Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, December 21, 2010

●保護と依存の関係

【保護と依存について】

●保護と依存

 今朝、ワイフと食事中に、こんな会話をした。
いつもの「保護と依存」の問題。
一度保護と依存の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではない。
保護するほうは、いつもまでも保護を求められる。
負担感に苦しむ。
一方、依存する側は、いつまでも依存する。
依存して当たり前と考えるようになる。
だから保護、依存の関係は、できるだけ作らないほうがよい。
親子でも、兄弟でも、親類でも、また友人でも。

●甥、姪の学費を全額負担したT氏

 T氏というドクター(内科医)が2年前に他界した。
私の30年来の友人であった。
そのT氏は、それぞれの親を通して、4~5人の甥、姪の学費を負担した。
そのつど、ほぼ全額、負担したという。

 その話をT氏から生前、よく聞いていたから、私は当然、それらの甥や
姪が、葬儀に来ているものとばかり思っていた。
が、葬儀には、甥や姪はもちろんのこと、その親たちすら来ていなかった。
T氏の奥さんに、「どういうことですか?」と聞くと、奥さんはこう言った。
「主人が現役を退いてからも、みな、よくお金を借りにきました。
が、主人がそれを断っていたからです」と。

 俗な言い方をすれば、それまでさんざん世話になっておきながら……ということになる。
これが「保護と依存の関係」ということになる。

 私の母にしても、私は20歳のはじめから、収入の半分を母に届けていた。
27歳くらいのときから、法事の費用もすべて負担した。
しかし母はそのことを、だれにも話さなかった。
で、私が40歳を過ぎてから、姉に、そういう話を母から聞いているかと尋ねてみた。
が、姉は「そんな話は聞いていない」と。
その話をしながら、私がワイフに、「金を借りた人は自分の手柄と思うから、だれにも
話さないものだよ」と言うと、ワイフは、「そうね」と。

 母は質素な人だった。
無駄遣いはしなかった。
それは認める。
しかし私から得たお金で、母は母の実家や親類の人たちを助けていた。
従弟たちの学費にもなっていた。
このことは最近になってわかったことだが、もちろん母の実家や親類の人たちは、
そうしたお金の出所を知らない。
知らないから、母のことをほめちぎっても、私には礼の一言もない。
今にしてみると、私もバカなことをしたものと思う。
つまりこれが「保護と依存の関係」ということになる。

●子どもの学費

 子どもの学費についても、同じようなことが言える。
今、高校でも、さらに大学でも、親に感謝しながら高校や大学へ通う子どもはいない。
皆無と断言してよい。
お金が必要になると、電話をかけてくる。
で、親は、爪に灯をともしながら、学費を送る。
が、そんな親の苦労など、どこ吹く風。
親からのお金をかすめとっては、遊びほける。

 ……と断言するのも、失礼なことかもしれない。
中には、そうでない学生もいる。
しかしそういう学生は、少ない。
本当に少ない。

 それもそのはず。
子どもは子どもで、小さいときから、「勉強しろ」「宿題はしたか」「成績はどうだった」と、
尻を叩かれてばかりいる。
親は子どものためと思って、そうしている。
しかし子どもは、そうは思っていない。
「したいこともできず、勉強ばかりをさせられた」と思う。
だから高校へ入っても、また大学へ入っても、親に感謝などしない。
するはずもない。
中には、「親がうるさいから、大学へ入ってやる」と言う子どもさえいる。

 一方、親は親で、「大学まで出してやったのだから、息子(娘)は感謝しているはず」
と考える。
しかしこれは幻想。
まったくの幻想。
親はその幻想にしがみつき、自分の親バカを正当化する。
自分を慰める。

 もっとも親子の間に、一本でも良好な親子関係が残っていればよい。
それさえないと、自己否定から絶望感すら覚える。
ふと気がついてみると、老後の資金さえない。
そんな状態になる。

 つまりこれも「保護と依存の関係」ということになる。

●これからの親子関係

 私は63歳。
が、これは私だけの問題ではない。
40代、50代の人にも、共通の問題と考えてよい。
それがわからなければ、息子や娘が巣立ったとき、あなたが何歳になっているかを
計算してみればよい。
簡単な足し算をしてみれば、わかるはず。

 現在、日本の若者で、(あなた自身もそうかもしれないが)、「将来、親のめんどうを
みる」と考えている若者(成人)は、30%もいない。
この数値は、欧米やアジアの若者たちと比べても、極端に低い。
つまりあなたの老後は、そういう息子や娘たちの上に、載っている。
独居老人、無縁老人、そしてその先では孤独死。
それが今、あたりまえの老後になりつつある。

