*Let's open our Hearts!
【心を開く】
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xx日に、11~12キロ、歩くことになっている。
「Y・歩こう会」の例会である。
7~8キロくらいまでなら、何とか、歩ける。
しかし11~12キロは、きびしい。
上級者コース。
途中、山道がつづけば、さらにきびしい。
……ということで、今日、ワイフと10キロ近くを歩いてみた。
「これなら何とかだいじょうぶ」と、ワイフは言った。
あとは天気しだい。
新聞の天気予報をみると、今度のxx日は、雨らしい。
だいじょうぶかな?
少し心配になってきた。
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●基本的信頼関係
基本的な信頼関係の構築に失敗すると、それ以後、その人は心の開けない人になる。
そういった状態を、基本的信頼関係に対して、基本的不信関係という。
何度も書くが、乳児は、絶対的な安心感の上に、基本的信頼関係を構築する。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
「絶対的な安心感」というのは、(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)を
をいう。
子どもの側からすれば、安心してすべてを、さらけ出すことができる。
親の側からすれば、何の迷いもなく、すべてを受け入れることができる。
その上で、基本的信頼関係が構築される。
この基本的信頼関係が、成長ともにワクを広げ、友人との信頼関係、先生との
信頼関係、結婚してからは、配偶者との信頼関係へと、発展していく。
先日、こんなシーンを道路で見かけた。
小さな女の子(小2くらい)が、通りで、父親を見つけた。
父親は、自転車に乗っていた。
ブラジル人の親子だと思う。
女の子は、パッと表情を変え、父親に向かって突進していった。
そのまま父親の腕の中に飛び込んでいった。
父親は、娘を力いっぱい抱くと、そのままゆっくりとうしろの荷台に、娘を乗せた。
ほほえましい光景だった。
と、同時に、彼らのもつ愛情表現の豊かさに感心した。
南米から来ている人たちは、そうした行為を、ごく自然な形でできる。
人目を気にせず、できる。
みながみなではないだろうが、日本人の私たちから見ると、オーバーというか、露骨。
親子だけではない。
若いカップルだと、あたりかまわず、抱き合って接吻している。
しかしそういう(さらけ出し)と、(受け入れ)が、自然にできるということだけでも、
すばらしい。
というのも、私たち日本人は、そうした行為を昔から、「はしたない行為」としてきた。
人前ではしてはいけない行為としてきた。
しかしそれは世界の……というより、人間が本来もつ常識ではない。
たった40年前のこと。
私はオーストラリアへ渡ったが、大学のキャンパスの中ですら、若い恋人同士が、
歩きながら接吻し合っていた。
私はそれを見て、心底、驚いた。
が、当時の日本人には、考えられない光景だった。
つまり私たちは、こと親子について言えば、もっと(さらけ出し)を、してよいと
いうこと。
日本の基準というより、世界の基準に合わせる。
私は一度、自転車でそのそばを通りすぎた。
が、すぐに親子の乗った自転車が、私を追い抜いていった。
どこまでも明るく、屈託のない、女の子の表情が美しかった。
父親のうれしそうな表情が、印象的だった。
● 夫婦でも……
私たち夫婦は、今から思うと、おかしな夫婦だった。
夫婦でありながら、たがいにどこか遠慮しあっていた(?)。
私は、たとえば実家の恥(?)になるような話は、ワイフに言うべきではないと
考えていた。
ワイフはワイフで、実家にまつわるプライベートな話を、あまりしなかった。
私も聞かなかった。
が、おかしな夫婦といっても、そのときはわからなかった。
自分たちがそうでなくなって、はじめて、あのころの私たちはおかしかったと
感ずるようになった。
もし今でもあのときのままだったら、それに気づかなかっただろう。
30歳を過ぎるころから、私は努めて、ワイフの前でさらけ出しをするようにした。
つづいてワイフも、さらけ出しをするようになった。
それにはこんな事件があった。
ある文士たちが集まる会合に顔を出させてもらったことがある。
そのときのこと。
中央に座っている男性が、私に向かって、突然、こう言った。
「林君、君の奥さんは、君の前で、オナラをするかね?」と。
私はその質問に、一瞬ひるんだ。
が、こう答えた。
「うちのワイフは、そういうことはしません」と。
それに答えて、どっとまわりの男たちが言った。
「かわいそうに」「それは気の毒に」と。
夫の前で、おならが自由にできない妻は、かわいそうというのだ。
私のワイフは、私には、絶対的なさらけ出しをしていなかった。
私は私で、それを絶対的に受け入れてはいなかった。
みなにそう言われるまで、私はそれに気がつかなかった。
●二匹のヤマアラシ
二匹のヤマアラシについては、たびたび書いてきた。
『寒い夜、2匹のヤマアラシが、穴の中で、眠ることになった。しかしたがいに体を近づけると、たがいの針が刺さり、痛い。しかし遠ざかれば、寒い。こうして2匹のヤマアラシは、一晩中、穴の中で、離れたり、くっついたりを繰りかえした。
