●10月10日の朝に
【BW教室のみんさんへ】
●11月の休みの訂正
今日のメールで、11月の休みを、(この10月ではなく)、
11月の休みを、11月15日(月)、23日(火)と
連絡しましたが、11月15日(月)、16日(火)のまちがいです。
BW通信のほうでも、まちがえて書いてしまいました。
どうか、お許しの上、ご承知起きください。
火曜日クラスの皆さんには、また改めて連絡いたします。
BW
はやし浩司
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●10月10日(日曜日)
昨夜は稀に見る大雨。
叩きつけるような大雨。
山荘へ来る途中、滝のような雨を経験した。
山道のアスファルトの上を、川のように雨水が流れていた。
車のライトで雨がカーテンのようになり、1メートル先が見えなかった。
「こんなに降ったら、山崩れになるわ」と、ワイフは数回、言った。
●山荘にて
今日の予定は、とくになし。
家に帰ったら、マガジンの発行予約とホームページの更新。
あとはもろもろ。
人に会う約束もなし。
思う存分、原稿が書ける。
楽しみ。
●損得
朝早く、風呂に入る。
その風呂の中で、こんなことを考えた。
損得論。
「私は人生で、損をしたのか、それとも得をしたのか」と。
金銭的な損得論をいう。
が、こと金銭的な損得論ということになれば、生涯、損ばかりしてきた。
他人から、お金を貰った(?)といえば、ワイフの実父が亡くなったときだけ。
義理の兄が通帳を解約し、それを7等分(兄弟姉妹分)し、私たち
に10万円を分けてくれた。
あとにも先にも、それだけ。
一方、私は結婚する前から、収入の約半分を実家へ届けてきた。
経済的負担感というより、社会的負担感には、相当なものがある。
私はこの40年近く、それに苦しんだ。
だから実家を法外な価格で売却したときも、「損をした」という
感覚はなかった。
「損をした」と言えば、長い間、社会的負担感に苦しんだこと。
だから実家を売却したときも、「これで実家から解放される」という喜びが先に立った。
さらに言えば、息子たちがいる。
私は「学費は惜しんではいけない」という、古風な哲学を信奉していた。
だから息子たちの学費については、惜しまなかった。
いつも息子たちに満額で送った。
超親バカだった。
気がついてみたら、そこにあったのは、私たちの老後。
貯金は使い果たしていた。
が、損得論も考え方。
つまり金銭的な損得論を考えれば、損に決まっている。
しかし私はその分だけ、人生を楽しんだ。
息子たちが楽しませてくれた。
それについては感謝している。
が、この先はまだ長い。
引退するわけにはいかない。
「死ぬまで仕事」。
「ピンポク」という言葉がある。
前日までピンピンしていて、翌朝、ポックリと死ぬ。
どうせ死ぬなら、そういう死に方をしたい。
つまりそれが今の私を生かす原動力になっている。
お金がなかったら、働けばよい。
稼いだお金は、どんどんと使っていく。
●神経痛
先週、山荘へ来たとき、こんなことがあった。
私は、不用意に頭をひねると、首のうしろ、頭寄りの神経が、
ギクリと痛むことがある。
瞬間のことで、そのまま痛みは消える。
それまでは床についてから、枕元で頭を浮かせた状態で首をひねると、
ときどきそうなる。
この部分に大きな神経があり、それをぐいと引っ張ることによる
痛みということになる(素人判断)。
それが先週、廊下を歩いているときに起きた。
歩きながら、風呂場のほうを振り向いたときに、ギクリ!、と。
今までに経験したことのないほど、強い痛みだった。
その瞬間、私はその場にうずくまってしまった。
そのときのこと。
おかしなことに、本当におかしなことに、私はこう思った。
「これで死ねる!」と。
●死の恐怖
「死の恐怖」という言葉がある。
人間、生きていくのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
私の年齢になると、私も含めて、「どう生きるか」よりも、「どう死ぬか」
のほうを先に考える人が多い。
