Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, January 19, 2009

*Jealousy

●嫉妬(ねたみ)



 今日、ワイフと、嫉妬(ねたみ)について、話しあった。「嫉妬深い人ほど、それだけ心がせま
いということかもね」と、私が話したのがきっかけだった。



 「私」があれば、他人のことなど、気にならないはず。「私」がないから、人をねたんだり、うら
やましがったりする。



 そうして考えてみると、嫉妬する人というのは、その「私」が、ない人ということになる。こんな
事例がある。少しこみいった話だが、こうだ。



+++++++++++++++++



 A氏(60歳)は、かなりの財産家。郊外にだが、数十件の借家をもっている。そのA氏には、
二人の息子がいる。X氏(38歳)と、Y氏(35歳)である。その長男X氏の妻が、Bさん(35
歳)。



 A氏(義父)とBさん(嫁)は、それなりに仲がよかった。が、昨年、異変が起きた。



 一生、独身のままで、結婚しないだろうと思っていた、弟のY氏が、突然、結婚。そのままY氏
夫婦は、A氏と同居することになった。それまでA氏と、X氏、Y氏は、それぞれ別々のところに
住んでいた。



 Bさんは、Y氏が結婚したその日から、A氏の家に寄りつかなくなってしまった。理由は言わな
いが、A氏は、こう言う。



 「私が、Yの嫁ばかりをかわいがるから、やきもちを焼いているのでしょう」「孫(年長児)にも
会いたいが、Bが、会わせてくれない」と。



 しかし内情は、もう少し複雑のようだ。



 X氏とBさんは、見あい結婚。ハキのないX氏とBさんを、父親のAさんが、どこか無理に結婚
させたようなところがあった。そのBさんが、X氏と結婚したのは、X氏の財産が魅力的だった
からである。最初はそうではなかったのかもしれないが、いろいろあって、やがてBさんは、X氏
の財産をアテにするようになった。



 A氏は、折につけ、Bさんに、高額なものを買い与えた。外車も買い与えたことがあるというか
ら、ハンパではない。



 そういうとき、Y氏が結婚した。Y氏の妻は、Bさんにとって、強力なライバルということになる。
しかもY氏の妻は、あろうことか、Bさんをさておいて、実家にあがりこんだ。とたん、Bさんは、
嫉妬。「長男である、私の夫のほうこそ、実家に入るべきだ」と騒いだ。



+++++++++++++++++++



 この事例は、この先、こじれるかもしれない。親子でも、財産問題がからむと、こじれる。そこ
に嫁がからむと、さらにこじれる。こういう例は、多い。



 まずBさん(X氏の妻)の立場で、考えてみよう。



 Bさんは、X氏と結婚したときは、それなりに夢や希望があったのかもしれない。しかしやが
て、X氏(夫)との結婚生活に、幻滅するようになった。「こんなはずではなかった」と思うように
なった。



 一時は、離婚まで考えたが、そのとき、すでに、子どもは1歳になっていた。



 が、この時点で、祖父母(A氏夫婦)が、その孫を溺愛するようになった。季節の祝いごとが
あると、A氏は、それをハデに祝った。



 そしてBさんが、「幼稚園の送迎用の車がない」とこぼすと、A氏は、外車を買い与えた。「外
車のほうが、事故を起こしても、安全だから」と。



 そのころから、Bさんは、子ども(A氏の孫)を利用して、A氏の財産を、操作するようになっ
た。「子ども部屋がない」と言って、家の改築費を、A氏に出させたこともある。



 そんなとき、予想に反して、夫の弟(Y氏)が結婚した。電撃的な結婚だった。そしてそのま
ま、A氏とY氏夫婦は、A氏の家で、同居することになった。



 Bさんにしてみれば、ゆくゆくは、A氏の財産は、すべて、自分のものになると思っていた。
が、ここで思惑が、大きく、はずれた。



 Bさんは、Y氏の妻に、はげしく嫉妬するようになった。Y氏の妻が、新しい服を買うたびに、そ
れをねたましく思った。



+++++++++++++++++++



 嫉妬心というのは、状況に応じて、心の奥底から、顔を出すもの。ふだんは、心の奥底に隠
れていて、外からは見えない。



 このことは、赤ちゃんがえりと言われる、子どもの症状を見ていると、わかる。それまではそう
でなかった子どもが、下の子どもが生まれたことなどをきっかけに、赤ちゃんがえりを起こすよ
うになる。



 このとき、その赤ちゃんがえりという症状は、どこから来るのか? それとも新しく生まれる感
情なのか?



 実は、こうした嫉妬心は、人間が、広く、心の奥に内在するものである。それが何かのきっか
けで、外に出てくる。



 そこで子育てで、重要なことは、こうした嫉妬心を、いじらないということ。刺激しないというこ
と。



 へたにいじったり、刺激したりすると、それが外に現れてくる。そして一度、現れると、その嫉
妬心は、いろいろな場面で、現れやすくなる。



++++++++++++++++++++



 嫉妬心をコントロールするものは、自己意識ということになる。



 だれにでも、嫉妬心はあるにせよ、その嫉妬心を、決して、それがあなたを操るままにさせて
はいけない。その嫉妬心を抑制し、コントロールするのが、自己意識ということになる。



 それまでのBさんは、夫に不満はあったものの、義父のA氏とは、それなりにうまくやってい
た。



 が、夫の弟のY氏が結婚した。夫の実家に住み始めた。とたん、燃えるような嫉妬心が、Bさ
んの心を包んだ。



 ……というほど、単純なものではないかもしれない。が、本来なら、ここで、Bさんは、自分の
心をコントロールしなければならない。



 A氏の財産にしても、Bさんには、相続権はない。Bさんが結婚した相手は、X氏であって、A
氏ではない。本来、その結婚には、A氏の財産は、関係なかったはずである。



 が、Bさんは、自分の立場を、そういうふうに簡単に割り切ることができなかった。そしてどこ
か混ぜん一体となった形で、嫉妬するようになった。



 しかし、Bさんは、だれに対して、嫉妬したのか?