この「2匹のヤマアラシ論」は、本来は、人間関係をうまく結べない人が、孤独と、人と接触することによって起こる苦痛の間を、行ったり来たりするのを説明したものである。
たがいに針を出しあって、たがいに孤独なのに、キズつけあっている。が、さりとて、別れることもできない……』。
基本的信頼関係がうまく構築できなかった人は、いわゆる心の開けない人になる。
(他人に対して心が開けない)→(さみしい)→(他人の世界に入っていく)→
(神経疲れを起こす)→(他人から離れる)→(さみしい)→(他人の世界に
入っていく)→……、を繰り返す。
こういう状態を、ショーペンハウエルという学者は、「二匹のヤマアラシ」を例に
あげて説明した。
(ここでいうショーペンハウエルについて、私は哲学者のショーペンハウエルのこと
だと誤解していた。しかし心理学者のショーペンハウエルである。)
原因は、母子関係の不全。
子どもとの信頼関係の構築には、母親の育児姿勢が大きく影響する。
こうして基本的信頼関係の構築に失敗した人は、だれに対しても心が開けない分だけ、
孤独になる。
が、ここでいう「孤独」は、ただの「孤独」ではない。
仏教でいう「無間地獄」というにふさわしい孤独である。
人間の魂を押しつぶしてしまうほどの力がある。
が、自分だけならまだしも、そういう人はまわりの人たちをも、孤独にしてしまう。
心を開かない夫と結婚した妻は、どうなるか。
心を開かない妻と結婚した夫は、どうなるか。
さらに不幸はつづく。
心を開かない母親をもった子どもも、また心を開けなくなる。
こうして基本的不信関係は、世代から世代へと、連鎖していく。
●心を開けない人たち
心を他人に対して開けない人は、つねに孤独にさいなまれる。
他人の前では、いつも自分を作ってしまう。
そのため、他人と接すると、精神疲労を起こしやすい。
つぎのような症状があれば、心の開けない人、つまり基本的信頼関係の構築に
失敗した人とみてよい。
(1) 集団行動より個別行動を好む。
(2) 一見社交的(=仮面)で、他人には逆の評価を受けることが多い。
(3) 他人を信頼できない。他人に仕事を任すと、不安。
(4) 他人と接していると、神経疲労を起こしやすい。
(5) 自分を実際よりよく見せようとすることが多い。
(6) 世間体を気にしたり、虚勢を張ることが多い。
(7) 「信じられるのは自分だけ」を口にすることが多い。
(8) 友人関係は概して希薄で、友人の数も少ない。
が、本当の問題は、心を開けない人がいたとしても、それに自分で気がつくのが、
たいへんむずかしいということ。
ほとんどのばあい、ほとんどの人は、「私はちがう」と思い込んでいる。
というのも、心を開けないまま、それがその人の中で、定着してしまっているということ。
言うなれば、かさぶたの上にかさぶたが重なってしまっていて、元の傷の形すら、
わかりにくくなってしまっている。
まず、自分に気づく。
それがこの問題の最大の関門ということになる。
●心を開く
要するに、さらけ出す。
自分をさらけ出す。
ありのままの自分を、ありのままに表現する。
その第一歩として、言いたいことを言い、やりたいことをやる。
あなたが不完全で未熟であっても、恥じることはない。
あなたはあなた。
どこまでいっても、あなたはあなた。
自分を作ることはない。
自分を飾ることはない。
自分を偽ることはない。
……といっても、いきなり、それをするのはむずかしい。
そこでまず、あなたの妻なり、夫に対して、それをする。
が、それには条件がある。
(1) 絶対的なさらけ出しをするということは、同時に、絶対的な
受け入れをしなければならない。
けっして一方的なものであってはいけない。
ただしこうした(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)をした
からといって、基本的信頼関係が構築できるというわけではない。
それこそ5年とか、10年とかいう単位の、長い年月が必要。
あとは努力、また努力ということになる。
この問題だけは、本脳に近い部分にまで刷り込まれているから、「正す」と
いっても、容易なことではない。
(そういう点では、『クレヨンしんちゃん』の中に出てくる、みさえ(母親)は、
参考になる。
心を開けない人は、みさえを参考に、心を開く練習をしてみてほしい。
コミック本のVOL1~11前後が、お勧め。
テレビのアニメのほうは、参考にならないので注意。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
基本的信頼関係 基本的不信関係 心を開く 心が開けない人)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【信頼関係vs不信関係】(Confidential Relationship between Parents and Children)
Can you open your heart to other people including your husband or wife? If not, please
read this article and know yourself.
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あなたは他人に対して、心を
開くことができるか?