 だったら……というか、ここまで書けば、では子育てはどうあるべきか、賢明な
あなたにならわかるはず。
子どもに向かって、「勉強しろ」というのは、親の勝手。
しかしそう言えば言うほど、その責任を取らされるのは、あなた自身ということ。
それでももしあなたが「私はだいじょうぶ」「うちの子にかぎって、親を裏切ることは
ない」などと思っていたら、それは幻想。
まったくの幻想。

 先日もある男性(長野県出身)と、近くの温泉でこんな会話をした。
S町という、北信から来ていた。
その北信でも、過疎化に併せて、墓地の放棄が目立ってきたという。
そこで地域ごと、寺ごとに、無縁仏用の大きな石碑を建て、そこに遺骨を納めなおし、
集団で供養しているという。

 その男性は、こう言った。
「一度、都会へ出たら、今の若者たちはぜったいに戻ってきませんね。
それだけの社会システムが整っていればよいのですが、それが不完全です。
だから私が住んでいるS町でも、独居老人がどんどんとふえています。
私もその1人です」と。

 で、私が「息子さんや娘さんのところに会いに行かないのですか」と聞くと、
こう話してくれた。
「行きません。もう20年来、会ったこともありません。そのかわり、今は、
弟と仲よくしています。
その弟も、豊橋(愛知県)で独居老人です」と。
言い忘れたが、その老人は、「今、82歳です」と言った。

 こうした傾向は、この先、20~30年はつづく。
つまりこの原稿を読んでいるあなた自身も、その独居老人になる可能性は高い。
おおざっぱな試算によるものだが、約60%(某評論家)がそうなると言われている。
この数字が決して誇張されたものでないことは、あなたの周辺に住んでいる老人を
観察してみればわかる。

●保護と依存(2)

 だから保護と依存の関係については、慎重に対処したらよい。
相手が自分の子どもであっても、慎重に対処したらよい。
つまり過剰な保護意識は禁物。
禁物というより、危険。
子ども自身も、不幸になる。
保護に慣れきってしまった子どもは、保護なしでは生きていかれなくなる。
だからあのイギリスのバートランド・ラッセル(イギリス・ノーベル文学賞受賞者、
哲学者)もこう言っている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれ
ども、決して限度を超えないことを知っている、そんな両親のみが、家族の真の喜びを与
えられる」と。

 けだし名言である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 保護と依存 保護と依存の関係)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【Independent Thinker】

●ひとりで考える人(Independent Thinker)

 イギリスの哲学者でもあり、文学者でもあった、バートランド・ラッセルは、「宗教論(In
Religion)」の中でつぎのように書いている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves no
effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than
his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very
exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life. It
causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that
position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are
few who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so
aristocratic a good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far commoner in
the young than in grown mean and women. Among children it is very common, and
grows naturally out of the period of make-believe and fancy. It is rare in later life
because everything is done to kill it during education... The wish to preserve the past
rather than the hope of creating the future dominates the minds of those who control
the teaching of the young. Education should not aim at passive awareness of dead facts,
but at an activity directed towards the world that our efforts are to create

教師の知恵をそのまま、受動的に受けいれるということは、ほとんどの少年少女に対して
は、楽なことであろう。それには、ひとりで考えるindependent thoughtという努力をほ
とんど要しない。

また教師は生徒より、ものごとをよく知っているわけだから、一見、合理的に見える。そ
れ以上に、この方法は、その教師が、とくにおかしなexceptional人でないかぎり、生徒に
とっては、教師に気に入られるための方法でもある。

しかし受動的にものごとを受けいれていくという習慣は、そのあとのその人の人生におい
て、大きな災いdisastrous oneをもたらす。その人は、リーダーを求めさせるようになる。
そしてそれがだれであれ、リーダーとして、その人を受け入れることになる。

子どもには、精神的な冒険mental adventureをする喜びなどというものは、なく、それを
理解する子どももほとんどいないし、ふつうの教育のもつ、貴族主義的なaristocratic教育
のよさが、子どもには、わからないと言う人もいるかもしれない。

しかし私は、そんなことは信じない。精神的な冒険というのは、おとなたちよりも、若い
人たちの間でのほうが、ずっとありふれたことである。幼児たちの間でさえ、ありふれた
ことである。

