●教育の原点
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 2月 11日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●実例
こんな話(例1)
その男には、子どもがいた。
若いころ、たまたま遊んだ女性との間にできた子どもである。
しかしその男は、そのことを告げないで、相手の女性と結婚した。
で、それから20年。
ある日、突然、その子どもがその男の前に名乗り出た。
「私はあなたの子どもです。母から、聞きました」と。
そのことが、妻の耳にも入り、家の中は大騒動。
妻は、「娘(当時10歳)が、中学を卒業したら離婚する」とまで言い出した。
こんな話(例2)
その女性は結婚してからも、妊娠できず、病院通いをしていた。
表向きは「不妊症」と言っていたが、実際は「アッシャーマン症候群」。
若いころの中絶のときの処置が不適切で、子宮の内膜に傷がついてしまった。
「子宮腔癒着症」とも呼ばれ、子宮の内膜がうまく成長することができなくなる病気を
いう。
排卵などは正常に行われるのだが、着床がしにくくなる。
中絶や流産が必ずしも不妊症につながるというわけではないが、ここにあげたような
ケースは少なくない。
女性の両親は、それを知っていた。
知らないのは、夫だけ。
現在の今も、妻と不妊教室に通いながら、子ども作りに励んでいるという。
●本来なら……
本来なら、こうした過去は、結婚時、あるいはその前に相手に話すのがよい。
(私は、話すべきと思うが……。)
「ぼくには別に子どもがいる」「私は若いころ中絶したことがある」と。
その上で、たがいに納得した上で、結婚する。
それをしないというのは、それ自体、不作為による背信行為ということになる。
(「不作為」というのは、法律用語で、「本来ならすべきことをしないで」という意。)
が、問題は、父親にせよ、母親にせよ、それを知っていたばあい。
いろいろなケースがある。
こんな話(例3)
息子の嫁が自宅に泊まったときのこと。
母親は、嫁の体に妊娠線(妊娠した経験のある女性に現れる、特有の線模様)が
あることを見てしまった。
しかし息子は、それに気づいていない。
妊娠線がどういうものであるかすらも知らない。
こういうケースのばあい、たいていの親は、そのまま黙ってしまう。
大切なことは、息子にせよ、娘にせよ、幸福な家庭を築くこと。
だれにもひとつやふたつ、過ちや失敗(?)はある。
母親はその事実を、墓場までもっていくことにした。
嫁は嫁で、生涯、それについて夫に話すことはないだろう。
こんな話(例4)
相手の娘には、重度の人格障害があった。
子どものころは、不登校を繰り返し、それが終わると今度は、家庭内暴力。
家の外ではおとなしかったが、家の中では暴れた。
青年期に入ると引きこもりを繰り返し、定職にも就かなかった。
病院で、うつ病の薬を処方してもらっていた。
が、結婚。
自分の息子が、「どうしても」というので、結婚した。
かなり資産家だった。
両親は興信所を使って、相手の女性、つまりその娘について調べた。
その娘の過去を知った。
が、いくら説得しても、息子は、「結婚する」と。
相手の両親にも、それとなく反対の意思を伝えた。
が、相手の両親は両親で、「良縁です」「良縁です」と喜ぶだけ。
話し合いにならなかった。
現在、息子夫婦は同じ市内に住んでいるが、行き来は途絶えた。
子ども(孫)も2人生まれたが、この5年、会っていないという。
●誠実
誠実に生きるというのは、むずかしい。
が、こんな皮肉な話を耳にしたことがある。
「不倫相手の方が、何でも話せる」と。
つまり相手が不倫相手だと、夫や妻にさえ話せないような話でも、話せる、と。
これはどういう心理によるものなのか。
ワイフに相談すると、ワイフがこう教えてくれた。
「不倫という罪深いことをたがいにしているから、罪の意識が薄れるんじゃ、
な~い?」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
「だったら、はじめっから、不倫相手と結婚すればいいのに」と私。
「そのほうが、たがいに誠実でいられる」と。
ともかくも、こうして男と女のドラマが始まる。
またそうであるから、10組の夫婦がいれば、10通りのドラマが生まれる。
が、それが人生。
人間の人生。
みな、同じようだったら、つまらない。
おもしろくない。
ほかにもいろいろ書きたいことがあるが、今朝はここまで。
みなさん、おはようございます。
2010年12月25日朝記
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
【子どもの自己主張】
●自己主張する幼児たち(年中児、3~5歳児)@BW幼児教室(子どもクラブ)
はやし浩司 2010-12ー24 Hamamatsu Japan
(YOUTUBEより)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●教え育てる?(教育の原点とは)
++++++++++++++++++++
日本の教育は、「教え育てる」が基本になっている。
だから「教育」という。
しかしこの教育法は、日本では通用しても、
外国では通用しない。
英語国では「education」という。
「educe(引き出す)」が語源になっている(TK先生指摘)。
つまり引き出す。
「ちがいは何?」と考える人も多いかもしれない。
が、ちがいは、大きい。
わかりやすく言えば、本山教育が日本の原点。
「頭から小僧に叩き込む」。
それが教育。
一方欧米では、「引き出す」。
そのため「debate(討論)」が、教育の重要な柱になっている。
欧米の教育は、討論に始まり、討論に終わる。
ペーパーワークなど、たまにしか、しない。
韓国の朝鮮N報(新聞)の一部を紹介する。
日本の現状を客観的に見ている。
++++++++++以下、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++
米ハーバード大のマイケル・サンデル教授による「正義論」の授業は、大教室で熱い討論
が繰り広げられることで有名だ。
教室を埋め尽くす学生たちの国籍は多種多様で、これも授業の特徴の一つとなっている。
アジア系の学生も多い。だが、討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない。
昨年の時点で、ハーバード大に在学中の外国人学生(学部生)666人のうち、韓国人が42
人、中国人が36人、シンガポール人が22人、インド人が20人だったのに対し、日本人は
わずか5人だった。
++++++++++以上、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++
●幼児教室でも
私が主宰する幼児教室でも、討論を大切にする。
子どもたちに活発に発言させる。
ペーパーワークは、子どもたちを抑えるときに利用する。
(詳しくは、BW公開教室を観てほしい。
http://bwhayashi.cool.ne.jp/index.html
より)
しかしこの方法は、親たちには、受けがよくない。
「勉強というのは、机に向かってペーパーワークをするもの」という、明治以来の、
(あるいはそれ以前からの)、詰め込み教育が「教育」の柱になっている。
親たちもまた、それが教育と思い込んでいる。
反対にペーパーワークが多ければ多いほど、「プリントという証拠が残るため?」、
親は喜ぶ。
しかし現実には、ペーパーワークをさせることほど、楽な指導法はない。
教師は座って、○×をつけるだけ。
●討論しない日本人
日本の学生が討論しないというのは、世界の常識。
どこへ行っても、静かでおとなしい。
学生だけではない。
国際会議のような席でも、みな、ニンマリと笑いながら、座っているだけ。
それを朝鮮N報は、「討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない」と評した。
事実、その通りだから、これについては、反論のしようがない。
が、これを日本の教育の欠陥と言わずして、何という。
むしろ日本人は、(日本の教育者は)、自己主張する子どもを嫌う傾向にある。
そのことも、私の「公開教室」を観てもらえばわかる。
幼稚園や、学校教育とのちがいが、わかってもらえる。
私の教室では、静かに黙って教育を受けるような子ども(幼児)はいない。
が、それだけではない。
つまり討論するかしないかは、「個」の問題と深く結びついている。
そう言えば、これについてはいろいろな原稿を書いてきた。
いくつかを探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●大河ドラマ(2007年5月に書いた原稿より)
