*I rewrite an article which I wrote yesterday, about the religion
●昨日の原稿(An article I wrote yesterday)
Yesterday I wrote about the religion. It was a kind of which I don’t know I am writing. Then I hereby rewrite it again with some comments. In short we love people for the case we need it someday. “Loneliness” is the worst hell we experience, where we have none to love and we have none who love us.
++++++++++++++
昨日、宗教について原稿を書いた。
それが気になっている。
支離滅裂というか、自分の考えて
いることを、書ききれなかった。
そこで今朝、もう一度、書きなおして
みることにした。
++++++++++++++
【まず、昨日(1月4日)に書いた原稿】
●宗教とは何か(What is the religion?)(Original article)
英語では、こういう言い方をする。「絶壁に立て。突き落とされよ。飛び方は、それから学べ」と。
In English-speaking world they say, “Stand on the cliff. You jump from the cliff. Then you learn how to fly.”
人は、追いつめられてはじめて、自分の力を発揮することができる。また追いつめられなければ、自分の力を発揮することはできない。中には、追いつめられると、かえってあせってしまい、何もできなくなってしまう人がいる。たとえばこの私が、そうである。大切なことは、その緊張感を忘れないことか。
しかし緊張感に耐えることは、容易なことではない。頭の中が混乱してしまい、まともにものを考えることすら、できなくなる。たとえば受験勉強に追われたり、借金に追われたりすると、そうなる。
が、こちらが望まなくとも、絶壁に立たされることがある。しかも想像を絶するほど過酷な絶壁に、である。そういうときは、どうしたらよいのか。
そこで宗教の登場ということになる。
宗教に身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。その理由がわからないまま、その人を責めても意味はない。批判するなどということは、もってのほか。そっとしておいてやることこそ、思いやりというもの。
ところで世の中には、「?」と思われるような宗教(?)も、ないわけではない。たとえば「合格祈願」や「商売繁盛」を、売り物にする宗教である。それを宗教と言ってよいかどうかは、わからないが、この日本では、「宗教法人」として登録されている。義兄は、こう言った。「そんなことに力を貸すような神様はいない」と。私も、同感である。
火の中に栗があり、それがほしかったら、自分で取る。火が熱かったら、知恵を働かす。棒か何かで、取る。祈っても、念じても、ムダ。
そんな話をすると、義兄がこう言った。「強い人は、それでいい」「しかし世の中には、もがいても、もがいても、どうにもならない人がいる」「毎日が、挫折の繰りかえし」「そういう人は、どこに救いを求めればいいのか」と。
ひとつの例が、「孤独」である。仏教の世界にも、「愛離別苦」というのがある。「四苦八苦」のひとつである。
愛する人に先立たれた人の苦しみや悲しみは、それを経験したものでないとわからない。いくら渦中の栗は、自分で取れと言われても、どうやって取ったらよいのか。どうやってその孤独と戦えばよいのか。「挫折」というより、それは「絶望」に近い。
私はまだそれほどまでの挫折を味わったことはない。ないが、薄い氷のすぐ下には、それがあるのを、知っている。毎日、その薄い氷の上を歩いているようなもの。どこかでその氷が割れれば、私も、そのままその下に落ちていく。
こうした不安感とは、どうやって戦えばよいのか。はたして、自分の力だけで、それと戦うことはできるのか。絶壁というには、あまりにも過酷。飛び方を覚えろとは言うが、飛ぶことさえあきらめてしまうかもしれない。
そこで自分を支えるために、キリスト教の世界では、「愛」という言葉を使う。仏教の世界では、「慈悲」という言葉を使う。儒教の世界でいう、「仁」も、似たような意味と考えてよい。
そこで自分を超えたところに、自分をつないでいく。その結果として、「私」という自分を救済する。このことは、その逆の人を想像してみれば、わかる。
昔、私の近くに、こんな人がいた。ことあるごとに私の家にやってきては、「私は、○○万円儲けた」「私はこの地域でも、最高額の納税をしている」「今度、○○に、土地を買った」と。
その人は、「だから私は偉い」というようなことを言いたかったのかもしれない。態度は大きく、横柄だった。しかし私は子どもながらに、こう思った。「だからといって、それがどうしたの?」と。
その人が、いくらかでも、私たちにお金を分けてくれたというのであれば、話は別。しかしそんな自慢話など、腸から出るガスのようなもの。言う方は楽しいかもしれないが、聞く方は、そうではない。私たちには無意味。
やがてその人は、事業に失敗。破産寸前まで、追い込まれた。が、だれも、助けなかった。あの自慢話を聞かされた人ほど、そうで、そういう人たちは、その人を陰で笑った。
……というのは、お金の話だが、私たちの(孤独)についても、同じように考えることはできないだろうか。
私たちが……というより、この私がなぜ、毎日、氷の上を歩いているような不安感を覚えるかといえば、「取る」ことばかり考えて、「与える」ことを考えないからではないか。つまり自分の範囲の中だけで、「私」を考える。しかしこれではいつまでたっても、自分を超えることはできない。つまり孤独と戦うことはできない。
そこで最初の話にもどる。「宗教とは何か」と。
義兄はこう言った。「どこかに合格したいと願っている人がいるなら、合格させてあげる」「どこかにお金がほしいという人がいるなら、お金を分けてあげる」「できればそうしてやりたいが、しかしそれはできない。が、常日ごろから、その人の悲しみや苦しみを、分けもってやる。それならできる」「それが自分を超えることだ」と。
つまりそれを教えるのが、「宗教」ということになる。わかりやすく言えば、絶壁から飛び降りる前に、自分の体に羽をつける。飛び方を覚える。それが「宗教だ」、と。義兄は、そう言った。私は、同意した。
(注)支離滅裂な文章で、すみません。またいつか、読みなおし、書き改めてみます。今日は、このままマガジンに掲載します。
【書き改め】(Rewritten article)
●宗教とは何か(What is the religion?)
