*Those who love themselves *Privilages of Public Officers
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 1月 16日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page009.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●自己愛者( Narcissism person)
+++++++++++++++++
K国への重油支援は、どうやら停止される
方向で動き始めている。
当然である。
が、アメリカへ戻ったC・ヒルは、まだ
こんなことを言っている。
「重油をすべて提供すれば、K国はサンプル
採取に応じてくるはず」と。
いったいあの国務次官補は、どこまで
おめでたいのか?
口頭約束だけで、K国を、テロ支援国家
指定リストから、はずしてしまった。
それについて、ウォールストリート・
ジャーナルは12月16日、「ライスの
対北政策は失敗に終わった」と報じた(※1)。
これまた当然である。
が、それにしても理解に苦しむのが、K国。
常識をはずれた国というのは、ほかにもある。
あるが、あの国の常識は完全に、狂って
いる。
6か国協議決裂の責任を日本に押しつけ、
日本をさして、「招かざる客」(※2)と。
++++++++++++++++++
K国を非難してばかりいてはいけない。
問題は、どうしてこうまで常識をはずれているのか。
そのあたりまで踏み込んで考えないと、K国を理解することができない。
招くも招かないもない。
日本としては、K国など、もとから相手にしたくない。
6か国協議など、出たくもない。
出たくて、出ているわけではない。
つまりこの異常なまでの自己中心性こそが、K国の特徴ということになる。
言うまでもなく独裁国家ほど、独裁者の心理的状態が、そのまま外交政策となって、
表に出てくる。
K国の外交政策イコール、金xxの心理状態と考えてよい。
その上で、ほんの少しでも自分を冷静かつ客観的に見る目をもっていたら、自分に恥じて、
こんな言葉は出てこないはず。
世界中が見るに見かねて、援助を申し出ているのに、「エネルギー支援を留保している
日本は、厄介者」(同)とは!
ハア~~~?
こうした異常なまでの自己中心性が肥大化した人を、心理学の世界では、自己愛者と
定義している。
「自己愛者」というと、どこか甘美な響きをもつが、けっして好ましい人物像ではない。
忌み嫌うべき人物像ということになる。
K国の金xx。
彼こそがまさにその自己愛者の典型ということになる。
自己愛者について書いた原稿を、さがしてみた。
++++++++++++++++++++++
●自己愛者( Narcissism person)
The more he or she is a self-centerness person, the lower his or her mental IQ is.
+++++++++++++++++++
自己中心性が極端なまでに肥大化した
状態の人を、自己愛者という。
+++++++++++++++++++
自己中心性(ジコチュー性)が、極端なまでに
肥大化した人を、「自己愛者」という。
自己中心性が強い分だけ、人格の完成度は、低い。
ほかに、たとえば異常なまでの完ぺき主義、
他人の批判を許さないなどの特徴がある。
その自己愛者については、たびたび書いてきたので、
ここでは、その先を書く。
私は、現在、こんな経験をしている。
私の身近にいる知人だが、このところ、認知症と
思われる症状が、急速に進んでいる。
アルツハイマー病の初期症状かもしれない。
ときどき、記憶の一部が、脳みそから欠けるように消えてしまう。
前の晩に何を食べたかを忘れるのは、よくあること。
が、その人のばあい、前の晩に食事をしたことそのものを、
忘れてしまう。
電話で話していても、一方的に、しゃべるだけ。
しゃべるだけならまだしも、しばらくすると、
また同じ話を繰りかえす。
そして私が何か、その人について批判めいたことを
口にすると、その瞬間、狂乱状態になってしまう。
「以前、その話はもう聞きました」と言っただけで、
ギャーッとなってしまう。
「私は、言っていない!」「どうして、そういうウソを言うの!」と。
言い忘れが、その知人というのは、今年、59歳になる。
女性である。
ワイフの長い友人で、いつしか家族ぐるみでつきあうようになった。
が、このところ、ワイフが言うには、「つきあいにくくなってきた」
「10年前には、ああではなかった」とのこと。
つまり、回りくどい言い方になってしまったが、認知症のはじまりには、
ものの考え方が、自己中心的になり、自己愛的な症状が出てくる。
言いかえると、自己中心性が出てきたら、あぶないということ。
(その人が、認知症というわけではない。あくまでも私が、
そう疑っているだけ。念のため。)
認知症になることによって、人格そのものが、崩壊してしまう人がいる。
そう考えれば、認知症の初期症状のひとつとして、ものの考え方が
自己中心的になったところで、何ら、おかしくはない。
+++++++++++++++
もう一作……。
+++++++++++++++
●自己概念
「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。
この自己概念は、正確であればあるほどよい。
しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。
一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。
こんなことがあった。
ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。
「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。
つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。
事実、その通りだから、反論のしようがない。
で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。
ここで自己概念という言葉が、出てくる。
私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)
だから「私のそばにいれば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。
そういう思いで、そう言った。
しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。
みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。
……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。
その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。
その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。
(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。
しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。
たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。
もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。
あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。
ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教
育 子育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●自分を知る
自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。
同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)があ
る。
この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」
ということになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。
(他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなること
によって、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろ
な人と、広く交際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる(※)。
問題は、ここでいう(盲点)である。
しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さ
くなると考えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小
さいということになる。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)
このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。
幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、
みんな、勉強ができるようになる」と考えている。
しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く
人もいるが、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味で
ある。
が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。
その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こ
ちらが教えたいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで
水をすくうような感じの子どももいる。
そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がつい
ていない部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。
子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気がつ
いていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついて
いないときは、指導のし方そのものが、ない。
親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。
そして私に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして
子どもが逆立ちしてもできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」
と言う。私に向っては、「できるようにしてほしい」と言う。
こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさ
がる。
言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)
が大きいということになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐ
はぐになりやすいということになる。子育てで失敗しやすいということになる。
自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらに
むずかしい。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなお
してみてはどうだろうか。
(注※)
(自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親し
くなることで、それを知ることができる。
そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっ
と言えば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それが
できる人は、ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。
が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをし
てみる。コツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判される
たびに、カリカリしていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。
一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判さ
れただけで、狂乱状態になる人さえいる。
++++++++++++++++++
さて話を戻す。
K国というより、金xxが、常識を取り戻すためには、金xx自身が、一度、
金王朝というカプセルから出て、世界を見てみる必要がある。
あるいはひょっとしたら、金xxには、それなりの常識があるのかもしれない。
とすると、取り巻き連中が悪い(?)。
そういう連中が、一度、外国を渡り歩いてみたらよい。
そうすれば、自分たちの置かれた立場や、世界が自分たちをどう見ているかが、
少しはわかるはず。
……と言っても、これは簡単なことではない。
自己愛者にしても、自分でそれに気づくことは、まず、ない。
自分では正常と思っている。
その多くは、「他人のほうがおかしい」とか、「他人も同じ」と思っている。
加齢が進めばなおさらで、ますます自分の殻(カプセル)に閉じこもるようになる。
で、自己愛者の特徴の一つとして、批判されただけで、烈火のごとく怒りだす。
たとえば日本をさして、「厄介者」と、自分では言いたい放題のことを言っておきながら、
もし日本がK国をさして、「厄介者」と言ったら、どうなるか?