 この問題には、もっと、別の問題が含まれる。



++++++++++++++++++++



 赤ちゃんがえりを例にとって考えてみよう。



 赤ちゃんがえりが、原罪的な嫉妬心が原因によって起こるものだとしても、では、その子ども
は、だれに対して、嫉妬しているのかということになる。



 母親か? 下の子どもか?



 しかしもともと嫉妬は、自分内部の欲求不満が原因となって、起こると考えられる。下の子ど
もが生まれたことによって起こったといっても、それはきっかけにすぎない。



 Bさんは、はげしい嫉妬心を覚えたとしても、それはA氏や、Y氏、Y氏の妻に対してではな
い。Y氏の結婚が引き金にはなったが、しかしY氏の妻に嫉妬したのではない。



 これから先、満たされない欲求への不満感や、不安感が、原因と考えるべきである。



 ……少し話が、こみいってきたので、つづきは、また別に考えることにして、Bさんが感じた嫉
妬は、コントロール可能なものであった。コントロールできなくなったから、嫉妬が嫉妬として、
外に現れるようになった。



+++++++++++++++++++



●嫉妬心をコントロールする

 

 嫉妬心をコントロールすることは、はたして可能なのか。



 よく知られた、原罪的な嫉妬心に、鳥の嫉妬心がある。



 私の庭では、よく野生のハトが、巣をつくる。そしてたいてい二羽のヒナをかえす。そのヒナが
やがて巣立ち近くになると、一羽のヒナが、もう一羽のヒナを、巣から、追い出してしまう。



 追い出すというよりは、突き落とすというべきか。多分、親鳥のいないときを見はからって、そ
うする。落とされたヒナは、まだじゅうぶん飛べない。そのままネコや犬に襲われて死ぬ。



 こうした原罪的な嫉妬心は、実は、人間にもあるらしい。より優勢な子孫を後世に残したたい
という、本能的なプログラムが、脳にインプットされているためと考えられる。



 で、問題は、そうした原罪的な、嫉妬心は……それを嫉妬心と言ってよいかという問題もある
が、そういう嫉妬心は、人間の意思によって、コントロールできるかどうかということ。



 性欲や食欲とならんで、嫉妬心も、もし本能的なプログラムによるものだとするなら、ことはや
っかいである。簡単にはコントロールできないし、へたに扱い方をまちがえると、人間性そのも
のまで狂わす。



 ……となると、やはり嫉妬心というのは、いじらないほうがよいということになる。とくに子ども
が乳幼児のときはそうで、子どもの心が定着するまで、おだやかで、静かな子育てを大切にす
る。



 ……ということで、この問題は、ここまで。この先は、また別のところで考えてみたい。



 嫉妬には、大きな問題が隠されている。人間の本性全体にかかわるような大きな問題といっ
てもよい。それが今日、わかった。

(040727)

(はやし浩司 嫉妬 嫉妬心 嫉妬論)









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●心のコントロール



●代償的利他



 人は、人を愛することで、利他を学ぶ。愛するから、相手の立場で、ものを考え、そしてその
相手を喜ばすことを考える。



 利他の心は、こうして生まれる。育つ。



 このことは、若い母親の変化を観察していると、わかる。



 子どもが生まれる前まで、かなり利己的だと思われる女性でも、子どもが生まれると、変る。
いつくしみの心が生まれる。



 子どもを、いとおしむという姿勢が転じて、利他の心を学ぶ。



 そういう意味でも、親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。



 しかしここで誤解してはいけないのは、利他というのは、他人の欲望を満足させるものであっ
てはいけないということ。つまり利己の代償として、利他であってはいけないということ。



 たとえばあなたが、ブランドのバッグがほしかったとする。そのとき、自分でそれを買うのをが
まんして、まだ中学生の娘に、そのバッグを買ってあげたとする。しかしそれは、利他ではな
い。



 娘を利用しただけである。



そのときあなたは、「娘は、それで満足しているはず」「喜んでいるはず」「親の私に感謝してい
るはず」と考えがちだが、それはあなたの自己満足にすぎない。つまり娘の満足する様子を見
ながら、自分の満足感を充足しただけである。それを楽しんだだけである。



 これを私は、勝手に、「代償的利己」と呼んでいる。



 こういう例は多い。よく知られた例として、子どもの受験勉強に狂奔する親がいる。親は、「子
どものため」と思っているかもしれないが、親は、自分の不安や心配を解消する道具として、子
どもを利用しているだけ。あるいは中には、自分が果たせなかった、夢や希望を、子どもに押
しつけているだけというケースもある。



 一見、利他に見えるかもしれないが、利他ではない。代償的利己である。



 利他といっても、相手の欲望を満足させるものであってはいけない。ほかによくある例として
は、リッチな祖父母が、孫のかわいさに負けて、高価なものを買い与えるというのがある。



 数万円もするような洋服を、孫の女の子に買い与えたり、同じく数万円もするようなゲームセ
ットを、孫の男の子に買い与えたりする。



 一見、利他に見えるが、自分がかわいいと思う心を、それによって、満足させているだけ。あ
るいは孫を自分に、手なづけているだけ。つまり代償的利己である。



 利他というのは、同情心、共鳴心、協調心などによって決まる。いかに相手の立場で、苦しみ
や悲しみを共有できるかによって決まる。キリスト教の世界では、それを「愛」といい、仏教の
世界では、それを「慈悲」という。



 話はそれたが、親は、子どもの立場でものを考えることによって、利他の心を学ぶ。言うまで
もなく、その人の精神の完成度は、いかにその人が利他的であるかによって決まる。