英語では、こういう言い方をする。「絶壁に立て。突き落とされよ。飛び方は、それから学べ」と。
In English-speaking world they say, “Stand on the cliff. You jump from the cliff. Then you learn how to fly.”
義兄との会話は、そんな内容で始まった。つまり生ぬるい生き方をしていたのでは、真理に到達することはできない。真理に到達するためには、絶壁から飛び降りるような覚悟と緊張感が必要だ、と。
が、これに義兄がすかさず、反論した。
『浩司君、君はそう言うけど、懸命に生きても、もがいているだけで、どうにもならない人もいるんだよ。そういう人は、どうする?』と。
そこで(救い)という話になった。たとえば不治の病というのがある。今では、がんといっても、たいていのがんなら、治る。が、それでも、がんは、がん。こわい病気である。「もし、君はがんだ。余命は、あと数か月と言われたら、どうする?」と。
その人は絶壁に立たされたことになる。絶壁から飛び降りるのも結構なことだが、「それで救われるのか?」と。仮に今、私がそういう状況になったとしたら、どうだろう。私はそういう状況に耐えられるだろうか。ひとりで、自分を支えることができるだろうか。そこで私は、昨日、こう書いた。
『人は、追いつめられてはじめて、自分の力を発揮することができる。また追いつめられなければ、自分の力を発揮することはできない。中には、追いつめられると、かえってあせってしまい、何もできなくなってしまう人がいる。たとえばこの私が、そうである。大切なことは、その緊張感を忘れないことか』と。
不治の病はともかくも、私たちの生活は、こうした不安とは無縁ではいられない。常に、無数の不安が、打ち寄せる波のように襲ってくる。平和なときがあるとすれば、その波と波の間の、つかの間でしかない。だから……。
『しかし緊張感に耐えることは、容易なことではない。頭の中が混乱してしまい、まともにものを考えることすら、できなくなる。たとえば受験勉強に追われたり、借金に追われたりすると、そうなる』と。
絶壁に立たされたとき、どこに、どう救いを求めたらよいのか。『こちらが望まなくとも、絶壁に立たされることがある。しかも想像を絶するほど過酷な絶壁に、である。そういうときは、どうしたらよいのか……』ということで、少し話題がそれたが、宗教の話になった。
『宗教に身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。その理由がわからないまま、その人を責めても意味はない。批判するなどということは、もってのほか。そっとしておいてやることこそ、思いやりというもの』と。
これは私が今まで書いてきたことだが、宗教があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、宗教がある。Y市でキリスト教会の牧師の助手をしている友人が、こう話してくれたことがある。
「教会へ来るような人は、みな、何らかの問題をかかえている」と。
で、やがて「宗教にもいろいろありますからねえ」という話になった。
『ところで世の中には、「?」と思われるような宗教(?)も、ないわけではない。たとえば「合格祈願」や「商売繁盛」を、売り物にする宗教である。それを宗教と言ってよいかどうかは、わからないが、この日本では、「宗教法人」として登録されている。義兄は、こう言った。「そんなことに力を貸すような神様はいない」と。私も、同感である。
火の中に栗があり、それがほしかったら、自分で取る。火が熱かったら、知恵を働かす。棒か何かで、取る。祈っても、念じても、ムダ』と。
しかしこれは私という(強者)の論理でしかない。私は、今のところ、まだ健康だ。ほどほどの幸福感に包まれている。が、強者の論理だけでものを考えてはいけない。それを義兄は指摘した。
『そんな話をすると、義兄がこう言った。「強い人は、それでいい」「しかし世の中には、もがいても、もがいても、どうにもならない人がいる」「毎日が、挫折の繰りかえし」「そういう人は、どこに救いを求めればいいのか」と。
ひとつの例が、「孤独」である。仏教の世界にも、「愛離別苦」というのがある。「四苦八苦」のひとつである。
愛する人に先立たれた人の苦しみや悲しみは、それを経験したものでないとわからない。いくら渦中の栗は、自分で取れと言われても、どうやって取ったらよいのか。どうやってその孤独と戦えばよいのか。「挫折」というより、それは「絶望」に近い』と。
同じ紙を見ても、表から見た紙と、裏から見た紙が、まるでちがうということは、よくある。何かの印刷がしてあれば、なおさらである。「絶壁」といっても、強者にとっての絶壁と、弱者にとっての絶壁は、まるでちがう。強者は、そのまま飛び降りればよい。が、弱者は、そんなことをすることはできない。その(力)さえない。
