Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, July 20, 2011

●思春期の子供、女子の心理

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 7月 20日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【思春期の女子の心理】(理性と本能の葛藤期)

●正常vs変態

 昨日、中3のNさん(女子)が、私にこう聞いた。
「先生は、変態か?」と。
で、私は、「そうだ」と答えた。
が、それを聞いて、まわりにいたみなが、「ヘエ~~?」と笑った。

N「先生って、変態だったの?」
私「そうだよ。でもね、この世の中に、正常な人というのもいないの。わかるかな。精神医学の世界で
さえ、(正常)の定義付けを、あきらめてしまった」
N「じゃあ、みな、変態ってこと?」
私「そうじゃない。絶対多数の、平均的な人というのは、たしかにいる。そういった人たちが、自分た
ちを正常といい、自分たちの外にいる人を、変態という。しかしそれこそ、偏見だよ」

 つまり正常か変態かというのは、相対的なちがいでしかない。
大切なのは、たがいに認めあうこと。

●性の世界では

 とくに性の世界では、正常も変態もない。
その男女が、(べつに男女でなくてもよいが……)、それぞれに納得していれば、正常も変態もない。
そういう判断をくだすこと自体、ナンセンス。

 もう少しわかりやすく言うと、こうなる。
性の世界は、きわめて言うなれば、「動物的な世界」。
その動物的な世界に対して、大脳の前頭連合野が支配する「理性の世界」がある。
この2つは、常に対立関係にある。
その理性の世界と、動物的な世界が、はげしくぶつかりあう。
理性は、動物的な行為を、「変態」と位置づけて、攻撃する。
つまりそれは、脳の内なる世界で起きている、本能と理性の戦いそのものということになる。

 ……という少しむずかしい話をしてしまった。
Nさんは、ポカーンとした表情で私の説に耳を傾けていた。
が、頭のよい子である。
その日も、「数学のテストで1番を取った」と喜んでいた。

●思春期

 思春期には、本能と理性が、脳の中で、はげしい葛藤を繰り返す。
(そうでありたい私)と(そうでありたくない私)。
あるいは(私)と(得体の知れない私)。
これらが脳の中で、はげしい葛藤を繰り返す。

 が、結局は、本能が勝つ。
理性の力は、それほど強くない。
思春期においては、とくにそうで、理性の力など、台風の風を前にしたパラソル程度の抵抗力しかない。
一風吹いただけで、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。

私「それにね、脳の世界というのは、きわめて多様性に富んだ世界なんだよ。ニューロン(神経細胞)
から伸びるシナプスの数のほうが、DNAの数より、はるかに多い。脳の働きだけは、DNAのコント
ロールを受けないということ。わかるかな?」
N「……わからない」
私「もしDNAが、人間の思考の内容まで決めてしまっているとしたら、人間は、その範囲でしか、も
のを考えることができない。虫や魚などは、そうかもしれない」
N「人間は、自由にいろいろなことを考えられるということね」
私「そうだ。さすが君は鋭い。その(自由)こそが、人間がもつ(多様性)ということになる」

N「鳥もそうかしら?」
私「そうだよ。それぞれの鳥は、自分勝手な行動をしているように見えるかもしれないけど、北海道の
スズメも、九州のスズメも、スズメはスズメ。その範囲での行動しかしていない」
N「人間はどうなの?」
私「大部分は、北海道の人も、九州の人も、人は人。その範囲での行動しかしていない。が、中に、『私
はちがう』と考えて行動を始める人がいるかもしれない。そのとき人は、DNAの支配下から、逃れる
ことができる」
N「つまり、平均的な人は、DNAの支配下にあるということね?」
私「さすが、君は、鋭い。そのとおり」と。

 久々に、熱い話になった。
が、私はこういう話をするのが、好き。

●ただの人

 いつも多様性を追求する。
それが生きるということに、つながる。
本能の命ずるまま、つまりDNAの支配下で、多数の人と同じことをしているなら、その人は、その程
度の人。
ハイデガーの説いた、「ただの人(das Mann)」というのは、そういう人をいう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

+++++++++++++

「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎのは2008年4月に
書いたもの。

話が脱線するが、許してほしい。

+++++++++++++

【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a “man”, so-called “das Mann”. But nobody
agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do toward the of the lives.
Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの人は退職、と
いうことになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳をとれば、人
間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなったことすらわ
からない。

