●森鴎外
●森鴎外
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思いつくまま、森鴎外について……。
私の記憶にまちがいがなければ、
森鴎外は、60歳の年に、亡くなっている。
東京で亡くなったが、遺骨は、東京と
津和野の両地に葬られている。
津和野の森鴎外の生家には、一度、観光客として、
行ったことがある。
代表作というわけでもないが、やや長編の小説に
『雁(がん)』がある。
その中に、「お玉」という女性が出てくる。
私の祖母の名前と同じだったから、よく覚えている。
ただ「雁」の中の「お玉」は、美しくて可憐な
女性だった。
一方、私の祖母は、勝ち気で、気性の荒い女性だった。
こんなことはどうでもよいが、「60歳」という
年齢が、どうも心にひかかる。
当時としては、長命のほうだったのかもしれない。
しかし自分がもうすぐ63歳になることを考えると、
「若くして死んだんだなあ」と思ってしまう。
で、『雁』は、森鴎外が東大の医学生だったころのことを
書いた小説である。
小説の中には、そのあたりの地名がたくさん出てくる。
私が若いころには、森鴎外が散歩したのと同じコース
を歩くのが、ひとつの流行になっていた。
私も一度、その近くで幼稚園を経営している男性と、
いっしょにそのあたりを歩いたことがある。
10年ほど、前のことである。
小説の中に出てきたソバ屋かどうかは知らないが、
その男性は、不忍池の近くにあるソバ屋へ連れて
行ってくれた。
小路に入ったところにあるソバ屋で、おいしかった。
「ノリをかけたのが、ざるソバ。
ノリのかかっていないのが、かけソバ……」と、
その男性が話してくれたのを、覚えている。
ひょっとしたらその男性は、森鴎外の『雁』を
よく知っていて、そのソバ屋へ連れて行って
くれたのかもしれない。
上野方面から歩いて、大通りを右へ曲がり、
10件目くらいの、左側にあるソバ屋だった。
そのあたりでは、その店を知らない人はいない
という。
それからもう10年ほどになる。
「もう一度、行ってみたい」と思いつつ、もう10年!
上野のほうへ行く機会が、ほとんどない……。
そうだ、グーグル・マップで調べてみよう!
……ということで、今、調べてみた。
……私の記憶にまちがいがなければ、そのとき
行った店は、『そば屋・蓮玉庵(れんぎょくあん)』という
店だった。
不忍池の沿った不忍通りから一本、南側に
並行して走る小路である。
その小路に、そのソバ屋はある。
(今ではそんなことまで、ネットを使えばわかる!)
……今度は、グーグルの検索を使って調べてみる。
で、やはりそうだった。
だれかのHPに、こう紹介されていた。
「……お花見シーズン到来と言うことで、
上野の花見の後に上野の蕎麦の名店、
蓮玉庵(れんぎょくあん)に行ってきました。
森鴎外の「雁」の文中に登場する蓮玉庵は、
創業安政六年(1860年)の老舗蕎麦屋……」
(こくばんBLOG・リボン・ハッカ・キッズ)と。
やはりそうだった!
その男性は、森鴎外ゆかりのそば屋として、その
店に連れて行ってくれた!
そう言えば、その男性がそんなような話を
してくれたのを、記憶のどこかに残っている。
……とまあ、話がどんどんと脱線してしまったが、
今にして思うと、森鴎外が食べたそばと、10年ほど
前に私が食べたそばが、同じものだったような
気がする。
10年前も、100年前も、同じ。
それよりも、60歳と62歳。
森鴎外が『雁』を書き終えたころの60歳と、
現在の私の62歳。
そちらのほうが気になる。
つまり私は森鴎外が死んだあと、プラス2年目を
生きている!
そうそう津和野の森鴎外の生家だが、小さな質素な
家だった。
近くに観光バスが止まり、歩いて数分のところだった
ように記憶している。
父親も医者で、当時としては立派な屋敷だったのかも
しれない。
今、そんな記憶が、あちこちから集まってきて、
頭の中で、ひとつの形をつくる。
……そう言えば、森鴎外の『雁』は、私の家にもある。
朝食が終わったら、読み直してみよう。
62歳の森鴎外になったつもりで……。
今なら、森鴎外の当時の気持ちが、より深く理解できる
かもしれない。
みなさん、おはようございます。
5月27日、朝。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 森鴎外 雁 津和野 蓮玉庵(れんぎょくあん) 上野 不忍池)
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