「絶対、見ないぞ」と思っていたが、チャンネルをかえるついでに、NHKの大河ドラ
マを見た。……しばらく見てしまった。何かの評定会議をしているシーンだった。
それを見て、びっくり。10年前の大河ドラマとそっくり。20年前の大河ドラマとそ
っくり。
武将たちが、それぞれ自分のセリフを言っていたが、その言い方が、ワンパターン。実
にワンパターン。あんな演技なら、私にだって、できる。あなたにだって、できる。武将
というのは、こういうものの言い方をするものだというような、決められた言い方。こう
いうときには、こういう表情をするものだという、実にわざとらしい演技。
自然さが、どこにもない。人間味が、どこにもない。
私も、20年ほど前のことだが、その会社の命運を決するような会議に出させてもらっ
たことがある。昨日の大河ドラマのように、そこには、15人前後の役員が集まっていた。
そして同じように、自分の意見を述べあっていた。
しかし雰囲気は、まるでちがう。それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の意見を述
べていた。どこかへつらいがちに、ものを言う役員。頭を下に向け、ポツリ、ポツリとし
ゃべる取締役社長。だまりこくったまま、ため息ばかりつく、別の役員などなど。大河ド
ラマの監督も、一度、そういうシーンをどこかで見てくるとよい。
領地を取っただの、取られただの、まるで餓鬼の会議。そこには、一片の正義もない。
何のために、戦っているのか、戦うのか、その大義名分すら、ない。まったく、ない。民
衆のために闘うとか、民主主義のために戦うとか、はたまた自由を求めて戦うというのな
ら、まだわかる。しかしそういう正義は、まったく、ない。
要するに、みな、我欲の追求だけが目的。そのための会議。のどに力を入れて、力んで
いるだけ。見ているうちに、あのK国の軍人たちを連想してしまった。
大河ドラマというのは、こういうものでございます……という、まさに型にはまった演
技。どうしてNHKは、10年一律のごとく、同じような番組ばかりつくるのだろう。
++++++++++++
以前(1999)、書いた原稿を
添付します。
++++++++++++
●日本の常識、世界の標準?
『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーン
だが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。
向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過
ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。
困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解でき
る。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐
をするのか」と。
欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」と
いうことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。
まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、
あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、
一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府
時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。
要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、
伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的な
ことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本
では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。
欧米の教育は能力主義。
日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメ
リカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。
日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言
し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の
基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出
す」が基本になっている、などなど。
同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地
ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになって
いる」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこ
で「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてく
れた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太
子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュ
ラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、
と。そういう学校をよい学校という」と。
日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもら
いたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●大学生の親”貧乏盛り”
少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均1
1万7000円(九九年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけ
ではすまない。
アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40~5
0万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネッ
トも常識。
…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間
は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ!
そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学
生、親、貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。
一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、
さがさなければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税
法上の控除制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。
しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少
ない。
欧米各国が、7~9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本は
この十年間、毎年4~5%前後で推移している。
大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担
が大きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円
近い大金を使った。それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり2
00万円ずつの奨学金を渡せる!
