●父親の存在とは
●自由と孤独(父親の存在とは?)「父子論」byはやし浩司
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昨日も介護に疲れた息子(50代)が、
父親(80代)を殺すという事件が起きた。
痛ましい事件である。
こういう事件を見聞きすると、介護の経験の
ない人は、「どうして?」と首をかしげる。
私もそうだったし、今のあなたもそうかも
しれない。
しかし「介護」のもつ重圧感には、相当な
ものがある。
それはいつ晴れるともなく綿々とつづく、
曇り空のようなもの。
被介護者との間に良好な人間関係があれば、
まだ救われる。
が、それがないと、「介護」はとたん、巨大な
重石となって、あなたを押しつぶす。
それはそれとして、つまり介護の問題は別として、
息子が父親を殺した。
ここに焦点を当てて、今朝は、父親と
子ども(息子や娘)、つまり「父子論」について
考えてみたい。
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●自己評価力
ほとんどの人は、「私はふつう以上の、ふつうの人間」と思っている。
少なくとも、平均以上の人間と思っている。
自分のことを客観的、かつ正確に知る人は少ない。
さらに、ほとんどの親は、「私はふつう以上の、ふつうの親」と思っている。
ここでは親といっても、「父親」に的をしぼって考えてみる。
つまりこと、父親に関して言うなら、少なくとも、平均以上の父親と思っている。
自分のことを客観的、かつ正確に知る人は少ない。
が、まわりの人たちは、あなたを「ふつうの人」とは思っていない。
あなたの子どもたちは、あなたを「ふつうの父親」とは思っていない。
このことはいろいろな調査結果を見ても、わかる。
以前「断絶」という題で、それについて書いたことがある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●断絶とは
「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないな
どがある。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、
わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうという5つの機能があるが、断絶状態になる
と、家族がその機能を果たさなくなる。
親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即
発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親
で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こうい
う状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子ども
はそれに反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。
しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認め
あわない状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は5
5%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青
少年白書』平成10年)。
もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論した
り、逆らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ
親は少なくないが、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の
何ものでもなかった。江戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまれば
そのまま佐渡の金山に送り込まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、
今でも、親の権威にしがみついている人は少なくない。
日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。た
とえば子どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家
族」を誇る親は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入っ
てくれれば」と、子どもの受験競争に狂奔する親すらいる。
価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見よりも中身こそ、大切にすべきでは
ないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という状態は、まさに家庭教育の
大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあ
い、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべ
てマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えては
いけない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●79%!
この原稿の中で、とくに注意してほしいところは、つぎ。
……「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成
10年)……。
あなたはこの「55%」「79%」という数字をどう読むだろうか。
さらに一言、付け加えるなら、この中には、「父親を軽蔑している」という調査項目がなか
ったのは、なぜか?
言うまでもなく、総理府(現在の内閣府)の調査では、そこまではできなかった。
つまり「父親を尊敬していない」の中には、当然、「父親を軽蔑している」という子どもも、
多数含まれる。
さらに言えば、100-79=21%の子どもが、「父親を尊敬している」という
ことにはならない。
「何とも思っていない」という子どもが、大半と推定される。
つまり父親の存在感は、きわめて薄い。
父親の立場は、きわめて弱い。
しかしほとんどの親(父親)は、「私はだいじょうぶ」と高をくくっている。
つまり自己評価力は、その分だけ、きあめて低い。
そこで私は、この数字を、逆にこう読む。
「父親というのは、そういうもの」と。
あのフロイトも、「血統空想」という言葉を使って、それを説明している。
それについて書いたのが、つぎの原稿。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●父親・ヨセフ
●今朝・あれこれ(2007年11月19日)
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昨夜、どこか風邪っぽかった。
が、外食。大きな店だったが、
暖房があまりきいていなかった。
肉料理を久しぶりに食べたが、
家に帰ると、悪寒。薬をのんで、
そのまま就寝。
ところで、この土日に、2本の
DVDを見た。
『敬愛なるベートーベン』と、
『ドレスデン』。ともに、すばらしい
映画だった。
学生のころは、毎年、第九交響曲を
歌っていた。映画を見ながら、
いっしょに合唱。涙、ポロポロ。
『敬愛なるベートーベン』は、
星は4つの、★★★★。
もう1本の『ドレスデン』も、
星は4つの、★★★★。2時間半もの
大作なので、じっくりと構えて見るの
がよい。
ドイツも、このところ、すばらしい
映画を制作するようになった。
CGも、ハリウッド映画に追いついた
という感じ。
よかった! 感動した!
