Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, June 16, 2011

●怒りは身を滅ぼす

【欲望(煩悩)論】(今朝のキーワードは、「怒り」)はやし浩司 2011-06-17

●希望と期待

 希望にせよ、期待にせよ、それが「欲望」から発したものであれば、それは未来を約束した希望や期待にはならない。
よく「光」という言葉を使う人がいる。
「希望は光」と。

 しかしそれは光ではない。
身を焦がす炎(ほのお)である。
たとえば子を育てる親の希望や期待には、際限がない。
受験にしても、やっとB高校へ入る力がついてくると、「何とかしてA高校へ」となる。
そのA高校が視野に入ってくると、今度は、「S高校へ」となる。

 こうして希望や期待は、際限なくふくらんでいく。
その結果、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
ひとつの希望や期待がかなえられるたびに、その先でまた新たなる苦悩がやってくる。
処し方をまちがえると、家庭騒動、親子断絶、さらには家族崩壊へとつづく。
ただの「光」ではすまない。
つまり「炎」。
なぜか?
それが冒頭に書いたことである。
欲望から発しているからである。

●老後の希望

 若いうちは、まだよい。
それが意味のないものであっても、その希望や期待に、酔いしれることができる。
時間を無駄にしても、そこにはありあまるほどの余裕がある。
(本当は、余裕などないのだが……。)

 が、歳を取ると、そういうわけにはいかない。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
無駄にできる時間など、一瞬一秒もない。
そこで何度も書くが、エリクソンという学者は、「統合性の確立」という言葉を使った。
老齢期の生き方を説いたものである。
3年前に書いた原稿だが、参考になると思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)08年記
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわけにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎり、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

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(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボランティア活動をしたところで、意味はない。
身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめることがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくるものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無」

 統合性を確立するためには、欲望を捨て、「無」の状態でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は、霧散する。
ボランティア活動にしても、「無」でするから、意味がある。
何も期待しない。
見返りを求めない。
ただひたすら自分がすべきことをする。
それが「無」ということになる。

 で、2500年前に釈迦が説いた「無」と、近代に入ってサルトルが説いた「無の概念」が、一致するということは、たいへん興味深い。
宗教の世界を、「観念論の世界」という。
一方、サルトルらが説いた世界を、「実存主義の世界」という。
まったく相反する世界の哲学が、最終的には、ひとつの世界に融合する。

(私自身は、釈迦は、宗教ではなく、現在に通ずる実存主義を説いたものと解釈している。
その釈迦の教えを、無理に宗教化したのは、後世の学者たちと解釈している。)

 釈迦は、「無」を哲学の根幹に置いた。
(いろいろ異論もあろうが……。)
一方、サルトルは、自由へのあくなき追求を経て、最終的には「無の概念」にたどりつく。
これについても、私はたびたび原稿を書いてきた。

 サルトルについて書いた原稿をさがしてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【自由であること】2009年記

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905~1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させることができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をもって、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はある。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●釈迦の説く「無」

 では、釈迦は、「無」をどのように考えていたのか。
直接的には「空(くう)」という言葉を使った。
つぎの原稿は2006年に発表したものである。
が、本当は、もっと前に書いたかもしれない。
私はよく過去に書いた原稿を呼び出し、その原稿を改めるということをよくする。
しかし少なくとも、仏教と実存主義の融合に気づいたのは、このころということになる。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】2006年記

●生・老・病・死

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生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

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 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

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●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではないか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識 無の概念 空)

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もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

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●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進についても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

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 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自由であることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私はここに、東洋哲学と西洋近代哲学の融合を見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 東洋哲学と西洋哲学の融合 無の概念 無 はやし浩司 空)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●欲望の克服

 私たちが「欲望」と呼んでいるもの。
それらはすべて「無」に発する。
「性欲」を例にあげるまでもない。
ただの排泄欲にすぎない性欲が、人間社会そのものを支配している。
フロイトですら、「性的エネルギー」という言葉を使っている。
つまり「性的エネルギー」が、あらゆる動物(もちろん人間も含む)の生命力の根幹になっている、と。
(これに対して、フロイトの弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使っている。

 人間は絶え間なく、この欲望の支配下に置かれ、奴隷となり、それに振り回される。
が、たいへん悲しいことに、そうでありながら、ほとんどの人は、それに気づくこともない。
「私は私」と思い込んでいる。
ただの奴隷でありながら、それが「私」と思い込んでいる。
よい例が、電車の中で化粧をする若い女性。

 自分の意思で化粧していると本人は思い込んでいる。
「あなたは自分の意思で化粧をしているのですか」と聞いても、その女性はこう答えるだろう。
「もちろん、そうです」と。

 が、その女性とて、その奥深くから発せられる「性的エネルギー」の奴隷でしかない。
その「奴隷である」という部分が、加齢とともに、やがてわかってくる。

●では、どうするか

 ここから先は、製品で言えば、まだ試作品(プロトタイプ)。
が、今の私は、こう考える。
希望や期待が、欲望に根ざすものであるなら、希望や期待をもたないこと。
へたに希望や期待をもつから、そのつど壁にぶつかり、葛藤を繰り返す。
怒りもそこから生まれる。
恨みも、ねたみも、そこから生まれる。

 ある賢人は、こう言った。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
あとでそれについて書いた原稿をさがしてみるが、怒りが強ければ強いほど、あるいは恨みやねたみが強ければ強いほど、その人自身の人間性が破壊される。

 が、希望や期待を捨てれば、怒ることはない。
人を恨んだり、ねたんだりすることもない。
……と書くと、では、「人は何のために、何を目標に生きればいいのか」と考える人もいる。
が、答は、シンプル。
『そのとき、その場で、やるべきことを、けんめいにすればいい』と。
トルストイをはじめ、多くの賢人たちも、異口同音に、「そこに生きる意味がある」と説く。
つまり懸命に生きるところに意味がある、と。
釈迦もその1人。

 結局は、そこへ行き着く。
「結果」というのは、かならず、あとからついてくる。

 ここにも書いたように、これは試作品としての結論ということになる。
このつづきは、一度、頭を冷やしたあとに、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 欲望(煩悩)論 煩悩論 欲望論)


(補記)2010年7月記

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディック)

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人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

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●ある女性(67歳)

 ついでながら、東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。

「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。

そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8~10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
『怒りは、人格を崩壊させる』と説く賢者もいる。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)

●結論

 いろいろ書いてきたが、人間は欲望の奴隷と考えてよい。
その欲望が、さまざまな感情を生む。
東洋医学でも、そう教える。
その感情の中でも、「怒り」「うらみ」「ねたみ」は、心を腐らす。
ときには人格を崩壊させる。

 そこで重要なことは、つまり日々の生活の中で重要なことは、この怒りをどう手なずけていくかということ。
それを自己管理能力といい、その能力のあるなしで、その人の人格の完成度が決まる。

 釈迦も「怒り」をきびしく戒めている。
フォスディックの言葉を借りると、こうなる。

●『Anger is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を怒るということは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 今朝のキーワードは、「怒り」ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司