それを少しだけ、頭の中で想像してみたらとよい。
つまりまるで自分のことが、わかっていない。
……となると、あのC・ヒルは、いったいどういう人物かということになる。
私は、彼もまた、その自己愛者ではないのか。
「私がしていることは正しい」という、狂信的とも言える信念だけで、突っ走って
しまった。
だからK国の金xxを、盲目的に信じてしまった。
その結果が、「今」ということになる。
(注※1)アメリカのウォールストリート・ジャーナルは16日、コンドリーザ・ライス国
務長官がK国の核廃棄よりも外交的進展という面を優先視したため、過去4年間の対北朝
鮮政策は失敗に終わったと批判した(朝鮮N報)。
(注※2)K国のK国労働党機関紙「労働新聞」は16日、6カ国協議に関する論評で、
核施設無能力化の見返りとなる経済・エネルギー支援を拉致問題を理由に留保している日
本について、「招かれざる客、厄介者であり、協議のテーブルに残る必要はない」と非難、
あらためて「日本排除論」を展開した。K国中央通信が伝えた。
論評はまた「日本は6カ国協議を通じた朝鮮半島核問題解決を妨害し、核問題を理由に
軍事大国化を目指そうとしている」と主張した。(共同通信)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●今日の格言
+++++++++++++++++
Death is the great leveller.
(死ねば、みな、同じ。)
+++++++++++++++++
「leveller」というのは、(皆を平等にするもの)という意味。
つまりどんな人でも、死ねば同じ、イコール、平等、ということ。
わかりきったことだが、それを受け入れるのは難しい。
「私だけは……」と思いたい気持ちもわかるが、例外はない。
で、金持ちも貧乏人も、地位のある人もない人も、名誉のある人もない人も、死ねば同じ。
つまり「Death makes us all equal(死は皆を平等にする)」。
ところで最近、私はこんなことを強く思う。
「死んだ人の時計は止まる」と。
たとえば私の隣人にR氏という人がいた。
亡くなって、もう5年以上になるが、その間、R氏についての時計は止まったまま。
ときどき「もう5年になるのか」と驚くときがある。
そう、私の記憶の中にあるR氏は、5年前のまま。
R氏との思い出にしても、ガラスの箱の中に閉じ込められたようになっている。
外から見えるには見えるが、断片的にしか見えない。
そこでじっとしているだけ。
外には出てこない。
言い換えると、私が死んだら、そのとき、私についての時計は止まる。
あなたが死んだら、そのとき、あなたについての時計は止まる。
こうして人はどこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
この不思議さ。
この切なさ。
しかし元気なときというのは、それがわからない。
あえて(死)に背を向けて生きる。
(死)を蹴飛ばしながら生きる。
「金持ちになりたい」「地位や名誉がほしい」と。
しかしその果てに(死)が待っているとしたら、人は何のために生きているのか
ということになる。
少し前、郵便局でこんな会話を耳にした。
どこかの女性(90歳くらい)が、年金をおろしたらしい。
手には100万円ほどの札束を握っていた。
それについて、局員の男性が、大きな声でこう言っていた。
「あのね、おばあちゃん、ここでは1000万円までしか貯金はできないの。
国債も、1000万円までしか、買えないの」と。
それを理解できたのかどうかは知らないが、その女性はお金を手さげに入れて、
郵便局を、ヨタヨタと歩きながら出て行った。
足は大きく外側へわん曲し、腰も曲がっていた。
歩くのもままならないといったふうだった。
それを見てワイフは、「だいじょうぶかしら?」と言った。
私は、「何のために?」と言った。
お金がないのも困るが、しかしお金というのは、元気なときに使ってこそ、生きる。
「どうせ皆、平等になる」というのなら、なおさらである。
地位や名誉にしてもそうだ。
私も最近、こんな経験をした。
私が発行しているメルマガ(電子マガジン)が、2008年度の「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた。
6万3000誌もあるということだから、名誉なことにはちがいない。
しかしその喜びというのが、ほとんどといってよいほど、わいてこなかった。
10年前、あるいは20年前の私なら、飛び上がって喜んだことだろう。
あるいは出版の世界だったら、どさっと大金が舞い込んできたことだろう。
しかしそこはインターネットの世界。
何も変わらない。
何も起こらない。
もちろんお金は入ってこない。
「HPのどこかで、宣伝してみよう」とは考えたが、「家族で祝賀会」というところ
までは考えなかった。
(死)という限界をそこに感ずるようになると、そういうことはどうでもよくなる。
私は私。
書きたいから書いているだけ。
それを他人がどう評価しようが、私の知ったことではない。
言い換えると、人は死に近づくにつれて、一次曲線的に、平等になっていく。
死がやってきたからといって、そのときストンと、平等になるわけではない。
すでに今、この瞬間、少しずつ平等に向かって、進んでいる。
だからこの格言をもう少し正確に書き換えると、こうなる。
「加齢は、人をより平等にする」と。
英語になおすと、「Aging makes man more equal」。
そしてこうも言える。
「死は、時計を止める」と。
英語になおすと、「Death stops the man’s clock」。
ホント!