もしそうでないとするなら、
一度、この原稿を読んでみて
ほしい。
さみしい思いをするのは、あなたの
勝手だとしても、あなたの周囲の
人たちまで、さみしい思いを
しているはず。
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●乳児期に形成される信頼関係
乳児期においては、母子の関係は、絶対的なものである。
それもそのはず。
乳児は、母親の胎内から生まれ、その母親から乳を受ける。命を育(はぐく)む。
その絶対的な関係を通して、乳児は、母子との間で、信頼関係を結ぶ。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。
こうしてできる太い絆(きずな)を、「ボンディング」と呼ぶ。
この信頼関係が基本となって、乳児はやがて、他人との信頼関係を結ぶことができるよう
になる。
成長するにつれて、その信頼関係を拡大する。
父親との関係、保育園や幼稚園での教師との関係、さらには、友人との関係など。
そういう意味で、この母子との間にできる信頼関係を、「基本的信頼関係」という。
その信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)があってはじめて成り
立つ。
乳児の側からすれば、「どんなことをしても許される」という、疑いすらもたない安心感と
いうことになる。
母親の側からすれば、「どんなことをしても受け入れる」という、疑いすらもたない包容力
ということになる。
が、この信頼関係の構築の失敗する例は、少なくない。
何らかの原因で、この絶対性がゆらぐ。
育児拒否、親の否定的な育児姿勢、無視、冷淡。
夫婦不和、家庭不和、家庭騒動などなど。
子どもの側からすれば、絶対的な安心感をもてなくなる。
母親の側からすれば、絶対的な包容力をもてなくなる。
こうして乳児は、母親に対して不信感をもつようになる。
ただの不信感ではない。
自分の母親ですら信ずることができない。
乳児は、そして子どもは、その不信感を常に抱くようになる。
こうした心理的な状態を、「基本的不信関係」という。
が、一度、その不信関係ができると、子どもは、いわゆる「心の開けない子ども」になる。
その可能性は、きわめて高くなる。
が、不幸は、それで終わるわけではない。
結婚してからも、配偶者にすら、心を開くことができない。
さらに自分の子どもにすら、心を開くことができない。
あなたはそれでよいとしても、あなたの周囲の人も、さみしい思いをする。
そしてそれがさらに世代連鎖して、その子ども自身も、心を開くことができなくなる可能
性も高くなる。
「基本的信頼関係」というのは、そういうもの。
決して、軽く考えてはいけない。
……ということで、今、ここで、もう一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてほしい。
あなたは、あなたの子どもや夫を、何の疑いもなく、信じているか?
あなたは、あなたの子どもや夫に、何の疑いもなく、心を開いているか?
反対に、こうも言える。
程度にもよるが、母子との間の基本的信頼関係の構築に失敗した人は、万事に、疑り深く、
猜疑心が強く、ついでに嫉妬心も強い。
もちろん他人に対して心を開けない分だけ、孤独。寂しがり屋。
そこで孤独であることを避けようと、人の中に入っていくが、心を許すことができない。
ありのままの自分をさらけ出すことができない。
自分をつくる。飾る。見栄を張る。虚勢を張る。世間体を気にする。
そのため、人と接触すると、精神疲労を起こしやすい。
人と会うのがおっくうで、会うたびに、ひどく疲れを覚える人というのは、このタイプの
人と、まず疑ってみる。
もしそうなら、まずあなた自身の心の中を静かにのぞいてみるとよい。
あなた自身の乳児期の様子がわかれば、さらによい。
あなたは両親の豊かな愛情に恵まれ、ここでいう基本的信頼関係を構築することができた
か?
あなたの両親は、そういう両親であったか?
先に述べた、ボンディングは、しっかりとできていたか。
もしそうでないとするなら、あなたはひょっとしたら、基本的信頼関係の構築に失敗して
いる可能性がある。
だとするなら、さらに今、あなたは自分の子どもとの関係において、基本的信頼関係の構
築に失敗している可能性がある。
しかしこの問題は、あなた自身の問題というよりは、今度は、あなたの子ども自身の問題
ということになる。
親から子へと世代連鎖していくものは多いが、その中でも、こうして生まれる基本的不信
関係は、深刻な問題のひとつと考えてよい。
たとえば、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、「母親から保護され
る価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11
月)を形成することもわかっている。
さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になるこ
ともある。最近の研究によれば、成人してから発症する、うつ病の(種)も、この時期に
形成されることもわかってきている。
わかりやすく言えば、その子どもの心の、あらゆる部分に大きな影響を与えていくという
こと。
だからこの問題は、けっしてあなた自身だけの問題に、とどまらないということ。
基本的信頼関係のできている人は、自然な形で、当たり前のように、心を開くことができ
る。
が、そうでない人は、そうでない。だれに対しても、心を開くことができない。
では、どうするか?
この問題だけは、(1)まず、自分がそういう人間であることに気づくこと。(2)つぎに
機会をとらえて、自分をさらけ出すことに努めること。(3)あとは時間を待つ。時間とい
っても、10年単位、20年単位の時間がかかる。
それについては、何度も書いてきたので、別の原稿を参考にしてほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 基本的信頼関係
ボンディング 母子関係 はやし浩司)
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この原稿に関して、いくつか
お役に立てそうな原稿を
集めてみました。
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【子どもを愛せない親たち】
その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。
なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけて、その理由は、二つある。
一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、
大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者
のケースに集約される。
乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5~7か月
くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。
ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断し
てよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のば
あい、好ましいことではない。
子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役
目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶ
ことができるようになる。
「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働き
かける、無意識下の行動と考えることができる。
で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、
友人との関係へと、広がっていく。
そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの
関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。
子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっ
かりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこ
えることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれ
ば、前者のケースに集約される」と書いた。
では、どうするか?
