Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, December 13, 2010

●友よ、ありがとう!

●友情(はやし浩司 2010-12-14朝記)

++++++++++++++++++

私はひとりぼっちではなかった。
それを知ったとき、熱い涙が、とめども
なく流れた。

++++++++++++++++++

●友の死

 この広い世界で、自分の心の内を話せる友人は、私のワイフだけ。
今は、そういう状態。
学生時代からの友人の1人は、2年前に他界した。
それほど親しくはなかったが、何かにつけ、彼が近くにいるというだけで、心の支えに
なっていた。

 もう1人いたが、この12月1日(2010年)に、同じく他界した。
だれも予想すらしなかった、突然の死だった。
それまでは毎日のように、その朝に書いた原稿を、メールで送っていた。

 ほかに3人の息子たちがいるが、「心の内」を話すといっても、どうしても愚痴になって
しまう。
息子たちにしても、不愉快だろう。
老後の不安を口にしただけで、顔をそむける。
何も、めんどうをみてほしいと言っているわけではないのだが……。

●老後

 そんな中、最近ワイフがよくこう言う。
「オーストラリアへ移住しない?」と。
移住といっても、数年、あるいはもう少し長く、オーストラリアに住んでみないか、と。
ワイフ自身のためというよりは、私のことを考えてのことらしい。
このところずっと落ち込んでいる。
気分が重い。
老後のことはできるだけ考えないようにしている。
が、いつも心から離れない。
打ち寄せる渚(なぎさ)の波のように、折につけ、心を塞(ふさ)ぐ。
ザザー、ザザーと。

 それに……。
ワイフは、こう言う。
「人生も短いのだから、したいことをしましょうよ」と。
そういう話の流れの中で、「オーストラリア」という名前が浮かんできた。

●解放

 オーストラリアといっても、今は大きく変わった。
私の知っているオーストラリアは、昔のオーストラリア。
あのメルボルン市(当時の人口は300万人)にでさえ、日本人の留学生は、私、
1人だけだった。
そんな時代のオーストラリア。
が、今は、多くのアジア人たちが、ひしめくように住んでいる。
犯罪も多くなり、男性でも夜のひとり歩きは危険になったという。

私「今のオーストラリアは、ぼくが知っているオーストラリアとはちがうよ」
ワ「知っているわ」
私「向こうの人は、日本人といっても、ほかのアジア人と区別しないよ」
ワ「知っているわ」
私「それでも、お前は、オーストラリアに住みたいのか?」
ワ「……あなたのためよ」と。

 私の夢は、いつかオーストラリアに移住することだった。
しかしそれができなかった。
郷里に母と、病弱な兄がいた。
生活力が、ほとんどなかった。
が、2年前、兄が。
つづいて母が、他界した。

 私はやっと「家」から解放された。

●孤独

 私は孤独だった。
ずっと孤独だった。
今も、孤独。
「友」と呼べるような人は、ワイフしかいない。
それが不満というのではない。
私にとって老後の不安というのは、ワイフのいない世界をいう。
もしワイフが先に逝ってしまったら、私はどうなるのか。
どうしたらよいのか。

 親類といっても、面従腹背。
つきあいといっても表面的なもの。
家庭の事情を話すと、その話は、1、2週間のうちに、みなに伝わってしまう。
みながみな、私に好意的というわけではない。
いつも私が話す話は脚色され、どこかでゆがめられてしまう。
たとえばいとこの1人に、(いとこといっても、60数人のいとこがいるが)、今日、
電話で、「最近、腰がこわばることがあって、痛い」と話したとする。
すると1週間後には、別のいとこから、こんな電話が入る。
「浩司君、あんたは車椅子に乗っているのか?」と。

 言うなれば、私の親類たちは、自分を「家」という砦で囲み、その中だけで生きている。
その「ワク」から外れる者を許さない。
昔ながらの利己主義的な「家意識」。
それが亡霊となって、そのまま生きている。
つまり私が住む世界ではない。

●限界

 私とワイフが出した結論は、こうだ。
もし来年(2011年)、仕事に限界を感じたら、オーストラリアへ行こう、と。
私も来年64歳になる。
自由業に定年はないとはいうものの、しかしここ数年、限界を感ずることが多くなった。
少子化に不景気。
加えて私の教え方は、どこか古典的。
古臭い。
今の若い親たちには、受けない(?)。

私「でもね、ぼくは慎重の上に、慎重に考えたい。住んでみたが、やっぱり日本のほう
がいいというのでは、困る。若いときならまだいい。しかしこれからはやり直しがきか
ない」
ワ「……」
私「行くのは簡単なこと。しかし向こうで、ぼくは何をすればいいのかな。毎日、景色
だけを見て過ごすわけにはいかない。仕事をしたい。が、ぼくの年齢では無理」

 私はそういうとき、すぐ「死に方」を考えてしまう。
死ぬのがこわいというのではない。
死ぬまでのプロセスがこわい。
どう死ぬか。
つまり「死に方」。
それを考えると、こわい。

ワ「じゃあ、こうしたら……。つまりね、とにかく1週間だけでも行ってみるのよ。
2人で、住めるかどうか、確かめてきましょうよ」
私「そうだな。それがいいかな。それを何度か繰り返したあと、その後、どうするかを
決める……っていうことだね」
ワ「そうよ……」と。

●準備

 パスポートの準備を始めた。
が、これは第一歩……というより、ほんの一部。
ほかの国とはちがう。
ただの旅行ともちがう。
私にとってオーストラリアというのは、そういう国。
私の青春時代、そのもの。

 あの時代はたしかに私の出発点だった。
すべてがそこから始まった。
が、今、この40年を振り返ってみると、あの時代が、そのまま私のゴールになって
いるのを知る。
私の人生のすべてが、加齢とともに、そのゴールに向かい動き出している。

