*We can't be a good man to two people
●いろいろな顔
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英語のことわざに、『2人の人に、いい顔はできない』というのがある。
このことわざを言いかえると、『人には、いろいろな顔がある』という
意味にもなる。
あるいは『その人の一面だけを見て、その人を判断してはいけない』とも
読める。
こんなことがある。
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●母の顔
母が他界して、3か月になる。
その間、いろいろな人から、悔やみの言葉をもらった。
ありがたかった。
と、同時に、母にもいろいろな顔があったのを知った。
母のことをよく思っている人もいたし、そうでない人もいた。
悪く思っている人は、いなかった。
しかしそのつど、率直に言えば、「?」という印象をもった。
どこの親も、そうなのかもしれない。
他人の集まる(外)で見せる顔と、肉親が集まる(内)で
見せる顔は、ちがう。
母もそうだった。
どちらが本当の顔で、どちらがニセの顔ということを
論じても意味はない。
またどちらでもよい。
外できびしく、家庭で甘い親は、いくらでもいる。
外でやさしく、家庭できびしい親も、いくらでもいる。
さらに他人の中では、高い評価を受けながら、家庭では
きびしい評価を受ける親がいる。
他人の中では、極悪人と呼ばれながらも、家庭では、
やさしいと評価を受ける親もいる。
だからといって、人それぞれ。
それぞれの人が、それぞれの人を認める。
それぞれの顔を認める。
母にしても、そうだ。
「?」と思っても、その人の心に合わせて、「ありがとう
ございます」と、言う。
またそれですます。
昔、よど号ハイジャック事件で、人質となり、
K国に渡った政治家がいた。
YM運輸政務次官である。
そのあと1週間ほど、オーストラリアのメルボルン市へ、
休養のため、やってきた。
縁あって、そのとき知りあった。
温厚で、やさしい人だった。
知的で、政治家というよりは、学者風の人だった。
が、そのYM氏は、やがて息子氏に腹を刺されて、死ぬ。
何があったのか。
また家庭の事情がどうであったのか。
私には知る由もない。
また知る必要もない。
その反対のこともある。
昔、浜松市の駅前に、暴力団(?)の事務所ができたことがある。
それに対して、周辺の住民の人たちが、追い出し運動を始めた。
子どもの通学が心配ということで、親たちが集団で送り迎えをするようになった。
そのときのこと。
たまたまその暴力団(?)の親分と言われる人の子どもが、
私の教室へ来ていた。
それについて、その祖母にあたる人が、私の家にやってきて、こう言った。
「先生、うちにも小学生の孫がいます。
そんなことするはずがないじゃ、ないですか」と。
「そんなこと」というのは、住民たちが心配しているような(こと)を言った。
「ピケを張って、人の出入りを止めるというのは、いいです。
しかし集団登下校というのは、あまりにもひどいです」と。
その祖母は、玄関先で、おいおいと泣いた。
言いかえると、根っからの悪人はいない。
同時に、善人と呼ばれている人でも、バランスの問題。
善悪のバランスのしっかりしている人を、善人という。
そうでない人を、そうでないという。
でないというのなら、「私は善人」と、自信をもって言える人は、
いったい、どれだけいるだろうか。
一歩退いて、「私は悪人ではない」と、自信をもって言える人は、
いったい、どれだけいるだろうか。
ただ許せないのは、偽善者たち。
陰でこそこそと、小ずるいことをしながら、表では善人のフリをする。
ふだんはタレント業で巨億の富を手にしながら、一方で、慈善運動家として、
テレビに出てきたりする。
一貫性が、ない。
そういう人は、別。
……ということで、結論。
私やあなたが、その人のことをどう思っても、その印象を、他人に
押しつけてはいけない。
「私はそうではないと思います」とも、言ってはいけない。
まわりの人がどう思っても、人、それぞれ。
人には、いろいろな顔がある。
同じように、それを見る人にも、いろいろな印象がある。
それはそれとして、そっとしておいてやる。
それが結局は、あなたという(私)を守ることになる。
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
●他責型人間vs自責型人間
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何か失敗したようなとき、すかさず、
だれかに責任を求める人を、他責型人間という。
すかさず自分に責任を求める人を、自責型人間という。
子どもでも、年中児(4~5歳児)でも、それがわかる。
子どもがお茶をこぼしたとする。