子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。
ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわ
かれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。
問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、
その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。
しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロー
ルすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。
この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はか
かるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにも
ならない。
【この時期の乳児への対処のし方】
母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。
(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子ども
に与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもが
それを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めて
きたときが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由を
さぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、
「わがまま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。
とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。
この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、
この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【父親VS母親】
●母親の役割
絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基
本です。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。
母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与える
という行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなく
ても育つということになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできませ
ん。
ここに母子関係の、特殊性があります。
●父子関係
一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわ
る仕事といえば、それだけです。
が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、
女性が男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになります。
これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な
意味で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となり
ます。
もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることにな
ります。「結婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあ
るのは、やはりより優秀な子孫を、後世に残すという願望です。
が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、
こと出産に関しては、男性の役割は、終えることになります。
●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係
自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、
子どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。
しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。
フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。
つまり「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」
と。
「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人
だったかもしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまり
それだけ、父子関係は、不安定なものだということです。
●母親の役割
心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。こ
の信頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だか
ら「基本的」という言葉を、使います。
この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自
分の住む世界を広げていきます。
わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、
分かれるということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな
人間関係を結ぶことができます。そうでなければ、そうでない。
子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる
……。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間
関係を結ぶ、その基盤をつくるということです。
「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」とい
う安心感が、子どもの心をつくる基盤になるということです。
一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。
母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、
赤ん坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、
母親は、赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。
この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)
を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。
「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。
もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さ
ない。あるいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展す
ることもあります。
心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、
依存型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自
分に集める)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。
どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的な
方法として、こうした「型」になると考えられます。
もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となる
こともあります。
何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタ
ベタしあうというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということで
す。
●父親の役割
この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定
なものです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありませ
ん。あるいは、母親的な父親もいます。
しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。ど
んなにがんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。
そのちがいを乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、
父親の役割がないわけではありません。
父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教
育、です。
母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性か
ら、のがれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影
響を与えてしまうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。
こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、
ともすればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくという
のが、父親の役割ということになります。
つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、
倫理、道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決ま
り」を教えていくのが、父親の第二の役割ということになります。
(しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えて
いきます。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁の
し方を教えるのも、父親の重要な役目だったかもしれません。
●役割を認識、分担する
「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。
しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはで
きません。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きて
いくこともできません。
そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと
言っているのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありま
せん。「たがいの立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、
言います。
つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割
にとってかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、
「平等」とは言いません。
もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進
出も目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』
だけでものを考えることも、むずかしくなってきました。
こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたの
も事実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、
ありません。どうか、誤解のないようにお願いします。)
しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解する
のと、そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。
そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えて
みました。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)
【追記1】
母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改め
てここに書くまでもありません。
すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結
ぶことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今で
は、常識です。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。
よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。
「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原
因となることもあります。
そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりま
せん。穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、
子どもを叱ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関
係」の範囲内でします。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。
で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全
幅に心を開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反
省してみてください。
【追記2】
そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他
人に対して、心を開くことができるでしょうか。
あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょ
うか。外の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信
頼関係」を疑ってみてください。
ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。
しかし、です。
問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過
去があったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失
敗をすることです。
実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これにつ
いては、また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包ま
れ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ないのです。
あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけま
せん。大切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少
し時間はかかりますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
特集【子どもの心】
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わがままを言っては、親を困らせる。
このところ、学校へも行っていない。
そんな子どもで悩んでいる、NBさんという
方から、相談がありました。
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【NBさんより、はやし浩司へ】
はやし先生、お忙しいところ長文で失礼します。
万引きをしたあと、ぎくしゃくした息子(小学3年生)との関係のことで、相談したことのあるW市(T県)のNBです。ブログにもご回答いただきました。ありがとうございました。今回はその後、学校を休んでいる息子のことで、相談します。お時間がある時に、ご意見いただきたく思います。
息子の現状についてどう考えればいいのでしょう。先生のおっしゃった通り、もう万引きはしていません。お金の管理も厳重にしているので、盗まれるということもありません。
ただ、公園に友達と行くとウソをついて、前のお金の残りで、コンビニでカードを買ったりしたことが2度ほどありました。5月23日から休み始め、9日ぶりに、今週の月曜に(授業はなく校外学習でしたが)、行き、また今週いっぱい休む、というような状態です。
月曜の登校は本人が決めて行きました。いろいろ読ませていただき、学校恐怖症というのではなく怠学というのでしょうか、まあ呼び名よりも息子の心の中が問題なわけで。万引きやそれを問いただした時の息子のパニック(泣き叫び万引きを認めずウソで終始)が、私達にとって大変ショックでした。
そのため当初から、「行きたくなければいいよ」「行かなくてもいいよ」というような言い方で、対応しています。担任の先生もゆっくり見守る姿勢を示して下さるので、夫も私も今は本当に見守る気持ちでいます。
振り返れば、何年も前から問題行動が時折あり、それをきちんと気づいてあげられなかった私たちに、原因があります。私への絶対的な安心感を得られないまま、外でも緊張状態のまま過ごしていたのが、ここにきて万引きや不登校という形で爆発したと考えています。
今は学校が終わる時間までは、たいてい家にいて、(私の外出は、まだ認めてくれません)、ゲームや読書で過ごし、ほとんどゲームばかりしています。家事を終えてから一緒に遊んだり、時々、買い物に行ったりしています。皆が学校から帰ってくると、頻度は減ってきましたが、(「どうして休んでるの?」と、聞かれる友達とは遊ばなくなりましたが)、友達に電話して、遊びに行ったりしています。
「今はちょうど給食の時間だ」とか自分から言ったり、「来週からは学校へ行く」などと言うこともあります。本人は、内心では、学校へは行かなければとは思っているようです。
宿題などには全く関心ないようです。新聞を取ってくるとか、金魚のえさをやるとかの手伝いも全くやる気なしです。池で釣ったザリガニを持ち帰り、世話をせず、2匹とも死なせてしまいました。平気な顔をしています。
それでも私と二人の時はそれなりに穏やかにすごしているのですが、(以前のように口やかましく言わないですが)、途方にくれてしまうのは、夫と三人でいる時です。延々と遊びたがるのです。特に三人で遊びたがります。このひと月で、ますますこだわりが強くなったようです。
外で遊べば、とっぷり暗くなるまで帰らない、家では寝ないで遊びたがる。11時くらいまでは、ゲームか他の遊びをすることになります。それも少しずつ、時間帯が遅くなってきました。
「帰ろう」「寝よう」と言うと、機嫌が悪くなり、時には怒り出します。せっかく楽しんでいたのに、いつも、最後は怒るか泣くかで終わるわけです。夜は怒り出すと、その時、胸にある不満をぶちまけ暴れることもあります。ソファをけったりクッションを投げたり壁をたたいたり。
今の最大の不満は、今週末、お父さんが土曜は仕事、日曜は結婚式で家にいない、ということです。前の日曜の夜はこのことを言い出して2時間以上もぐずり、収まったのは、夜中の2時を過ぎていました。
そのような時はお父さんや私が抱きしめようとしても、「やめて」と言って、怒ります。以前はそうではなかったのですが。絶対に式になんか行くなとか、会社や、式をあげる人を罵るような言葉も、次々に出てきたりします。それを聞いていると、私などは最初悲しく、だんだん腹がたってきてしまいます。
夫には、怒るような口調で「うるさいなあ」と言って、目でたしなめられます。私は本当にこらえ性がないです。夫は悲しげですが、でも冷静ですね。決してきつく言うことはない。興奮して泣いている時は、夜中でも、子どもの面倒をみています。
自分の子であって自分の子でないような気分になってしまい、そう感じる自分にも嫌悪したりします。「これでもか」「これでもか」と、息子に要求されているような感じです。夫もそう感じているらしいですが、三人いるときほど、息子がきつくなるのはどういうことなんでしょう。
万引きをした時に夫が始めてお尻をたたいて、本当に初めて、大きな声で叱ったのが関係しているのでしょうか。夜は、ほおっておいて寝る、というわけにも行かず、寝不足の日々です。
寝るときはもちろん川の字で。
学校の先生は今の甘えている状態を、「(幼児期の)忘れ物を取りにいってるんですね」と表現されました。9年間の忘れ物が1ヶ月やそこらで取り戻せるとは思ってはいませんし、数ヶ月単位で様子を見なければならないんですね。
なのに、本当に今はこれでいいのだろうか?、どう推移するのだろうと、明るくゲームに興じている様をみていると不安になります。
「お母さんはいつも太陽でいてください」と言われているのですが、実は人に会うのも少し、おっくうになってきた、今日、このごろです。
【はやし浩司より、NBさんへ】
息子さんは、(絶対的な安心感)が得られず、いつも、不安な状態にあると考えてください。つまり心は、いつも緊張状態にあるとみます。絶対的な安心感というのは、「疑いすらもたない」という意味です。心理学で言えば、あなたと息子さんの関係は、「基本的不信関係」ということになります。
で、NBさんは、何とか、息子さんに安心感を与えようと努力していますが、残念ながら、息子さんは、あなたの心の奥まで、読んでしまっています。あなた自身が、子育てをしながら、不安でならない。つまり絶対的な安心感を覚えていないため、それを息子さんは、感じ取ってしまっているわけです。
つまりあなたは、「不安だ」「心配だ」と思っている。それがそのまま息子さんに伝わってしまっているというわけです。