ほんとうは、どれも星は5つかも
しれない。乱発すると価値が
さがるので、あえて、星は、
4つにした。
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●ヨセフ
今度、キリストの父親のヨセフをテーマにした映画が、劇場で公開されるという。公開されしだい、ワイフと見に行くつもり。ワイフは、たいへん楽しみにしている。
チラシには、こうある。
「あの日、ヨセフがマリアを信じなければ、あの時、ふたりが大王による虐殺から逃れえなければ、キリストは誕生しなかっった」と。
キリスト教会の中には、「聖ヨセフ教会」というのもあるが、全体としてみると、父、ヨセフの影は薄い。マリア像をかかげる教会は多いが、ヨセフ像をかかげる教会は、ほとんど、ない。
私は、若いころから、教会へ行くたびに、それを疑問に感じていた。そういう疑問をベースに、以前、いくつかの原稿を書いたことがある。
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●育児に参加しない父親
Q 父親が育児、教育に無関心で困ります。何もしてくれません。負担がすべて、私にのしかかってきます。
A 子どもと母親の関係は、絶対的なものだが、子どもと父親の関係は、必ずしもそうではない。たいていの子どもは、自意識が発達してくると、「私の父はもっと、高貴な人だったかもしれない」という「血統空想」(フロイト)をもつという。
ある女の子(小5)は母親に、こう言った。「どうしてあんなパパと、結婚したの。もっといい男の人と結婚すればよかったのに!」と。理屈で考えれば、母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは存在していなかったことになるのだが…。
そんなわけで特別の事情のないかぎり、夫婦げんかをしても、子どもは、母親の味方をする。そういえばキリスト教でも、母親のマリアは広く信仰の対象になっているが、父親のヨセフは、マリアにくらべると、ずっと影が薄い?
これに加えて、日本独特の風習文化がある。旧世代の男たちは、仕事第一主義のもと、その一方で、家事をおろそかにしてきた。若い夫婦でも、約30%の夫は、家事をほとんどしていない(筆者、浜松市で調査)。身にしみこんだ風習を改めるのは、容易ではない。
そこで母親の出番ということになる。まず母親は父親をたてる。大切な判断は、父親にしてもらう。子どもには、「お父さんはすばらしい人よ」「お母さんは、尊敬しているわ」と。決して男尊女卑的なことを言っているのではない。もしこの文を読んでいるのが父親なら、私はその反対のことを書く。つまり、「平等」というのは、たがいに高い次元で尊敬しあうことをいう。まちがっても、父親をけなしたり、批判したりしてはいけない。とくに子どもの前では、してはいけない。
こういうケースで注意しなければならないのは、父親が育児に参加しないことではなく、母親の不平不満が、子どもの結婚観(男性観、女性観)を、ゆがめるということ。ある女性(32歳)は、どうしても結婚に踏み切ることができなかった。男性そのものを、軽蔑していた。原因は、その女性の母親にあった。
母親は町の中で、ブティックを経営していた。町内の役員もし、活動的だった。一方父親は、まったく風采があがらない、どこかヌボーッとした人だった。母親はいつも、父親を、「甲斐性(生活力)なし」とバカにしていた。それでその女性は、そうなった?