私もよく考える。
が、その一方で死に対する不安や恐怖はある。
ないとは言わない。
死の恐怖を克服するのは、相当な宗教家でも、また哲学者でも、無理。
(こう決めつけて書くのも、失礼なことかもしれないが・・・。)
しかしそのときたしかに、私は、こう思った。
「これで死ねる」と。
幸いにも(?)、いつものように痛みはすぐ消えた。
つまり私はその瞬間になったら、「これで死ねる」と、意外とあっさりと、
死を受け入れることができるのではないか。
そんなふうに、今、考えている。
●無
この大宇宙も、いつかは消滅してしまう。
すべての星々が燃え尽き、すべての大銀河も光を失う。
物質の原点である陽子さえ、半減期を繰り返し、やがて分解し、消える。
ブラックホールですら、最後は、蒸発して消える。
何10兆年も先の話らしい。
そのとき、この大宇宙は闇と冷気に包まれた、「無」の世界に返る。
つまりこの大宇宙は、「絶対的無」の状態から、インフレーション
が起こり、つぎの瞬間に「ビッグバン」と呼ばれる大爆発を経て、生まれた。
再び、この大宇宙は、いつか「無・無・無……」の世界に戻る。
が、何も何10兆年も待つ必要はない。
固体の死イコール、大宇宙の死と考えてよい。
私も死ねば、この大宇宙もろとも、消滅する。
チベット密教や和式仏教では、「生まれ変わる」と教えるが、根拠が
あるわけではない。
第一、 迦自身そんなことは、一言も口にしていない。
ウソだと思うなら、一度、法句経を読んでみることだ。
仏教徒を名乗るなら、また法事、法事と儀式に明け暮れるなら、一度は
自分で読んでみることだ。
頭が熱くなったが、もとからこの宇宙は「無」と考えれば、「損」など
何でもない。
とくに金銭的な損など、何でもない。
●お金(マネー)
今、ここに生きている。
それにまさる価値は、ほかにない。
目が見える。
音が聞こえる。
歩いたり、話をしたりすることもできる。
こんなことを書くと、そうでない人に対してたいへん失礼なことは、
よくわかっている。
しかし私は、今、健康だ。
疲れやすくなった。
気力も、集中力も弱くなった。
が、それをのぞけば、私は健康だ。
成人病とも無縁。
あと何年生きられるかはわからないが、ここ1、2年でどうかなるという
ことはない。・・・だろう。
だったら、今日も、10月10日という1日を、懸命に生きる。
損か得かということになれば、そういうかぎりある1日を、だらしなく
過ごすことほど、損なことはない。
そういう意味では、私たちはこの資本主義社会の中で、お金(マネー)に
あまりにも毒されすぎている。
この日本においても、貨幣が一般社会に流通し始めたのは、江戸時代の中期。
貨幣は奈良時代の昔からあったが、貨幣の性格そのものがちがった。
そんなお金(マネー)に、どうしてこうまで毒されるようになってしまったのか。
余計なことだが、そんなことも考えた。
●生きる価値
私たちは本来、価値あるものを、価値のないものと思い込む。
その一方で、価値のないものを、価値あるものと思い込む。
その基準となるのが、「損得論」ということになる。
言い換えると私たちは常に、損得論に振り回されながら、生きている。
そこで大切なことは、「価値」とは何か。
もう一度、自分に問いただしてみること。
何が大切で、何が大切でないか、と。
一朝一夕には結論は出ないかもしれない。
それこそまさに哲学の分野ということになる。
しかしそう問いつづけることによって、その先に何かが見えてくる。
「価値」というのは、そういうもの。
●今日もがんばろう!
風呂から出ると、昨夜の雨は消え、低い雲の向こうに高い雲が見え、
その先に水色の空が広がっていた。
・・・こうして今日も、始まった。
10月10日、日曜日。
祭日。
今日も、がんばろう!
やるべきことを、しっかりとやろう!
では、みなさん、おはようございます。
Hiroshi Hayashi++++++Oct 2010++++++はやし浩司(林浩司)
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