死んだ人は、本当に静かだ。
何も語らない。
何も動かない。
私も、あなたも、やがてすぐそうなる。
これには、先に書いたように、例外はない。
Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司
●耳鳴り
++++++++++++++++++
私は子どものころ、慢性中耳炎に悩んだ。
ときに苦しんだ。
ジ~ンジ~ン鳴りつづける耳鳴り。
それが風邪などと重なると、耳が熱くなり、
ひどいときには、顔中がほてったりした。
が、今は、皮肉なことにそちらの耳は聴力を失い、
耳鳴りは収まったかのようにみえる。
しかし風邪ぽくなったりすると、耳鳴りが始まる。
ジ~ンジ~ン、と。
夏などは、セミの鳴き声と区別ができないときがある。
今が、そうだ。
この数日間、どうも風邪が抜けない。
治ったかと思うと、また風邪をひいたりしている。
しかし慣れというのは、怖しい。
それほどまでの耳鳴りでありながら、仲よく同居している。
それほど気にならない。
実際には、まったく気にならない。
+++++++++++++++++++
これほどの耳鳴りがしながらも、私には(静寂)というものがどういうものか、
わかる。
考えてみれば、これは不思議なことではないか。
たとえば今、今の窓の外の木々は、小雨に打たれてやさしく葉を揺らしている。
深い緑の木々をおおうように、まだ残った黄色い葉が、そこかしこで、ゆらゆらと
はためいている。
その手前では、水たまりの表面が、ポツン、ポツンと、無数の円を描いている。
もちろん音は聞こえない。
音を出していたとしても、耳鳴りの音で、かき消されてしまっているだろう。
しかし私は、そこに(静寂)を感ずることができる。
風の音や雨のしたたる音を、感ずることができる。
なぜだろう?
ひとつには、音波でできる音と、心の中でできる音を、自分自身が区別している
ためではないか。
さらに言えば、音というのは、耳で聞くものではなく、心で聞くもの。
どんなすばらしい音楽でも、自分の心が同調しなければ、ただの騒音にすぎない。
音楽か騒音か、それを区別するのが、(心)ということになる。
そしてそれがちょうど反対の状態になったのが、今の私ということになる。
音波の音は聞こえていないが、あるいは耳鳴りの中から都合のよい音を選び出して、
それを耳の中で聞いている。
聞こえてはいないはずなのだが、聞こえるような感じがする。
サーサー……。
ハラハラ……。
ポツン、ポツン……と。
私はそういう景色を見ながら、心地よい睡魔を感じている。
先ほどのんだ風邪薬のせいかもしれない。
コタツのほどよい暖かさが、眠気を誘っているのかもしれない。
そのときふと時計が気になった。
見ると、x時x分。
仕事に出かける時刻。
フ~~~ッと長いため息をついたあと、腹に力を入れて立ちあがる。
とたん、またあの耳鳴り。
思い出したように耳の中で鳴り始めた。
今日もがんばろう。
仕事、開始!
風邪なんかに、負けてはおれない!
Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司
●どうなる内閣人事局(Bureaucratic Government)
++++++++++++++++++++
官僚たちの天下りにメスを入れ、それを
一元的に管理することによって、天下りを
是正しようとして考えられたのが、
内閣人事局。
しかし今、その内閣人事局が、まさに
骨抜きにされようとしている。
++++++++++++++++++++
今までは、各省庁ごとに、いわば縦割り的に、
かつ慣習的に(官僚の天下り)が、なされてきた。
たとえば文科省だけでも2000近い、外郭団体がある。
官僚たちは退職すると、(あるいはそれ以前から)、
こうした天下り先を渡り歩くことで、莫大な
利益を得ていた。
が、それではいけないと、安倍内閣、福田内閣の両内閣は、
新しい人事院の創設をもくろんだ。
「内閣人事局」構想というのが、それである。
内閣人事局というのは、各省庁の幹部人事を、一元的に
管理し、それによって、従来の天下りにともなう
弊害をなくそうという趣旨で考えられた。
つまり一度、すべての天下り先を人事局に集め、
適材適所で人材を再配置しよう、と。
しかしこれが実施されると、各省庁は、独自の
天下り先(=権益)を失うことになる。
そこで官僚たちによる逆襲が始まった(?)。
その目的とするところは、内閣人事局の骨抜き。
その中身は、大きく、つぎの2つに分けられる。
(1)事実上、内閣人事局を、官僚主導型の組織にする。
(2)内閣人事局の人員を最小限(10人~20人)にし、ただ単なる
事務組織にする。
内閣人事局を官僚主導型の組織にすれば、従来通りの天下りが可能になる。
また組織を小さくすればするほど、組織はただ単なる事務機関にする
ことができる。
そういう点では、AS総理は、まことに都合がよかった。
ちまたでは「おバカ総理」(週刊B春)と、揶揄(やゆ)されている。
官僚の言いなり……とまではいかないにしても、あのAS総理に、
そこまで期待する方が無理。
新聞などの報道を見ていても、AS総理周辺からは、公務員制度改革
の「コ」の字も聞こえてこない。
そういうAS総理を横目で見ながら、官僚たちが、「一刻も早く」と、
内閣人事院の創設を急ぎ始めている。
たとえば内閣人事院の創設を目的とする作業部会は、ほぼ1日おきという
ハイペースで行われている(08年11月)。
内閣人事院の創設に反対なら、急ぐ必要はないはず(?)。
この一見すると矛盾した動きこそが、官僚が得意とする、お家芸である。
急げば急ぐほど、いいかげんなものができる。
その(いいかげんさ)こそが、官僚にとっては、重要なのである。
幹部人事の一元化はどうする?
給与の弾力化はどうする?
昇格、降格人事はどうする?
人事の配分はどうする?
だれがどういう基準で決める?
そういう議論はいっさい、すっ飛ばして、内閣人事院の誕生!
作業部会にしても、計8回、延べ20時間程度行われただけ。
が、それこそまさに官僚たちの思うつぼ。
週刊誌などの記事によると、内閣人事院の人員は、10人程度。
多くても20人程度とささやかれている。
たったそれだけの人員で、巨大な官僚組織の人事を管理できるわけがない。
つまり(できるわけがない)という組織にすることが、官僚たちの
目的ということになる。
日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
少しぐらいつついた程度では、ビクともしない。
改めて官僚たちのもつ(力)に驚く。
(08年12月18記)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
内閣人事局 官僚制度 天下り)
Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司
●2008年度一般会計予算(The Japanese National Budget)
+++++++++++++++++++
2008年度の日本の一般会計予算は、
つぎのようであった。
歳入、つまり国の税収は、83・1兆円。
うち借金(公債金)が、25・3兆円。
歳出、つまり国の支出は、83・1兆円。
うち借金返済のための支出(国債費)が、20・2兆円。
+++++++++++++++++++
一家の家計にたとえると、こうなる。
月給が、57・8万円。
しかしそれでは生活できないので、毎月、30・5万円の借金。
計、88・3万円の生活。
(結構、よい生活ができるぞ!)