先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったときのこと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつなぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の次元がわかる
ようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれば、みなに忘
れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほど、感動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命をたどることに
なる。

繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」と呼ん
だ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はや
し浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●本能の奴隷

 話を戻す。

 50歳を過ぎたころ、私も、「男の更年期」というのを経験した。
簡単に言えば、そのとき思春期以来はじめて、「性」から解放された。
それは実にすがすがしい世界だった。
さわやかな世界だった。
週刊誌などに出ている、女性の裸T写真(T=体)を見ても、ただの脂肪のカタマリに見えた。

 そのときのこと。
私はそれまでの私がいかに性の奴隷であったかを知った。
性の奴隷そのもの。
恐らく現在、その渦中にいる若い人たちには、それがわからない。
自分はそれでふつうと思い込んでいる。
が、ふつうではない。
ふつうでないことは、「性」から解放されてみて、はじめてわかること。
私はそれを知った。

 もっともその時期を過ぎてからは、再び性欲が戻ってきた。
が、以前ほど、強くはない。
焚き火のあとの残り火のようなもの。
ポッポッと短く燃えては、すぐ消えてしまう。
が、何よりもすばらしいことは(?)、それ以後、本能を理性の力でコントロールできるようになった
こと。

●変態論

 で、変態論。

 むしろ変態でないほうが、おかしい。
もちろんそれによって他人に迷惑をかけることは、許されない。
しかしそうでなければ、どんなことをしてもよい。
どんなことを考えてもよい。
変態か、変態でないか、そんな判断をすること自体、先にも書いたようにナンセンス。
少し前まで、同性愛すら、変態の領域に押し込まれてしまっていた。

 Nさんは、「性」に関して、私に変態かと聞いた。
が、こと「性」に関しては、私はかなり平均的と思っている。
が、自分で、そう思っているだけかもしれない。
かなり変態的な人たちからみれば、私など、逆に変態かもしれない。
要するに大切なことは、ありのままの姿で、自然体で考えること。
自然体で行動すること。
それが「おかしい」と言うなら、人間そのものがおかしいということになる。
が、そういうことはない。

 最後に、一言。
こういう話は、前にもしたことがある。
もう20年近くも前のことである。
やはり中学3年生の女子が、私にこう聞いた。
「先生は、清純か」と。
で、そのとき、私は、昨夜とはちがい、こう答えた。
「ぼくは、清純だ」と。

 するとその女子は、こう言った。
「子どもがいるくせに!」と。

 しばらく、その意味がよくわからなかった。
が、やがてその意味がわかった。
その女子は、「子どもがいるということは、Sックスをしたはず。だから清純ではない」と考えた。

つまりこの時期の女子は、ほかの年代の男性や女性とは、かなりちがったものの考え方をする。
最初の話に戻る。
この時期の女子の脳の中では、本能と理性が、はげしい葛藤を繰り返す。
一方、男子は、割とあっさりと理性を投げ捨ててしまうが、女子はそうでない。

 この時期の子どもたち、とくに女子の心理を知るひとつの手助けになればうれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はや
し浩司 思春期 思春期の女子 思春期の女子の心理 本能と理性の葛藤)
2011/07/06記

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●7月7日(2011年)

●ワイフの弱音

 昨夜、寝るとき、ワイフが、生まれてはじめて弱音を吐いた。
「あなたはいいわね」と。
「どうして?」と聞くと、「あなたにはあなたを支えてくれる人がいるから、いいわね」と。

私「……ぼくを支えてくれる?」
ワ「そうよ。あなたにはあなたのファンがいる。でも私にはいない……」
私「でも、お前には家族がいる。兄も姉も、妹もいる。ぼくにはいない……」
ワ「そうね……。あなたは、ひとりぼっちね……」と。

 そしてそのあと、こう言った。
「私が死んでも何も残らない……。みんな、あっという間に、私のことなんか忘れてしまう」と。

 私はワイフがそんなふうに考えているとは、夢にも、思っていなかった。
アメリカへ行った二男にしても、東京へ行った三男にしても、「みな、それぞれが幸福になればそれで
いいのよ」と言っていた。
そんなワイフがさみしがっている(?)。