 より利他的な人を、精神の完成度の高い人という。より利己的(自己中心的)な人を、精神の
完成度の低い人という。



 いくら裏切られても、相手の立場でものを考える。いくら失望をさせられても、相手の立場でも
のを考える。そういう姿勢の中から、利他の心ははぐくまれる。



 やがて数年もすると、子どもをもつ母親は、子どもをもっていない女性と、はっきりと区別がで
きるほど、ちがってくる。程度のちがいはあるが、親は子育てを通して、利他の心を学ぶ。つま
り精神的な完成度がちがってくる。



【補記】



 相手の欲望を満足させてやることは、利他ではない。それは自分の欲望を満足させることよ
りも、罪深いことである。



 ここにも書いたように、子どもがほしがりそうなものを、あるいはほしがっているものを、買い
与えるのは、利他ではない。利己の代償(代わりのもの)としてするから、「代償的利己」と、私
は呼んでいる。



 モノを買い与えれば、子どもは喜ぶはず、感謝するはず、親子のパイプは太くなるはずと、多
くの親は考えがちである。



 しかしこれは誤解。むしろ人間関係そのものを破壊する。



 利他というのは、あくまでも心の問題。相手の立場で、悲しみや苦しみを分けもつことを、利
他という。くれぐれも、誤解のないように。



 なお、欧米では、この利他精神が、日本よりも、生活のすみずみにまで、根をおろしている。



 たとえば庭をつくるときも、日本人は、その美を、自分だけの世界に取り込もうとする。具体
的には、庭を高い塀でぐるりと囲み、自分だけが楽しめるようにする。



 一方、欧米では、外の通りから歩く人の視点において、庭づくりをする。地域全体の景観を考
えながら、家づくりをするところも多い。



 こうした文化のちがいを、「押す文化(欧米)と引く文化(日本)」のちがいという視点で、説明
する人もいる。



 そういうこともあって、ボランティア活動一つとっても、日本と欧米では、質的にも大きなちが
いがある。それについては、また別の機会に考えてみたい。





●闘争心と嫉妬心



 目の前で、ヘビが車にひかれた。バリッという、どこか骨がくだけたような音がした。瞬間「死
んだ」と、私は思ったが、そのヘビは、そのままUターンして、木の植え込みの中に、消えた。



 生命力のものすごさというか、そのヘビの生への執着心に驚いた。



 私はこうした(生存欲)というのは、広く、あらゆる動物にあると思う。またそれがあるからこ
そ、10万年単位の長い年月を、こうして生き延びることができた。



 人間も、例外ではない。



 その生存欲は、そのときどきに応じて、さまざまな形に姿を変える。たとえばそれが、プラス
の方向に向けば、攻撃心や闘争心になり、マイナスの方向に向けば、復讐心や嫉妬心にな
る。生存欲を原点に考えれば、闘争心も嫉妬心も、方向性がちがうだけで、中身は、同じとい
うことになる。



 (生存欲そのものが、弱くなるばあいもある。それについては、ここでは考えない。)



 一見、突飛もない意見に思う人もいるかもしれないが、こういう例は、多い。一見、複雑に見
える人間の心理だが、そのもとをただせば、単純なもの……。私はそれを、勝手に「原始心
理」と呼んでいる。



 たとえばミミズを見てみよう。



 私はあるとき、庭をはって移動しているミミズを見つけた。そこでそのミミズの頭を、棒の先
で、つついてみた。とたんミミズは、危険を感じて、体をちぢめた。防御体勢である。



 そのミミズは、体をちぢめることによって、自分を守ろうとした。しかしそのパターンは、引きこ
もりをする子どもの心理、そのものと言ってもよい。心理学の世界にも、「防衛機制」という言葉
がある。外の世界と、自らを遮断することによって、自分の心を守ろうとする。



 ……と考えていくと、嫉妬心を、それなりに位置づけて考えることができる。たとえば嫉妬心
は、生存欲の変形したものであると考える、とか。



 嫉妬に狂って、相手をとことん恨んだり、苦しめたりする人がいる。子どものいじめにしても、
嫉妬が原因で、相手をいじめるというケースも、少なくない。こうした嫉妬のエネルギーは、とき
として、想像を絶する力を発揮する。



 少し前、こんな事件が、ある国で起きた。



 ある資産家の家の娘(当時5歳)が、何ものかによって、性的ないたずらをされて殺されると
いう事件である。



 その家には、事件当時、父親と母親、それに11歳になる、息子がいた。息子は、父親のつ
れ子であった。父親は再婚、殺された女の子は、再婚した女性との間にできた子どもだった。



 外部からだれかが侵入したという形跡はない。地下室の窓ガラスが割られていたが、それは
外部から、強盗か何かが侵入したと見せかけるために、だれかがあとでした、偽装工作だった
ということがわかった。



 当初、父親が犯人として疑われた。いろいろな偽装工作が明るみになったからである。しか
もDNA鑑定の結果、父親の遺伝子と、娘の体に付着していた精子の遺伝子が、ほぼ一致し
た。



 が、捜査は、難航。結局、この事件は、迷宮入りになってしまった。



 この事件は、その国をひっくりかえすほど、連日連夜報道されたので、ご存知の方も多いは
ず。殺された娘の名前をとって、「N事件」と呼ばれた。



 常識で考えれば、犯人は、家族の中のだれかということになる。精子のDNAが一致したこと
から、父親か、もしくは?。



 しかし最初から、11歳の息子については、だれも疑わなかった。疑った人はいたかもしれな
いが、それを口にする人はいなかった。一方、その夫婦は、だれかをかばうように、捜査に
は、きわめて非協力的な態度をとりつづけた。



 しかし……。



 ごく一般論として、嫉妬がからむと、人は、相手を殺す寸前までのことをする。実際、殺してし
まうこともある。



 兄弟、姉妹の間でも、同じような事件が起きることがある。とくに、昔から、『年齢の近い姉妹
は、憎しみ相手』ともいう。私の知っている姉妹の中には、一人の男性(恋人)を取りあって、壮
絶な戦争を繰りかえした人もいる。