これからは父親も母親と同じように、育児、教育に参加する時代である。今は、その過渡期にあるとみてよい。同じく私の調査だが、やはり約30%の若い夫は、育児はもちろん、炊事、洗濯、掃除など、家事を積極的にしていることがわかっている。
…というわけで、この問題は、たいへん「根」が深い。日本の風土そのものにも、根を張っている。あせらず、じっくりと構えること。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●母親の役目
子どもにとって、自分と母親の関係は、絶対的なものだが、しかし自分と父親の関係は、絶対的なものではない。「母親から生まれた」という実感はあるが、「父親から生まれた」という実感は、もちにくい。だからたいていの子どもは、自意識(だいたい10歳前後から)が発達してくると、父親との間に、一定の距離を置くようになる。「ひょっとしたら、自分は父親の子どもではないかもしれない」と思う子どもも少なくない。
ある男の子(小5)は、こう言った。「ママが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと幸福になれた」と。
こういうケースでは、「パパが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと幸福になれた」とは、言わない。中には母親に向かって、「どうしてあんなパパと結婚したの!」と、迫る子どもさえいる。理屈で考えれば、もし母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは、絶対に生まれていなかったことになるのだが……。
このことは、子どもと母親の結びつきを理解するには、たいへん重要なポイントとなる。わかりやすく言えば、子どもと母親のつながりは、父親のそれよりも太いということ。もちろん中には、そうでないケースもあるが、少なくとも、子どもの側からみると、太い。だから父親と母親が、けんかをすると、特別の事情がないかぎり、子どもは、母親の味方をする。歌にしても、母親をたたえる歌は多いが、父親をたたえる歌は少ない。
たとえば窪田聡氏が作詞した、『かあさんの歌』にしても、森進一氏が歌う、『おふくろさん』にしても、母親をたたえる歌である。「♪母さんは、夜なべをして……」とは、歌うが、同じように苦労をしている父親に対して、「♪父さんは、夜なべをして……」とは、歌わない。
最近、演歌歌手のK氏が、父親をたたえる歌を歌いだしたが、そういう歌は例外と考えてよい。つまり母親というのは、どこかたたえやすいが、父親というのは、どこかたたえにくい?
このことと関連しているのかもしれないが、たとえばキリスト教でも、聖母マリアをたたえる信者は多いが、父親ヨセフをたたえる信者は少ない。実のところ、これがこのエッセーを書き始めたヒントになっている。昨夜ワイフが、ふと、「どうしてヨセフは影が薄いのかしら?」と言ったのが、きっかけになった。
話が脱線したが、つまり子どもの側からみたとき、父親と母親は、決して対等ではない。子どもにとって母親は、父親以上に、特別な存在である。幼児でも、「お母さんがいないと、どんなことで困りますか?」と質問すると、つぎつぎと答がかえってくる。しかし「お父さんがいないと、どんなことで困りますか?」と質問すると、とたんに、答が少なくなる。
そこで母親は、このアンバランスを、子育ての場で、調整しなければならない。そして結果として、子どもの側から見たとき、父親と母親が、等距離にいるようにしなければならない。この仕事は、父親ではできない。それをするのは、母親自身ということになる。
方法としては、母親の立場をよいことに、母親だけが親であるというような押しつけはしないこと。もっと言えば、家庭教育の場で、父親の存在を、いつも子どもに感じさせるようにする。「これは大切な問題だから、お父さんに判断してもらいましょうね」「お父さんががんばってくれるから、みんなが安心して生活ができるのよ」とか。
決して男尊女卑的なことを言っているのではない。賢い母親なら、そうする。たがいに高い次元に置き、尊敬しあうことを、「平等」という。もちろんこの文章を読んでいるのが父親なら、その反対のことをすればよい。
しかし、なぜ私がこのエッセーを書いているかについては、もう一つの理由がある。それは今、父親の存在感が、ますます薄くなってきているということ。これに対して、「父親の威厳を回復せよ」という意見もあるが、今は、もうそういう時代ではない。「威厳論」をもちだしても、子ども自身が従わない。そこでここでいうように、「たがいに高めあう」という意味での、平等論ということになる。
