*The New Jury System of Japan
●裁判員制度
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「法意識」という言葉がある。
簡単に言えば、「法に対する意識」ということになる。
しかし日本人ほど、法意識の希薄な国民というのは、
そうはいない。
このことは、たとえば冠婚葬祭、ひとつみただけでも
わかる。
とくに葬儀。
すべてが、ナーナーというか、いいかげん。
安易な『ダカラ論』ばかりが、優先する。
「あなたは男だから」「私は女だから」とか、
「昔から、こうだから」「世間は、こうだから」とか、
そのときどきにおいて、自分の都合のよいように、
『ダカラ論』を並べる。
法というものが、日常生活にしみ込んでいない。
法を持ち出して、合理的に考えるという習慣が
身についていない。
「法は私たちが作った」という意識も希薄だが、
「法を守る」とか、「法に従って」という意識も希薄。
日常生活は、多くのばあい、「世俗」という、別の尺度で
動いている。
それが悪いというわけではないが、法律は法律。
学問としても体系化されている。
で、こういう国民が、裁判員になったら、どうなるか。
「被告は、親の葬儀にも顔を出さなかったような
悪人であります。
しかも長男のくせに、二男に親のめんどうをみさせて
いました。
人間のクズです。
したがって刑を、2倍にするのが妥当です」と。
そんな極端なことはないにしても、日本人に人を裁くほどの
法意識が育っているかということになると、それはどうか?
私は、疑問に思う。
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2009年5月から、刑事裁判において、いよいよ裁判員制度による
裁判が始まる。
裁判員が参加するばあい、裁判長を含む裁判官3人と、裁判員6人、計9人で
審理を行う。
裁判官と裁判員は、立場は同等。
被告人が有罪であるか、無罪であるかを評議する。
有罪であるなら、どのような量刑にするかも評議する。
もし意見が一致しないときは、多数決で結論を出す。
ただしそのばあい、つまり被告人が有罪であると決めるときには、
その中に裁判官が1人以上、含まれていなければならない。
たとえば裁判員6人が有罪、裁判官が3人が無罪というときは、被告人は
無罪となる。
が、反対のばあいは、どうなるのか。
たとえば裁判員6人が無罪、裁判官3人が有罪というときである。
このばあいは、多数決で、無罪となる。
だったら、はじめから裁判員など、不要ということになってしまう。
そのことは、私やあなた自身が、被告人になったばあいを考えてみればわかる。
法の専門家に裁かれるなら、まだ安心感(?)がある。
しかしまったくの素人に裁かれるとなると、話は別。
たとえて言うなら、病院で、医師ではなく素人によって、診断名をつけられるようなもの。
そこでもう一度、原点に立ち返ってみる。
なぜ裁判員制度が、生まれたか?
そこには、こうある。
「判例主義(=前例主義)や硬直した法解釈だけの判決を避けるため」と。
よって「司法への理解と信頼を高めるため」と。
「そうかなア?」とも思ってみたりする。
「そうでもないのではないのかア?」とも思ってみたりする。
「そうかなア?」と思うのは、たしかにそういう部分はある。
裁判官が、どういう人たちかということについては、ここには書けない。
書けないが、しかしどういう人たちかは、司法当局の人たちなら、みな知っているはず。
そういう司法当局の人たちが、「これではまずい」と感じたのかもしれない。
「そうでもないのではないのかア?」と思うのは、判決に温度差が生まれたり、
地域差が生まれたりするのではないかということ。
そのためかえって司法に疑問をもったり、不信感をもつ人がふえるのではないか
ということ。
とくに日本の刑事訴訟法は、『罪刑法定主義』という、大原則を貫いてきた。
またそれがあったからこそ、日本人は、こと刑事裁判については、絶対的な
信頼感を寄せることができた。
「人は法によってのみ裁かれ、法以外のものによって裁かれない」というのが、
それである。
その罪刑法定主義すら、揺るぎかねない。
冒頭に書いたように、たしかに日本人の法意識は、世界の人たちと比べても低い。
それはわかるが、だからといって、「裁判所へ連れてくれば、法意識が高まる」と
考えるのは、あまりにも短絡的。
さらに言えば、「法意識が高まったからといって、それがどうなのか?」という
疑問も残る。
大半の人たちにとっては、法といっても、とくに刑法は無縁のもの。
この私にしても、一応法学士だが、社会へ出てから、一度も刑法の世話になった
ことはない。
それをいきなり、一般の庶民を裁判員に仕立て、判決に加担させるとは!