それを母親が、注意したとする。
そのとき、他責型人間(子ども)は、すかさず、
こう言う。
「ママが、こんなところにお茶を置いておくから悪い」と。
いつも責任を他人に転嫁する。
一方自責型人間(子ども)は、すかさず、「ごめん」と言う。
「いつも責任は、自分にある」と考える。
一般論として、(あくまでも一般論だが)、他責型人間は、
悶々とした欲求不満を、持続的にかかえていることが多い。
「自分は正しい」という過剰な思い込みが、他責の
原因になることもある。
しっかりした人という評価を受けやすい。
一方、自責型人間は、その分だけ、うつ病になりやすいと言われている。
自信喪失が根底にあり、人格の「核」形成も、遅れがちになる。
どこかヘラヘラした感じになりやすい。
表面的な様子からだけでは、判断できない。
快活で積極的だから、他責型人間ということにはならない。
静かで落ち着いているから、自責型人間ということにもならない。
それを知るためには、心理テストが必要。
こんな例で考えてみよう。
あなたは今、電車の中にいる。
そのとき緊急の、かつ重要な連絡が、携帯電話に入った。
ベルが鳴った。
あなたは携帯電話で話し始めた。
と、そのとき、横にいた人が、あなたに、「電車の中では
携帯電話はいけませんよ」と、軽く注意した。
そのときあなたなら、どうするだろうか。
ムッとして、その人をにらみ返すだろうか。
「今、すぐ終わりますから」とか、「緊急です」とか
言うだろうか。
それとも、すかさず、「ごめんなさい」とか、「すぐ終わります」とか、
謝罪するだろうか。
前者のようであれば、あなたは他責型人間ということになる。
後者のようであれば、あなたは自責型人間ということになる。
他責型人間か、それとも自責型人間か。
いろいろ調べてみると、(あくまでも私が調べた範囲だが)、
その中間型というのは、ない。
しかもこの「型」は、その人の人格の中核部分に居座るため、
たとえば状況に応じて、他責型になったり、自責型になったり
ということもない。
幼児期に他責型になった子どもは、ずっと、それこそ、
死ぬまで他責型人間のまま。
自責型になった子どもは、ずっと、それこそ死ぬまで
自責型人間のまま。
途中で変化するということも、ない。
(「ない」と断言するのも、危険なことだが……。)
さらに興味深いことに、他責型人間からは、自責型人間が理解できない。
自責型人間からは、他責型人間が理解できない。
ともに自分を基準にして、相手をみる。
相手も自分と同じ人間と、思い込む。
したがってたとえば、夫が他責型、妻が自責型というケースのばあい、
(その反対でもよいが)、どちらか一方が、それに気づくまで、夫婦喧嘩が
絶えないということになる。
夫「謝れ!」
妻「どうして謝らなきゃ、ならないのよ!」と。
(いつも夫婦喧嘩をしている人は、一度、ここに書いたようなことを
参考に、自分を見つめなおしてみるとよい。)
が、さらにもう一言。
自責が過剰になると、相手の失敗まで、自分の責任のように感じてしまう。
こんな例がある。
ある学校で、ある子どもが何かの事件を起こした。
それについて、ある教師は、こう言った。
「警察に出向き、謝罪してきました」と。
そこで私が、「そこまでは学校の責任ではないでしょう」と言うと、
その教師はこう言った。
「新聞などで、少年犯罪が報じられるたびに、胸が痛くなります」と。
自責型人間の中には、そこまで自分を責め人もいる。
……となぜ、今、他責型人間と自責型人間について書くか?
実は、今日の午後、たまたまこんなことがあった。
バスに乗っていて、うとうとと眠っていたときのこと。
私のすぐうしろに座っていた女性のところに電話がかかってきた。
かなり豪快な(?)、着信音が鳴った。
とたん、眠気が消えた。
その女性は、「今、バスの中! もうすぐそこへ着くから待ってエ……」
というようなことを言っていた。
そのときのこと。
ちょうどタイミングよく、つぎの停留所名を言ったあと、
「携帯電話は周りのお客様に迷惑になりますから、スイッチをOFFに
するか、マナーモードに……」というアナウンスが、流れた。
私は、すかさず、「その通り!」と声をあげた。
……あげてしまった。
よほど私の言葉が、その女性のカンに触ったらしい。
しばらくしてバスは、目的地に着いた。
「どんな女性だったか」と思って、立ったついでに、うしろの女性を見た。
私をものすごい目つきで、にらんでいた。
顔中が、鬼バンバというような感じだった。
年齢は、18、9歳ではなかったか。
私は、「ああ、この人は、他責型人間だな」と思った。
それでこの原稿を書いた。
……ところで、私は、完全な自責型人間。
いつも他人を責めてばかりいるが、根は、自責型人間。
自分でも、それがよくわかっている。
だから先に書いたことを繰り返す。
人間というのは、見た目で判断してはいけない。
さて、あなた自身は、どうか?