またまた話が脱線したが、家庭教育においては、いかにして子どもと父親のパイプを太くするかが、重要なテーマと考えてよい。またその努力を怠ると、家族そのものが、バラバラになってしまう。話せば長くなるが、問題行動を起こす子どもの家庭ほど、父親の存在感が薄いことが知られている。
もっとはっきり言えば、母親だけでは、子育てはできないということ。できなくはないが、失敗する確率は、ぐんと高くなる。そのためにも、子どもと父親のパイプは、今から太くしておく。そしてそれをするのは、母親の役目ということになる。
(03-1-5)
【追記】
よく父親の教育参加が話題になるが、それはここにも書いたように、そんな単純な問題ではない。父親が、「では、私も子育てに参加してみるか」と思うころは、すでに手遅れ。問題の「根」は、もっと深い。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●父親、ヨセフ
●存在感の薄い、ヨセフ
イエス・キリストの父親は、ヨセフである。しかし母親のマリアは、処女懐胎している。一説によると、そのときヨセフは、マリアと婚約関係にはあったが、マリアとは性的関係はなかったとされる。また一説によると、処女懐胎のことは、マリアには、天使が知らせたが、ヨセフには、知らせなかったという。さらにヨセフは、イエス・キリストが、神の子としての活動を始める前に、死んでいる。ここでキリスト教、最大の謎にぶつかる。父親ヨセフは、では、いったい、何であったのか、と。
この議論は、キリスト教の世界では、すでにし尽くされているほど、し尽くされている。私のような門外漢が、いまさら、論じても意味はない。そこでここでは、もう一歩、話を先に進めてみたい。
●母親は絶対
母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それは母親が、出産、授乳という直接的な方法で、子どもの「命」そのものにかかわるからと考えてよい。一方、父親と子どもの関係は、母親とくらべると、もろく不安定なもの。わかりやすく言えば、「精液一しずく」の関係にすぎない。このちがいは、そのあとの親子関係にも、色濃く反映される。
たとえば夫婦でけんかをしたとする。そのとき子どもは、たいてい母親の側にたつ。そればかりか、子どもは、自意識が発達してくると、「自分は父親の子どもではないのでは」という疑いをもつようになる。「私の本当の父親は、もっと高貴な人物で、私もそれにふさわしい人物にちがいない」と。これをフロイトは、「血統空想」と呼んだ。
実際、男というのは、排泄が目的だけのためのセックスをすることができる。その気にさえなれば、行きずりの女性と、数時間だけの性的関係をもつことだって可能である。一方、女には、妊娠、出産、育児という責務がその時点から課せられる。
もし男も女も、同等の快感であったとするなら、女はセックスなどしないだろう。そのあと予想される「重荷」を考えたら、とても割にあわない。たとえば男というのは、そのセックスの途中であっても、冷静に、女の反応を楽しむことができる。しかし女はそうではない。無我夢中というか、我を忘れてセックスの快感に酔いしびれる。
またクライマックスの長さも深さも、男のそれとは比較ならないほど、長く、深い。恐らく長い間の進化の過程でそうなったのだろう。つまり女にとっての快感は、そのあと予想される「重荷」を忘れさせるほど、すばらしいものであるらしい。またそれがあるから、女も、あと先のことを考えることなく、セックスに没頭することができる?
となると、太古の昔の男女関係がどういうものであったかについて、こう推理することはできる。
●親は、母親だけ?
人間が、下等な哺乳動物の時代においては、あるいはそれよりもずっと先の時代においては、男というのは、ただの「精液供給者」にすぎなかったのでは、と。結婚という形ができたのは、ずっとあとのことで、それ以前はというと、子どもにとって親というのは、母親でしかなかったのでは、と。その原始的な関係が、イエス・キリスとマリアの関係に、如実に示されていると考えられなくもない。
で、インターネットで検索してみると、父親のヨセフをたたえる教会も、少なからず存在することがわかった。こうした教会では、父親のヨセフの苦悩や悲しみ、さらにはそれを克服した崇高さを、ことさら美化している。
しかしその視点そのものが、結婚観が確立し、父親像、母親像が確立した、「現代」から見た視点にすぎない。つまり現代という視点から見れば、どう考えても矛盾する。おかしい。おかしいから、どうしても父親のヨセフを、たたえる必要性が生まれた?