もう少し(段階)というものを経るべきではなかったのか?
たとえば刑事裁判というのは、
(1) 冒頭手続き
(2) 証拠調べ手続き
(3) 弁論手続きという、プロセスを経る。
そういう各段階で、一般の人たちを参加させるという制度でもよかったのではないのか。
冒頭手続き……たとえば、被告人から直接話を聞いたり、起訴状について不満はないかと
聞いたりする。
証拠調べ手続き……たとえば検事から証拠の内容を聞き、それを吟味したりする。
弁論手続き……たとえば被告人といっしょに、法律面での問題点を考えたり、
アドバイスしたりする、などなど。
そしてそれがある一定限度まで熟成したとき、裁判員制度に切り替えるとか、など。
もっともまずいのは、「いろいろやってはみたが、やはり、裁判員制度は廃止する」
ということになること。
その間に判決が確定した刑事犯の人たちは、どうすればよいのか。
もう一度、判決文をすべて見直すということにでもなれば、それこそたいへんなことに
なる。
最終的には、日本の裁判制度を、アメリカのような陪審員制度にもっていこうとして
いるのかもしれない。
そうならそうで、ドイツ刑法から英米刑法へと、日本の刑法(+刑事訴訟法)の
基盤そのものを変えなければならない。
が、それは、どうするのだろう?
あまりケチをつけてばかりいてはいけないので、ここはしばらく様子見ということに
する。
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3年前に書いた原稿を紹介します。
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●行列のできる法律S談所
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法律が先か、それとも法律はあとか?
法律が先に立つ世界は、まさに闇。
『行列のできる法律S談所』という
番組には、そんな基本的な認識すら
ないのでは?
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ときどき、『行列のできる法律S談所』という番組を見る。が、あの番組を見るたびに、「?」と思ってしまう。法律の基本そのものが、わかっていない(?)。
昨夜(3・5)の番組では、こんなテーマが取りあげられていた。
結婚前は美しい女性だった。が、結婚後、ガラリと妻の様子が変わった。化粧はせず、だらしない生活。夫の返事にも、おならで答えるという。しかも新婚1月後で、である。こういう妻のばあい、離婚はできるかどうか、と。
いつもの番組である。で、弁護士たちが、「できる」「できない」と議論する。たしか4人の弁護士のうち、3人は「できない」。1人は「できる」ではなかったか。
が、この発想そのものが、基本的な部分でまちがっている。私も元、法科の学生。その立場で、一言、意見を書いてみたい。
法律があるから、それに人は従うのではない。とくに民法は、そうである。何かの紛争が起きたとき、その紛争を解決手段として、法律がある。最初に法律ありきという姿勢は、本来の法の精神に反する。仮に法律に反していても、たがいにそれで納得し、満足しているなら、法の出る幕はない。
しかしあの番組では、いつも先に、法律ありき……という姿勢が目立つ。その影響だろうが、私の教室でも、私が何かをするたびに、「慰謝料請求するぞ」「行列のできる法律S談所に訴えてやる」と言う子どもがふえてきた。
たとえばその慰謝料にしても、「これこれこういうことをしたから、慰謝料が請求できる」というのではない。「私は、精神的損害をこうむった。それをつぐなってもらうにはどうしたらいいか」と考えたあと、法律が登場する。そこではじめて慰謝料を請求するという話になる。
弁護士の世界のことは知らないが、こんなことは、法学の世界では、常識。どうしてそういうことをきちんと言う学者が、あの番組には、なぜ出てこないのだろう? あの番組を見ていると、かえってまちがった法律意識を、子どもたちに植えつけてしまうことになりかねない。
で、夫の会話に、おならで答える妻についてだが、「おならで答えたから、離婚事由になる」「ならない」という発想そのものが、ナンセンス。もっと基本的な部分はどうなのかというところまで見て、はじめて、離婚の話になる。民法で定める離婚事由は、つぎのようになっている(民法770条、法定離婚事由)。
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夫婦の一方は、左の場合に限り、離婚の訴を提起することができる。
1、配偶者に不貞な行為があったとき。
2、配偶者から悪意で遺棄されたとき。
3、配偶者の生死が3年以上明かでないとき。
4、配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込がないとき。
5、その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。
2 裁判所は、前項第1号乃至第4号の事由があるときでも、一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。
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つまり(妻のおなら)が、5の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」に該当するかどうかということ。これについては、たとえば裁判所でも、もろもろの状況を総合的に判断して、結論を出す。おならだけを見て、判断するということはない。