 しかしなぜか、そのN事件では、最後まで、11歳の息子が、捜査線上にのぼることはなかっ
た。なぜか? 11歳といえば、性的には、かなりのところまで成長する。ちょうどはじめて、夢
精や射精を経験する年齢でもある。



……という問題はさておき、つまりだれが犯人であるかということは、さておき、嫉妬心がみせ
る、ものすごいエネルギーは、ふつうではない。そのふつうでないところが、闘争心に似てい
る。



 親の前では、弟思いのやさしい兄を演じながら、その裏で、弟を殺す寸前までのいじめを繰り
かえしていた子どもがいた。弟を逆さづりにして、頭から落したり、チョークをお菓子だと偽っ
て、弟に食べさせたりするなど。



 私は、そのN事件では、11歳の息子をもっと疑ってみるべきだったと思っているが、これ以
上のことは、ここには書けない。ただ嫉妬に狂った兄が、性的いたずらをしたあと、妹を殺した
という事件であっても、私は、驚かない。



 嫉妬心には、そういう力がある。



 そこで大切なことは、ふたつある。ひとつは、嫉妬するにしても、そのエネルギーを、何らかの
形で、別方向に向けていくということ。もうひとつは、嫉妬をコントロールするだけの自己意識を
高めるということ。



 嫉妬心を、前向きな向上心や、攻撃力に変化できれば、最善である。つぎに、自分の感情を
いかにすれば、コントロールできるかということ。感情のコントロールができない人のことを、情
緒の未熟な人といい、コントロールできる人のことを、情緒の完成度の高い人という。



 嫉妬心というと、それが悪いという前提で、ものを考えやすい。しかし、そうとばかりとは言え
ないのではないか……、というのが、ここでの結論ということになる。



 嫉妬については、さらに、この先、深く考えてみたい。





●感情のコントロール



 私は、若いころから、自分の中の二重人格性に苦しんだ。今も苦しんでいる。



 やさしくて、ひょうきんで、さみしがり屋の私。これをはやし浩司Aとする。



 合理的で、不平不満だらけ、孤独に強い私。これをはやし浩司Bとする。



 ふだんは、はやし浩司Aが優性。ときどきはやし浩司Bになっても、心のどこかではやし浩司
Aが、それをながめていて、「よせ、よせ。今のお前は、本物のお前ではない」などと、声をかけ
る。



 はやし浩司Aは、冗談好きで、めんどくさがり屋。細かい作業が苦手。が、はやし浩司Bは、
短気で、破滅的。行動力はあるが、心は冷たい。



 こういう私だから、もう一人の自分をつくる必要があった。二人の私を、さらに別のところから
監視し、コントロールする私である。これをはやし浩司Cとする。



 そのはやし浩司Cに気づいたのは、講演をしているときのことだった。



 講演中というのは、いつも二人の私が、そこにいる。一人の私は、講演をする。話す。が、も
う一人の私が、その上にいて、私にこう命令する。「残り時間は、あと30分だ。あの話とこの話
はやめて、もっと別の話をしろ」「あと10分だ。そろそろ結論を話せ」と。



 私をいつも客観的に見つめながら、私をコントロールする私。それがはやし浩司Cということ
になる。



 そのはやし浩司Cの重要性に気づいたのは、ごく最近のことである。このはやし浩司Cこそ
が、自己意識による私ということになる。もろもろの感情のコントロールは、このはやし浩司C
がする。



 はやし浩司Aになったときも、はやし浩司Bになったときも、別のどこかにいて、私をコントロ
ールする。



 ところで、どういうとき、私が、はやし浩司Aからはやし浩司Bになるか? 私のばあい、精神
的にたいへん疲労しやすい。そういう欠点がある。決して、タフではない。不愉快な人と会って
いると、ものの半時間で、ヘトヘトに疲れてしまう。



 その疲れたとき、はやし浩司Bが、ムラムラと顔を出す。



 おもしろいと思うのは、前頭部が重くなること。実際、手でさわってみると、少し熱くなっている
のがわかる。そして一度熱くなると、はやし浩司Aにもどったあとも、この部分がどこか重ぼっ
たい。そしてそれが1、2日間、つづく。



 どちらにせよ、感情は、はやし浩司Cがコントロールする。何かのことで、情緒が不安定にな
ったときは、できるだけはやし浩司Cを、外に呼び出すようにする。決して、感情のおもむくま
ま、行動してはいけない。



 とくに気をつけているのは、はやし浩司Bである。自分でも、それがわかっているから、そうい
うときは、ぜったいに、何かの結論を出さないようにする。口を閉ざして、静かにする。できるだ
け、人との交際も避ける。でないと、そのあと、いつも後悔することになる。











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●コア・アイデンティティ



 自己同一性のことを、アイデンティティという。(もともとは、アイデンティティを、「自己同一性」
と翻訳した。)



 自己同一性とは、その言葉どおり、自分の同一性をいう。



 たとえば「私」。私の中には、私であって、私である部分と、私でない部分がある。その私であ
って私である部分が、本来の「私」。その私が、そのままストレートに、外の世界へ出てくれば、
よし。そうでないときに、いろいろな問題が起きる。



 (あるいは問題があるから、ストレートに出てこないということにもなる。)



 その「私」の中でも、他人と比較したとき、きわだって、私らしい部分が、ある。これを、「コア
(核)・アイデンティティ」という。



 しかし、自分でそれを知るのは、むずかしい。私がどんなアイデンティティをもっているかとい
うことを知るためには、一度、視点を、自分の外に置かねばならない。他人の目をとおして、自
分を見る。ちょうど、ビデオカメラか何かに、自分の姿を映して見るように、である。



 そこで、反対に、つまり自分のアイデンティティを知るために、他人のアイデンティティを、観
察してみる。



 子どものばあい、このアイデンティティのしっかりしている子どもは、「この子は、こういう子ど
もだ」という輪郭(りんかく)が、はっきりしている。「こうすれば、この子は、喜ぶだろう」「怒るだ
ろう」「こう反応するだろう」ということが、わかりやすい。