●切なさ

 生きていくということは、さみしさの連続。
このところ昔つきあった友のことをよく思い出す。
もう30~40年も、音信のない人もいる。
さみしいというより、切ない。
生きていること自体が、切ない。

 父も母もいない。
兄も姉もいない。
帰るべき、故郷もない。
このところ昔、世話になった人が、ポツリ、ポツリと亡くなっていく。

私「ぼくなんかね、この浜松では、ひとりぼっちなんだよ。23歳のとき来たから、子どものころの友
だちさえ、いない……」
ワ「でも、あなたの書いたものは残るわ」
私「残らないよ……」
ワ「残るわよ……」
私「そう願って書いてはいるけど、残らない。インターネットの世界は、不思議な世界だよ。そこに読
者がいるはずなんだけど、その実感がまるでない。ものを書いたとたん、それが煙のようになって消え
ていく……」

●丸い涙

 気づかなかった。
ワイフはノー天気な女性とばかり、思っていた。
孤独とは無縁の世界に住んでいるとばかり、思っていた。
しかしワイフには、ワイフのさみしさがあった。
そのさみしさにじっと耐えながら、生きていた。

私「お前が、そんなふうに考えているとは、思ってもみなかった」
ワ「そう? でもよく考えるわ。このまま私が死んだら、私はどうなるのかって……」
私「……」
ワ「みな、すぐ私のことなんか、忘れてしまうわ」
私「……」
ワ「でも、あなたは自分の生き方を貫くことができた。自分のやりたいように、自分の人生を生きるこ
とができた。みんな、あなたのような人生を送りたいと思っているけど、それができないでいるのよ」
と。

 それを聞いているとき、丸い涙が目の上に浮かんだ。
目を閉じたとき、頬を伝って下に落ちた。

●業(ごう)

 朝、目を覚ますと、時計は5時半を示していた。
外はどうやら小雨のよう。
まだ外は薄暗かった。
起きようか、どうか、私は迷った。
どうであるにせよ、一度、トイレに行かねばならない。

 10分……20分……と、時が流れた。
そういう私に気づいて、横でワイフが、私の背中をさすってくれた。
とたん、昨夜、寝る前の話が、そっくりそのまま私の脳に戻ってきた。
だれのせいでもない。
私のせいだ。
私が背負った、罪深い業(ごう)のせいだ。
祖父から父、父から私……。
代々、伝わった業のせいだ。

 みな、私は私と思って生きている。
私も、実は、そうだった。
が、今、その業を感ずる。
私を超えて、その向こうで流れる業を感ずる。
私という「私」は、その流れの中で生きている。

●7月7日

私「ぼくだって、さみしいよ」
ワ「どうして?」
私「だって、ぼくを理解してくれる人が、どんどんと少なくなっていく……。N先生も亡くなってしま
った。T先生も亡くなって、もう4年になる……」
ワ「私は、あなたを理解しているわ」
私「でもね、そのお前が、そんな心細いことを言ったら、ぼくはどうすればいい? お前が死んだら、
ぼくは、どうすればいい?」
ワ「そうね……。そういう点では、あなたは、かわいそうな人よね」
私「……」
ワ「いつもひとりぼっちで、歩いている……」と。

 昨夜は、そんな話もした。
さみしかった。
つらかった。
が、ともかくも、朝になった。
朝がやってきた。
グズグズ言っても、どうにもならない。
生きていくしかない。
今日の仕事をするしかない。

時刻は今、午前6時半。
7月7日、木曜日。
小雨が心地よい涼しさとなって、窓から流れてくる。

そこにいる孤独さんよ、今日もよろしくね!