で、そのおならで返事をする妻についてだが、すでに夫婦関係が冷え切ってしまっているということが考えられる。その冷え切った理由が、妻側にあるとするなら、離婚は可能であろう。おならは、その一部にすぎない。
が、冷え切った理由が、妻側に存在しないときは、どうか? 妻にしてみれば、ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしているつもりかもしれない。化粧をしないということでも、それ自体は、何でもないこと。夫は、そのふつうの様子が理解できないだけということになる。で、このばあいは、離婚事由にはならない。むしろ夫のわがままということになる。
どちらにせよ、ことの細部をとりあげて、「これは離婚できる」「これは離婚できない」と論ずるのは、先にも書いたように、ナンセンス。こんな形で法が運用されたら、それこそ、この世界は、闇。めちゃめちゃになってしまう。弁護士にもなった人たちだから、そんなことは、百も承知のはずと、私は思うのだが……。
ただ刑法のほうは、そうとばかり言えない面がある。しかし刑法においても、法は、あとに来るべきではないのか?
たとえばこんな事例で考えてみよう。
一旦停止の4つ角がある。その角の少し入ったところで、2人の婦警たちが、ミニパトカーを止めて、見張っている。そして一旦停止しないで、4つ角に進入してきた車のドライバーに対して、つぎつぎと違反キップを渡している。
よく見かけるシーンである。
このばあいでも、婦警たちは、まず法律ありきという姿勢で、違反者を見張っているのがわかる。もし本当に、交通ルールをドライバーに守らせようと考えるなら、運転者がその前にわかるように、一旦停止線のところに立って、見張るべきである。
では、なぜ、一旦停止で車は止まらなければならないのか。それはルールというより、ドライバー自身の安全のためである。相手の車に、迷惑をかけないためである。ルールは、それを裏から、補強する。一旦停止の線が描いてなくても、一旦停止が必要と感ずれば、ドライバーは、そこで一旦停止する。一旦停止の線がないからといって、本線に一旦停止しないで、飛び出してよいというものではない。
で、仮にそのあたりで、何かの交通事故があったときはじめて、法律が登場する。「あなたは一旦停止すべきだったのに、一旦停止しなかった。一旦停止して、左右の安全の確認をすべきだった。が、それをしなかった。つまりあなたのほうに過失がある」と。
ふつうの人が、ふつうの生活をしていれば、また、それができれば、本来、法などというものは、必要ないのである。仮に、法(民法)に反していても、それで当事者たちが、納得していれば、これまた法などというものは、必要ないのである。「配偶者の生死が3年以上明かでないとき、離婚事由になる」という項目についても、「3年たったら、だれしも離婚すべき」というのではない。中には、夫の帰りを待ちながら、10年でも、20年でも、妻のまま待っている人だっているはず。本来、ユートピアというときの理想世界では、そういう世界をいう。
しかしそこで何か紛争が起きる。争いが起きる。そのときはじめて、法が前に出てくる。それが法なのである。
はじめに法ありきという発想が、どういうものか、これで理解してもらえただろうか。……ということで、あの番組には、私は以前から、少し疑問に思うところがあった。あなたも、一度、そういう視点から、あの番組を見てみるとよい。
【補足】
法的正義とは何かといえば、それは人間が本来的にもつ良識をいう。良識ある人が、良識ある行動をしていれば、本来、法など、いらない。不要。が、人間の世界には、良識ある人ばかりではない。ときとして、その良識ある人が、何かのトラブルに巻き込まれることがある。そのとき、その良識ある人を守るために、法が、前に出てくる。それが法律である。
「~~したら、離婚できる」「~~したから、慰謝料が請求できる」というように、教条的に法を運用するのは、本来の法のあり方ではない。「良識ある妻が、夫と別れられなくて困っています。どうしたらいいでしょう」「良識ある人が、ひどいめにあって苦しんでいます。どうしたらいいでしょう」という問題が提起されたとき、法的正義が発揮される。法律が前に出てくる。
法は、決して、悪人の味方をしてはいけない。そういう意味でも、法律を、教条的に解釈するのは、たいへん危険なことでもある。
繰りかえすが、ああいう番組を見て、子どもたちが、法律というのはこういうものだと、まちがった先入観をもつのは、たいへん危険なことである。「法に触れなければ、何をしてもよい」というふうに、法を解釈するようになるかもしれない。あるいは法の抜け道をさがすようになるかもしれない。もし法律が、そういう形で利用されるようになったら、この世の中は、どうなる。小ズルイ悪人ばかりの世界になってしまう。それを、私は、「闇」という。
●良識ある善人を守るための法律が、良識ある善人を苦しめるための道具として機能するとき、その世界は、闇となる。(はやし浩司)
(はやし浩司 離婚 離婚事由 離婚論 法的正義 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 裁判員制度 陪審員制度)
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ついでにもう1作……
