Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, July 28, 2011

●乳児の原始反射

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司2011/07/29記

●原始反射(2006年7月の原稿より)

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赤ちゃんには、赤ちゃん特有の反射
的運動がみられる。

これを、「原始反射」と呼ぶ。

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 二男の娘(私の孫)が生まれて、もう2か月になる。
名前を芽衣(Mae)という。
最近、やっと漢字の名前が決まった。

 その芽衣を想像しながら、改めて心理学の本(心理学用語辞典・かんき出版)を、ひもとく。
乳児と幼児は、必ずしも、連続的につながっているわけではない。
たとえば、赤ちゃんには、赤ちゃん特有の、反射的運動がある。

 これを「原始反射」と呼ぶ。
この原始反射の多くは、生後3~4か月で、消失してしまうことが知られている。

 その原始反射には、つぎのようなものがある(心理学用語辞典より)。

(1)把握反射
(2)バビンスキー反射
(3)モロー反射
(4)口唇探索反射
(5)自動歩行反射
(6)マグネット反射

 把握反射というのは、手のひらを指などで押すと、その指を握ろうとする現象をいう。

 バビンスキー反射というのは、新生児の足の裏を、かかとからつま先にかけてこすると、親指がそりかえり、足の指が開く現象をいう。

 赤ちゃんの胸の前に何かをさし出すと、それに抱きつくようなしぐさを見せることをいう。ドイツのモローによって発見されたところから、モロー反射と呼ばれている。

 口唇探索反射というのは、赤ちゃんの口のまわりを指などで触れると、その指を口にくわえようとする現象をいう。

 自動歩行反射というのは、脇の下を支えながら、右足に重心をかけると、左足を前に出そうとする。これを繰りかえしていると、あたかも歩いているかのように見えることをいう。

 マグネット反射というのは、両脇を支えて立たせると、足が柱のようにまっすぐになる現象をいう(以上、同書より要約)。

 これらの現象は、短いので、生後2~4週間で、長くても、8~10か月で消失すると言われている。
で、こうした現象から、つぎの2つのことが言える。

 ひとつは、乳児が成長して、そのまま幼児になるのではないということ。
赤ちゃんには、赤ちゃん特有の成長過程があり、その期間があるということ。

 もうひとつは、前にも書いたが、いわゆるネオテニー進化論の問題である。
その原稿は、このあとに添付しておくが、要するに、人間は、未熟なまま誕生し、その未熟さが、こうした現象となって、現れるのではないかということ。

 本来なら、こうした原始反射といったものは、母親の胎内で経験し、誕生するまでに消失しているべきということになる。
つまりわかりやすく言えば、人間は、その前の段階で、誕生してしまうということになる。

 ご存知の方も多いと思うが、人間は、(ほかの動物もそうだが)、母親の胎内で、原始の時代からの進化の過程を、一度すべて経験するという。
初期のころには、魚のような形にもなるという。
その一部が、誕生後も、こうした原始反射となって現れる(?)。

 もしあなたに、今、赤ちゃんがいるなら、一度、この原始反射を試してみるとよい。
何かの新しい発見ができるかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●赤ちゃんの意思

 もちろんこうした「原始反射」は、赤ちゃんに「私」があって、起こるのではない。
つまり赤ちゃんの意思とは無関係に起こる。
その理由の第一が、人間すべてに共通した反射運動だからである。

 同じように考えてよいのが、「性欲本能」。
それから発生する、もろもろの欲望。
フロイトは、「性的エネルギー」を、もろもろの人間の心理の根幹に置いた。
私たちの行動、心理活動は、その根源で「性的エネルギー」に結びついている、と。
(これに対してユングは、「生的エネルギー」という言葉を使った。)

 男が自己主張するのも、女が化粧するのも、その奥の奥で、性的エネルギーと結びついている。
どの人も「私は私」と思いながら、行動しているかもしれない。
が、その実、その実態といえば、「原始反射」。
あらゆる生物は、種族保存に、すべての命をかける。
その「命をかける」部分が、原始反射ということになる。

 わかりやすく言えば、およそ心理学で体系化された部分というのは、「私であって、私でない部分」ということになる。
体系化されるという部分で、私であって私でない部分ということになる。

●では、私とは?

