Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, December 12, 2010

●子育てポイントbyはやし浩司

はやし浩司


2002-12~
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はやし浩司

子育て随筆(401~500)






子育て随筆byはやし浩司(401)

子育てポイント

●ぼんやりする
 子どもは、ふとしたきっかけで、ぼんやりすることがある。英語ではこれを、「デイ・ドリーム」と
いう。日本語では、「白日夢」と訳すが、幻覚をともなうような白日夢とは違う。デイドリームとい
うのは、「ぼんやりすること」をいう。

 このデイドリームは、心の洗濯と考える。子どもは、ときどきぼんやりすることで、心のホコリ
を払う。悪いことと決めてかかってはいけない。たとえば、あのニュートンにしても、エジソンにし
ても、よくぼんやりと、ひとり考えにふけることがあったという。「デイドリーマー(夢見る人)」とい
うニックネームがつけられていた。

 もちろん、いつもぼんやりしているとか、無気力なままぼんやりとしているというのは、好まし
いことではない。慢性的な睡眠不足の子どもも、よくぼんやりする。


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子どもの睡眠不足(中日新聞掲載済み)
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 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」とい
う。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・
ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだ
いたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消し
てしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが
不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保
する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇~三〇%はいる。日中、生彩の
ない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだ
かと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。
(これに対して昼寝グセのある子どもは、スーッと眠ってしまうので、区別できる。)

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●ハングリー精神を大切に
 子どもを伸ばす、最大の秘訣は、子どもをいつも、ややハングリーな状態におくこと。与えす
ぎ、しすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。「子どもには、これくらいすればいい
かな」とか、「ここまでさせようかな」と迷ったら、その一歩手前でやめる。たとえば子どもの学習
量にしても、三〇分くらいは勉強しそうだなと思ったら、思い切って、一五分でやめる。ワークブ
ックでも、二ページくらいならしそうだと思ったら、一ページでやめる、など。要するに、ほどほ
ど、に。

 とくに注意しなければならないのが、「欲望の満足」。子どものばあい、安易に欲望を満足さ
せてはいけない。たとえば子どもが「ゲームを買ってほしい」と言ったとする。「ほしい」というの
が、その欲望ということになる。問題は、欲望を満足させることよりも、それになれてしまうこと
である。たとえば幼児期に、一〇〇円、二〇〇円の買い物になれてしまった子どもは、中学
生、高校生にもなると、一万円や二万円の買い物では、満足しなくなる。いわんや、幼児期に、
一万円、二万円のものを手に入れることになれてしまったら、その子どもは、どうなるか?

 中には、「うちの子だけ、ゲーム機をもっていないと、友だちから仲間ハズレにされる」と、悩
んでいる親がいる。「いつも友だちの家に行って、ゲームばかりしている」とも。「だから買って
あげるしかない」と。

 ケースバイケースだから、そのつど親が判断するしかない。が、これだけは言える。今の日
本人ほど、モノやお金に固執する民族は、そうはいないということ。五〇年前とくらべても、日本
人は大きく変わった。今、ほとんどの親たちは、あまりにも安易に子どもにモノを買い与えてい
る。そして「子どものほしいものを買ってあげたから、子どもは親に感謝しているはず」「親子の
パイプも太くなったはず」と考える。しかしこれは誤解。あるいは逆効果。

 たとえばこのケースでも、親が子どもにゲーム機を買ってあげれば、子どもは親に、一応「あ
りがとう」と言うかもしれない。しかしそれはあくまでも、「一応」。さらにこわいのは、こうしてでき
た親子のリズムは、そのまま一生つづくということ。いつかその子どもがおとなになったとき、そ
の親は、こう考えるようになる。

 「うちの子だけ大学を出ていないというのでは、みんなに仲間ハズレにされる」「うちの子だ
け、あんなC結婚場で結婚すれば、バカにされる」と。ものの考え方がズレているが、そのズレ
にすら気がつかない。リズムというのは、そういうもので、自分で自分のリズムに気づくというこ
とは、まずない。その狂ったリズムが、いつまでもつづく。

 子どもをハングリーな状態におく……。一見簡単なようで、実際には、そうでない。子育て全
体のリズムの中で考えるようにする。


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小づかい一〇〇倍論(中日新聞掲載済み)
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子どもの金銭感覚