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●業(ごう)

+++++++++++++++

業について書いた原稿を
さがしてみる。
昨年も、たしか書いたはず。

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●業(カルマ)(The Deepest Sin in Ourselves)

+++++++++++++++++++

仏教では、意識を、大きく、
(1)末那識(まなしき)と、
(2)阿頼那識(あらやしき)の2つに
わける。

末那識というのは、意識の総称。
阿頼那識というのは、現代心理学でいう、
「無意識」、あるいはさらにその奥深くに
ある、深層無意識と考えてよい。

その仏教では、末那識(「私である」という
自我)が、阿頼那識におりてきて、そこで
蓄積されると教える。
そして阿頼那識で蓄積された意識は、
今度は反対に、末那識の世界まであがってき、
末那識に影響を与えると、教える。

これについては、何度も書いてきたので、
ここではその先を考えてみたい。
いわゆる「業(ごう)」の問題である。

++++++++++++++++++++

●意識と無意識

 意識の世界のできごとは、常に、無意識の世界に蓄積される。
パソコンにたとえるなら、自動バックアップのようなもの。

(WINDOW7には、自動バックアップ機能というのがついている。
それを使うと、ファイルの変更などをすると、自動的に、別のディスクに
バックアップをコピーしてくれる。)

 仏教では、意識される意識を「唯識(ゆいしき)」とし、眼識、耳識、鼻識、
舌識、身識、意識の6つに分ける。
現代でいう、五感とも、ややちがう。
その唯識が、「私」を形成する。
それが「末那識」ということになる。

●末那識は一部

 この末那識は、先にも書いたように、常に阿頼那識の世界に影響を与え、
そこで業(カルマ)として、蓄積される。
が、現代の大脳生理学でも証明されているように、無意識の世界の広大さは、
意識の世界の広さとは、比較にならない。
20万倍とか、それ以上と言われている。

(数字で表現するのは、正しくない。
要するに、意識として使われている脳は、脳の中でもほんの一部に過ぎない
ということ。)

 よく「業が深い人」という言葉を耳にするが、つまりそれだけ阿頼那識に
蓄積された業は、大きく、反対に、末那識に与える影響も大きいということ。
言い替えると、私たち人間は、意識の世界だけで生きているのではないということ。
実際には、無意識の世界の命令に応じて、生きているということ。

●無意識の世界

 たとえばここに、場面かん黙児の子どもがいるとする。
入園など、はじめて集団に接したようなとき、発症することが多い。
家の中では、ごくふつうに会話ができる。
しかし集団の中に入ったとたん、貝殻を閉じたかのように、かん黙してしまう。

 そういう子どもと接していると、無意識の世界を操作するのが、いかに
むずかしいかがわかる。
あるいは子どもの、その向こうにある、無意識の世界の広さに、驚くことがある。
場面かん黙児の子どもは、その無意識の世界の命令によって行動する。
そのため意識の世界から、いくら話しかけたり、説教したりしても、意味がない。
効果もない。

●業(ごう)

 業(ごう)というのは、そういうもの。
人間がもつ本能とも直結している。
そのためそれが何であれ、またどういうものであれ、意識の世界でコントロールしよと
しても、ビクともしない。
仮にあなたが、きわめて知性的な人であっても、その知性で、コントロール
できるようなものではない。

 たとえば手鏡をもって、女性のスカートの下をのぞいていた大学の教授がいた。
超一流大学を出て、当時は、毎週のようにテレビに出演していた。
地位と名声、それに富を、順に自分のものにした。
にもかかわらず、自らの業を、コントロールすることができなかった。
今度は、電車の中で痴漢行為を働いて、逮捕された。

●ではどうするか

 仏教では、……といっても、釈迦仏教というよりは、釈迦滅後、500~600
年を経てからだが、「八正道」を説かれるようになり、さらに実践的な、「六波羅密」
が説かれるようになった。

 八正道についても、たびたび書いてきたが、こと、阿頼那識ということになると、
六波羅密のほうが重要ということになる。

 布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、「六波羅密」という。
これは私も最近知ったのだが、「波羅密(ハラミツ)」というのは、「徹底」を意味する
サンスクリット語の当て字だそうだ。
漢字の「波羅密」を見て意味を考えても、答は何も出てこない。

(ついでに、日蓮宗の『南無妙法蓮華経』という題目にしても、

ナム……サンスクリット語の「帰依する」を意味する語の当て字。
しかし実際には、「hello」の意で、現在でもインドでは、あいさつの言葉として、
広く使われている、

妙法……サンスクリット語の、「因果な」を意味する、当て字、

蓮華……サンスクリット語の、「物語」を意味する、当て字、

「経」の漢字は、中国に入ってから、学者たちによって、付加された。)