そしてその精神的な冒険は、幼児期の(ものを信じたり、空想したりする期間)the period
of make-believe and fancyの中から、自然に成長する。むしろあとになればなるほど、す
べてが教育によって、これがつぶされてkillしてしまうので、よりまれになってしまう。

若い人たちを教育する教師たちは、どうしても、未来を想像したいと願うより、過去を保
全したいとい願いやすいdominates。子どもの教育は、死んだ事実を受動的に気がつかせ
ることpassive awareness of dead facts,ではなく、私たちの努力がつくりあげる世界に向
って、能動的に向わせることを目的としなければならないthe world that our efforts are to
create。

バートランド・ラッセル(1872~1970)……イギリスの哲学者でもあり、ノーベ
ル文学賞受賞者

++++++++++++++++++++はやし浩司

●精神的な冒険(mental adventure) 

 精神的な冒険……つまり、今まで経験したことがない世界に自分自身を置いてみて、そ
のときの精神的な変化を、観察する。そしてその中から、新しいものの考え方や、新しい自分を発見していく。

 それはとても、おもしろいことである。

 新しい発見に出あうたびに、「今まで、こんなことも知らなかったか」と驚くことがある。
それが自分に関することなら、なおさらである。

 その精神的な冒険について、バートランド・ラッセルは、「教育というのは、死んだ過去
の事実を、子どもたちに気づかせることではなく、私たちが創りあげる、未来に向かって
能動的に向わせることを目的としなければならない」(Education should not aim at
passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that our
efforts are to create)と書いている(「In Religion」)。

 では、それを可能にする方法は、あるのか。そこでバートランド・ラッセルは、教育論
の中で、「Independent Thought」という言葉を使っている。直訳すれば、「独立した思想」
ということになる。もう少しわかりやすく言えば、「ひとりで、考えること」ということに
なる。

 少し前、恩師のT先生が指摘した、「Independent Thinker」と、同じ意味である。訳せ
ば、「ひとりで考える人」ということになる。

 ……こう書くと、「ナーンダ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。しかしそう思う
のは待ってほしい。

 「ひとりで考える」ということは、たいへんなことである。私たちは日常生活の中で、
そのつど、いろいろなことを考えているように見える。しかしその実、何も考えていない。
脳の表面に飛来する情報を、そのつど、加工しているだけ。それはまるで、手のひらで、
頭をさすりながら、その頭の形を知るようなもの。

 ほとんどの人は、その「形」を知ることで、脳ミソの中身まで知り尽くしたと錯覚する。
しかしその実、何もわかっていない。

 それがわからなければ、北海道のスズメと、沖縄のスズメを、見比べてみることだ。そ
れぞれが、別々の行動をしているように見える。一羽のスズメとて、同じ行動をしていな
い。が、その実、(スズメ)というワクを、一歩も超えていない。

 つまり私たち人間も、それぞれが自分で考えて行動しているように見えるが、その実、(人
間)というワクを、一歩も超えていない。北海道のオバチャンも、沖縄のオバチャンも、
電車に乗ると、世間話に、うつつをぬかす。大声でキャーキャーと騒ぎながら、弁当を食
べる。

 つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれな
いということ。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、
そのワクを踏み超えなければならない。

 しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメ
というワクを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先
に巣をつくらないで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。

 人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)
の条件ということにもなる。

 恩師のT先生は、科学研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)の重要
性を説いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。バー
トランド・ラッセルは、それを指摘した。

 ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、
ありふれた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽な
こと。しかしそのワクを超えることは、たいへんなことである。

 しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味があ
る。私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰
りかえしているだけ。

 もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たち
も、若いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言っ
た。

 するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。

 本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事
実は、私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。
やがて君も母親になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。
つまり繰りかえしているだけだよ。

 もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなけれ
ばならない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。

 しかしこれは私自身のテーマでもある。

 ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。
私の家の近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、
自分の人生を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前
と同じ生活を繰りかえしているだけ。

 もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとした
ら、そのままつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。

 死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むこ
とである。

 ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いて
いる。

 私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろ
んその女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、
そうした。

たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の心
をキズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさらけ
出す勇気を、自分のものにすることができた。

 だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでい
くというのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そし
てそのつど、さらにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知
る。

 はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そして
そのあと、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、
Independent Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこ
に何か、目には見えない糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。

 そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。

(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人) (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 保護と依存 バートランド・ラッセル ラッセルの言葉)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司