 年長(六歳)から小学二年(八歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その金銭感
覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子どもはこの時期
を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そしてそれがそれから
先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、一〇〇倍して考えるとよい。たとえば子どもの一〇〇円は、お
となの一万円に相当する。千円は、一〇万円に相当する。親は安易に子どもにものを買い与
えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、一万円、一〇万円に相当す
る。

「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、
将来どうなるか。もう、言べくもない。さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくな
ったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。
より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。あるいは「子
どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。

それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子ども(小
二男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行っても
らう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてし
まう」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入り
にくいものを、より早くもつことによって、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容
そのものが、昔とは違う。変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビ
にこんなシーンが出てきた。援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答
えていた。「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚その
ものが、マヒしている。もっているものが、一〇万円、二〇万円という、ブランド品ばかり!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。千円
のものだろうか。それとも一万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだろうか。与えると
しても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせるだろうか。いや、その前
に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。どちらにせよ、し
かしこれだけは覚えておくとよい。

五、六歳の子どもに、一万、二万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校
生や大学生になったとき、あなたは一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えなくてはならな
くなる。つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。あなたにそれだけの財力と
度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。やがてあな
たの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。そうなればなったで、苦労する
のはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。

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●それでも、ゲームを買ってあげたい、あなたへ、

 「そうは言われても、やっぱり子どもにゲームを買ってあげたい」と思っているあなたは、こう
すればよい。

 クリスマスや誕生日には、心のこもった温かいものをプレゼントする。手作りのものがよい。
そしてゲームは、父親が自分で買ったという前提で、別の日に、買う。そして子どもには、「とき
どきパパに貸してもらおうね」と言えばよい。こうすれば、あとあと指導もしやすくなる。「これは
パパのものだから、パパに借りて使うのだよ」と言うこともできるし、「友だちが遊びにきたら、
パパに使っていいかって聞くのよ」と言うこともできる。遊ぶ時間も、それで決められる。「パパ
が、一時間なら使っていいと言ったよ」とか。

 またこうすることに、つまり父親が主導権をにぎり、子どもと一緒に遊ぶことにより、親子のパ
イプも太くなる。あくまでも一つのアイディアだが……。

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●子どもの目を見る
 子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。外見のハデさに、だまされてはいけない。賢
い子どもの目つきは、静かに落ち着いている。鋭い。輝いている。そうでない子どもの目は、そ
うでない。どこかフワフワとして、つかみどころがない。最近収賄罪(しゅうわいざい)で逮捕され
た、国会議員のS氏の目を見て、私は驚いた。まるで死んだ魚の目のような目をしている。あ
あいう人間が、国会を動かし、国政を動かしていたかと思うと、ぞっとする。

 話はそれるが、あなたが子どもを叱るとき、子どもの目が、どのようであるかを見てみるとよ
い。そのときあなたの子どもの目が、じっと下へ沈むようであればよし。そうでなく、どこかフワ
フワしていたら、あなたが叱る割には、その効果はないとみる。たいていはこわいから、おとな
しくしているだけ。ある子ども(小三)はこう言った。「ぼくはママに叱られているとき、ポケモンの
歌を、心の中で歌っている」と。

 「外見のハデ」ということが、幼児教育の世界では、よく話題になる。ペチャペチャとよくしゃべ
り、反応もはやい。何か質問をすると、「ハイ!」と言って、それらしいことを言う。このタイプの
子どもは、一見、利発に見えるが、実際には、何も考えていない。テレビのバラエティ番組に出
てくる、お笑いタレントを見れば、それがわかる。軽薄なことを、思いついたまま、言葉にしてい
るだけ。

 賢い子ども、よく考える子どもは、一方、見た感じの反応はにぶい。何かテーマを与えたりす
ると、それを何度も頭の中で反復するようなしぐさを見せる。これは生まれつきというより、習慣
によるものと考えてよい。つまり賢い子ども、よく考える子どもをつくるのは、親の育て方の問
題ということになる。

 ともかくも、子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。


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考える子ども(中日新聞掲載済み)
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人間は考えるアシ

 パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをなす」とも。

 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別
のことである。たとえば、こんな会話。

 A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「いいね」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて取り出しているにすぎな
い。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラ
と言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数がで
きるということにもならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正しいとか、間違っ
ているとかいう判断は、それをすること自体、間違っている。こんなことがあった。ある朝幼稚
園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石
の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。
おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そ
うしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。私はそれを心配する。

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●叱るテーマはひとつ
 子どもを叱るときは、おとなの目線を子どもの目線の位置までさげる。具体的には、おとなの
ほうが、腰を落として、子どもの身長の高さにまで、身をかがめる。子どもの両肩をしっかりと
つかみ、子どもの目をしっかりとにらみながら、言うべきことを言う。おどしたり、威圧してはい
けない。子どもに恐怖心をもたせてはいけない。子ども自身に、考えるようにし向ける。

 そしてそのとき、叱るテーマはいつもひとつ。あれこれ、同時に叱ってはいけない。とくに大切
だと思うテーマだけを、ていねいに叱る。また過去の話を、あれこれもちださない。「いつになっ
たら!」「あんたは、また同じことを!」と叱るのは、タブー。そして一度叱ったら、あとはときを
待つ。同じことを、クドクドといつまでも言うのもタブー。『親子げんかは、一日で消す』という格
言も、私が考えた。同じように、『叱ったことは、一日で消せ』。

 ところで先日(〇二年一一月)、市内のS小学校で講演をしたあと、その学校の校長とこんな
ことが話題になった。何でもその少し前、テレビ番組の中で、ある評論家が、「子どもを叱ると
きは、子どもの横から叱れ」と言ったというのだ。それについて、その校長は、「たしかに威圧
感をやわらげるという意味では、効果的かもしれませんが、しかし実際的ではないですね」と。
私も同意見だった。

子どもを叱るときは、しかも真剣に叱るときは、子どもの前にすわり、子どもの目をしっかりと
見つめながら叱る。これはもう常識。横から子どもの肩を抱きながら叱って、それで本当に叱
れるのだろうか。ときどき、こういう(どこか風変わりな子育て論)を説く人が現れる。


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子どもの叱り方(中日新聞掲載済み)
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子どもの叱り方、ほめ方

 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか
ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱
るときは、次のことを守る。

(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)
(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。『子どもの脳は耳から遠い』
と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる
(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定
し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ
ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく
(4)興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、
(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お
おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで
る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ
しさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。
幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようにな
る。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、
ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎて子どもがうぬぼれて
しまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ
ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、
やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結
果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの
理解を示してあげる。

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●居なおり論
 子育てをしていて、何かのカベにぶつかったら、その時点で居なおる。「こんなものだ」「どうで
もなれ」「勝手にしろ」と。私はよく親に、「腹を決めなさい」と言うが、それもそのひとつ。たとえ
ば子どもの夜尿症にしても、親があれこれあせっている間は、なおらない。しかし親が、「オシッ
コをしたければしろ。あと何年でもかまわない!」と宣言したとたん、不思議と、なおるもの。そ
ういうことは、子どもの世界では、よくある。

 居なおることにより、親はそこで親は、覚悟を決める。この覚悟が、一本のスジになる。この
スジが、親の迷いを吹き飛ばし、子育てをわかりやすいものにする。そしてそれが子どもに、安
心感を与える。この安心感が、子どもの心に風穴をあける。……と、どこか、『風が吹けば、オ
ケ屋がもうかる』のような話になったが、これは事実。心理学の世界にも、フリップ・フロップ理
論というのがある。判断がどっちつかずで、フラフラしている(=フリップ・フロップ状態)ときとい
うのは、心もたいへん不安定になる。しかしどちらかへころんでしまえば、心は落ちつく。

 不登校……? 休みたければ、いくらでも休め!
 心の病気……? 何年かかっても、結構。私がなおしてやる!
 体や心に障害がある……? それがどうだというのだ!