が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育と
いうのはそういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への
隷属意識は、世界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)
き込まれている。
いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本
人のこの後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、
あくまでも個人的利益の追求の場と位置づけている。
世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と
考えている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こうい
う冷淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。
日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年
はおくれている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。
「こんなところで、子どもを育てたくない!」と。
「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあ
って、そう言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていな
い。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、
孫を育てたくない」と。
私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであ
ろう孫のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。
(1999年ごろ記)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●引く文化・押す文化
日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。欧米の子どもは、
向こう側に払って、机の上に残す。
考えてみれば、不思議なことだ。教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそう
するようになる。考えてみれば、日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。欧米の刀は、
相手のほうに突き刺しながら切る。ノコギリもそうだ。日本では引きながら切る。欧米で
は押しながら切る。
これを称して、日本の文化は「引く文化」。欧米の文化は「押す文化」と言った人がいた。
たとえば「庭」。日本では、庭をつくるとき、視点を家の中に置く。つまり家の中に美しさ
を、引きこむようにして庭をつくる。欧米は反対に、外に向かって庭をつくる。
わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。何でもないようなことだが、こ
うした文化は、教育にも大きな影響を与えている。
日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。内面世界の充実を大
切にする。一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。
日本人はディベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、し
かたない。いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。自己主張をして波風
をたてるよりも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は考える。
つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。特に教育の世界がそ
うだ。徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。文
部省が「体験学習だ」と言えば、体験学習。「ボランティア活動だ」と言えば、ボランティ
ア活動。いつもすべてが全国一律に動く。親の側から、教育に注文をつけるということは、
まず、ない。
そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。体質も、それか
ら生まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。言いかえると、日本の封建
時代が残したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。
……と悩んでもしかたない。問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放さ
せるか、だ。一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け
継いだ明治、大正、昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。歴史は歴史だか
らそれなりに正当に評価しなければならない。しかし決して美化したり、茶化したり、歪
曲してはならない。
たとえば2000年のはじめ、NHKの大河ドラマにかこつけて、この静岡県で、『葵三代、
徳川博』なるものが催された。たいへんなにぎわいだったと聞いているが、しかしそうい
う形で、あの封建時代を美化するのはたいへん危険なことである。
あの世界にも類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げら
れ、苦しんだか、それを忘れてはならない。一方、徳川家康についても、その後、300
年という年月をかけて、つごうの悪い事実は繰り返し抹消された。
私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果でしかない。つまりこうした
ことを繰り返している間は、私たちはあのマイナスの遺産から抜け出ることはない。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●子育ての原点
スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来る
と、一斉に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っている
のか。それは本能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。
スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、
子育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親
スズメに習って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。
モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも
逃げる。スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。
本能によるものなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはず
である。
実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てな
がら、まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きて
いくために必要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、
そういう知識や経験を武器として、自分たちの世代を生きる。そして親になったとき、自
分たちが教えられたようにして、次の世代に知識や経験を伝える。
が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、
子育てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。
その第一。たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事す
ら、ない。洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。
水は水道、
ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから
来ますか」と質問すると、「蛇口!」と答える。
同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その
便利さに慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要
でもないような知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。
二次方程式だ。
私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程
式はおろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。さらに高校二
年で微分や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。
もうこうなると、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役に
たつというのか。こうした事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と
錯覚が満々ている」(学外研・I氏)と。
教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、
私たちが得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ
効率よく、かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだ
ってそうだ。将来、子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子
育てができるようにするのが、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッ
キリする。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 教育の原点 和をもって尊し educe education 個の教育)
●討論を大切に
「もの言わぬ従順な民」の時代は、もう終わった。
またそういう子どもを求めてはいけない。
少なくとも、そういう人間は、世界では通用しない。
日本の中では、それでよいとしても、一歩、外に出れば、そこは修羅場。
百戦錬磨の怪獣たちが住む、修羅場。
もの言わぬ従順な民が、どうしてそういう怪獣たちを相手に、勝負できるか。
現在の教育のあり方を、基本的な部分から、もう一度ながめ直してみる必要がある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●Active Learning(生きた教育)vs Silent People(もの言わぬ民)
++++++++++++++++++++++++
バートランド・ラッセルは、つぎのように述べている。
Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls.
教師の知恵をそのまま受け入れることは、生徒たちにとっては楽なこと。
It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher
knows more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher
unless he is a very exceptional man.
自分で考えるという努力を必要としないし、それに教師は生徒たちよりもよく知っている
という点で、教師のもつ知恵は、より道理的である。
Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life.
が、ものごとを受動的に受け入れるという習慣は、あとになって、たいへんなことだとわ
かる。
It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that
position...
受動的であると、リーダーを求めるようになり、その地位にある人ならだれであっても、
その人をリーダーと受け入れてしまうようになる。
It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can
appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good.
精神的な冒険による喜びというのは、稀なことであり、それゆえにそれを楽しむ人はほと
んどいない。そのためふつうの教育というのは、規律正しく貴族主義的であればあるほど、
よいと言われる。
I do not believe this.
しかし私は、こんなことを信じない。
The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and
women.
若い人たちのほうが、成人した人たちより、ずっとしばしば、精神的な冒険の喜びを経験
している。
Among children it is very common, and grows naturally out of the period of
make-believe and fancy.
幼い子どもたちほどそうで、成長とともに、空想の世界から自然と抜け出ていく。
It is rare in later life because everything is done to kill it during education...
むしろ歳をとればとるほど、教育を通して、それをつぶされてしまうため、そういうこと
が稀になる。
The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the
minds of those who control the teaching of the young.
未来を創造するという希望よりも、過去を保全するという願いのほうが、若い人たちを教
育する教師の心を、より強く支配する。
Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed
towards the world that our efforts are to create.
教育というのは、死んだ事実を、生徒たちに押しつけることを目的としてはいけない。そ
うではなくて、私たちの努力が創りあげる世界に向かって、生徒たちを活動的にすること
を目的としなければならない。
++++++++++++++++++++
●死んだ教育vs生きた教育
教師はどうしても、保守主義に陥りやすい。
「教育」本来のシステムそのものが、そういう趣旨から出発している。
とくに日本のばあい、明治以来、「教え、育てる」が、教育の基本になっている。
最初に「教科書」を用意し、それを子どもたちに植えつける。
それが教育の基本になっている。
しかしオーストラリアでは、(当時は批判的な声も多く聞かれたが)、すでに小学3年生
まで、教科書を使っていなかった(南オーストラリア州)。
それも私が直接確認したのは、25年以上も前のことである。
(最近のことは、知らない。)
また「教科書」という概念ではなく、彼らが使っているのは、「テキスト」である。
テキストブック、イコール、教科書ではない。
つまり世界的にみれば、日本の教育はバートランド・ラッセル風に言えば、「死んだ教育」
ということになっている。
それが、基本になっている。
「創りあげる教育」ではなく、「上から下へ、押しつける教育」。
だからおもそろくない。
つまらない。
だから子どもたちは、よくこう言う。
「まだ、習っていない!」と。
何か新しい漢字を書かせようとしたり、新しい問題を解かせようとしたとき、など。
決まって、そう言う。
教育の受け方そのものが、受動的。
わかりやすく言えば、小学低学年時においてすら、すでにそう飼い慣らされてしまってい
る!
