Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, December 23, 2008

*Sexual Perversion

【女児願望の男児(?)】

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掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

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 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

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【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、
それをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありまし
た。強く否定していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいい
のでしょうか? どう返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら
病院に行ったほうがいいのでしょうか?

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 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知
られている。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、そ
の結果として、性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。
また女子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自
己の変化そのものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあ
れ、ほとんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとな
への脱皮をはかるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を
見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、
自意識が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネ
ガティブ)な世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、
そのひとつである。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱
としての「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させること
ができない「性同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

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★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の
身体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の
身体の性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容
できず、更にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状
態を指して性同一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」
という表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちで
あるため、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性
が食い違った状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多
くの場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致
しているが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や
遺伝子的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観
察される。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれか
に正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考え
られない症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。
また、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づく
ケースもある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障
害者は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状
の一形態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、
(代表的な症例では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 という
のは、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決
して多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまった
くなかったと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者
が、何らかの性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウ
ンセリングの場では、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうとこ
ろのニューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、
売春以外観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、
男性型の身体より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去
勢をし、十代後半になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、
それを防ぐための文言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々
を、性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドライ
ンの第2版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明
記された。

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●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりも
しそうであるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」
というよりも、個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たち
にとっては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということにな
る。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、か
えって追いつめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオース
トラリアで学生生活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもって
いると考えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかという
ことさえ、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うこと
さえ、許されなくなる。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたの
は、X君が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあ
ったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあ
るのを見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたよう
に、ほかに気になることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んで
しまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の
母親は、その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、
わからなくなってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでない
ものを見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうす
ることもできませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方
のないことと、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあ
っていません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問
題だけは、なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なこ
とは、息子が自分で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3
~4年生くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両
手をすりあわせて、イヤ~ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、
そうした冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでに
Y君に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱ
りと言った。「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてく
ると、Y君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめ
かしいというか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、こ
こに書いたY君である。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校
生と、恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部
の席で、手をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、
それで終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性
同一性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性
障害者ということにはならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、
「自分は女性」と思いこんんでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と
思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」
である。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに
添付する。

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(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が
生まれてくる。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職
に応じたものの考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性
をもつ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、
失敗など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混
乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観
に大きな影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そ
ういう方向で勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を
勧められ、文科系コースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさ
からうなどということは、できなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにも
こうにも、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そ
のときですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自
分の職業を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えて
よい。ほとんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そ
して、その性別にふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まっ
たくの「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなっ
たということもある。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因について
は、いろいろな説があるが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、
いじめられて泣くのは、男児、いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってし
まっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」
になりきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事を
しなさい」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、
自我そのものまで軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代
に押しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだというこ
とになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなけれ
ばならない。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞ
き、男女差別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べ
る学校もふえている。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線
の運転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そうい
う問題も、考えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差
別してはならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、
今後は、性による差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日
本を変えていく。意識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなけれ
ばならない。
(030622)

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●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書い
てきたことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。
残念ながら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを
見たこともないし、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無
だった。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、
そうした服装を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、
からかわれた時代もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思
う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、
子どもは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そ
ういう部分で、親として、できることはしなければならない。反対に、してならないこと
は、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、
狩りの仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要であ
る。男児が男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、
考えられる。(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化
するケースもある。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視
点で、一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもし
れない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思わ
れる。仮に性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどな
い。いわんや病院へ連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日
本では、たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、
もがき苦しんでいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、
もがき苦しんでいる人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
同性愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。
しかし現実には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」
を自覚することが多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果と
して、「自分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳を
とってからの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、
若いときに見た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、
女を意識するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自
身のことでよく覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなっ
てしまった。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の
下着を見てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよく
おぼえていない。しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、
私は、そのとき強烈な衝撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致
を起こしたとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるな
ら、問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出て
くるようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だ
けで、こうした人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視
点で、こうした人たちを、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うこと
はできない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的
には、自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしか
に、自分の子どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがあ
る。しかしそれは、(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけ
ながら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が
同居していることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」
というようなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているよ
うにも思う。もしあのとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、
私を病院へつれていくと言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。


 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あ
るいはどんな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児~小学低学年児につ
いて言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」と
いう図式が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそ
うした原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同
一性障害を問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

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以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

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●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生
がいたので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、
真顔でこう答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生
もいた。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。
その高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう
書くと、軟弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞
台でギター独奏したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞く
と、「こわかった……」と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣く
のはたいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがってい
る。先日も一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、
ウンチを教室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。
母親はいじめられていることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもら
し」と呼ばれたら、相手の子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決
するはずである。しかもその相手というのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポ
カリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はな
にも、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は
女子らしくという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいく
らがんばっても、妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべき
だというのは、おかしい。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教
師は皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(9
8年、浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐
怖症になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、
今、新時代の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加し
なさい」と指導しても、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう
日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランス
は第一次大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男
性は限りなく女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツ
の侵略には、ひとたまりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
男児の女児化 男性の女性化)