 「末那識」「阿頼那識」という言葉についても、無著(むじゃく)、世親(せしん)
あたりから、世に出てきたから、サンスクリット語の当て字と考えるのが妥当。
今風に言えば、「意識」「無意識」ということになる。
(不勉強で、申し訳ない。)

●六波羅密

 ここにも書いたように、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密」という。
これを実践することにより、人は涅槃(ねはん)の境地に達することができると
言われている。

 もっとも私のような凡人には、それは無理としても、しかしこの中でも「精進」の
重要さだけは、よく理解できる。
「日々に、私たちは前に向かって、邁進(まいしん)努力する」。
それは健康論と同じで、立ち止まって休んだ瞬間から、私たちは不健康に向かって、
まっしぐらに落ちていく。

 よく「私は、修行によって、悟りの境地に達した」とか、「法を取得しました」とか
言う人がいる。
しかしそういうことは、ありえない。
ありえないことは、あなた自身の健康法とからめて考えてみれば、それがわかるはず。

 で、私は、日常生活の中で、つぎのように解釈している。

布施……ボランティア活動をいうが、いつも弱者の立場でものを考えることをいう。

持戒……仏教的な「戒め」を堅持することをいうが、簡単に言えば、ウソをつかない、
ルールを守ることをいう。

忍辱……「忍辱」については、そういう場面に自分を追い込まないようにする。
「忍辱」は、ストレサーとなりやすく、心の健康によくない。
あえて言うなら、『許して、忘れる』。

精進……常に前に向かって、努力することをいう。
とくに老後は、脳みその底に穴が開いたような状態になる。
私はとくに精進を、日常の生活の中で大切にしている。

善定……善を、より確かなものすることをいう。
口先だけではなく、実行する。

知恵……「無知は罪悪」と考えることをいう。

 が、何も「6つの教え」に、縛られることはない。
そういう点で、私はこうした教条的なものの考え方は、好きではない。
まちがってはいないが、どうしてもそれだけに限定されてしまう。
その分だけ、視野が狭くなってしまう。

 要は修行あるのみ……ということになる。

●修行

 ……といっても、私は、仏教的な、どこか自虐的な修行の価値を認めない。
(釈迦だって、そうだったぞ!)
「修行」というのは、ごくふつうの人間として、ふつうの生活を、日常的に
しながら、その中で実践していくもの。
(釈迦が説いた、「中道」というのは、そういう意味だぞ!)
もし、そこに問題があるなら、真正面からぶつかっていく。

 燃えさかる炭の上を歩くとか、雪の中で滝に打たれるとか、そういうことを
したからといって、「修行」になるとは、私は思わない。
少なくとも、私は、ごめん!
またそういうことをしたからといって、「私」の中にある「業」が、消えるわけ
ではない。

●結論

 で、私なりの結論は、こうだ。

 まず業に気がつくこと。
あとはそれとうまく、つきあっていく。
業があっても、なくても、それが「私」。
個性をもった「私」。
それが「私」と認めた上で、(それが弱点であっても、また欠陥であっても)、
前向きに生きていく。

 まずいのは、そういう業があることに気づかず、それに振り回され、同じ
失敗を繰り返すこと。
そのために「智慧」があるということになるが、それについては、また別の機会に
考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はや
し浩司 末那識 阿頼那識 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、はやし浩司 八
正道 六波羅密、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵、6つの徳目 修行論)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(付記)

 日付は、昨年(2010年)の3月になっている。
読みなおしてみる。
ずいぶんと荒っぽい原稿である。
その荒っぽい原稿を読みなおしながら、私の底を流れる「私」をさぐる。
つまり「業」に気づくのは、それほどまでにむずかしい。
脳の奥の奥に潜んで、そこから私たちを裏から操る。
だから「宿業」ともいう。

 その「宿業」についても、以前、書いたことがあるはず。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宿業

 「宿業(しゅくごう)」という言葉もある。
業の中でも、とくに大きく、そして自分の心の奥に潜んでいて、自分を操る業をいう。

 この宿業というのは、若いときにはわからない。
人はその宿業に操られるまま、それを「私」と思いこむ。
が、加齢とともに、それが少しずつ、姿を現してくる。
現像液につけられた写真のように、姿を現してくる。

