Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, July 18, 2010

●日本の教育

【日本の教育】

●学校に通う意味・青年の意識調査より

●内閣府(2009年)の調査結果より

なぜ、あなたは学校に通うか?
その答がつぎ。

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●日本は「友達との友情をはぐくむ」、韓国は「学歴や資格を得る」、アメリカ、イギリス、
フランスは「一般的・基礎的知識を身に付ける」がもっとも高い。

●「友達との友情をはぐくむ」:
日本(65.7%)、
韓国(41.2%)、
イギリス(40.2%)、
アメリカ(39.2%)、
フランス(16.3%)

●「自由な時間を楽しむ」:
日本(32.5%)、
アメリカ(26.8%)、
イギリス(22.7%)、
韓国(14.7%)、
フランス(11.2%)

●「職業的技能を身に付ける」:
イギリス(44.6%)、
フランス(43.5%)、
アメリカ(42.8%)、
韓国(37.0%)、
日本(30.6%)

●「一般的・基礎的知識を身に付ける」:
アメリカ(79.1%)、
フランス(66.9%)、
イギリス(63.0%)、
日本(55.9%)、
韓国(44.9%)

詳しくは……
http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/worldyouth8/pdf/gaiyou.pdf

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●意識のちがい

 高等教育に対する意識のちがい。
それが内閣府の調査結果によく表われている。
平たく言えば、日本の青年は、「遊ぶため」。
欧米の青年は、「社会へ出てから、生きていかれる人間になるため」。
「職業的技能を身につけるため」という意識が強い。

 役にたつかたたないかということになれば、日本の教育は役にたたない。
かなり改善されたとはいえ、英語教育がそうだった。(……今も、そうだ。)
つまり日本の教育は、英語にかぎらず、社会にしても、国語にしても、数学にしても、
理科にしても、将来、その道の学者になるためには、たいへん機能的にできている。
が、将来、学者になる子どもは、いったい、何%いるのか?
「基礎学力」という名前に隠れて、その一方で、「教育とは役にたつものではない」という、
反実用主義が常識化している。

●役にたつ教育へ

 アメリカの中学では、たとえば数学にしても、「中古車の買い方」というテーマで
学習に入る。
その過程で、小数計算の仕方や、金利の損得の判断などを順に教えていく。
が、この日本では、一次方程式だの、一次関数だの、はたまた合同だの相似だの……。
私など高校を出てから、方程式なるものを、日常生活の場で使ったことなど、ただの
一度もない。
サインやコサイン(私たちの時代には、中学2年で、サイン、コサインを勉強した)
にしても、さらに、ない。

 が、これは教育の問題ではない。
それを学ぶ子どもたちの意識の問題ということになる。
子どもたちを育てる親の意識の問題ということになる。
「なぜ、子どもを大学へやるか?」と聞かれたら、親は何と答えるだろうか?
今でも、大半の親は、こう答えるにちがいない。

「学歴を身につけるため」と。

●身分制度の名残(なごり)

 江戸時代から明治時代へ。
今は、坂本龍馬に踊らされているから、わからないかもしれない。
なにやら坂本龍馬が、革命の旗手であったかのようにとらえられている。
しかし明治維新は、「革命」でも何でもない。
英語では、「Restoration」と訳されている。
つまり「王政復古」。
坂本龍馬は、民衆のために戦った人ではない。
民主主義を求めて戦った人でもない。
「王政復古」、つまり「天皇の復権」のために戦った人に過ぎない。

 そういう歴史的背景も学ばず、「龍馬ブーム」!
もし徳川時代がまちがっているというのなら、一度、封建時代を精算したらよい。
が、それもしない。

 わかりやすく言えば、明治維新は、徳川家から天皇家への、首のすえかえに
過ぎなかった。
その一例が、現在の学歴制度に残っている。
つまり身分制度。
当時の為政者たちがもっとも腐心したのは、江戸時代の身分制度をいかにして、
明治政府にバトンタッチするか、であった。
が、方法がなかったわけではない。

 明治時代が11年も過ぎたころでさえ、東京大学の学生の75%以上が、華族、氏族
の師弟で固められた。
たいはんの庶民は、尋常小学校どまり。
それ以上となると、父親の1か月の給料をもってしても、教科書すら買うことができな
かった。

 また県知事(県令)は、当時の自治省から派遣されるしくみになっていた。
選挙など、形だけ。
(現在でも、大きくみれば、その流れの中にある。)

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以前、書いた話と同じになりますので、
以前書いた原稿を、転載します。
一部重複しますが、許してください。

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【学歴制度】

● 5か条の御誓文

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1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、 政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、 みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、 みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、 これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、 新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

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明治維新の中でもっとも大切なのは、『四民平等』ではなかったか。
天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。
それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

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●子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)きたい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選びたい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に人気があり、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公務員試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を受けるための予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろん退職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5年間勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつうの自衛官ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、その人個人を責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市役所の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、公務員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本では、今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけならまだしも、公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管理されることを意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほかにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しかし本当に、そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。

(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】

ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子どもが、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。日本と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもには、それがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけても、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。そういう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。現状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないということ。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによって、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥である。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるようになった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、あなたたちも勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。なのに、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使った。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったにちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教科書や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、士族や華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約75~80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、派遣されていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、あなた自身が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そして国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまちがっていると言っているのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半の日本人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、つくづくと、そう思う。

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つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
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●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト信仰を笑う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわかる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15~30円、県令(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学歴制度ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校が、末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だったし、学校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何かにつけて、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日常の生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもいかないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいるということになる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、この時点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子どもたちが、苦しみ、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あなたの、あるいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

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●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解されるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。どれくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いかしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士になるという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それを少しだけここで考えてみてほしい。

(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会 はやし浩司 県令 自治省 坂本龍馬)

●最後に……

 日本の教育は、基本的な部分で、おかしい。
その(おかしさ)は、ここに書いたとおりである。
だから青年たちは、「遊ぶ」。
もとから学ぶという意識もないまま、遊ぶ。
その結果が、内閣府の調査結果ということになる。

 もう一度、冒頭の数字を、じっくりとながめてみてほしい。
あなたにも、そのおかしさが、わかるはず。
2010/07/19記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司