 この輪郭というか、つかみどころを、「コア(核)」という。



 そうでない子どもは、輪郭が、どこか軟弱で、わかりにくい。つかみどころがなく、予想がつか
ない。何を考えているか、わからない。



 たとえばある子ども(年中児)が、ブランコを横取りされたとする。そのとき、その横取りされた
子どもが、横取りした子どもに向かって、「おい、ぼくが乗っているではないか!」「どうして、横
取りするのだ!」と、一喝する。ばあいによっては、取っ組みあいのけんかになるかもしれな
い。



 そういう子どもは、わかりやすい。心の状態と、外に現れている様子が、一致している。つま
り、自己の同一性が守られている。



 が、このとき、中には、柔和な笑みを浮かべたまま、「いいよ」「貸してあげるよ」と言って、ブ
ランコを明け渡してしまう子どもがいる。



 本当は貸したくない。不愉快だと思っている「私」を、その時点で、ねじまげてしまう。が、表面
的には、穏やかな顔をして、明け渡す。……つまり、ここで本来の「私」と、外に現れている
「私」が、別々の私になる。不一致を起こす。



 一時的な不一致や、部分的な不一致であれば、問題ではない。しかしこうした不一致が日常
的に起こるようになると、外から見ても、いったいその子どもはどんな子どもなのか、それがわ
からなくなる。



 ときには、虚飾と虚栄、ウソとごまかしで、身を包むようになる。世間体ばかりを気にしたり、
見栄や体裁ばかりを、とりつくろうようになる。



 この時点においても、意図的にそうしているなら、それほど、問題はない。たとえばどこかの
商店主が、客に対して、そうする、など。しかし長い時間をかけて、それを日常的に繰りかえし
ていると、その人自身も、自分でわけがわからなくなってしまう。自己の同一性が、ここで大きく
乱れる。



 そこで問題は、私(あなた)自身は、どうかということ。



 私は私らしい生き方をしているか。私はありのままの私で、生きているか。本当の私と、今の
私は、一致しているか。さらに「私は私」という、コアを、しっかりともっているか。



 くだらないことだが、私は、そのアイデンティティの問題に気づいた事件(?)にこんなことがあ
る。



 実は、私は、子どものころから、台風が大好きだった。台風が自分の住んでいる地方に向っ
てくるのを知ったりすると、言いようのない興奮に襲われた。うれしかった。



 しかしそれは悪いことだと思っていた。だからその秘密は、だれにも話せなかった。とくに(教
師)という仕事をするようになってからは、話せなかった。台風が近づいてくるというニュースを
聞いたりすると、一応、顔をしかめて、「いやですね」などと言ったりしていた。



 つまりこの時点で、本当の私と、表面に現れている私は、不一致を起こしていたことになる。



 が、こんなことがあった。



 アメリカ人の友人が、こう言った。彼はそのとき、すでに日本に、5、6年住んでいた。私が50
歳くらいのときのことである。



 「ヒロシ、ぼくは台風が好きだよ。台風が、浜松市へくるとね、(マンションの)ベランダに椅子
を出して、それに座って台風を見ているよ。ものが、ヒューヒューと飛んでいくのを見るのは、実
に楽しいよ」と。



 私は、それを聞いて、「何~ダ」と思った。「そういうことだったのか」と。



 そのアメリカ人の友人は、自分の心を実にすなおに表現していた。そのすがすがしさに触れ
たとき、それまでの私が、バカに見えた。私は、台風についてですら、自分の心を偽っていた。



 何でもないことだが、好きだったら、「好き」と言えばよい。いやだったら、「いやだ」と言えばよ
い。そういう「私」を、すなおに外に出していく。そしてそれが、無数に積み重なり、「私」をつくり
あげていく。



 それがアイデンティティである。「私」である。



 さて、あなたはどうだろうか? 一度、あなた自身を、客観的に見つめてみるとよい。なお、こ
のアイデンティティが、乱れると、その人の情緒は、きわめて不安定になる。いろいろな情緒障
害、さらには精神障害の遠因になる。よいことは何もない。



 そうであっても、そうでなくても、自分をすなおに表現していく。それはあなた自身の精神生活
を守るためにも、とても重要なことである。



 さあ、あなたも今日から、勇気をもって、「YES」「NO」を、はっきりと言ってみよう。がまんす
ることはない。とりつくろうことはない。どこまでいっても、私は私だ。あなたはあなただ。



【心理学でいう、アイデンティティ】 



 心理学でいう「アイデンティティ」とは、(私らしさ)の追求というよりは、(1)「自分は、他者とは
ちがうのだ」という独自性の追求、(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間で
ある」という統合性の容認、(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という一貫性の維持
をいう。



 こうしたアイデンティティを、自分の中で確立することを、「アイデンティティの確立」という(エリ
クソン)。



 ただ注意しなければならないのは、こうしたアイデンティティは、他者とのかかわりの中でこ
そ、確立できるものだということ。



 暗い一室に閉じこもり、独善、独尊の世界で、孤立することは、アイデンティティではない。
「私らしさ」というのは、あくまでも、他者あっての「私らしさ」ということになる。



【補記】



 仮にアイデンティティを確立したとしても、それがそのまま、その人の個性となって、外に現れ
るわけではない。ストレートに、そのアイデンティティが外に出てくる人もいれば、そうでない人も
いる。



 たとえば今、コップの中に、色水が入っているとする。その色水は、うすいブルー色であると
する。



 もしこのとき、コップが、無色の透明であれば、コップの外からでも、色水は、うすいブルー色
に見える。



 しかしもしコップに、黄色い色がついていたりすると、コップの中の色水は、グリーンに見える
かもしれない。



 このとき、コップの中の色水を、「真の私」とするなら、外から見える私は、「ニセの私」という
ことになる。真の私は、外に出るとき、コップの色によって、さまざまな色に変化する。