●では、どうするか?
教科書の廃止は当然としても、それに代わるシステムを創りあげなければならない。
「指針」のようなものでよい。
また教育現場にダイナミズムをもたらすために、EUのように大学の単位を共通化する。
同時に教育のクラブ化を進める。
重要な必須科目は、「学校」という場で教える。
しかしそうでない科目は、学校を離れたクラブで教える。
クラブを選ぶのは、子どもたちの自由。
フランスに住んでいるSさんは、最近、こんなメールをくれた。
「(2人)の子どもたちは、自転車クラブに夢中です」と。
まだ小学生である。
そういう子どもたちが、クラブを通して、夢中になれるものをもっている。
それをすばらしいと言わずして、何という。
もちろんその前に、やるべきことがひとつある。
職業の公平化である。
親たちは日々の生活を通して、社会の「格差」「差別」「不公平」を、いやというほど、
感じ取っている。
こうした問題を解決しないまま、今、教育を自由化すれば、いわゆる受験産業だけが「ク
ラブ」になってしまう。
それでは元の木阿弥。
が、皮肉なことに、この日本では、そうした格差、差別、不公平の恩恵を受けているの
が、官僚たち、なかんずく文部科学省。
天下り先として機能している外郭団体にしても、ダントツに多い。
1800団体近くもある。
中には、ほとんど意味のない団体もある。
こうした団体が、日本の教育をがんじがらめにし、硬直化させている。
1500年もつづいた日本の官僚制度の壁は、あなたが考えているより、はるかに厚い。
その結果、どんな子どもが生まれるか?
それはあなた自身が、いちばんよく知っている。
「もの言わぬ、従順な民」。
あるいは、「もの考えぬ、従順な民」でもよい。
それがあなた自身ということになる。
日本の教育を真正面から批判してみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 生きた教育 バートランド・ラッセル もの言わぬ従順な民 格差 差
別 自由な教育論)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●12月27日(今年も秒読み段階)
今日は12月27日、月曜日。
朝、ふとんの中でモジモジしていたら、午前8時になってしまった。
あわてて起き、そのままウォーキングマシンへ。
今朝は20分で切り上げた。
ワイフが朝食を用意してくれていたので、急いで食べた。
書斎へ入ったのは、そのあと。
いくつかのメールが届いていたので、返事を書く。
ニュースを読む。
で、今朝は「姓名判断」について書いた。
それが先の原稿。
●総括
あと丸5日、ある。
2010年が終わったわけではない。
だからまだ2010年を総括したくない。
この5日に、全精力を傾けたい。
1日、1日を大切に生きたい。
数年前までだと、この時期は正月の準備に明け暮れた。
いっぱしに、餅つきもしたりした。
そう言えば、年賀状を書くのも、1週間仕事だった。
私が絵柄を描き、ワイフが宛名を書いた。
居間の床が年賀状で、埋まった。
が、今は、プリンターで簡単にできる。
昨夜遅く、印刷を始めたが、片手間。
私がしたことと言えば、ときどき年賀状をトレイに補充することだけ。
「こんなことでいいのかなあ」と思いつつの作業だった。
こんな年賀状なら、あまり意味はない。
ただの印刷物。
儀礼的印刷物。
こんなことを繰り返しても、「大切に生きた」という喜びにはつながらない。
●あと5日
もしあなたが「余命はあと5日です」と宣告されたら、あなたなら何を、どうする
だろうか。
ウーン。
私なら、身辺の整理を始める。
とくに原稿の整理。
私の書いた原稿こそが、まさに私の「墓石」。
最後にその墓石を磨く。
別れの手紙を書くかもしれない。
友人や家族、それに親しかった人たち。
そういう人に手紙を書く。
すべてを許し、すべてを許してもらう。
許してもらえないかもしれないが、許しを乞う。
あとはその瞬間、瞬間、思いついたことを文にする。
死ぬ間際まで、文を書く。
激痛がなければ、幸い。
頭と手が動けば、幸い。
目が見えれば、幸い。
……明後日で、今年の仕事はおしまい。
それがすんだら、やはり原稿の整理を始める。
あちこちに分散している原稿を、ひとつのまとめ、DVDに焼く。
HPも整理する。
この世界、まさに『金の切れ目が縁の切れ目』。
プロバイダーへの支払いが止まれば、HPも削除される。
もっとも墓石という「石」ですら、やがて朽ちてぼろぼろになる。
私の書いたものにせよ、10年ももてば、御の字。
100年後に、1文でも残っていれば、それが「はやし浩司」。
「私」が生きたという証(あかし)。
残りの5日間は、その1文を残すために、全力を傾ける。
しかしどうすれば、1文を残すことができるか。
方法のひとつは、二男に頼むこと。
DVDに焼いた原稿を、30年後、50年後に、再び、アップロードしてもらえばよい。
ナルホド。
これはよい方法だ。
あとで二男に相談してみよう。
この広い宇宙。
とてつもなく広い宇宙。
その宇宙の、ゴミにもならない小さな惑星で、私は生まれ育った。
そしてゴミにもならない文章を書きつづけた。
あとの判断は、これから生まれ育ってくる人たちに任せればよい。
ともかくも、私はこの5日間で、完全燃焼すること。
来年は、ない。
明日も、ない。
あるのは、今日だけ。
この瞬間だけ。
がんばるぞ!