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【Independent Thinker】
●ひとりで考える人(Independent Thinker)
イギリスの哲学者でもあり、文学者でもあった、バートランド・ラッセルは、「宗教論(In Religion)」の中でつぎのように書いている。
Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life. It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown mean and women. Among children it is very common, and grows naturally out of the period of make-believe and fancy. It is rare in later life because everything is done to kill it during education... The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the minds of those who control the teaching of the young. Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create
教師の知恵をそのまま、受動的に受けいれるということは、ほとんどの少年少女に対しては、楽なことであろう。それには、ひとりで考えるindependent thoughtという努力をほとんど要しない。
また教師は生徒より、ものごとをよく知っているわけだから、一見、合理的に見える。それ以上に、この方法は、その教師が、とくにおかしなexceptional人でないかぎり、生徒にとっては、教師に気に入られるための方法でもある。
しかし受動的にものごとを受けいれていくという習慣は、そのあとのその人の人生において、大きな災いdisastrous oneをもたらす。その人は、リーダーを求めさせるようになる。そしてそれがだれであれ、リーダーとして、その人を受け入れることになる。
子どもには、精神的な冒険mental adventureをする喜びなどというものは、なく、それを理解する子どももほとんどいないし、ふつうの教育のもつ、貴族主義的なaristocratic教育のよさが、子どもには、わからないと言う人もいるかもしれない。
しかし私は、そんなことは信じない。精神的な冒険というのは、おとなたちよりも、若い人たちの間でのほうが、ずっとありふれたことである。幼児たちの間でさえ、ありふれたことである。
そしてその精神的な冒険は、幼児期の(ものを信じたり、空想したりする期間)the period of make-believe and fancyの中から、自然に成長する。むしろあとになればなるほど、すべてが教育によって、これがつぶされてkillしまうので、よりまれになってしまう。
若い人たちを教育する教師たちは、どうしても、未来を想像したいと願うより、過去を保全したいとい願いやすいdominates。子どもの教育は、死んだ事実を受動的に気がつかせることpassive awareness of dead facts,ではなく、私たちの努力がつくりあげる世界に向って、能動的に向わせることを目的としなければならないthe world that our efforts are to create。
バートランド・ラッセル(1872~1970)……イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者
++++++++++++++++++++はやし浩司
●精神的な冒険(mental adventure)
精神的な冒険……つまり、今まで経験したことがない世界に自分自身を置いてみて、そのときの精神的な変化を、観察する。そしてその中から、新しいものの考え方や、新しい自分を発見していく。
それはとても、おもしろいことである。
新しい発見に出あうたびに、「今まで、こんなことも知らなかったか」と驚くことがある。それが自分に関することなら、なおさらである。
その精神的な冒険について、バートランド・ラッセルは、「教育というのは、死んだ過去の事実を、子どもたちに気づかせることではなく、私たちが創りあげる、未来に向かって能動的に向わせることを目的としなければならない」(Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create)と書いている(「In Religion」)。
では、それを可能にする方法は、あるのか。そこでバートランド・ラッセルは、教育論の中で、「Independent Thought」という言葉を使っている。直訳すれば、「独立した思想」ということになる。もう少しわかりやすく言えば、「ひとりで、考えること」ということになる。
少し前、恩師のT先生が指摘した、「Independent Thinker」と、同じ意味である。訳せば、「ひとりで考える人」ということになる。
……こう書くと、「ナーンダ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。しかしそう思うのは待ってほしい。