 たとえば私は、他人の目から見ると、明るく快活で、愛想のよい男に見えるらしい。しかし真
の私は、そうではない。どちらかというと、わがままで、むずかしがり屋。孤独に弱く、短気。い
つも不平、不満が、心の奥底で、ウズを巻いている。……というのは、言い過ぎかもしれない
が、少なくとも、(真の私)と、(外に出ている私)の間には、大きなギャップがある。



 真の私が入っているコップには、あまりにも、さまざまな色が混ざりすぎている。そのため、私
は、外の世界では、真の私とはちがった私に見られてしまう。



 まあ、私自身は、他人にどう見られようとかまわないが、しかし子どもを見るときは、こうした
視点をもたないと、その子どもを理解できなくなってしまうことがある。



 その子どもは、どんな色水の子どもか? そしてその子どもは、どんな色のコップに入ってい
るか? それを正しく判断しないと、その子どものアイデンティティを見失ってしまうということ。



 アイデンティティの問題には、そんな問題も含まれる。

(040803)





●自己否定



 定年退職を迎えるようになると、多くの男たちは、「自己否定」という苦しみに、さいなまれる。
いや、定年退職なら、まだよい。50歳が近くになると、たいていの民間企業では、リストラとい
う名前のクビ切りが始まる。



 クビ切りがこわいわけではない。クビ切りにいたるまでの、社内のゴタゴタ。緊張感。不快
感。それがつらい。苦しい。周囲でリストラが始まると、仕事どころでは、なくなってしまう。「つぎ
は、だれ?」と、疑心暗鬼になることもある。



 そしてやがて、リストラの宣告。「あなたは、クビ!」と。



 とたん、その先の未来が消える。会社一筋とがんばってきた人ほどそうで、そのショックは、
大きい。相当なもの。若い人には、想像できないだろう。この時期、クビ切りは、まさにその人
の人生の否定そのものといってもよい。リストラされたことがきっかけで、そのまま精神を病ん
でしまう人もいる。



 若いときは、まだやりなおしがきく。つぎの未来に向けて、歩み出すことができる。しかし50
歳をすぎると、それもできない。体力もつづかない。私の友人のM君(54歳)は、それまでに3
0年弱勤めた会社をリストラされたあと、私にこう言った。



 「あと10年、どんなことがあっても、健康だけはだいじょうぶという保証があれば、思いっきり
暴れてやる。しかし来年はどうなるかわからない。そんな不安をどこかに感ずると、もう何もで
きなくなる」と。



 こうした心理も、やはり若い人には理解できないだろう。ある意味で、この年齢の人の、独得
の心理と言ってもよい。



 しかし仕事にも、大きく分けて、二種類ある。(1)あとに残る仕事。(2)あとに残らない仕事。



 あとに残る仕事というのは、人生も晩年になって、「やりとげた」という実感のある仕事という
ことになる。一方、あとに残らない仕事というのは、そのまま過去の記録の中から、ポッカリと
消えてしまう仕事をいう。



 総じてみれば、大きな組織の中で、上からの命令だけに従って、それをやりこなすだけの仕
事というのは、あとに残らない。こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。私の意見を
読んで、怒る人もいるかもしれない。しかし、仕事には、よきにつけ、悪しきにつけ、いつも幻想
がつきまとう。この幻想が、その人を、惑わす。



 それほど価値がない仕事であるにもかかわらず、価値がある仕事と思いこんだり、価値があ
る仕事であるにもかかわらず、価値がないと思いこんだりする。



 どんな仕事がそうであり、どんな仕事がそうでないかということには、ここには、書けない。
が、これだけは言える。



 目的と夢と希望。この3つがはっきりしている仕事は、すばらしい。そうでない仕事は、そうで
ない。



 ……と、話がそれたが、いくら目的と夢と希望があっても、定年退職を迎えると同時に、その
すべてが、吹き飛ぶ。組織あっての仕事。その組織からはずれれば、仕事をする基盤すら、失
う。



 こうしたを、定年退職にまつわる心の問題をまめると、つぎのようになる。



(1)脱力感(生きる気力そのものが、消える)

(2)空白感(過去が、自分から消える)

(3)空虚感(何をしても、むなしく覚える)

(4)不安感(老後の生活が心配)

(5)焦燥感(何かをしなければと、あせる)

(6)妄想性(何かにつけて、被害妄想をもちやすい)

(7)展望性の喪失(これから先、何をしてよいのかわからない)



 こうした問題が、こん然一体となって、その人を襲う。そしてその人は、やがて、自己否定へと
進んでいく。「私は生きている価値がない」「生きていてもムダ」と。



 昨年度(03年度)、自殺者が3万6000人を超えた。そのうち、60歳以上の高齢者が、約1
万1000人(02年度)、50歳以上の合計が、1万9000人(02年度)をしめるという(警察統
計資料)。



私も、あと数年で、その60歳になるが、そうして自らの命を断っていく人の心情が、痛いほど、
よく理解できる。











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●自己愛と自己中心性



 自分を大切にするということと、「自分だけが、この世で一番大切な人間」と考えるのは、別。
「自分だけが、この世で一番大切な人間」と考えて、自分だけを大切にするのを、自己愛とい
う。



 この自己愛が、肥大化し、その世界だけに陶酔するようになると、その人には、さまざまな弊
害が、現れる。



 その中でも、最大の弊害が、自己中心性である。



 言いかえると、自己中心的な人は、何かにつけて、「自分だけは……」と考えやすい。そのた
め、どうしても、他人との関わり方が、浅くなる。関わっても、儀礼的。表面的。形式的。



 そしてその一方で、独善的になったり、がんこになったりする。他人から批判されるのを許さ
ないし、批判されたりすると、それを大きく気にしたりする。つぎのようなタイプの人は、ここでい
う自己愛タイプ人間と、考えてよい。