2010年12月27日朝記
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 2010-12-27)
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
●12月28日
+++++++++++++++++++
我ら団塊の世代は、ぜいたくをすることに、
罪悪感を覚える。
悲しき、かつ、貧しき世代。
「ひもじさ」が身にしみている。
戦後のあの時代を知るが故に、現在のこの
繁栄に、おぼつかなさを覚える。
もう少し平たく言えば、いつ何時、あの
時代に逆戻りしてもおかしくない。
そういう不安感を、いつも抱えている。
だからぜいたくが、できない。
ぜいたくをすることに、罪悪感を覚える。
++++++++++++++++++++
●嫁vs姑戦争
嫁と姑(しゅうとめ)が、仲よくいっているケースは、今、ほとんどない。
なぜか。
姑にしてみれば、自分の息子は、「自分のモノ」。
その「モノ」が、ある日突然、嫁に取られてしまう。
一方、嫁にしてみれば、夫は「自分のモノ」。
子どもができれば、なおさら。
夫をはさんでの争奪戦が始まる。
……とまあ、簡単に言えば、そういうこと。
そこで大切なことは、この「モノ」意識を、できるだけ早く解消すること。
たとえば今、あなたが自分の子どもを育てているなら、自分の意識の中に、
「モノ意識」がないかどうか、一度、探ってみるとよい。
「私の子ども」と、いつも「私の」をつけている人ほど、あぶない。
子どもはたしかに、あなたから生まれたかもしれない。
腹も痛めた。
苦労もした。
しかしあなたの「モノ」ではない。
わかりやすく言えば、いつかは去っていく。
そういう存在。
そう考えて、その年齢になったら、その覚悟と準備を始める。
幻想は、禁物。
期待は、禁物。
それはちょうど、宝くじのようなもの。
当たれば、それでよし。
はずれても、がっかりしない。
当たることを、過度に期待しない。
それよりも重要なことは、あなたはあなたで自分の人生を組み立てる。
前向きに生きていく。
つまり子どもという「モノ」など、相手にしない。
これは老後のあなたの心を守るために、とても大切なことのように思う。
理由が、ある。
いくら戦争をしても、姑には勝ち目はない。
どうせ先細りの人生。
その先は、真っ暗。
戦争をして、惨めな思いをするのは、いつも決まって姑。
あがけばあがくほど、墓穴を掘る。
今日もあちこちで、嫁vs姑戦争がくり広げられている。
あなただけが無事ですむという保証は、どこにもない。
だから今が、大切。
コツは簡単。
「限度をわきまえ、子育てにのめり込みすぎない」(ラッセル)。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 嫁姑戦争)
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
●今朝も寒かった
今朝は5時半ごろ、目が覚めた。
が、床から起きたのが、午前7時すぎ。
ふとんの中で、PSP将棋を相手に、2試合。
1勝1敗。
将棋を指しながら、ワイフとバカ話。
で、話題は餅つき。
「どうしようか」「どうしよう」「やっぱりしよう」と。
電気の餅つき機はあるが、最後の仕上げはいつも、臼(うす)でしている。
毎年1臼だけ。
それでも臼でしている
臼でついた餅は、ねばりがちがう。
起きてから、すぐウォーキングマシンで運動。
10分もすると、全身から汗が出てくる。
それが心地よい。
で、今日は午前中から仕事。
1日、忙しい。
そうそう昨夜、DVDショップで、4本もDVDを借りてきた。
今年の正月は、DVD三昧。
兄弟会、温泉旅行とつづく。
寒いが、がんばろう。
雪が降らないだけ、まだよいほう。
それにいくら寒いといっても、浜松は、まだ暖かいほう。
ぜいたくを言ってはいけない。
今夜は教室の忘年会。
またまた太るかな?
おはようございます。
はやし浩司 2010-12-28
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
●雑感(はやし浩司 2010-12-30)
●宗教観
12月24日は、クリスマス。
つまりキリスト教。
大晦日は除夜の鐘を聞きながら、
初詣。
つまり仏教。
近隣の神社に参拝する人も多い。
つまり神教。
年末から年始にかけて、日本人の
宗教観は、めまぐるしく変化する。
私もそうだし、たぶん、あなたも
そうだろう。
言い換えると、信仰というよりは、
儀式。
お祭り。
もともと「教え」に従ったものではない。
ないからどこか、いいかげん。
言うなれば、多神教的無神論。
それが日本人の宗教観。
総じて言えば、そういうことになる。
●宗教
アメリカという国は、おもしろい国だ。
どこのどんなところへ行っても、キリスト教が深く
しみこんでいる。
札にも、「God」という文字が刷り込んである。
そのくせ、「君たちの国は、キリスト教国だ」と言うと、
彼らはそれに猛烈に反発する。
「アメリカはキリスト教国ではない!」と。
で、その一方で、「日本は仏教国」と言う。
そう言われた私のほうも、困る。
「そうかなあ」と思ってみたり、「そうでも
ないのだがなあ」と思ってみたりする。
ただし日本の仏教ほど、いいかげんな宗教もない。
釈迦は1人のはずなのに、四分五裂。
仏教と言いながら、中身はヒンズー教。
チベット密教。
それが中国の土着宗教と結びついて、日本へやってきた。
「大乗仏教」というのはそれをいう。
ヒマラヤ山脈の北側を迂回して中国へ入った仏教をいう。
「北伝仏教」ともいう。
その一方で、南伝仏教を、「小乗仏教」と呼び、さげすむ。
しかし南伝仏教のほうが、はるかに色濃く、釈迦仏教を
今に残している。
僧が身にまとう衣を見ても、それがわかる。
どうして日本の仏像がみな、古代ギリシャの衣を
身にまとっているのか。
インドで男性だったカノン(観音)が、どうして日本では
女性なのか。
いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
ここに書いたことは、常識。
が、何よりも大切なことは、どんな宗教であるにせよ、
それによって心の安穏を得ること。
それがあれば、宗教。
なければ、ただの気休め。
●宗教vs人間
古代の世界にも、数多くの国があった。
それぞれが何かの宗教をもっていた。
が、それらの宗教は、文明の崩壊とともに、闇に消えた。
それを信仰する人間がいなくなったから、闇に消えた。
つまり人間が宗教を作った。
このことは、浜松近郊の寺を見ればわかる。
車で1時間も郊外へ行くと、無住の寺が目立つ。
廃寺になった寺も少なくない。
若い人たちが町へ出た。
そのため、檀家がいなくなってしまった。
そのため住職も町に出てきてしまった。
必要に応じて、村にもどり、そこで仏の供養をしている。
●不景気
昨日も、行きつけの弁当屋の親父が言った。
「不景気だねエ~」と。
私「政府は、10兆円近いお金をバラまいているわけだし……」
弁「それがどこかへ消えてしまっているというわけ」
私「どこへですか?」
弁「タンス預金でしょうかねエ~」と。
街の中の飲食店が最悪。
シャッターをつぎつぎと下ろしている。
こういう現実を、政府はどれほど知っているのか。
弁「ふつうなら、暴動が起きてもおかしくない状況だよ、これは」
私「そうですね。若者たちがおとなしすぎますね。介護保険ひとつとりあげても、
反対運動ひとつ起きない」
弁「どうして暴動が起きないのですかねエ~」
私「親がめんどうみているからじゃ、ないですかねエ~」
弁「しかしいつまでも親にお金があるわけでもないだろうし」
私「そうですねエ~」と。
つぎに出てくるのは、ため息ばかり。
●UFO
今度、中国で出たUFOは、すごい!