 こうしてひとつずつ、居なおっていく。その居なおりのし方が、サバサバしていればしているほ
ど、あなたも明るくなるが、子どもも明るくなる。その時点から、前に進むことができる。要する
に、問題があっても、それには抵抗しないこと。してもムダ。子育てには、居なおりはつきもの。
それを覚えておくだけでも、あなたの心は、ずいぶんと軽くなるはず。


●たくましさは、緊急時をみる
 子どもが本当にたくましいかどうかを知るためには、緊急時をみればよい。緊急時に、その
つど、臨機応変に、的確にこうどうできれば、その子どもは、たくましい子どもとみる。見かけ
や、外見で判断してはいけない。言葉のいさましさに、だまされてはいけない。こんなことがあっ
た。

 Y君(中二)は、体も大きく、親分的な感じがする子どもだった。大声で怒鳴ったり、ときには
友だちに暴力をふるうこともあった。そのY君たちを、キャンプに連れていったときのこと。私が
別のところで夕食を料理していると、そのY君が、ワーッと泣きべそをかいて、私のところへ飛
んできた。異様な雰囲気だったので、「どうした!」と聞くと、「たき火が一挙に燃えあがって、こ
わくなった」と。あわてて火を見にいくと、その火が近くの雑草に燃え移るところだった。私はす
かさず足で踏んで火を消したが、それにしても……? Y君のたくましさは、見かけだけだっ
た。

 一方、こんな子どももいた。何かのことで母親が家をあけることになった。実家での急用がで
きた。そこで母親は、年長児になったばかりのE君に、あれこれ家事を指示して、家をあけた。
母親はそのつど電話をしたというが、あとで母親はこう話してくれた。

 「いざとなれば、何でも子どもはしてくれるものですね。妹の世話はもちろん、料理も炊事もし
てくれました。戸じまりも、消灯も。寝るときは、妹を寝かしつけてくれました」と。こういう子ども
を、たくましい子どもという。

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子育て自由論(中日新聞掲載済み)

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己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたとき
のこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


●あせりは禁物
 子育てをしていて、①あせり、②イライラ、③子どもの遅れを強く感じたら、親は手を引く。そ
れは子どものためでもあるし、あなた自身のためでもある。今の状態をつづければ、子どもは
勉強嫌いに、そしてあなたはノイローゼになる。最悪のばあいは、神経症から精神を病んで、う
つ病になる。が、それだけではすまない。親子関係は破壊され、家庭そのものもおかしくなる。
では、どうするか? あなたはあなたで、子どもの勉強にはかまわず、子育て以外で、自分の
生きがいを見つける。が、それでも「勉強を……」ということなら、プロに任せたほうがよい。多
少、お金を出しても、そのほうが、結局は安あがりになる。

 何が悪いかといって、親のあせりほど、悪いものはない。ホント! 原因はいろいろ考えられ
る。子どもへの不信感、子どもへの愛情不足、生活の問題、学歴信仰、見栄、メンツ、世間
体、自分自身の精神的欠陥や、情緒の未熟性、さらには将来への不安などなど。そういうもの
が、こん然一体となって、親の心をゆがめる。そこでチェックテスト。あなたはつぎの項目で、い
くつが自分に当てはまるだろうか。

(1)子どもの横に座って、勉強を見ていると、イライラすることが多い。あるいはそのつど、子ど
もを叱ってしまう。
(2)近所の子どもと、何かにつけて比較してしまう。自分の子どもだけができが悪く、また問題
があるように見える。
(3)ほかの親たちと話をしていると、いつも不安になる。「子どもの将来はどうなるか」と考える
だけで、夜も眠られないときがある。
(4)何かにつけて、自分の子どもには問題があるように見える。ささいな失敗であっても、いつ
もおおげさに子どもを叱ってしまう。
(5)子どもが園(学校)に行っていても、子どものことが気になる。子どものことを考えると、家
にいても、気が晴れない。

 これらの項目で、三~四個以上当てはまれば、あなたはまさにイライラママ(パパ)と考えてよ
い。ある母親はこう言った。「買い物の帰りに、進学塾の光々としたライトを見ただけで、カーッ
と頭に血がのぼるのがわかりました」と。もしそうなら、冒頭にも書いたように、子育てから手を
引く。

 子育ては、本来、楽しいはず。それが楽しくない、楽しめないというのであれば、それは子ど
もの問題というより、あなた自身の問題と考える。ひょっとしたら、望まない結婚であったとか、
あるいは望まない子どもであったとか、あるいはあなた自身が、不幸にして、不幸な家庭で育
てられたということがあるかもしれない。そういった部分まで、一度、あなた自身を疑い、心の
中までメスを入れてみる。この問題は、一見、親と子どもの問題に見えるかもしれないが、根
は深い。このことについては、また別のところで考える。