( )いつも自分の利益を優先させる。

( )自分だけがよければよいという考え方をしやすい。

( )自分の家族、とくに自分の子どもさえよければよいと考えやすい。

( )独善的になりやすい。思いこみがはげしい。

( )自分が正しいと思うと、他人の意見を聞けなくなる。

( )他人に批判されたり、批評されたりすると、興奮したり、パニック状態になる。

( )完ぺき主義で、失敗を認めない。他人の失敗を許さない。

( )自己中心的なものの考え方をする。ものの考え方が、自分本位。利己的。



 とくに気をつけなければならないのは、「他人との関わり方」である。



 このタイプの人は、自分自身を、大きなカラで包むため、どうしても他人との関わり方が、浅く
なる。表面的には、社交的で、柔和な人間性を装うことはある。つまりそうすることで、自分へ
の尊敬を、人から集めようとする。



 そういうことはあるが、しかし心を開いているわけではない。いつも自分の利益、利得を、優
先させる。



 こうした自己愛が、子育てに反映されることがある。子どもそのものが、自己愛を達成するた
めの、道具になることがある。わかりやすく言えば、子ども自身が、親の、見栄や虚栄心を満
足させる道具になることがある。



 ある母親は、子どもに向かっては、「勉強しなさい」と言いつづけたが、その一方で、その子ど
もが、自分から離れていくのを、許さなかった。あの手この手をつかって、地元の高校に子ども
を送り、さらにあの手この手をつかって、地元の女性と結婚させた。



 もともと心が通じあっているわけではないから、こうした親子関係は、崩壊しやすい。



 さらにこうした自己愛が、夫婦の間でも反映されることがある。しかしどちらか一方がそうであ
ると、夫婦関係も、それほど、長つづきしない。夫にせよ、妻にせよ、自分の孤独をいやす道
具でしかないからである。



 つまり配偶者を愛するのではなく、自分のために、自分にとって必要な人間として、相手をそ
ばにおく(?)。自分の仕事のために、妻を利用するのも、その一例。妻に向って、「食わせて
やる」「養ってやる」と言った夫すらいる。



この不自然さが、やがてたがいの間の不協和音となっていく。つまり、自己愛には、よいこと
は、何もない。



 しかし一度、自己愛タイプになると、それから脱却するのは、容易ではない。だいたいにおい
て、自分がそのタイプの人間であると、気づかない。独善というのは、そういう意味でも恐ろし
い。「私はすばらしい人間」という思いこみが強い分だけ、他人の意見に耳を傾けない。



 が、やがて、このタイプの人は、はげしい孤独感に襲われるようになる。しかし、この段階で
も、それに気づく人は、少ない。自分を客観的に見る目をもたないからである。だからこのタイ
プの人は、何かしら満たされないという状態のまま、悶々とした毎日を送っていることが多い。



 本来、人というのは、その幼児期から少年少女期にかけて、こうした自己中心性を克服しな
ければならない。が、何らかの理由で、その人格の完成が阻害されると、ここでいう自己愛の
世界におちいりやすい。



 つまり、結論として、自己愛タイプの人は、それだけ、人格の完成度が低い人ということにな
る。



【補記】



●愛



 ワイフに聞いた。「お前は、ぼくのことを、愛しているか?」と。するとワイフは、しばらく考えた
あと、こう言った。「わからない……」と。



 そういうものか?



 そういうものだ。

 

 「愛」ほど、実感しにくい感情はない。とくに夫婦の間では、たがいの存在など、空気のような
もの。何かが起これば、話は別。しかし何も起こらなければ、たがいの存在すら、忘れる。



 そこで改めて、「私はどうか」と考えてみる。「私は、ワイフを愛しているか」と。



 しかしこれまたむずかしい問題。ほとんどの人は、相手を欲することを、愛と誤解している。
「好き」と「愛」を、混同している人も多い。若い男に、例をみるまでもない。



 若い男が、相手の女性に向かって、「愛している」と言うのは、その相手の女性を、肉体的に
独占したいから。もっと簡単に言えば、セックスをしたいから。……と書くと、若い人たちは、反
発するかもしれない。



 しかし愛というのは、年をとればとるほど、それについて語る口が、重くなる。私も若いときに
は、今の若い人たちに負けないほど、愛という言葉を口にした。しかしそれから30年。



 人を愛することが、そんななまやさしいことでないことを、さんざん、思い知らされた。今のワイ
フにしても、これから先の老後のことを考えると、本当のところ、自信がない。その気持ちは、
ワイフも同じではないか。



 私の知人は、75歳をすぎた今、ほとんど寝たきりになっている奥さんの、介護にあけくれて
いる。奥さんは、パーキンソン病という病気で、ほとんど動けない。電話で話をすると、意外と元
気そうなので、「元気になられたのですか」と聞くと、知人は、いつもこう言って笑う。



 「口だけは、元気ですよ。おかしなものですよ」と。



 知人は、そのため、奥さんの生活のすべてを、みる。食事、入浴、洗面、睡眠はもちろんのこ
と、大便や小便の始末まで。



 そういうこともすべて受け入れて、はじめて、人は「愛」という言葉を口にすることができる。
が、そういう人ほど、「愛」という言葉を口にしない。つまりそれほどまでに、「愛」というのは、深
遠な言葉ということになる。



 で、昨夜、寝床の中で、ワイフとこんな会話をした。私が、「もし、脳梗塞か何かで倒れたら、
延命処置はしてほしくない」と言うと、ワイフは、だまっていた。



私「ムダな延命をしても、みんなが迷惑するだけ。だからもしそういう状態になったら、どうか安
楽死させてほしい」

ワイフ「わかったわ」

私「ぼくらのばあいは、年金が入るわけではないし、ムダに生きれば生きるほど、お金がかか
る」

ワイフ「……」

私「頼むよ」

ワイフ「わかったわ……」と。



 とても悲しいことを告白するが、私のワイフは、私を愛していない。私のため、息子たちのた
めに犠牲になっているが、いつもその範囲で、右往左往している。何かのことで衝突すると、ワ
イフの口からは、いつも「離婚」という言葉が飛び出す。簡単に飛び出す。