 それが「私」ということになるが、ときにその醜さに、驚くかもしれない。
「これが私の顔か!」と。
そしてそれまでの「私」が、いかに業に振り回されていたかを知る。
つまり私であって、私でない部分に振り回されていたかを知る。

 言うなれば、若いときというのは、「煩悩(ぼんのう)」のかたまり。
大脳生理学的にいうなら、ドーパミンに操られるまま。
それが「生的エネルギー」(ユング)ということになるが、しかしそれは「私」ではない。
ほんとうの「私」は、深層心理の奥深くにあって、なかなか姿を現さない。
しかもその「私」の大部分は、0歳期~からの、乳幼児期に作られる。

 もちろん宿業がすべて悪いわけではない。
(ふつうは、宿業イコール、悪という前提で考えるが……。)
人間のもつ多様性は、煩悩によって作り出される。
またそれから生まれるドラマが人間の世界を、うるおい豊かで、楽しいものにする。
もちろんその反対もある。
憎しみや悲しみが、暗くて重い歴史を作ることもある。
が、もしなぜ私たち人間が、今、こうして生きているかと問われれば、そうした
ドラマの中で、懸命に生きるためということになる。

 そう、懸命に生きるところに、私たちの生きる意味がある。
追い詰められても、追い詰められても、土俵間際でふんばってがんばる。
それが「生きる」ということになる。

 だれにも宿業はある。
宿業のない人は、いない。
またあることを、恨んではいけない。
大切なことは、そうした宿業と仲良くすること。
どんなに醜い顔をしていても、結局は、それが「私」なのだから……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はや
し浩司 宿業)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【放射能は安全・説?】byはやし浩司(『疑わしきは罰する』)

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今朝は、九州大学大学院工学研究院エネルギー量子工学部のHPを読むことから、始まった。
それには前置きとして、「デマに惑わされず、適切に判断するための科学情報」とある。

そうだ!
デマに惑わされてはいけないのだ!
……ということで、読み始めたが、どうもへん?

●放射線による人体への影響についての基礎知識
●福島県産及び茨城県産食品から検出された放射能

汚染された牛乳やほうれん草についても、つぎのように結論づけている。

『……以上より、福島、茨城で検出された放射能濃度は通常よりも高い値ですが、この食品を食べたと
してもただちに健康被害が出るものではありません。
風評被害を避けることが肝心です。

また、ヨウ素ー131の半減期は8日で、8日毎に半分に減少していきますので、注意するのは最初の1
ー2ヶ月までです。セシウムー137の半減期は30年なので、なかなか無くなりません。カリウムー40
の半減期は13億年です。

また、カリウムー40はもともと自然界にあり食品内部に入っているため洗っても落ちませんが、ヨウ素、
セシウムが表面についている場合は洗い落とすことができます』と。

 この中に出てくる、「ただちに健康被害が出るものではありません」という文言。
私はこの文言を読んだとき、脳内で拒絶反応が起きたのがわかった。
「ただちに……」でなければ、いつなのか?

 全体を読んでいると、今、福島第一原発周辺で起きていることは、すべて「風評」という印象を受け
てしまう。
「意識」というのは、そういう点で、おもしろい。
それらしいことを、数字を並べて説明されると、「そうかなあ」と思ってしまう。
それを受け入れてしまう。
たとえば、こうある。

http://www.qpn.kyushu-u.ac.jp/message/info01/radiation.html

●人は身の回りの自然環境から常に放射線を受けて生活しています。

●受ける放射線の量は地域により異なりますが、世界平均で年間2・4ミリシーベルト(2400
マイクロシーベルト)です。 (単位に注意:1ミリシーベルト=1000マイクロシーベルト)

●ブラジルのカラバリ地域の人々は年間平均10ミリシーベルトの放射線を受けています。

●東京-ニューヨーク間を飛行機で往復したときに宇宙線等によって受ける放射線の量は0・19
ミリシーベルト (190マイクロシーベルト) です。

●胸部X線CTではわずか数秒間に6・9ミリシーベルトの放射線を受けます。

●高度約400kmの軌道の国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士は1日当たり約1ミリシ
ーベルト (1000マイクロシーベルト) の放射線を受けます。国際宇宙ステーションに約4ヶ月
間の長期間滞在した場合は100ミリシーベルト以上の放射線を受けたことになります。(以上、
同九州大学HPより)