「ひとりで考える」ということは、たいへんなことである。私たちは日常生活の中で、そのつど、いろいろなことを考えているように見える。しかしその実、何も考えていない。脳の表面に飛来する情報を、そのつど、加工しているだけ。それはまるで、手のひらで、頭をさすりながら、その頭の形を知るようなもの。
ほとんどの人は、その「形」を知ることで、脳ミソの中身まで知り尽くしたと錯覚する。しかしその実、何もわかっていない。
それがわからなければ、北海道のスズメと、沖縄のスズメを、見比べてみることだ。それぞれが、別々の行動をしているように見える。一羽のスズメとて、同じ行動をしていない。が、その実、(スズメ)というワクを、一歩も超えていない。
つまり私たち人間も、それぞれが自分で考えて行動しているように見えるが、その実、(人間)というワクを、一歩も超えていない。北海道のオバチャンも、沖縄のオバチャンも、電車に乗ると、世間話に、うつつをぬかす。大声でキャーキャーと騒ぎながら、弁当を食べる。
つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれないということ。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、そのワクを踏み超えなければならない。
しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメというワクを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先に巣をつくらないで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。
人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)の条件ということにもなる。
恩師のT先生は、科学(化学)研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)の重要性を説いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。バートランド・ラッセルは、それを指摘した。
ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、ありふれた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽なこと。しかしそのワクを超えることは、たいへんなことである。
しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味がある。私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰りかえしているだけ。
もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たちも、若いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言った。
するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。
本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事実は、私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。やがて君も母親になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。つまり繰りかえしているだけだよ。
もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなければならない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。
しかしこれは私自身のテーマでもある。
ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。私の家の近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、自分の人生を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前と同じ生活を繰りかえしているだけ。
もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとしたら、そのままつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。
死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むことである。
ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いている。
私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろんその女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、そうした。
たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の心をキズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさらけ出す勇気を、自分のものにすることができた。
だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでいくというのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そしてそのつど、さらにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知る。
はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そしてそのあと、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、Independent Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこに何か、目には見えない糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。
そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。
(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人))
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ところで京都府に住んでいる、SEという方から、
こんなメールが届いています。
「考える」ことについて、最近の大学生
たちの姿勢を、このメールから読みとって
いただければ、うれしいです。
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はやし先生
先日、T先生のご論文を配信いただきましてから、自分で考える教育と
大学教育について、しばらく考えておりました。考えているうちに、いささか
愚痴めいてまいりました。限界はありながらも、その中で自分の最善を尽く
さねばと思うのですが、はやし先生はいかが、思われますでしょうか。
大学教育の現場では以前から、自分で考える力の不足と基礎概念の
理解の不足が問題とされています。
詰め込み教育の弊害と言った場合、「基礎概念は入っているが、それを操作
できない状態」を言うようなイメージがありますが、現場からは、
(1)基礎概念が入っており、その操作もできる学生
(2)基礎概念は入っているが、その操作はできない学生
(3)基礎概念の理解が不十分な学生。ひどい場合には、専門用語を単語
として知っているだけ
(4)専門用語を全く知らない学生(学習意欲に、何がしかの問題がある)
と、いくつかの場合が、がみられます(もっと細かくできるかもしれませんが)。
(4)に関しては、「受験競争」を中心に据えられた日本の教育制度の弊害も
現れているのではないかと思われますが、
(1)から(3)に関しては、自分で考える力にも相当の段階があって、
基礎概念の定着においても、自分で考える力が大きな役割を演じている
ということが言えるように思います。(概念の論理を自分で追わないといけない
からだろうと思われます)。
大学側も、対話による授業というものを推奨するようになってきましたが、
基礎概念までも対話で教えろと言うに至っては、なにやらゆとり
教育や総合的学習を想起せざるものがあります。
そこで、大学教育において、何ができるのかですが、何より大切なのは、
T先生がお書きのように、教師が自分で考える姿勢を見せるという
ことなのだと思います。
「考える教育」への転換をゼミだけで行なうのはやはり限界があるようです。
かといって現状の大学を前提にする限り、大講義では学生との応答を主にする
のは不可能ですから、教師の見解を明確に示し、考えることの重要性を絶えず
発信するにとどまるのかもしれません。大学だけで何とかできると考えるのは
傲慢ですから、限界を認めざるを得ないのかもしれませんね。
基礎知識の重要性を軽視するわけではありませんが、基礎概念の理解にも関って
来るわけですから、「考える」ということの意義をもっと早くから教えるべきで
はないのかと、切に感じます。
いささか愚痴めいて参りました。
現在新学期の講義の準備をしているのですが、どうしたら「考えさせる」ことができるか、
考えながら準備をしております。
素直な学生たちなので、できるだけのことをしてあげたいと思います。
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【SE様へ】
実は、私も、法科の出身です。教壇に立っておられるSEさんの話を聞きながら、「私もそうだったのかなあ?」と、当時を思い出しています。
とくに法学の世界では、基礎概念の「移植」が、絶対的なテーマになっていますから、そもそも独創的な考え方が許されないのですね。「構成要件の該当性」とか、何とか、そんな話ばかりでしたから……。
ですからSEさんの、悩んでおられることは、もっともなことだと思います。
しかし、ね、私、オーストラリアにいたとき、東大から来ていたM教授(刑法の神様と言われてしました)とずっと、いっしょに、行動していました。奥さんも、弁護士をしていました。
たいへん人格的にも、高邁な方でしたが、私はその教授と行動をともにするうちに、法学への興味を、ゼロに近いほど、なくしてしまいました。
もともと理科系の頭脳をもっていましたから……。何となく無理をして、法学の世界へ入っただけ……という感じでした。それで余計に早く、法学の世界を抜け出てしまったというわけです。