●親とのつきあいは、如水淡交
 親どうしのつきあいは、水のごとく、淡く交わるのがよい。ほかの世界のことならともかくも、
間に子どもがいるため、一度こじれると、そのまま深刻な問題へと発展してしまうことが多い。
数年前だが、親どうしの「言った」「言わない」がこじれて、裁判ざたになったケースもある。任
期途中で、転校をさせられた教師は、いくらでもいる。転向していく親や子どもは、もっと多い。

 東京のある幼稚園では、「子ども交換運動」をしている。自分の子どもを相手の家に預かって
もらうかわりに、相手の子どもを自分の家に預かるというのが、それ。「他人の家の釜(かま)
のメシを食べることはいいことだ」という教育理念から、それが始まった。しかしこの方法も、ひ
とつまちがえると、……? 預かったり、預かってもらったりするなら、できるだけ身近でない人
のほうが、よい。親どうしが親密になりすぎるというのは、それ自体、問題がある。理由はいく
つかある。

 「教育」と言いながら、その底流では、ドス黒い親たちの欲望が、渦を巻いている。とくに日本
では、教育制度そのものが、人間選別の道具として使われている。少なくとも、親たちは、そう
とらえている。こういう世界では、「うちの子さえよければ……」「他人を蹴落としてでも……」と
いう、利己主義的な論理ばかりが先行する。もともと「美しく、清らかな世界」を求めるほうが、
おかしい。そのため親密になることは悪いことではないが、相手をまちがえると、とんでもない
ことになる。

 一方、それを監督する、園や学校は、どうか? 二〇年前、三〇年前には、まだ気骨のある
教師がいるにはいた。相手が親でも、堂々とけんかをしていく教師もいた。親に説教する教師
もいた。しかしそのあと、学級崩壊だの、いじめだの、教師による体罰だのと問題になっている
うちに、先生自身が、自信をなくしてしまった。ある小学校(I郡I町)の校長は、こう言った。「先
生たちが萎縮してしまっています」と。こういう状態をつくったのは、結局は、親自身ということに
なる。つまり園や学校の先生が、それなりに(?)ことなかれ主義になったからといって、先生を
責めることもできない。私にしても、一〇年前なら、先生のだらしなさを責めたかもしれない。
が、今は、むしろ同情する側に回っている。忙しいといえば忙しすぎる。「授業中だけが、息が
抜ける場所です」と、こっそりと話してくれた教師(女性)もいた。しかしそれとて、教育はもちろ
ん、しつけから、道徳、さらには家庭問題まで、私たち親が先生に押しつけているからにほか
ならない。

 ともかくも、親どうしのつきあいは、如水淡交。そうしていつも身辺だけは、きれいにしておく。
これは今の日本で、子どもを育てるための大鉄則ということになる。

(1)学校の行事、親どうしのつきあいは、あくまでもその範囲で。先生やほかの親に、決して個
人的な問題や、相談はしない。
(2)学校の先生の悪口、批判はもちろん、ほかの親たちの悪口や批判は、タブー。相づちもタ
ブー。相づちを打てば、今度は、あなたの言った言葉として、広まってしまう。子どもにも言って
はならない。
(3)子どもどうしのトラブルは、そのトラブルの内容だけを、学校に連絡する。相手の子どもの
名前を出したり、批判したりするのは、タブー。あとの判断は、先生に任す。
(4)先生への過剰期待は、禁物。あなただって、たった一人の子どもに手を焼いている。そう
いう子どもを三〇人近くも押しつけ、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。
(5)一〇人に一人は、精神状態がふつうでない親(失礼!)がいると思え。そういう親にからま
れると、あとがたいへん。用心するに、こしたことはない。
(6)子どもどうしのトラブルが、大きな問題になりかけたら、とにかくその問題からは遠ざかる。
見ない、聞かない、話さないに徹し、知らない、言わない、考えないという態度で臨む。できれ
ば、どこか「穴」にこもるとよい。
(7)それでも問題が大きくなったら……。時間が解決してくれるのを待つ。この種の問題は、へ
たに騒げば騒ぐほど、大きくなる。そしてそのしわ寄せは、子どもに集まってしまう。それだけ
は、何としても避ける。