細長いUFOで、窓らしきものも並んでいた。
下部からは白い光線。
大きさは、写真で見た感じでは、100メートル前後(?)。
もちろん飛行機ではない。
今年の夏ごろ、話題になった。
そのため近くの空港が一時的に閉鎖になったという。
昨日、その写真を書店で見た。
ある雑誌に載っていた。
目玉はその写真だけだったので、雑誌は買わなかった。
だから詳しくは、ここには書けない。
あとで家に帰って、ネットで調べてみる。
が、それにしても、すごい。
あれをUFOと言わずして、何という。
つまりUFOは、オカルト現象ではなく、科学的事実。
その雑誌にも書いてあったように、いまや存在を議論しているばあいではない。
「存在する」という前提で、議論を始めるべき。
●神の存在
神が神の正体を現したら、地球もいよいよあぶないということ。
同じように、UFOがUFOの正体を現したら、地球もいよいよあぶないということ。
現れることによる、混乱どころではない。
それ以上に、ことは深刻。
地球はもう、取り返しのつかないところまで来ている。
そういう状態と考える。
たとえば地球温暖化。
現在、地球温暖化(火星化)は、不測の事態が別の不測の事態を呼び込みながら、
急速に進んでいる。
10年前に、温暖化によって海洋の海流の流れが変わるなどと、いったいどこのだれが
予想しただろうか。
この先、さらに不測の事態が、別の不測の事態を招く。
地球温暖化は、人間の想像力をはるかに超えたところで、進む。
たとえば今。
驚くなかれ、外では稲妻が走り、雷鳴がとどろいている。
雨が窓を叩きつけるように降っている。
雹(ひょう)も、降った。
人生、60年を生きてきたが、12月28日に、このような天気を見たのははじめて。
これを異変と言わずして、何という。
つまりその異変が限界を超えた。
神にせよ、宇宙人にせよ、今さら姿を隠しておかねばならない理由がない。
言い換えると、神にせよ、宇宙人にせよ、堂々と姿を現したら、おしまい。
「終末」は近い。
……とまあ、悲観的な見方はさておき、今度、中国で出たUFOは、すごい。
あとでゆっくりと調べてみよう。
●韓国
日本の政局が混乱している。
そのスキ(?)をついて、韓国が竹島の実効支配を、さらに推し進めている。
今度は巡洋艦を常駐させるという。
本来なら日本は、国交断絶を覚悟で、それに抗議すべき。
しかし肝心の日本の政治は、ガタガタ。
混乱につづく混乱。
それをよいことに、韓国は、やりたい放題。
ついでに北朝鮮を口実に、軍事訓練。
「北朝鮮からの防衛」を口実にしているが、それはウソ。
韓国人の大多数は、「北朝鮮より日本のほうが脅威」と考えている。
日本人の私は、日本のどこが脅威なのだろうと考える。
意識というのは、そういうもの。
ほんの少し立場がちがうと、180度、意識がちがうということは、よくある。
●熟年離婚
最近は、あまり話題にならない。
ならないが、熟年離婚が、減っているというわけではない。
相変わらず、多い。
ある日、突然、たいていは妻がこう宣言する。
「離婚します」と。
「豆腐を買いに行ってきます」と言ったきり、そのまま家出する妻もいるという。
沖縄で聞いた話である。
もちろん話し合いなどは、いっさいなし。
一方的というか、妻のほうは、「話し合っても無駄」という状態になる。
が、夫側の受ける衝撃には、相当なものがある。
自己否定などという甘いものではない。
絶望のどん底へと叩き落される。
足が宙へ浮いたような状態になる。
何がなんだか、訳が分からなくなる。
狼狽するだけ。
オロオロするだけ。
●がまん
知人の中にも、最近、熟年離婚をした人がいる。
結婚したてのころは、熱々の、相思相愛。
奥さんのあのデレーッとしたものの言い方が、今でも私の耳に残っている。
で、やがて妊娠、そして出産。
そのあたりまでは、うまくいっていた。
というか、熟年離婚の芽は、すでにそのころできたらしい。
心の奥深いところで、かつ静かに、音もなく……。
総じてみると、がまん強いと評される女性ほど、こわい。
その(がまん)が、妻の心をゆがめる。
抑圧されたうっ憤が、時間をかけて蓄積される。
それがある日突然、爆発する。
ドカーン、と。
これも総じてみると、離婚される側の夫は、全体的に権威主義的。
家父長意識が強く、仕事一筋。
(現在の私のよう!)