 こうした数字を具体的に並べながら、こう結論づけている。
注意深く読んでみてほしい。

『……(2011年、事故翌日の)3月12日の午後、福島原子力発電所正門付近で測定された
空間線量率の値が1015マイクロシーベルト (1・015ミリシーベルト) であったと報道されてい
ます。
この値は、その場所に1時間じっとしていたときに全身に受ける放射線の量で、上で述べたよ
うに健康への影響はありません』と。


●一般人の常識

 簡単に言えば、胸部X線CTでは、わずか数秒かに、6・9ミリシーベルトの放射線を受ける。
だから正門付近で測定された、1015マイクロシーベルト(1・015ミリシーベルト)程度の放射
線など、何でもない。
つまり「ただちに健康被害が出るものではありません」と。

 私など、こういう事実(?)を突きつけられると、逆にこう読んでしまう。
「胸部X線CTというのは、そんなに恐ろしいものであったのか。2度と受けないぞ」と。
またそういう読み方をするのが、一般の人の常識ではないだろうか。

 ともかくも今、放射線に関する情報が複雑に交錯している。
きわめて大ざっぱに言えば、危険説を唱える京都大学派。
「心配ない」説を唱える九州大学派。
過小評価説を流しつづける、文部科学省派。
やや大げさに危険説を唱えつづける「週刊現代」(週刊誌)派。

 が、これだけは忘れてはいけない。
放射線被害が出てくるのは、これから。
10~20年をかけて、ゆっくりと出てくる。

●紫斑が出た子どもたち

 実際、すでに福島第一原発の周辺の子どもで、体中に紫斑を発症した子どもの例が報告されている。

いわく『福島では子どもたちに下痢、鼻血、紫斑などの「急性症状」が出ているという。常識的には考
えられないが、化学物質過敏症のように「放射線過敏症」があっても不思議はない。県外の小児科医に
よる子どもたちの健康相談がもうすぐはじまる。その結果を注目したい』(名古屋大学・高野雅夫准教
授)と。

紫斑は、放射線病の初期症状と言われている。
もし子どもたちの症状が放射線病によるものなら、「心配ない」説など、吹っ飛んでしまう。

 さらに今朝の中日新聞によれば、「福島原発周辺の子どもの45%に、甲状腺微量被爆」(1面トップ)
とある。
信憑(ぴょう)性はぐんと落ちるが、「女性自身」(週刊誌)は、「郡山市で急増、謎の体調不良に苦し
む子どもたち」という記事を特集している(今週号)。

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●意識

 放射線が危険か、危険でないか。
それは私たち個人が、情報を集めて判断すべきこと。
つまり、それはそれ。

 ここでは「意識」について、もう少し深く考えてみたい。
つまり私たちが「正しい」と思っている意識ほど、アテにならないものはないということ。
意識というのは、情報によって、いくらでも作り変えられる。
脳内ホルモンの働きによっても、変化する。

 たとえば男性のばあい、(女性もそうかもしれないが)、射S(禁止用語)の前とあとでは、女性の肉
T(禁止用語)の見方が、180度変わる。
これは、射Sによって、(欲望)が吐き出されたのではなく、射Sと同時に、脳内でフィードバックが
起こるためと、私は考える。
つまり逆作用のあるホルモンが分泌され、S欲を中和する。

(BLOGによっては、禁止用語を使用すると、掲載不可になる。
「S」=「精」「性」のこと。「T」=「体」のこと。)

 S欲と意識をそのまま結びつけることは正しくないかもしれないが、私自身も、自分の中で意識の変
化を、たびたび経験している。
よい例が、(子離れする前の子どもの見方)と、(子離れしてからの子どもの見方)。