 ……あの時代が、つぎつぎと私の脳裏に浮かんでくる。
しかも遠い昔の日々としてではなく、つい昨日のように浮かんでくる。
「オ~イ」と声をかければ、すぐそこから返事が返ってくる。
この空の向こうには、同じ別の空があって、そこに私の青春時代がある。
私はあの世界で、1日1日を1年のようにして生きた。
ウソでも誇張でもない。
本当に、1日1日を、1年のように長く感じた。

 オーストラリアへ行くということは、いつもそうだが、私にとっては、その青春時代
に戻ることを意味する。
それなりの心の準備なくして、私にはオーストラリアへ行くことはできない。

●友情

 で、昨日、2人の友人にメールを出した。
メルボルン市に住む、D君。
それにアデレードの近郊の町に住む、R君。
軽い気持ちで、連絡した。
少なくとも、メールでは、そう書いた。
「来年X月XX日、1週間の予定で、オーストラリアへ行く」と。

 簡単な予定も書いた。
アデレードで2泊、列車の中で1泊、そしてメルボルンで2泊、と。
往復の飛行機の中で、1泊ずつ過ごす。
すかさず、返事が入った。
が、その返事を読んだとき、私の心の内から熱いものが、こみあげてくるのがわかった。
「私は、ひとりぼっちではなかった」と。

 D君は、ちょうどそのころ、中国→韓国→日本への旅行を計画していた。
「ヒロシがオーストラリアへ来るなら、それをとりやめる」と。
R君は、「小型飛行機でアウトバック(荒野)を案内する」と。
それに「アデレードからメルボルンまで、車で行こう」とも。

 40年前と何も変わっていなかった。
オーストラリアには、私を迎えてくれる人たちがいる。
それを知ったとき、大粒の涙が、とめどもなく頬を伝わった。

●「♪Rosin the Beau(ロウザン・ザ・ボー)」

 学生時代、そのD君が、こんな歌を教えてくれた。
アイルランドのドリンキング・ソング(民謡)である。
私はその歌を、全部、ソラで歌える。
が、歌の題名が長くわからなかった。

 アイルランドへ行くという人が近くにいると、いつもその人にこう頼んだ。
「もし、こんなメロディ(歌詞)をどこかで聞いたら、題名を調べてきてほしい」と。
そんなこともあって、いつだったか、SKさん(前S大学教授)が、アイルランドで
CDを何枚か買ってきてくれた。
が、その中には、その歌はなかった。

 が、簡単なことだった。
旅行の連絡をするとき、その歌のことを書いた。
「君が教えてくれた、あの歌の題名を教えてほしい」と。
するとD君が、同じメールの中でこう教えてくれた。
「♪Rosin the Beau(ロウザン・ザ・ボー)だよ」と。

 30年もさがしつづけてきた歌が、たった1日でわかった。
1日というより、一瞬!
そのあっけなさに、驚いた。
「♪Rosin the Beau(ロウザン・ザ・ボー)」!

http://www.youtube.com/watch?v=kI8bPVw3scA&feature=related

♪オレは、この世界中を旅してきた。
 今、オレは、もうひとつの世界に行く。
 オレにはわかっている。
 そこでは親友だちが、みな、待っている。
 ローザン・ザ・ボーを迎えるために。
 ローザン・ザ・ボーを迎えるために。

♪オレが死んで、バーのカウンターの
 上に置かれたら、みんなはその下から
 声が聞こえてくるのを知るだろう。
 オレにウィスキーのブタ樽をもってこい、と。
 オレとウィスキーを飲むために。
 オレとウィスキーを飲むために。

 YOUTUBEに題名を書き込むと、すぐその歌が見つかった。
「ザ・ダブリナーズ」というグループが、それを歌っていた。
2、3度、それを聴いていると、またあの涙が、とめどもなくあふれ出てきた。
いっしょに歌っていたが、声にならなかった。

 ……あのノートンの酒場で、私たちは顔を合わせると、いつもこの歌を歌っていた。
それが昨日とか、おとといとかではなく、その瞬間の現実として、よみがってきた。

 ……そういう私をワイフがどこで見ていたのかは知らない。
が、そのあと、横から私にこう言った。

「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。
私はためらわず、頭を小刻みに、何度も縦に振った。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ローザン・ザ・ボー Rosin the Beau Roisin the 
Bowアイルランド民謡 青春時代International House Melbourne University Australia
241 Royal Parade)

(追記、SKさんへ)

 ご無沙汰しています。
お元気ですか。
京都も寒いですか。
今朝、久しぶりにSKさんのことを書きました。
この原稿を送ります。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司

【歌をみなの前で、ひとりで歌う】

何でもないことのようですが、みなの前で、ひとりで、立って歌を
歌うというのは、幼児にとっては、たいへんなことです。
またそれができる子どもは、少ないです。

で、今日は、歌を歌うというレッスンをしてみました。
みなが、「歌いたい」「歌わせろ」と言うようになるよう、指導してみました。
結果は、大成功でした。
最初は、「歌いたくない」と言っていた子どもも、中盤くらいから、「歌いたい!」と
自分から言うようになりました。
その変化を、どうかご覧ください。

なおこうして歌うことによって、子どもは、発表力、発言力を身につけていきます。
幼児のこの時期に、そういう力が一度身につくと、一生の財産になります。

またこの時期に、それができる子どもは、その後、心を開放できるようになります。
何でもないことのようですが、みなの前で、ひとりで、立って歌を
歌うというのは、幼児にとっては、とても大切なことです。

●年長児クラス(12月13日)











(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児 独りで歌を歌う ひとりで歌を歌う 幼児の発表力 発言力)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司