しかし当時といえば、社会秩序そのものが確立されていなかった。だから当然のことながら、家族という概念も、まだ確立されていなかった。少なくとも、現在、私たちが考える家族観、……つまり、父親がいて、母親がいて、そして子どもがいるという家族観とは、異質のものであったと考えるのが正しい。この日本でも、「家」中心の家族観から、「個」中心の家族観に改められたのは、戦後のことである。
●母親と父親は平等ではない?
こう考えていくと、母親と子どもの関係と、父親と子どもの関係は、決して平等でも、同一のものでもないことがわかる。このことは、母親の子どもに対する意識と、父親の子どもに対する意識の違いとなっても現れる。自分の子どもを見ながら、「この子どもは私の子どもではない」と疑う母親は、絶対にいない。しかし同じように自分の子どもを見ながら、「ひょっとしたら、この子どもは、私の子どもではない」と疑う父親はいくらでもいる。そしてそれがちょうどカガミに映されるかのように、子どもの心となる。
つまり子どもにとって、親は、母親であったということは、一方で、「父親」という概念は、ずっとあとになって、生まれたと考えるのが正しい。少なくとも社会秩序が確立し、一夫一妻制度が確立したあとに、その輪郭を明確にした。それ以前はというと、父親は、まさに「精液一しずく」。
そこで家庭では、まず父親の存在と、母親の存在は、平等ではないという前提で、考える。父親の母親化、あるいは反対に母親の父親化ということは、ある程度はありえるが、子どもの意識まで変えることはできない。いくら父親が母親らしくしても、父親の乳首を吸う子どもはいない。
●母親は父親を立てる
で、ここから先は、母親の出番ということになる。母親は絶対的な立場を利用して、父親と子どもの関係を、より強固にするという義務がある。具体的には、家庭では、(1)子どもが父親との関係を疑わないようにする。子どもが「血統空想」(フロイト)をもつこと自体、すでに、父親と子どもの関係は、ゆらぎ始めているということ。
つぎに(2)母親は、父親を自分より上位に置くことにより、父親の家庭における存在を高める。こう書くと、男尊女卑論だと騒ぐ人がいるが、そうではない。「平等」というのは、互いに相手を高い次元においてはじめて、平等という。「父親を立てる」ということ。「大切な判断は、お父さんにしてもらおう」「この話は、お父さんにも聞いてもらおう」と。そういう姿勢を通して、子どもは、父親像を学ぶ。身につける。
●父親ヨセフの苦悩
こうして考えてみると、イエス・キリストの父親である「神」は、イエス・キリストをもうけるためにマリアを選んだが、ヨセフは、選ぶという対象そのものにはなっていなかったのではということになる。はっきり言えば、マリアとイエス・キリストのめんどうをみるなら、だれでもよかった? ……こう書くと、猛反発を受けそうだが、しかし事実を冷静に積み重ねていくと、そうなる。あるいは、あなたがヨセフならどうだったかという視点で考えてみるとよい。
妻が、ある日突然、妊娠した。自分には性交したという記憶がない。そこで妻を問いつめると、「神の子だ」という。半信半疑だったが、しかしやがて子どもは生まれてしまった。そういう状況に置かれたら、あなたはどう考えるだろうか。
ヨセフをたたえる教会では、「そうした苦悩を乗り越えたところに、父親ヨセフの偉大さがある」というような論陣を張るが、それはあくまでも結果論。結果的に、イエス・キリストが、偉大な人物になったから言えることであって、そうでなかったら、そうでなかったであろう。
いやそれ以上に、イエス・キリストはどうであったのか。ヨセフを父としながらも、おそらく母親のマリアからは、「あんたの父は、ヨセフではない。天にいる『主』である」と聞かされていた。イエス・キリストは、そういう話を、どこでどう納得したのか。矛盾を感じなかったのか。あるいはそれこそ、フロイトがいう、「血統空想」そのものではなかったのか?