そのM教授ですが、本当に、まじめというか、本当に、研究一筋というか、私とはまったく、タイプがちがっていました。そういうM教授のもとで、資料を整理したりしながら、「私はとても、M教授のようには、なれない」と実感しました。
で、M教授のことを、恩師のT先生も、よく知っていて、ずっとあとになって、その話をT先生にすると、「そうでしょうねえ。あの先生は、そういう方ですから」と笑っていました。学部はちがっても、教授どうしは、教授どうしで、集まることもあるのだそうです。
話をもどしますが、SEさんが、言っていることで、興味深いと思ったのは、こうした傾向というのは、すでに高校生、さらには、中学生にも見られるということです。
たとえば中学生たちは、成績に応じて、進学高校を決めていきます。そして高校生の80~90%前後は、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選び、進学していきます。夢や目標は、とうの昔に捨てているわけです。
もちろん希望も、ない。
だから大学へ入っても、法学の世界でいえば、法曹(検事、弁護士、裁判官)になりたいという学生もいますが、大半は、ずっとランクの下の資格試験をねらう。いわんや、純粋法学をめざして、研究生活に入る学生は、もっと少ない(?)。
このあたりの事情は、SEさんのほうが、よくご存知かと思います。
つまりですね、もともと、その意欲がないのです。「学ぶ」という意欲が、です。ただ私のばあいは、商社マンになって、外国へ出るという、大きな目標がありました。(当時は、外国へ出るというだけでも、夢になるような時代でした。今では、考えられないと思いますが……。)
そのための法学であり、成績だったわけです。おかげで、「優」の数だけは、学部で二番目。行政訴訟法だけ落としてしまい、司法試験をあきらめた経緯もあります。成績はよかったから、I藤忠と、M物産に入社が内定しました。そのあと、オーストラリアとインドの国費留学生試験にも合格しました。
(結果として、オーストラリアのM大へ留学し、そのあとM物産に入社しました。)
まあ、自分としては、オリンピック選手まではいかないにしても、国体選手のような活躍をした時代だったと思います。
が、何しろ、法学を選んだのが、まちがいでした。私は、子どものころから大工になりたかった。大学にしても、工学部の建築学科に進みたかった。そういう男が、法学ですから、役割混乱もいいところです。もうメチャメチャでした。
ですからSEさんのメールを読みながら、私はそういう意味では、器用な男でしたから、(1)のタイプかもしれませんが、こと法学に関しては、自分で考えるという姿勢は、まったくなかったと思います。
私にとっては、法学というのは、方程式のようなもので、無数の定義をくっつけながら、結論(解)を出していく……。それが私にとっての法学だったような気がします。(ご存知のように、勝手な解釈をすること自体、法学の世界では許されませんから……。)
テレビ番組の「行列のできる法律相談所」を見ながら、今になって、「結構、おもしろい世界だったんだなあ」と感心しているほどです。)
ただSEさんが、ご指摘のように、対話形式の講義というのは、英米法の講義では、ふつうだったように思います。教授が、あれこれと質問をしてきます。質問の嵐です。よく覚えているのは、こんな質問があったことです。
「カトリック教会の牧師たちは、小便のあと、3度までは、アレ(Dick)を振ってもよいそうだが、4度はダメだという。それについて、君は、どう思うか」とか、など。
そういうところから(教条)→(ルール)→(法)へと、学生を誘導していくのですね。ハハハと笑っている間に、講義だけはどんどんと進んでいく。
また日本の法学の講義とはちがうなと感じたのは、それぞれの教授が、ほとんど、法学の話などしなかったこと。(私の英語力にも限界がありましたが……。)「貧困」だとか、「公害」とか、そんな話ばかりしていたような気がします。
日本の短期出張(=単身赴任)が、話題になったこともあります。つまり基礎法学は、自分で勉強しろという姿勢なのですね。学生たちは、カレッジへもどり、そこで先輩たちから講義を受けていました。
自分のことばかり書いてすみません。何かの参考になればと思い、書きました。
以上のことを考えていくと、結局は、結論は、またもとにもどってしまいます。T先生は、つぎのように書いています。
「日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が、なぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る」と。
つまりは教育の自由化、ですね。子どもたちがおとなになるためのコースを、複線化、複々線化する。ドイツやイタリアでしていることが、どうして、この日本では、できないのでしょうか。
このがんじがらめになったクサリを解かないかぎり、SEさんの問題も含めて、日本の教育には、明日はないということではないでしょうか。
返事になったような、ならないような、おかしな返事になってしまいましたが、どうか、お許しください。
今日はワイフが風邪気味で、ひとりで5キロ散歩+自転車で7キロを走りました。そのあと、昼寝。夕方になって、頭が少しさえてきました。頭のコンディションを保つだけでも、たいへんです。ますます使い物にならなくなってきたような感じです。
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