が、借金もたまってきた。
その返済に、毎月、24・3万円。
だから実際に使えるのは、62・9万円。
(以上、収入、支出のパーセントを、万円に置き換えた。)
これだけみても、日本の経済は、かなりあぶない!
月給が、57・8万円なら、その範囲で生活をすればよい。
ふつうなら、そう考える。
しかし日本の財務省には、そういう考えは、みじんもない。
結果、たまりにたまった借金(国債)が、約553兆円!
国民1人あたり、約433万円!
(参考:「時事用語」成美堂出版)
公務員の給料だけで、40兆円近くもあるのだから、
当然、そのあたりから削減すべき。
結局こうした借金は、つぎの世代の人たちの負担となって
跳ね返ってくる。
が、それだけではすまない。
すでに「老人粗大ゴミ論」が、声高に叫ばれるようになっている。
ウソだと思うなら、若い人たちのBLOGをのぞいてみるとよい。
そこには、かなり辛辣(しんらつ)な言葉で、老人論が
語られている。
長生きすればするほど、私たちは、ゴミ扱いを受けるようになる。
が、それもそのはず。
やがて人口の3分の1が、満65歳以上になる(2050年)※。
医療費、介護費の負担だけで、日本経済は破産してしまう。
そうなったとき、若い人たちに向かって、「私たちのめんどうを
みてほしい」とは、とても言えない。
中には、「私には貯金があるから……」と思っている人もいるかも
知れない。
が、このまま進めば、2050年ごろには、貨幣価値は
今の3分1~5分の1以下になっているはず。
若い人の数、そのものが少ない。
どうやったら、2人の人が、1人の老人を支えることができるというのか。
つまりお金の問題ではなく、現実に無理、ということ。
すでに今、とくに後期高齢者に対して、医療機関が医療を拒否する
という話が、あちこちから伝わってきている。
実は私の母(当時91歳)もそうだった。
センターから救急車で病院へ運ばれたとき、担当の医師はこう言った。
「検査はしますが、延命処置はもうしません」と。
私たち夫婦が戸惑っていると、「天命ですから」とも。
それでもまだよいほうかもしれない。
私の義兄は、前立腺がんの手術を受けたとき、やはり担当の医師は
こう言ったという。
「75歳以上は、手術をしません」と。
どうやらそのあたり、つまり74~75歳前後に、医療機関では、
ひとつの線引きがなされつつあるようである。
これから先、その線引きが、下がることはあっても、上がることはない。
「65歳以上は、どんどん、死んでもらいます」と。
すべての責任を公務員にかぶせることはできない。
また一人一人の公務員に責任があるわけではない。
しかし本気で、行政改革を進めないと、この日本は、たいへんなことになる。
この不況すら、どこ吹く風。
民間企業では、首切り、リストラ、人員削減が、嵐のように巻き起こっている。
が、そういう話は、公務員の世界からは、まったく聞こえてこない。
聞こえたとしても、せいぜい、採用人員の削減程度。
繰り返すが公務員の人経費だけで、40兆円と言われている。
国家税収のほとんどが、公務員の人件費で消えている。
まず、この異常さを、正すべき。
外国なら、とっくの昔に、暴動が起きているだろう。
しかしその一方で、公務員の数が多いから、それもできない。
あなたの身内や、近い知人の中にも、1人や2人は、かならずいる。
ひょっとしたら、あなた自身も、そうかもしれない。
2008年度の一般会計予算を見ていたら、ムラムラと、
そんな怒りが、心の中にわいてきた。
『怒ったときは愚痴を言うな』。
……ということで、この話は、ここまで。
(注※)
高齢化率(満65歳以上の老人)
2008年……22・0%
2050年……35・7%
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
<< Home