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
自責 他責 自責型人間 他責型人間 はやし浩司 自責vs他責 自分を責める
他人を責める)
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
●隠れマザコン
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私の知人に、これまた人も羨(うらや)むような、
親孝行の娘をもった人がいる。
その娘を、娘Aとする。
その娘Aは、結婚して嫁いでいるというのに、「お母さん、お母さん」と
言って、毎週のようにやってきては、菓子を届けたり、
旅行のみやげを届けたりしているという。
知人が、今年、85歳になる。
娘Aは、60歳になる。
だから近所の人は、みな、こう言う。
「あの娘さんは、すばらしい人だ。人間の鑑(かがみ)」と。
しかし、ちょっと、待ったア!
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こういう娘Aのばあい、つぎの2つを疑ってみる。
(1) 隠れマザコン
(2) 代理ミュンヒハウゼン症候群
ふつうマザコンというと、男性ばかりが問題になる。
しかし女性にも、マザコン、つまりマザーコンプレックスをもった人はいる。
が、母と娘という女性どうしだから、目立たない。
成人した男性が、彼の母親といっしょに入浴すれば、だれしも、おかしいと思う。
しかし女性のばあいには、だれも、おかしいとは思わない。
だから女性のマザコンを、「隠れマザコン」(はやし浩司)と呼ぶ。
また代理ミュンヒハウゼン症候群というと、ふつう虐待が先に問題になる。
「新しいタイプの虐待」と位置づける人もいる。
たとえば子どもを一方で虐待しながら、他方で、よい母親(父親)を演ずるなど。
しかしあえて虐待をしなくても、もともと虚弱な子どもであれば、その子どもを
利用して、よい母親を演ずることもできる。
他人の同情を買いながら、よい母親を演ずる。
みなに、「よくできた、すばらしい母親」と思わせる。
当然、虐待をともなわない、代理ミュンヒハウゼン症候群というのも、ある。
また対象が子どものばあいだけを、代理ミュンヒハウゼン症候群というのではない。
舞台が病院であるとも、かぎらない。
広義には、対象が、兄弟、姉妹、さらには親であっても構わない。
舞台が、施設であっても、さらに家庭であっても構わない。
ことさら苦労している様子を誇張してみせ、他人の同情を買う。
他人からよい人と思われるようにするため、あれこれと工作する。
このタイプの人は、口もうまい。
ここでいう隠れマザコンと私が呼んでいる人も、同様の行動パターンをとる。
冒頭にあげた女性にしても、かなりの高齢で、このところ歩くのもままならない。
そういう母親を支えながら、その娘Aは、通りをいっしょに歩くこともあるという。
それで近所の人たちは、「人間の鑑」と。
しかしそれこそが、その娘Aの望むところ。
他人にそう思われるように、他人の心を誘導する。
操る。
では、本物の(?)、親孝行とは、どこがちがうか?
その第一。
本物の親孝行は、静か。
目立たない。
他人の目を意識しない。
私のような他人の耳に、そういった話は、届いてこない。
また「毎週のように、菓子やみやげを届けている」という話は、母親の言葉ではない。
その娘A自身が、あちこちでそのように自分で吹聴している。
私もその娘Aのことは、よく知っているが、一貫性がない。
それだけの人徳がある人なら、ほかの面でも光るはず。
体の芯からにじみ出てくるような、人間性があるはず。
が、そういった話は、伝わってこない。
むしろ父親の遺産相続問題で、ほかの姉妹と言い争ったとか、実の息子たちとは
絶縁状態にあるとか、など。
そういう話のほうが目立つ。
どこかチグハグ?
おかしい?
へん?