こういうケースでは、『あきらめは、悟りの境地』という格言が、役にたつと思います。「うちの息子は、こうなんだ」と、あきらめて、受け入れてしまうということです。「ほかの子とは、ちがう」「このままでは、心配だ」「どうすればいいんだろう」と、悩んでいる間は、決して、安穏たる日々はやってきません。息子さんにしても、そうです。
もちろん原因は、息子さんが生まれたとき、息子さんを、全幅に受け入れなかったあなた自身にあります。が、今さら、それをどうこう悩んでも、しかたのないことです。
ただこうした子どもの心の問題には、二番底、さらには、三番底があります。形としては、つまり、症状としては、(家庭内暴力)に似ています。息子さんが、まだ小さいため、NBさんの管理下というか、コントロール下にありますが、息子さんが、小学校の高学年児、あるいは、中高校生だとしたら、こうは、簡単には、片づかないはずです。
私はドクターではないので、これ以上のことは書けませんが、もし今のようなはげしい不安状態、混乱状態、さらには緊張状態がつづくようなら、一度、心療内科のドクターに相談なさってみられたらよいでしょう。そのとき、NBさんが、私にくれたメールなどを、ドクターに読んでもらうとよいでしょう。
今では、すぐれた薬も開発されています。それによって、息子さんが見せている、一連の(こだわり)症状も、軽減するはずです。
家庭では、(1)求めてきたときが、与え時と考えて、スキンシップなど、そのつど、子どもをすかさず抱いてあげたりします。が、やりすぎてはいけません。そこで大切なことは、(2)暖かい無視です。無視すべきところは、無視しながら、子ども自身の自由な時間には、干渉しないようにします。
不登校については、学校恐怖症というよりは、怠学に近いと思われます。子どもの言葉に一喜一憂したり、振りまわされたりしないように、注意してください。このタイプの子どもの(約束ごと)には、意味がありません。意味がないというより、子ども自身、自分をコントロールできないでいるのです。
で、今度は、NBさん側の問題ですが、お気持ちはわかりますが、全体的に過関心かな……?、という印象をもっています。すべてが、子ども中心に動いてしまっている(?)。すべてが子どもに集中しすぎているといった感じです。状況としては、しかたないのかもしれませんが、そのため、NBさん自身が、育児ノイローゼの一歩手前にいるようにも思います。
不登校については、今の状況では、すぐには改善しないと思います。NBさんが言っているように、どうか、数か月~半年単位で、考えてみてください。この問題は、根が深いということ。コツは、「なおそう」とは思わないこと。「今の状況をこれ以上悪くしないことだけを考えて、対処する」です。
消極的な対処法にみえるかもしれませんが、無理をすれば、ここでいう二番底、さらには三番底へと、子どもが、落ちていきます。今はまだ何とかなりますが、子どもの体が大きくなったり、腕力がついてくると、そうはいかなくなるということです。
たまたま別の方から、同じような相談が届いていますので、どうか、参考にしてみてください。よろしくお願いします。
●掲示板への書きこみから
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NBさんから、相談のメールをもらった同じ日、
掲示板にこんな書きこみがあった。
小学2年生の、Mさん(女児)についてのもの
だった。
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【掲示板への相談より……】
教員ではありませんが、小学校で子どもと関わる仕事をしています。教員免許は持っています。
お手伝い先生のような仕事です。大卒後、企業で8年間、勤務し、退職後、初めての職場。初めての教育の現場です。詳しく書くことができなく、申し訳ありません。不適切なら削除してください。
現在、ある小2女子児童の担当になっています。(Mさんとしておきます。)・・・と言っても、日替わりで上から指示されるので、とても不安定です。
Mさんは両親が離婚したあと、4月中旬に転校してきました。前の学校では不登校。現在は毎日来ていますが、徐々に完全に保健室登校になってきています。
毎朝お母さんが送ってきますが、子どもがお母さんから離れられません。お母さんは、Mさんを、車からぽーんと出し、バン!と閉めて、そのまま帰ってしまいます。そこでMさんは、泣き叫び後を追いかけます。
道路でMさんを出すのは危険なのでというような指導が、学校側からあったようです。それからは、お母さんは、Mさんを、学校の中まで中まで送ってきます。が、送ってくると、Mさんは、抱きついたままお母さんの髪をぎゅーっとつかんで離しません。
そのとき、お母さんの靴を隠す、持ち物を隠す、取り合いになったりすることもあります。転んだすきに、お母さんは逃げるように、振り返らず去っていきます。
そのあとも、切れ端(ゴミのようなもの)を握り締め、「ママ・・・」と、しくしく泣き、「それどうするの?」と聞くと、「お守りだから・・・」と。それを聞くと、胸が張り裂けそうになります。
私にはこの子を抱きしめる事しかできません。背中をさすって、「そう、そう、つらかったんだね」と、沢山聞いてあげる事しかできません。担任からはくわしく話を聞かせてもらうこともありません。でも一応、Mさんの担当なのです。
学校の担任の先生は、「早く教室に入りなさい」と言うだけです。クラスの児童からは、常に、「この学校は、○○なんだぞ!」とか、「○○ちゃんがきたから、席が替わったじゃない!」と言われ、みなは、どこかMさんをじゃまにしているような雰囲気です。
私がMさんの担当になる前は、誰も付いていなかったので、たとえば教室前でもじもじしていると、担任(女性)から腕をつかまれ、引きずられるように入れられていたそうです。
Mさんが、抵抗すると、担任は、お腹をつねっていたようです。そしてとうとう教室を見ただけで吐き気が起こすようになったり、担任を見ると逃げたり、隠れたり、さらには、クラスの児童を見ると、「恐い・・・」と消えそうな声で、つぶやくようになってしまいました。
「恐い」にしても、初めの段階では、「集団が恐い」と言っていました。が、最近ではクラスの児童に限定されてきたようです。優しい子もふくめて、どの子も恐がっているようです。
時限ごとに、Mさんが、「教室へ行ってみる・・・でも無理だったら戻ってもいい?」と言うので、一緒について行くと、やはり、「恐い・・・やっぱりダメ」という感じです。
また、学校の対応もバラバラです。「今日は1日、この部屋で2人でいていいですよ」というので、それなりにおたがいに楽しそうに、じゃあ、今、国語だから漢字ドリルしようか、というような調子でやっていると、ガラっ!と、突然開いて、知らない先生が「次! 図工だよ! 行ける!?」と、Mさんのランドセルを持って行ってしまうのです。
子どもは一気に緊張した顔で、条件反射的に、「はい」と答え、部屋を出る。が、やはり行けない。そこでその先生が、「はいって言ったじゃない、どうしていけないの?」となじったりします・・・・。と、思ったらまた急に他の先生が入ってきて、保健室にいてもいいですよ。いつ来てもいいですよー、と言う始末。
はやし先生。これでこの子はどうなってしまうのでしょう。「ママ、バイバイしないで行っちゃったー」と泣くことから1日が始まり、クルクルと周りの指導が変わり、(私も規則で12時までしかいっしょに、いられません)、Mさんにしてみれば、親に裏切られ、先生に裏切られ、友達も・・・というような状況ですよね。
お母さんの話をするときは、赤ちゃん言葉です。以前、過呼吸に近い状態になり驚きました。最近、混乱してくると頭を、自分で、げんこつでボカボカと自分で殴ります。見ていて恐いくらいです。
本人の話しによると、以前は、お父さんの実家で同居していたそうです。いとこ(中学生)たちもいたようで、よく殴られたと言います。
そして現在、お母さんにはお友達がいて、私の話ををちっとも聞いてくれない。お友達は男性で、毎日のように泊まっていくとのこと。
また、反対にMさんのお母さんからの話しでは、家ではまったく甘えない。そんなそぶりさえ見せない。学校でこんなに離れないなんてウソみたい。帰ったら遊ぶ約束をしてやっているのに、宿題が終わらないから泣いてばかりで、遊べない、ということです。