前ばかり見ているから、うしろが見えない。
妻の心を見失う。
●妻は死んだ
が、熟年離婚から立ち直る人も、いないわけではない。
ある知人は、(もともと転勤族ということもあったが)、それをきっかけに海外移住。
現在は、クイーンズランド(オーストラリア)に住んでいる。
そこで知り合ったインドネシア人の女性と同棲。
仲よく暮らしている。
現在、年齢は、67歳。
インドネシア人の女性は、40歳。
その知人はこう言った。
「熟年離婚されたからといって、失敗組と考えてはいけませんよ。
離婚されたのではなく、ひょっとしたら私のほう離婚を望んでいた。
妻がそれを具体化しただけです」と。
で、私が、「前の奥さんを恋しく思うことはありませんか」と聞くと、
笑いながら、こう言った。
「それはありません。心のつながりが切れれば、他人。離婚は他人の死と同じ
です」と。
ただ「最後にいっしょに住んでいた、S県のK町にだけは帰りたくありません」
と付け加えた。
●死
大切なことは、どういう状況であれ、そこを原点として、前に向かって生きて
いくこと。
人との世には、出会いもあれば、別れもある。
その繰り返し。
夫婦の離婚もあるが、親子の離縁も、これまた多い。
兄弟姉妹の離縁となると、さらに多い。
もちろん仲がよいのが、理想。
周囲の人たちと、暖かい愛情で結ばれている。
が、それでも狂うときは狂う。
狂って、やがて別れに向かう。
仮に仲がよくても、最後の最後には、「死」がやってくる。
これだけは、何人にも、どうしようもない。
●夫側からの熟年離婚
12月30日というのに、暗い話になってしまった。
何とか明るい話でしめくくりたいと思うが、話はつづく。
反対に夫のほうから離婚届を妻に叩きつけたという話も聞いた。
(夫が妻に、だぞ!)
もともとの原因は、親子喧嘩。
その男性(父親)には2人の息子がいた。
そのうちの1人と、ある夜、取っ組み合いの大喧嘩になった。
そのときのこと。
息子がげんこつを振り上げ、その男性(父親)に殴りかかろうとした。
が、その男性は、微動だにせず、息子に向かって、こう叫んだ。
「殴りたければ殴れ!」と。
瞬間、その男性は、妻のほうを見た。
いつもそうなのだが、そういう状況になっても、妻はじっとそれを傍観しているだけ。
が、その夜はちがった。
男性が妻の顔を見ると、うっすらと笑みすら浮かべていたという。
それを見て、その男性は妻との離婚を決意した。
その男性はこう言った。
「息子の怒鳴り声は、どうということはありませんでした。
しかし妻の笑みを見たときには、心底、ゾッとしました」と。
●ただの「いとなみ」
こういう話をつづけて聞いていると、夫婦とは何か。
親子とは何か。
さらに人生とは何か。
そこまで考えてしまう。
ひとつのヒントととして、キジバトの世界がある。
あのキジバトは、産卵、孵化のときだけ、つがいを組む。
たいてい2個の卵を産み、2羽の雛を育てる。
が、やがて1羽の体の小さいほうの雛が、大きいほうの雛に巣から落とされる。
キジバトは、こうして1羽だけの雛を大きくする。
が、雛が成鳥になるやいなや、親は自分の子どもと別れる。
それ以後は、たとえ自分の子どもでも、自分の縄張りには寄せ付けない。
ときどき親鳥が、自分の子どもを追い払う姿を見かける。
人間とキジバト。
いっしょに考えることはできない。
しかし結婚、出産、育児の原点は、そんなものかもしれない。
大きな意味があるようで、そうはない。
深い意味を求めても、無駄。
人間がまだ原始的な動物であったときからつづいている、ただの「いとなみ」。
それに過ぎない。
……というのは、言い過ぎ。
わかっている。
人間の子育てには、プラス、ドラマがある。
このドラマにこそ、価値がある。
人間とキジバトを同列に置くことはできない。
●12月30日
夜も少し明けてきた。
窓の外が、ほんのりと明るくなってきた。
12月30日。
あと2日で、新年。
今年1年、我が家でもいろいろあった。
ゴタゴタつづきというか、ドタバタつづきというか。
大切なことは、切り捨てるものは、切り捨てる。
あきらめるものは、あきらめる。
失敗とか、敗北とか、そんなふうに考えてはいけない。
割り切って考える。
どの道、人生は短い。
実のところ、この私にしても、いつ離婚届を突きつけられてもおかしくない状態。
自分でもそれがヨ~ク、わかっている。
覚悟はしている。
が、問題は、そのあと。
まだその道筋が見えてこない。
年齢も年齢。
健康にも、このところ自信がなくなってきた。
となると、私もやはり、狼狽(ろうばい)組か。
オロオロするのみ。
昨夜も私はワイフにこう聞いた。
「離婚してあげようか?」と。
が、ワイフは何も答えなかった。
(やっぱり、私の家も、あぶないねエ~。)
●希望
さて、今日の目標。
とくになし。
2011年1月号のマガジンを出さなければならない。
しかし何となくめんどう(ごめん!)。
昨夜も長男にこう言われた。
(……言われてしまった。)
「だれが、あんなもの読んでるの?」と。
「自分のことを書くのは構わないが、ぼくたちのことは書かないでよ」とも。
私「でもね、毎月、最低でも30万件のアクセスがあるよ」
長「アクセスというだけだろ」
私「そうだな」
長「ちょっと見て、ポイという人でも、1件だよ」
私「そうだな」
長「それにぼくのYOUTUBEにしてもそうだけど、批判的な人も多いはず」
私「そうだな」と。
反論の余地なし。
事実、その通り。
まったく、その通り。
しばらく電子マガジンは休刊にしようか。
そんなことを繰り返し、考える。
そう言えば、「静岡アットS」というサービスも、この2月末をもって、
突然、閉鎖されるという。
昨日、メールが入った。
静岡新聞社が支えているポータルサイトだから、だいじょうぶかなと思っていた。
つまりこの世界、それだけ動きがはげしい。
……が、いくら小さくても、電子マガジンは私の「希望」。
「生きがい」。
BLOGにも原稿を書いているが、そのBLOGからよい原稿を集め、推敲し、
それをマガジンとして発表している。
今の私から電子マガジンを取り去ったら、あとに何が残る?
