●孤独で死を考えているあなたへ
【孤独論】(孤独で眠られぬあなたへ)改
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孤独感は、強烈なストレッサーとなり、
脳内で、脳内ストレスを引き起こす。
短期的には、アドレナリンの分泌を誘発し、
動悸、発汗などの症状を引き起こす。
慢性化すると、サイトカインを分泌し、
低体温、思考力の低下、憂うつ感、
気力や性欲の減退を引き起こす。
心がバラバラになるだけではない。
免疫機能にも影響し、体内の免疫力が低下する。
もろもろの病気を誘発し、心疾患、脳疾患、
さらにはがんをも誘発する。
孤独、それにまつわる孤独感を、安易に
考えてはいけない。
孤独はまさに、「心のがん細胞」。
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●孤独=絶望
仏教でも、孤独を「無間地獄」と位置づけている。
まさに地獄。
人は孤独の世界に陥ると、目に見えない業火で体中を焼かれる。
孤独ほど、恐ろしいものはない。
だれにも相手にされない。
だれにも愛されない。
だれにも理解されない。
あなたの存在を気にかける人さえいない。
あのイエス・キリストでさえ、始終、弟子たちに、「あなたは私を愛しているか?」と
問いつづけたという。
その孤独。
闘えば闘うほど、あるいはもがけばもがくほど、キバをむいてあなたに襲いかかってくる。
また闘って、闘えるような相手ではない。
もがいたところで、どうにもならない。
最悪のばあいは、(多くの人はそうしているが)、自ら命を絶つということにもなり
かねない。
孤独は、まさに心のがん細胞。
自ら増殖し、自分の宿り主の命さえ、奪う。
では、どうするか?
●受け入れる
孤独もひとつの「運命」にすぎない。
私たちの体や心は、無数の目に見えない糸で、がんがらめになっている。
過去の糸、現在の糸、生い立ちの糸、社会の糸、家族の糸、仕事の糸、肉体の糸、
健康の糸、人間関係の糸、などなど。
自分で「あっちに行きたい」と思っていても、「糸」がそれを許さない。
ときに自分の望む方向とはちがった方向に、自分を引っ張っていってしまう。
こうして人には、「運命」が生まれる。
人は、常に、その運命に翻弄される。
その運命。
逆らえば逆らうほど、運命は、キバをむいてあなたに襲いかかってくる。
「いやだ」「避けたい」と思えば思うほど、それが重荷になってくる。
が、その運命も、受け入れてしまえば、何でもない。
受け入れてしまえば、運命は、向こうのほうから去っていく。
尻尾を巻いて去っていく。
で、そのあとやってくるのは、すがすがしいほどに、さわやかな世界。
孤独も、また同じ。
●「生きたい」vs「死にたい」
孤独との闘いは、壮絶なものとなりやすい。
それもそのはず。
「生きたい」という人間の根源的な欲望と、「死にたい」という人間の根源的な
自己否定が、孤独をはさんで、まっこうから対立する。
これほどまでにはげしい葛藤(コンフリクト)は、ほかにない。
そもそも「生きたい」という欲望は、「死にたい」という自己否定を裏返して生まれる。
言い替えると、「生きたい」と強く思う人は、その一方で、「死にたくない」という思いと
闘う。
つまり日頃から、「生きたい」と願っている人は、それだけ「死にたい」という自己否定感
が強い人ということになる。
何も考えない人、つまりノー天気な人は、「生きたい」という思いもなければ、自己否定感もない。
ただその日、その日を、のんべんだらりと生きているだけ。
そういう人には、もちろん、孤独感はない。
●孤独を受け入れる
孤独になったら、それと闘ってはいけない。
もがいてはいけない。
静かに身を横たえて、孤独に身を任す。
孤独を受け入れる。
「ああ、私は孤独なんだ」と。
とたん、(多少の時間はかかるが、しかし一晩眠れば)、孤独は向こうから去っていく。
もちろん、苦しい。
が、そのうち尻尾を巻いて、去っていく。
孤独でない人はいない。
もしあなたが「生きよう」と懸命に考えている人なら、孤独から逃れることはできない。
いつも孤独はそこにあって、あなたがそこに落ちてくるのを、待っている。
手招きをして待っている。
言うなれば、孤独は、あなたの「影」のようなもの。
どんなことをしても、その影を切ることはできない。
もちろん先にも書いたように、ノー天気な人は、別。
が、孤独は、悪いことばかりではない。
●第二の産道
人は母親の産道をくぐり抜けて、この世に誕生する。
同じように、人は、孤独という産道をくぐり抜けることによって、真理の世界に誕生する。
孤独は、まさに第二の産道。
孤独の苦難をくぐりぬけた人だけが、真理の世界に到達することができる。
そこは、まさに安穏の世界。
愛と慈悲にあふれた、やすらぎの世界。
言うなれば、孤独は、その産道の前にたちはだかる衛視のようなもの。
簡単には、その道を通してくれない。
それが「苦しみ」ということになる。
だから苦しむことを恐れてはならない。
苦しむことを、「結論」と考えてはいけない。
それが「終わり」と考えてはいけない。
絶望の、そのまた絶望の淵に叩き落とされたとき、はじめて真理は姿を現す。
方法は、簡単。
静かに身を横たえる。
闘ってはいけない。
もがいてもいけない。
静かに身を任す。
そしてこう居直る。
「ああ、私は孤独なんだ」と。
●孤独でない人はいない
孤独でない人はいない。
「生きよう」と懸命に努力人に、孤独でない人はいない。
だから雑音は無視する。
派手な人づきあい。
派手な交友関係。
派手な活躍。
地位や肩書き、見栄えや世間体。
そういう世界に溺れている人は、あわれんでやればよい。
そういう人たちは「私は孤独ではない」と、虚勢を張っているだけ。
だから孤独であることを喜ぼう。
それはまじめに生きているという「証(あかし)」。
けっして恥ずべきものでも、隠さなければならないものでもない。
「私はさみしい」「私は孤独」と、声を出して言えばよい。
それが人間のあるべき本来の姿。
マザーテレサも、「イエス・キリストは孤独だった」と看破している。
マザーテレサ自身も、孤独だった。
そしてイエス・キリストも、マザーテレサも、それぞれが、その孤独を乗り越え、
孤独の向こうに真理を発見した。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 孤独論 孤独とは 孤独と闘う 孤独な人へ 絶望 絶望感 運命論)
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