 少し前、「私」というのは、タマネギのようなものと書いた。
私と言えるような部分は、中心にあるほんの小さな部分で、大半は、ただの「皮」。
その「皮」を私と思い込んでいるだけ。

 たとえば赤ちゃんの原始反射のひとつの「把握反射」にしても、それを見て、親は、「ああ、うちの子は自分の意思で反応している」と思うかもしれない。
しかし反応しているのではない。
赤ちゃんとの意思とは無関係のところで、反射運動が起きているだけ。

 ……ということを、さらに拡大解釈していくと、もろもろの私たち人間の行動、心理活動は、「私であって、私でない部分に操作されているだけ」ということがわかってくる。
先に「私というのは、タマネギのようなもの」と書いた。
「私と言えるような部分は、中心にあるほんの小さな部分」とも書いた。
しかし実際には、その「小さな部分」さえない人のほうが多い。

 悲しいかな、加齢とともに、人は賢くなっていくわけではない。
「私」を発見していくわけでもない。
その多くは、バカになっていく。
自分が、その年齢になって、それがよくわかるようになった。
私は確かにバカになりつつある。
経験や知恵は、脳みその底から、どんどんとこぼれ落ちていく。
1か月前にできたことが、今日、できなくなるということは、しばしば経験する。

 で、結果として、そこらのオジチャン、オバチャンと同じようなことをするようになる。
……というか、オジチャン、オバチャンと同じになる。
あるいはハイデガッガーの言った、『ただの人(das Mann)』でもよい。

 もしあなたが、北海道のオジチャン(オバチャン)も、九州のオジチャン(オバチャン)も同じという範囲の中のオジチャン(オバチャン)なら、ただのオジチャン(オバチャン)ということになる。
平たく言えば、「私」のない人を、「ただの人」(ハイデッガー)という。

●私を創る

 こうして考えてみると、「私を創る」ということが、いかにたいへんかが、わかる。
だからよく若い人が、「私とは何か」とか問うたびに、私は皮肉たっぷりにこう思う。
「そんなもの、あるか!」と。

 それがわからなければ、北海道のスズメを見ればよい。
九州のスズメを見ればよい。
(沖縄のスズメでもよい。)

 それぞれはみな、てんでばらばらに、自分勝手な行動を繰り返している。
しかしスズメは、スズメ。
その範囲を超えることはない。
つまりスズメには、「私」はない。

 が、もしその中の一羽が、ある日、こんなことをしたとする。
人間の前で、歌いながら踊り始めた。
「餌がほしい」というジャスチャをしてみせた。
あるいはあの「カモメのジョナサン」のように、自分の限界を超えて、天空高く、舞い上がるのもよい。
もし一羽のスズメが、それをしたとするなら、そのスズメには、「私」があることになる。
そのスズメは、「私」をもったことになる。

 が、そうでないなら、そうでない。
「私」を創るためには、それこそ想像を絶するような努力と日々の精進が必要となる。
だれかのまえではいけない。
まねしたとたん、その人は「私」を失う。

●ミューチュアル・アタッチメント

 さらにここ10年の研究によれば、あの赤ちゃんも、親の心をくすぐるための心理行動をしているのがわかってきた。
それまでは愛着行動というのは、親から赤ちゃんへの一方向的な行動と考えられていた。
相互に作用するから、それを『ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着行為)」という。

 もしあの赤ちゃんが、生まれながらにして、生意気で、ふてぶてしい態度を取っていたら、それだけで親は、子育てを放棄してしまうだろう。
つまりその時点で、人類は滅亡することになる。

赤ちゃんは赤ちゃんで、(とくに人間の乳児は)、親に育ててもらわねばならない。
そのため無意識下の意識の作用により、自ら(かわいさ)を演出する。
エンゼル・スマイルもそのひとつと言われている。
それがミューチュアル・アタッチメントということになる。

 で、一方、親は親で、その演出された(かわいさ)にデレデレになる。
親は、それを自分の意思と思うかもしれない。
「赤ちゃんがかわいいと」と思うのは、私の気持ち。
これが真の愛、と。
しかしそれらすべての、一連の感情や行動は、最初から計算されたものでしかない。
つまりそれ以前から、そうできているから、そうする。

 もちろん赤ちゃんだけではない。
成人したおとなだって、そうである。
つねに私たちは無意識下の意識に操作され、それに応じて、感情をもったり、行動を繰り返したりする。
しかしそういった部分は、「私であって、私でない部分」ということになる。
それを私は「タマネギの皮」にたとえた。

 一枚ずつめくっていったら、最後には、何も残らない……。
言い換えると、「私」をもった人など、この70億人とも言われる世界人口の中でも、数えるほどもいないのでは?
私にはわからないが、それくらい少ない。
それくらい「私」をもつことは、むずかしい。

 赤ちゃんの原始反応について書いた自分の原稿を読みながら、そう考えた。

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