……実際には、何も残らない。
私のマガジンを毎回読み、同じように毎回批評を届けてくれていたNG先生が、
この12月1日に、亡くなった。
私にはよき理解者だった。
それだけにショックも大きかった。
終日、放心状態になってしまった。
で、そのあと、アメリカに住む二男に原稿を送るようになった。
その二男が、今度はあれこれ批評を書いて送ってくれる。
これがたいへん参考になる。
先日も「良妻vs悪妻」という原稿を送った。
それについて、「アメリカで良妻とか悪妻とか、そんなことを決めつけて書くと、
差別主義と言われ、大問題になるよ」と。
ナルホド!
国がちがうと、意識もちがう。
基本的なものの考え方もちがう。
私がそのあとすべきことは、「なぜ、そうなのか」を考えること。
どうして良妻vs悪妻というテーマでものを書いたら、差別主義になるのか。
たしかにアメリカでは、「差別」(ディスクリミネーション)にうるさい。
それはわかるが、どうして?
それを考えていくと、その先に「アメリカ」が見えてくる。
世の中には、私の知らないことが、まだ山のようにあるようだ。
●年賀状
昨日、1日で年賀状を書き、近くのポストに投函してきた。
時間にすれば、2時間ほどでできた。
で、そのときのこと。
こんなことを考えた。
現在「筆M」というソフトを使っている。
2~3年おきに、UPGRADE版を購入。
が、この筆M、UPGRADEするたびに、複雑になる。
使い勝手が悪くなる。
昨日もそうだった。
こまかい設定ができるのはよいが、それが不必要なまでに、こまかい。
こうしたソフトは毎日使うようなものではない。
使うとしても、年に1度だけ。
その間に、操作方法を忘れてしまう。
ああでもない、こうでもないと操作しているうちに、30~40分も時間が
過ぎてしまった。
どうしてもっと、簡単にしないのか?
わかりやすいソフトにしないのか?
一般の人は、ここまで高度なソフトは求めていない。
で、その年賀状。
書くのは便利になった。
が、その分だけ、ありがたみが消えた。
書くほうも、もらうほうも、気楽になった。
「これでいいのかなあ」と思いつつ、ポストに投函。
●PSP(ソニー製)体験記
この10日あまり、PSP将棋にハマっている。
おもしろい。
たとえばリーグ戦では、Dグループから始まり、最終的にはS1グループへと
勝ち進んでいく。
現在は、Cグループあたりをウロウロしている。
で、PSP体験記。
PSP(ソニー製)で遊ぶようになって、いくつか感じたことがある。
そのひとつ。
画面が小さいだけに、疲労感も大きいということ。
つづけて将棋を指していると、イライラ感がつのる。
自分でもそれがよくわかるほど、つのる。
ゲームは2試合までと決めているが、それでも気分が重くなる。
高じると、そのまま頭痛に。
勝ったときは、それなりに気分がよい。
しかし負けたときには、ドンと気分が悪くなる。
総合的に判断すると、やはり子どもには、よくないということ。
幼児には、とくに避けたほうがよい。
将棋ゲームですら、こうなのだから、怪獣ものは、なおさら(?)。
将棋にしても、大きな将棋板の上で、人間相手に楽しむのがよい。
またそれが正道。
……というような理由で、アメリカの孫たちに送るのは、やめた。
嫁さんに叱られそう。
●さて、朝
さて、朝になった。
考えることは、まず運動。
散歩に出ようか。
それともウォーキングマシンですませようか。
が、今朝は、かなりの睡眠不足。
昨夜は長男と、午前1時ごろまで、話しこんだ。
今ごろになって、眠くなってきた。
どうしよう?
もう一眠りしようか?
やはり、一眠りしよう。
そして目が覚めたら、中国に現れたUFOについて、詳しく調べてみよう。
たしかに、あれはすごい!
乞うご期待!、というところ。
みなさん、おはようございます。
2010年12月30日、朝記。
Hiroshi Hayashi+++++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
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【中国・杭州・蕭山(しょうざん)国際空港に現れたUFO
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●インチキか本物か、それを確かめるのは、あなた!
http://www.youtube.com/watch?v=WzQc-UCHXtA&feature=related
2010年7月9日、中国杭州の、蕭山に、UFOが出現した。
多くの目撃者もおり、またさまざまな角度から写真も撮影されている。
このUFO騒動が、インチキでないことは、当日、近くの空港が閉鎖
されたことでもわかる。
エルエル(NEWS)サイトは、つぎのように伝える。
『浙江省杭州市にある蕭山(しょうざん)国際空港が一時閉鎖され、18便の飛行機に影
響が出たそうです。
この写真は午後8時40分頃に撮影されたそうです。空港が閉鎖されたのは8時41分~
9時45分まで』(エルエル)と。
詳しくは、
http://10e.org/mt2/archives/201007/092319.php
このUFOの特徴は、上部に客室らしき構造をもち、下部が光線に包まれて
いるということ。
また上部の客室らしき部分には、2つずつ、窓が並んでいるのがわかる。
さらに写真によっては、下部から下方向、あるいは尾部方向に、光線を発して
いるのがわかる。
鮮明な写真も数多く撮影されている。
計18便の飛行機に影響が出たということだから、相当数の目撃者がいたはず。
最近にない、UFO目撃例ということになる。
そのUFOが、どういうものであるかは、みなさん自身で見て、確認してほしい。
HTML版も、ここに添付しておく。
インチキか本物か、それはあなた自身で確かめてみてほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 中国 杭州 UFO 2010-07-09)
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はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
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まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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