●子離れ

 人間(=私)について書くのは、ここでは遠慮する。
私にも3人の息子がいる。
が、ドバトについて、書くのであれば、問題ないと思う。

 私の家の裏庭の栗の木の上では、毎年、ドバトが営巣し、雛を育てる。
そのドバトを見ていると、おもしろいことに気づく。

 雛を育てているときは、まさに命がけ。
この部分は、人間の子育てと似ている。
が、ひとたび巣立ち、雛が親鳥とほぼ同等格になってくると、今度は、親鳥が子鳥のドバトを追い払う
ようになる。
さらにそれが進むと、縄張り争いをするようになる。
傍から見ていると、親鳥と子鳥が、他人以上の他人になったように感ずる。

 人間のばあいも、そこまでひどくはないにしても、似たようなケースは、いくらでもある。
民族性もあるのかもしれない。
家庭環境もあるのかもしれない。
その人の性格や哲学も、大きく影響する。
しかし概してみると、(子離れする前の意識)と(子離れしたあとの意識)は、大きくちがう。
子どもにしても、そうで、(親離れする前の意識)と(親離れしたあとの意識)は大きくちがう。

●死生観→人生観

 言い換えると、今、あなたがどんな意識をもっているにせよ、それが絶対的なものとか、正しいもの
とか、さらには普遍的なものと考えてはいけない。
意識というのは、変わる。
またそういう前提で、自分の意識をながめる。

 たとえば私は、ごく最近まで、孤独死、無縁死という言葉を耳にすると、ドキッとした。
私自身が、孤独死、無縁死をする確率がぐんと高くなったこともある。
それを防ぐには、どうしたらよいか、それについて真剣に悩んだ。
が、それが60%以上の人の死に方であるとわかったとき、意識は変わった。

 「孤独死、無縁死、恐れるに足りず」「それもしかたのないこと」と。
とたん息子たちへの期待感は、ゼロになった。
息子たちへの思いも、変わった。
つまり意識が変わった。

 墓地や墓についての意識にしても、そうだ。
が、何よりも変化したのは、死生観。
平均余命で計算すると、私の人生は、よくて残り16年。
運がよければ、それより長くなるが、私のような無年金族は、長生きをすればするほど、みなに迷惑を
かける。
自分で歩けなくなったら、あとはできるだけ早く、あの世へ行く。

ついでに人生観も変わった。
つまり、今が「命」。
今のうちにすべきことを、し、完全燃焼させておく。
そういう人生観に変わった。

●再び放射線

 本当のところ、私自身は、もうどうなってもよい。
雨のように放射線がこのあたりに降り注いでも、それはそれで結構。
まさに自業自得。
政治が悪いという説もあるが、その政治を許してきたのは、私たち自身。
この日本(=世界)、何もかもおかしい。
狂っている。

 少し前も、あの『ハリーポッター』の邦訳版について、誤訳が問題になった。
たしかに誤訳だらけ。
しかしそのときも、こう思った。
「もともとデタラメな本。そんなデタラメな本を誤訳したからといって、それがどうした?」と。

 今の心境もそれに似ている。
「それがどうした?」と。
が、こと子どもたちのこと、日本の将来のこととなると、話は一変する。
私が福島第一原発事故について心配するのは、結局は、そこに行き着く。
そういう視点で書くなら、こうなる。

『疑わしきは、罰する』。

 法律の世界では、『疑わしきは、罰せず』という。
しかし子どもの世界では、『疑わしきは、罰する』。
またそれに徹する。

 「心配ない」説は、とんでもない意見ということになる。
もしそうなら、自分も自分の子どもを連れて、福島へ行けばよい。
現地の牛乳を飲ませ、ほうれん草を食べさせればよい。
暴論に聞こえるかもしれないが、そこまでしたら、私も「心配ない」説を信ずる。
九州という、東北からもっとも遠く離れた場所にある大学だから、好き勝手な論理を振り回すことがで
きる。

 京都大学は、それに比べて、ぐんと東北に近い。
「週刊現代」を発行する講談社は、まさにスーパー・ホットスポット内(東京)にある。
で、このエッセーの結論は、こうなる。

 日本では、今、チェルノブイリ事故以上の深刻な事故が起きている。
もしここで今、再度、大地震が起きたり、水素爆発、もしくは水蒸気爆発が起きたら、万事休す。
作業員すら近づけなくなる。
だから万事休す。
難民として、外国へ逃げるしか、生き延びる方法はない。
みなさんには、その覚悟ができているだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はや
し浩司 意識論)
平成23年7月5日(火)記


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