「どうしてキリスト教では、父親のヨセフの影が薄いのか」、また「どうしてキリスト教会では、マリア像を飾るが、ヨセフとマリアを並べて飾らないのか」という、何気ない疑問をもったのがきかっけで、このエッセーを書いてみた。このつづきは、また今度、どこかの教会へ行ったときにでも、じっくりと考えてみる。
(03-1-15)
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「マリア」のチラシの裏面には、こうある。
「本作は、神学、歴史、政治、社会、文化などのあらゆる専門家の協力を得て、マリアとヨセフ、そしてキリスト誕生までの物語を、忠実に再現。突然、神からの啓示を受けた若いふたりがどのように困難を乗り越え、お互いの親愛を築いていったのか? そしてクリスマスの本当の意味とは……」とある。
映画が楽しみだ。
そうそう、ほかに、ニコラス・ケイジ主演の、「ナショナル・トレジャー」と、アンジェリーナ・ジョリー主演の、「マイティ・ハート」も封切りになる。ワイフは「みんな見に行く」とがんばっているので、つきあうつもりでいる
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 フロイト 血統空想 マリア ヨセフ)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●父親と子ども(息子と娘)
自分という人間が、他人にどう評価されているか、それを知る能力が、「自己評価力」
ということになる。
その力がある人ほど、自分を客観的に見つめる能力をもっている。
(あるいは、その逆でもよいが……。)
が、こと「父親」に関していうなら、子どもにどのように評価されているか、それを
客観的に評価できる父親は、いない。
そのヒマもない。
余裕もない。
家族や生活を支えるだけで、精一杯。
だから父親は、「自分」をそのまま、ストレートに子どもたちにぶつけてしまう。
私もそうだったし、今のあなたも、そうかもしれない。
だからといって、今ここで、「子どもたちの視点で、もう一度、自分を見つめなおして
みよう」などと、提案するつもりはない。
はっきり言えば、そんなことは、どうでもよい。
先にも書いたように、父親というのは、そういう存在。
「嫌われて当然」という存在。
それがわからなければ、一度、あなたの周囲を見回してみればよい。
あなたの周囲で、父親と子ども(息子や娘)が、仲よく、「友」の関係にある人は
いるだろうか。
私にも、60数名近い、いとこたちがいるが、父親と子ども(息子や娘)が、うまく
いっている親子は、ほとんどいない。
「ゼロ」と断言してもよい。
★父親が心筋梗塞で倒れても、見舞いにいかない。
★同居して40年になるが、たがいに口をきかない。
★生まれてこの方、父親と会話らしい会話をしたことがない。
★離婚したあと、父親には一度も会っていない。
★仏壇を開いて、手を合わせたこともない、など。
だからといって、そういう、いとこたちを責めているのではない。
私自身も似たようなもの。
私の息子たちも似たようなもの。
言い替えると、「子ども(息子や娘)に好かれよう」「尊敬されよう」と考えても無駄。
子どもたちはさらにその向こうで、「父親のようになりたくない」と考える。
いかにあなたが、平均以上のすばらしい父親であっても、だ。
だからわかりやすく言えば、こういうこと。
「あなたの知ったことではない。
父親の役目を果たしたら、さっさと子どもたちから去ればよい」と。
●パラドックス
どこの家庭も、表面的には、うまくいっているように見える。
しかしそれは「表面」だけ。
どこの家庭にも、それぞれ問題がある。
問題のない家庭は、ない。
ただ残念なことに、今の若い夫婦(父親と母親)は、不幸な家庭、あるいは生活の
苦労というものを知らない。
つまりそうした不幸や苦労を受け入れる度量が、きわめて狭い。
小さい。
だから父親の(父親にかぎらないが)ささいな欠点をとらえては、おおげさに騒ぐ。
(してもらったこと)を忘れ、(ないものねだり)に始終する。
「私の父親は、ここが悪い」「あそこが悪い」と。
が、これだけは忘れない方がよい。
