同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。
おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。このことも前に書いたことだが、私が寝泊まりをすることになったメルボルン大学のインターナショナルハウスは、各国の王族や皇族の子弟ばかり。
私の隣人は西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣の息子などなど。毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕食を共にした。
首相や元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。ときどき各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数カ月単位で宿泊することもあった。東京大学から来ていた田丸先生(二〇〇〇年度日本学士院賞受賞)もいたし、井口領事が、よど号ハイジャック事件(七〇年三月)で北朝鮮へ人質となって行った山村運輸政務次官を連れてきたこともある。山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンへ来ていた。
が、「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしていることすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一度だけ、私は自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。
●落ちていた五〇セント硬貨
ハウスの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあっ
た。ある朝のこと、花瓶の一つを見ると、そのふちに五〇セント硬貨がのっていた。だれかが落としたものを、別のだれかが拾ってそこへ置いたらしい。
当時の五〇セントは、今の貨幣価値で八〇〇円くらい。もって行こうと思えば、だれにでもできた。しかしそのコインは、次の日も、また次の日も、そこにあった。四日後も、五日後もそこにあった。私はそのコインがそこにあるのを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そのときのことだ。私は「最高の教育を受けている」と実感した。
帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いているという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんなときでも私を支え、救ってくれたのは、あの五〇セント硬貨だった。
私は、情緒もそれほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だったが、曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの五〇セント硬貨のおかげだった。私はあの五〇セント硬貨を思い出すことで、いつでも、どこでも、気高く生きることができた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 最高の教育 最高の教育とは 正田英三郎)
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