 一見、強いきずなで結ばれているように見えるかもしれないが、私たち夫婦の地盤は、それ
ほどしっかりしていない。かろうじてというか、本当にかろうじて、ともに生活しているにすぎな
い。だから今、ワイフが、私を愛しているかどうかということについて、「わからない」と答えて
も、何も、おかしくない。



 しかしこれも、夫婦。いや、ほとんどの夫婦が、そうではないのか。……とまあ、そう言って、
自分をなぐさめる。



 私だって、本当のところ、ワイフを利用しているだけではないのか。自分の仕事のため。自分
が生きるため。本当にワイフの幸福を考えているかとなると、自信がない。



 たとえば今、ワイフが、私にこう言ったとしよう。



 「私は、あなたと離婚したい。私らしい人生を、もう一度、生きなおしてみたい」と。



 そのとき私は、ワイフの幸福を考えて、「わかった。お前の好きなようにしたらいい」と言って、
引きさがることができるだろうか。



 もし、それができれば、私は、ひょっとしたら、ワイフを心底、愛していることになる。が、私に
は、その自信がない。だから、私も、ワイフを本当に愛しているかどうか、わからない。同じ質
問を、反対にされたら、私もこう答える。「わからない」と。



 繰りかえすが、もともと夫婦というのは、そういうものかもしれない。ナットク!

(040804)



+++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司



●自己中心的な人



 ワイフと食事をしているとき、こんな話になった。



 ワイフの友人の叔父の話である。その叔父は、長野県と静岡県の県境にある、小さな村に住
んでいる。昔からの茶農家ということだそうだ。



 その叔父が45歳くらいのときのこと。ある日突然、愛人を家に連れてきたという。そして叔父
の妻(叔母)に、いきなり、こう命令したという。



 「今日から、この女(愛人)も、この家に住むことになった。めんどうを、みてやってくれ」と。



 この話に、妻(叔母)は、激怒。怒ったことがない女性だったが、このときばかりは、泣きなが
ら、こう叫んだという。「いやよ!」と。



 当然である。で、この話を、ワイフが私にしながら、「この話は、マンガみたいだけど、本当に
あった話よ」と。



 私はその話を聞きながら、「ジコチュー人間のきわまり、ここにあり」と思った。



 言うまでもなく、自己中心型の人は、他人の立場でものを考えることができない。自分の言葉
や行動が、相手にどういう印象を与えているかがわからない。相手がどう考え、どう思っている
かさえわからない。



 すべて自分だけの、つまりは独善的な考えだけで、ものごとを判断してしまう。



 ワイフの友人の叔父にしても、愛人がいるということだけでも、大問題。その上、その愛人を
家につれてきて、「めんどうをみろ」は、ない。



 こうした常識ハズレの行為は、自己中心型人間に、広く見られる現象である。



 で、この自己中心性がきわまってくると、自己愛へとつながる。友人はもちろんのこと、家族
すらも、自分を飾るための道具にすぎない。自分は愛されてもあたりまえと考えるが、その一
方で、他人を愛することができない。だいたいにおいて、愛というものが、何であるかさえわか
っていない。



 さらに自己愛が肥大化すると、自分だけが完ぺきで、完全な人間となる。他人を信じない。信
じられない。自分は好き勝手なことをするくせに、他人には、それを許さない。



 さらに悲劇的なのは、自分の尺度で、他人を判断しようとすること。ワイフの友人の叔父は、
自分では、毎月のように、(つきあい?)で、あちこちへ旅行に行っているのに、妻(叔母)に
は、絶対に、それを許さなかったという。



 つまり自分の妻を、カゴの鳥にして、家の中に閉じこめてしまった。



 ワイフは、こう言った。「自分では浮気し放題だから、きっと奥さんもそうするのではないかと、
心配だったのね」と。



簡単に言えば、そういうことになるが、そのため一見、社交的で、交際範囲は広いものの、ど
の人とも、深くは交われない。自己中心型の人間は、厚いカラの中に入るため、心を開くことが
できない。だから友人ができない。



 ワイフの友人の叔父を参考に、ジコチュー夫の特徴を列挙してみると、こうなる。



(1)何かにつけて、完ぺき主義で、妻にそれを求める。

(2)妻を自分の力のおよぶ範囲に、閉じこめようとする。

(3)ワンマンで、亭主関白。家長意識が強い。わがまま。

(4)妻はもちろん、家族は、自分を飾るための道具でしかない。

(5)「仕事」を理由にすれば、すべて許されると思いこんでいる。

(6)犠牲心は強いが、それはあくまでも、自分のための自己犠牲。

(7)愛されること求めるが、人を愛することができない。

(8)ジコチューで、相手の立場でものを考えることができない。

(9)自分が批判されるのを許さない。批判されると、極端にそれを気にする。



 こうしたジコチュータイプ、あるいは自己愛タイプの夫をもつと、妻は、不幸である。妻は、まさ
に夫の奴隷と化す。(たいていは妻が現状を受けいれ、あきらめるので、表面的には、うまくい
っているように見えることが多い。)



 で、こうしたジコチュータイプの夫は、なおるかどうかという問題。



 私の周囲にも、似たような人は多いが、結論を先に言えば、まず無理ではないかということ。
自己中心性にせよ、自己愛にせよ、青年期までに一度、心の中に形成されると、それを改め
るのは、容易ではない。



 仮に本人がそれを自覚したとしても、そのあと、長い時間がかかる。10年とか、20年とか、
それくらいの時間は、かかる。「私はジコチューだ。今日から改めます」というわけには、いかな
い。



 この問題は、そういう問題である。