私も若いころ、私の父親を、そういう形で批判した。
つまり今度は、やがてあなた自身も、そういう形で批判される。
いかにあなたが「私は完ぺきな父親」と思っていても、だ。
つまりそこに自己評価力の、落とし穴がある。
たとえばひとつの例として、「寝る前の読み聞かせ」を取りあげてみる。
●読み聞かせ
私は戦後生まれのあの時代の人間である。
父親に本を寝る前に読んでもらったという経験がない。
母親にもなかったと思う。
記憶には、ない。
で、そういう私が父親になった。
子どもを3人、もうけた。
が、世代連鎖というのは、恐ろしい。
無意識のうちにも、親は、自分が受けた子育てを再現する。
よい再現なら、問題はない。
しかしそうでない再現もある。
私は3人の息子たちに、寝る前に読み聞かせをしてやったことは、一度もない。
そういう習慣そのものがなかった。
で、たとえば、(実際に、息子たちがそう不満を漏らしているわけではないが)、
息子の1人が「パパは、ぼくたちが子どものころ、寝る前に読み聞かせをしてくれ
たことがない」と言ったとする。
息子たちは外国の映画を見、外国にはそういう習慣があることを知ったらしい。
が、この日本には、なかった。
そういうふうに言われたら、この私は何と答えればよいのか。
まさか「ごめん」とは、言えない。
で、息子たちは結婚し、子ども(孫)をもうけたとする。
そして自分がしてほしかったことを、子ども(孫)にする。
寝る前に、ベッドで横になり、本の読み聞かせをしてやる。
いつか見た、あの「映画」のように、だ。
で、ここで一件落着。
めでたし、めでたし……ということになる。
息子たちは、私ができなかったことをし、親子(息子と孫)の絆を深める。
よい親子関係を築く……と書きたいが、ここで待ったア!
本当に、それでよい親子関係を築くことができるだろうか?
答は、「NO!」。
たぶん息子たちの子ども(孫)は、いつかこう言うにちがいない。
「パパは、毎晩、頼んでもいないのに本を読み聞かせ、ぼくたちを眠らせてくれ
なかった」と。
わかるかな?
このパラドックス?
私は私で、私の思いがあって、子育てをした。
その第一、息子たちには、ひもじい思いだけはさせたくなかった。
貧乏の恐ろしさは、いやというほど、身にしみている。
大学の学費についても、これまた惜しみなく注いだ。
自分がしたような苦労だけは、させたくなかった。
私は毎月、実家から、下宿代しか送ってもらえなかった。
が、そういう思いというのは、息子たちには、伝わらない。
伝わらないばかりか、(実際に、そう言っているわけではないが)、息子たちは、
たぶん、こう思っているにちがいない。
「パパは、毎日仕事ばかりしていて、家族を顧みなかった。そのため家族はバラバラ
だった」と。
●決別
子離れとは、結局は、依存性との決別を意味する。
相互依存と言い替えてもよい。
この依存性があるかぎり、「父親というのは、さみしい存在」ということになる。
が、ひとたび依存性を断ち切ってしまえば、あとは楽。
目の前の道が、パッと開ける。
つまり宝くじと同じ。
当たればもうけもの。
父親と子どもの関係も、またしかり。
たまによいことがあれば、もうけもの。
そう考えて、当たることを期待してはいけない。
また当たろうと努力しても、無駄。
こと、父親と子どもの関係について言えば、当たらなくて、当たり前。
期待しない。
幻想を抱かない。
そういう前提で、自分の将来を考える。
それが父親と、子ども(息子や娘)との、あるべき姿ということになる。
これであなたも、少しは気が楽になっただろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 父子論 父親と子ども論 父親と子供論 親子論 親子とは何か 総理府調査 青少年白書 将来親のめんどうを見る 父親のようになりたくない 総理府 青少年白書 はやし浩司 父親の役割 断絶 親子の断絶)
Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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