(高知県在住・KUより)
【KU先生へ、はやし浩司より】
掲示板の記事を読んで、その内容が、最近経験した、Z君(中2男子)と、あまりにも酷似しているので、驚きました。
Z君は、乳幼児のときから、母親の冷淡、無視、育児放棄を経験しています。母親は、「生まれつき、そうだ」と言いますが、Z君は、見るからに弱々しい感じがします。全体に、幼く見え、言動も幼稚ぽく、その年齢にふさわしい人格の核(コア・アイデンティティ)の確立がみられません。
はきがなく、追従的で、いつも他人の同情をかうような行動をします。かなり強烈なマイナスのストロークが、働いているようで、何をしても、「ぼくはできない」「ぼくはだめな人間」と言います。
ほかの子どもたちのいじめの対象にもなっています。母親は、そういうZ君を「かわいい」「かわいい」とでき愛していますが、その実、Z君を、外へ出したがりません。「外へ出すと、みなにいじめられるから」を理由にしています。典型的な、代償的過保護ママです。
特徴としては、つぎのようなことがあります。思い浮かんだまま、並べてみます。
(1)自己管理能力がない……薬箱のドリンク剤を一日で、全部(10本ほど)、飲んでしまう。そのため、ますます母親に強く叱られる。届け物に買ってきた、菓子などを、勝手に封をあけて、食べてしまったこともある。
(2)特定のものに、強くこだわる……カードゲームのカードをたいへん大切にしている。それを毎日、戸棚から出し、また並べなおしたりしている。下に、6歳離れた弟がいるが、弟がそのカードに触れただけで、パニック状態(オドオドとして、混乱状態)になる。
(3)時刻にこだわる……片時も腕時計を身からはなさず、いつも、時計ばかり見ている。行動も、数分単位で、正確。朝、目をさましても、その時刻(6時半)がくるまで、床の中でじっと待っている。そのときも、時計ばかり、見ている。メガネをかけているが、寝るときでさえも、かけたまま。
(4)衝動的な自傷行為……ときどき、壁に頭をうちつけたりする。あるいは、ものを、壁にぶつけて、壊してしまう。ラジカセが思うようにならなかったときも、かんしゃく発作を起こして、こわしてしまったこともある。が、満足しているときは、借りてきた猫の子のようにおとなしく、おだやかだが、ふとしたことで急変。二階へつづく階段から、大の字のまま、下へ飛び降りたこともある。現在、前歯が2本、欠損しているが、自傷行為のために、そうなったと考えられる。
(5)異常なまでの依存性……独特の言い方をする。おなかがすいたときも、「~~を食べたい」というような言い方をしない。「~~君は、何も食べなかったから、死んでしまった」「ぼくは、10日くらいだったら、何も食べなくても、平気」などと言ったりする。自主的な行動ができず、他人の同情をかいながら、全体に、何かをしてもらうといった生活態度が目につく。
(6)幼児がえり……しばらく話しあって、打ち解けあうと、とたんに、幼児言葉になる。年齢的には、4~5歳くらいの話し方をする。「ママが、ぼくを、たたいた」「○○さん(Z君の叔母)が、ぼくをバカにした」と。
母親は、仮面型タイプの人間で、私のような他人の前では、きわめて穏やか。始終、やさしそうな笑みを浮かべて、さもZ君を心底、思いやっているというようなフリをします。私が会ったときも、母親は、Z君の背中を、さすりながら、「元気を出そうね」と言っていました。
このZ君というより、Z君の母親について、問題点をあげたら、キリがありません。代償的過保護のほか、代理ミュンヒハウゼン症候群、虐待、基本的不信関係、仮面型人間、ペルソナ……。
これらの原稿については、このあとに添付しておきますので、どうか、参考にしてください。
で、私もこうした事例に、よく出会います。そしてそのつど、(限界)というか、(無力感)を味わいます。ここにあげたZ君にしても、最終的に、私が預かるという覚悟ができれば、話は別ですが、そうでなければ、結局は、母親に任すしかないということになります。
またこういう母親にかぎって、私のようなものの話を聞きません。何かを説明しようとすると、ここにも書いたように、「生まれつきそうだ」とか、「遺伝だ」とか、さらには、「父親(夫)が、ひどいことをしたからだ」と、他人のせいにします。
ものの考え方が、きわめて自己中心的なのが、特徴です。もっと言えば、自分の子どもを、モノ、あるいは奴隷かペットのように考えています。ひとりの人間として、みていません。
で、30代のころは、そういう子どもばかり預かって、四苦八苦したことがあります。夜中中、車で、走り回ったこともあります。しかしその結果たどりついたのが、「10%のニヒリズム」という考え方です。
若いころ、どこかの教師が、何かの会議で教えてくれた言葉です。
決して、全力投球はしない。90%は、その子どものために働いても、残りの10%は、自分のためにとっておくという考え方です。そうでないと、身も心も、ズタズタにされてしまいます。今のKU先生、あなたが、そうかもしれません。
が、ご心配なく。もっと複雑で、深刻なケースを、たくさんみてきましたが、子どもは子どもで、ちゃんと、大きくなっていくものです。もちろん心に大きなキズを残しますが、そのキズをもったまま、おとなになっていきます。が、やがて自分で、それを克服していきます。つまりそういう人間が本来的にもつ(力)を信じて、やるべきことはやりながらも、子どもに任すところは、任す。
あとは、時間が解決してくれます。
で、Mさんは、明らかに、分離不安ですね。心はいつも緊張状態にあって、その緊張状態から解放されないでいるとみます。家庭の中でも、心が休まることがないのでしょう。一応、母親の前では、(いい子?)でいるのでしょうが、それは、本来のMさんの姿でないことは、確かなようです。
(いい子?)でいることで、母親の愛情を取り戻そうとしているのです。私がときどき書く、「悲しいピエロ」タイプの子どもというのは、このタイプの子どもをいいます。
が、肝心の母親は、それに気づいていない。つまりここにこの種の問題の悲劇性があります。
また閉ざされた子どもの心を開くことは、容易なことではありません。1年や2年は、かかるかもしれません。ちょっとしたことで、また閉じてしまう。この繰りかえしです。しかしあきらめてはいけません。ただ、このタイプの子どもは、いろいろな方法で、あなたの心を試すような行動に出てくることがあります。
急にわがままを言ってみたり、乱暴な行動に出てみたりする、など。こちらの限界を見極めながら、ギリギリのことをしてくるのが、特徴です。で、そういうときは、まさに根競べ。とことん根競べをします。子どもの方があきらめて手を引くまで、根競べをします。
「私はどんなことがあっても、あなたを見放しませんからね」と。
それに納得したとき、子どもははじめて、あなたに対して心を開きます。
幸いなことに、Mさんは、あなたというすばらしい先生に、出会うことができました。何が大切かといって、あなたの今の(思い)ほど、大切なものは、ありません。その(思い)が、あなたとMさんの絆(きずな)、あるいはMさんの心を支えるゆいいつの柱になっていると思います。
ところで私は、最近、はじめて、ADHD児の指導を断りました。今までは、むしろそういう子どもほど、求めて教えてきたようなところがあります。
しかし体力の限界だけは、もうどうしようありません。1~2時間、接しただけで、ものすごい疲労感を覚えるようになりました。それで断りました。
そのとき感じた、敗北感というか、虚脱感には、ものすごいものがありました。悶々とした気持ちで、数日を過ごしました。
しかしあなたは、まだ若いし、いくらでも、そういう仕事ができます。どうかあきらめないで、がんばってください。
繰りかえしますが、あなたのような先生に出会えたことは、Mさんにとっては、本当に幸いなことです。Mさんにかわって、喜んでいます。どうか、どうか、がんばってください。応援します。
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
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