Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, January 09, 2008

*To liberate out souls

●魂の解放(To liberate our soul)

Japanese are more concerned about their appearance in the public, about which we know when we compare ourselves with Australians. Australians seldom care about the appearance in the public. They seem to live showing themselves as they are. This means that we have still drag the bad aspect of feudal age of more than 100 years ago. I, however, don’t mean which is good and which is bad. From our point of view Australians are too much rational or “dry” we say, and from their point of view we are not or “wet”. This is a story I heard from my son: One day my son and his friends were driving to Florida and went into the sand dune where their car was in the dead end. Then there appeared some American students, saying, “If you need our help to get your car out of the sand, pay us 20 dollars”. Is this sort of thing to be happened in Japan? This is “dry”, we say in Japanese. But still I say our Japanese traditional way of living, for example, to care about the appearance in the public is rather stupid. Whatever I am, I am “Me”. I still find it difficult for me to live as I am. This is an article about this.

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世俗的な見栄、体裁、世間体に
引きずられて、自分を見失う人は多い。
このタイプの人は、おかしなところで、
おかしな気を遣(つか)う。

ときには、それが滑稽(こっけい)なほど、
不自然に見えることがある。

が、それは何も、他人の姿ではない。
私たち自身も、いつもその見栄、体裁、
世間体を気にしている。

程度の差こそあれ、みな、そうである。

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 オーストラリア人たちとつきあっていて、第一に感ずること。彼らは、日本で言う、世俗的な見栄、体裁、世間体というものを、まったくと言ってよいほど、気にしない。恐ろしく、サバサバしている。あまりにもサバサバしているので、いまだに、こちらのほうが面食らうほどである。

 このちがいは、どこから生まれるのか?

 日本人は、いまだに農村社会の、あの「邑(むら)意識」を、引きずっている。封建時代が残した、最悪の負の遺産と言ってもよい。「私は私」と考える前に、つねにそこに他人の目を意識する。それが転じて、見栄になり、体裁になり、世間体になる。

 一方、オーストラリアという国は、それ自体が、移民国家。無数の他民族が、複雑に入り混ざっている。日本人の私たちとは逆で、「私は私」と、それを前面に出していかないと、生きていくことすら、むずかしい。

 どちらがよいとか悪いとか、そういうことを議論しても意味はない。それぞれに一長一短がある。あるオーストラリア人は、こう言った。「日本は、すばらしい国だ」と。話を聞くと、どこかで道に迷ったとき、そこで出会った日本人が、ていねいに道案内をしてくれたという。

 「オーストラリアではどうか?」と聞くと、「道を聞こうとすると、みな、逃げていく」と。

 さらにこんな話も……。これはアメリカでの話。

 息子たちが、アメリカのフロリダをめざしてドライブをしていたときのこと。海辺の砂浜が美しかったので、そこへ車を乗り入れた。とたん、車は砂浜の砂に車輪を取られて、身動きが取れなくなってしまった。

 が、そこへどこからともなく、4~5人のアメリカ人が現れ、こう言ったという。「車を出してほしかったら、20ドル払え」と。

 そのアメリカ人たちは、学生だった。そこで息子たちが、「ぼくたちも学生だ」と答えると、「じゃあ、10ドルでいい」と。

 こうした生き方を、私たち日本人は、「ドライ」と表現する。言いかえると、日本人は、その分だけ、「ウェット」ということになる。このウェットな部分が、人間関係を濃密にする。私が冒頭にあげた、世俗的な見栄、体裁、世間体というのは、それから生まれる。

 しかし……。それにも程度というものがある。あるいは相対的なものか? 見栄、体裁、世間体を気にしない人から見れば、それを気にする人がよくわかる。ときに滑稽(こっけい)なほど、よくわかる。

 しかし見栄、体裁、世間体を気にする人にすれば、気にしない人が、かえって変わり者に見えるかもしれない。実際、この私は、その「変わり者」ということになっている。さらに私のワイフにいたっては、見栄、体裁、世間体を、気にしない。まったくと言ってよいほど、気にしない。同窓会でも、TOYOTAのビッツに乗って、普段着のまま出かけていく。

いや、全体として見ても、ここ浜松の人たちは、郷里の岐阜の人たちほど、見栄、体裁、世間体を気にしない。浜松という町が、古来、街道筋の宿場町として発展したためではないか。

 ともかくも、見栄、体裁、世間体を気にすればするほど、「私」を見失う。自分がどこにいるかさえ、わからなくなってしまう。「私は私」、どこまでいっても、「私は私」。

 が、こう書くからといって、私は、何も日本人がもつ、民族的な(温もり)まで否定しているわけではない。密着する部分は、密着すればよい。道に迷ったり、砂浜で身動きとれない車を見つけたら、助けてやればよい。それは、それ。しかしいつもどこかで、「私」をキープする。

 その操作を誤ると、繰りかえすが、私を見失ってしまう。つまり時間を無駄にする。人生を無駄にする。命を無駄にする。そういう意味では、世俗的な見栄、体裁、世間体は、戦うべきものではあっても、擁護しなければならないものでは、けっして、ない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 世俗的な見栄 体裁 世間体)