私は強者の論理だけで、ものを考えていた。で、こう書いた。
『私はまだそれほどまでの挫折を味わったことはない。ないが、薄い氷のすぐ下には、それがあるのを、知っている。毎日、その薄い氷の上を歩いているようなもの。どこかでその氷が割れれば、私も、そのままその下に落ちていく。
こうした不安感とは、どうやって戦えば、よいのか。はたして、自分の力だけで、それと戦うことはできるのか。絶壁というには、あまりにも過酷。飛び方を覚えろとは言うが、飛ぶことさえあきらめてしまうかもしれない』と。
……しかし、このあたりから、自分の考えが、まとまらなくなってきた。将棋にたとえるなら、つぎの一手がわからなくなってきた。文章が支離滅裂になったのは、そのためかもしれない。
が、こんなことは言える。
絶壁に立たされる前に、その準備をしておくことは可能である。いきなり絶壁に立たされれば、だれだってとまどう。たとえばある日突然、がんの宣告を受けたら、だれだって、狼狽(ろうばい)する。その心の準備をするために、「愛」があり、「慈悲」があり、「仁」がある。
『そこで自分を支えるために、キリスト教の世界では、「愛」という言葉を使う。仏教の世界では、「慈悲」という言葉を使う。儒教の世界でいう、「仁」も、似たような意味と考えてよい。
そこで自分を超えたところに、自分をつないでいく。その結果として、「私」という自分を救済する。このことは、その逆の人を想像してみれば、わかる』と。
愛にせよ慈悲にせよ、さらに仁にせよ、それは与えられるものではなく、与えるものである。その一例として、1人の男の話を書いた。
『昔、私の近くに、こんな人がいた。ことあるごとに私の家にやってきては、「私は、○○万円儲けた」「私はこの地域でも、最高額の納税をしている」「今度、○○に、土地を買った」と。
その人は、「だから私は偉い」というようなことを言いたかったのかもしれない。態度は大きく、横柄だった。しかし私は子どもながらに、こう思った。「だからといって、それがどうした?」と。
その人が、いくらかでも、私たちにお金を分けてくれたというのであれば、話は別。しかしそんな自慢話など、腸から出るガスのようなもの。言う方は楽しいかもしれないが、聞く方は、そうではない。私たちには無意味。
やがてその人は、事業に失敗。破産寸前まで、追い込まれた。が、だれも、助けなかった。あの自慢話を聞かされた人ほど、そうで、そういう人たちは、その人を陰で笑った』と。
わかりやすい例として、ここでは(お金)をあげた。しかし(お金)と、愛や慈悲、仁とは、ちがう。お金では幸福は買えないが、しかしお金がなければ、不幸になる。不幸になるとはかぎらないかもしれないが、いろいろと問題が起きてくる。そこでこう書いた。
『……というのは、お金の話だが、私たちの(孤独)についても、同じように考えることはできないだろうか。
私たちが……というより、この私がなぜ、毎日、氷の上を歩いているような気分になるかといえば、「取る」ことばかり考えて、「与える」ことを考えないからではないか。つまり自分の範囲の中だけで、「私」を考える。しかしこれではいつまでたっても、自分を超えることはできない。つまり孤独と戦うことはできない』と。
私は、人間がかかえる最大の問題は、「孤独」であると考える。あのマザーテレサも、イエスキリストのことを語りながら、そう書いている。「イエス・キリストも、乾き(=孤独)に苦しんだ」と。
で、その孤独とは何かと言えば、「だれにも愛されず、だれも愛さない」という状態をいう。もしそういう状況、それはまさに絶壁というにふさわしいものだが、そういう状況に置かれたら、どうしたらよいのか。そこで宗教の話に、もどった。
『そこで最初の話にもどる。「宗教とは何か」と。
義兄はこう言った。「どこかに合格したいと願っている人がいるなら、合格させてあげる」「どこかにお金がほしいという人がいるなら、お金を分けてあげる」「できればそうしてやりたいが、しかしそれはできない。が、常日ごろから、その人の悲しみや苦しみを、分けもってやる。それならできる」「それが自分を超えることだ」と。
つまりそれを教えるのが、「宗教」ということになる。わかりやすく言えば、絶壁から飛び降りる前に、自分の体に羽をつける。飛び方を覚える。それが「宗教だ」、と。義兄は、そう言った。私は、同意した』と。
もともとは「絶壁からとびおりる」というのは、「それだけの覚悟がなければ、真の力を発揮できない」という意味である。
その「絶壁」から話が飛んで、「宗教」の話になった。たぶんに弁解がましいが、それが支離滅裂になった理由ということになる。
<< Home