●表情は豊かに
表情のない子どもがふえている。大阪市内で幼稚園を経営するS氏が、こう話してくれた。
「今、幼稚園児で、表情のない子どもや、乏しい子どもが、約二割はいる」と。

少し前に書いた原稿を掲載する。

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スキンシップ
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 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛ん
でしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベ
タしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッ
シュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いている。

 一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱きぐせが
つくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の
角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱き
ぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく
根拠がない。)仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく
平均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップにしかならないだろ
う。この日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分け
て考えなければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップ
への誤解と偏見となることが多い。

 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親であ
る、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶをあ
まりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤ちゃ
んの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。

 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一~六か月の乳児を対
象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったと
いう。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きる
ことも推察できる、とも。

先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシップがたっぷり必要だ
が、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇人に三人程度の割合
で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院・堀内たけし氏)そ
うだ。

 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!

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 一般論として、豊かな親の愛情に包まれて育った子どもは、表情が豊かで、すなお。「すな
お」というのは、心の状態と、表情が一致していることをいう。うれいしいときには、うれしそうな
顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。しかし心がゆがんでくると、それが一致しなく
なる。すねたり、ひねくれたり、いじけたりする、など。さらに症状が進むと、心と表情が遊離し
始める。うれしいはずなのに、無表情だったり、怒っているはずなのに、ニヤニヤ笑うなど。

 その子どもが心を開いているかどうかは、抱いてみるとわかる。心を開いている子どもは、抱
くと、スーッと体をすり寄せてくる。しばらく抱いていると、自分の体と一体化し、さらに呼吸のリ
ズムまで同じになる。また親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさが、
子どもの心の中に、そのまましみこんでいくのがわかる。本来、子どもというのは、そうでなけ
ればならない……という前提で、考える。もしそうでないというなら、……。いろいろな問題が考
えられる。

 さて、あなたの子どもは、どうか? 園や学校から帰ってきたとき、明るい声で、「ただい
ま!」と言って、うれしそうな顔をするだろうか。もしそうなら、それだけでも、あなたの子ども
は、すばらしい子どもということになる。


●「何とかしてくれ」言葉
 日本語の特徴なのか? 日本人は、おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言わない。
「おなかがすいたア~、(だから何とかしろ)」というような言い方をする。

幼児「先生、オシッコ!」
私 「オシッコがどうしたの?」
幼児「オシッコがしたい」
私 「ふうん、だったら、そこでしたら?」
幼児「ここでは、いやだ」
私 「どこでしたいの?」
幼児「トイレへ行きたい!」
私 「だったら、最初からそう言おうね」と。

 ほかにもいろいろ、ある。「のどがかわいたア~」「足が痛いイ~」など。幼児や子どもだけで
はない。私の叔母だが、電話で話すたびに、いつもこう言っていた。「オバチャンも、年をとった
からね……」と。つまり「年をとったから、何とかしろ」と。

 こうした言葉が生まれる背景には、日本人独特の、依存型社会がある。「甘え」という言葉を
使って表現する人もいる。つまりたがいに、ベタベタと依存することにより、支えあっている。ま
たそれを美徳と考えている。その一つの例として、たとえば今でも、子どもに向かって、「産んで
やった」「育ててやった」と恩を着せる親はいくらでもいる。それに対して、「産んでいただきまし
た」「育てていただきました」と言う子どもは、これまたいくらでもいる。ともに自立できない、つま
りは依存型親子ということになる。

 たがいに依存型世界に生きる人どうしにとっては、その社会は、それなりに居心地がよい。も
のごとが、ナーナーで動く。が、若い世代を中心に、「それではいけない」と言う人もふえてき
た。そうなると、そこで世代間の対立が生まれる。この対立が、親子関係、さらには家族をぎく
しゃくしたものにする。今、この問題は、日本中の、あらゆる場所で、またほとんどの家庭で起
きつつあるといってもよい。

 英語国では、親子でも、「お前は、パパに何をしてほしい」「パパは、ぼくに何をしてほしい」と
たがいに聞きあっている。これからの日本で求められるのは、こうしたわかりやすさではないの
か。だから……。子どもがここでいう「何とかしてくれ」言葉を口にしたら、「それがどうなの?」と
言って、それをたしなめる。これは子どもを自立させる、そして親自身も自立する、第一歩と考
えてよい。
(02-12-13)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