その(チグハグさ)を感じたら、こういう話は、まず疑ってかかったほうがよい。
が、だからといって、その娘Aを責めているのではない。
マザコンであるにせよ、ないにせよ、それで、母と娘が仲よく暮らしていれば、
それでよい。
他人がとやかく言う必要は、ない。
今どきマザコンにしても、隠れマザコンにしても、珍しくもなんともない。
まただからといって、周囲の人たちが、人間の鏡とするなら、それもよい。
ただ、だからといって、操られるまま操られるのは、よくない。
こういう話には、「待ったア!をかける。
それが知性ということになる。
理性ということになる。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
隠れマザコン 代理ミュンヒハウゼン 親孝行 孝行娘 親孝行の子ども)
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
【ネット時代のもの書き】
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今、情報の価値が、かぎりなく下がっている。
若い人たちを中心に、「情報はただ」という風潮が、
ますます強くなっている。
「お金を出してまで、買う必要はない」と考える人も多い。
また情報を発信する側も、それをよく知っている。
ただで使われることを前提として、発信する。
そのため、(情報の世界)が大きく変わりつつある。
よい例が、新聞であり、雑誌ということになる。
新聞については、ここ10年近く、発行部数は減る一方。
テレビと並んで、広告収入が、年間1000億円前後から、
この2年間だけをみても、10%前後減っている。
雑誌については、2008年度だけでも、「月刊・現代」を
はじめとして、「主婦の友」「読売ウィークリー」
「PLAYBOY・日本版」などが、休刊となった。
全体としてみても、「1995年の約39億部がピークだったが、
その後は長期低落傾向がつづき、07年には、26億部と、3分の
2に減った」(「朝日キーワード・2009→2010」とのこと。
若い人を中心に、「新聞で得る情報は、インターネットで」という
人がふえている。
私の家でも、「そろそろ夕刊をやめようか」という話も出始めている。
理由が、いくつかある。
たとえば朝刊にしても、毎日目を通すページというのが決まっている。
全体で、30ページ近くあるが、その中でも4~5ページのみ。
夕刊にいたっては、1~2ページのみ。
スポーツ欄は、ほとんど読まない。
あとはそのままゴミ箱行き。
無駄といっても、これほど資源の無駄づかいはない。
一方、インターネットからの情報は、速い。
おまけに読みたいときに、選んで読んだり、それに見たりすることができる。
この簡便性は、テレビにもない。
そこで改めて、情報の価値を、いかに利益につなげていくかを
考えてみる。
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●私のHP(ウェブサイト)
私は多いときには、年間10冊あまりの単行本を出版したことがある。
しかしこの8年間、1冊も出していない。
かわりに、インターネットのほうで、自分の書いた原稿を発表している。
当初は読者数もかぎられていて、新聞や雑誌に原稿を発表することと
比べたら、読者数も少なく、その影響力は、微々たるものだった。
しかし私はインターネットのほうに、それまでになかった魅力を感ずる
ようになった。
それを列挙してみる。
(1) 地域性の打破…「もの書きは中央でないと生きていかれない」という
のが、若いころの常識だった。それだけの機会と人脈の交流が、地方
では得られなかった。今、その垣根がはずれた。
(2)独自性の追求…雑誌や新聞に原稿を書くときは、どうしてもそこに
編集者への(へつらい)が入る。しかしこの世界では、(書きたいこと)
が書ける。これこそまさに「言論の自由」。
(3) 世界の情報が直接手に入る…若いころは、その国の大使館員からでしか
手に入らなかったような情報が、容易に手に入る。多少のタイム・ラグ
(時間差)はあるが、1日を遅れることはない。
(4) 読者数の増加…最近になって、HPやBLOGへのアクセ数が驚異的に
伸びている。08年の2月に、月間10万件。さらに09年に入ってから
は、瞬間的ではあったが、月間30万件を超えるようになった。
(5) 無料で書く喜び…収入のない世界で生きる喜びというのがある。言うなれば
ボランティア活動ということか。損得のない世界でものを書くというのは、
それだけで、そのままストレートに生きがいに結びついてくる。
(6) 一貫性の追求…とくに育児においては、その人の人生観なり哲学が、混入して
くる。育児論は育児論だけではすまない。育児論を「城」とするなら、人生観
や哲学は、その土台ということになる。その土台まで踏み込んだ育児論を展開
することができる。
(7) 大量性の確保…たとえば本の出版では、体裁に合わせて、原稿の量を削ったり、
することが、当然のように行われている。しかしインターネットの世界には、
それがない。毎日書いたままを、同時に、世界に向けて発信できる。
(8) 速報性…書いた原稿を、瞬時に、マスコミの世界に配信できる。ものごとが、
瞬時、瞬時に片づいていく。読者の反応が、リアルタイムで返ってくるのも、
インターネットならではの、利便性ということになる。
が、何よりもすばらしいのは、(1)出版社が介在しないこと(出版社にあたる関門
がない)、(2)本のような配本会社が介在しないこと(自分でリアルタイムに配信
できる)、という点がある。
紙製の単行本のばあい、原稿を書いてから、出版→配本まで、どんなに早くても
2か月はかかる。
ふつう売り込みから出版まで、3~4か月はみる。
(有名な作家のばあいは、出版社のほうから原稿依頼があるというが、私のばあい、
そういうことは、『東洋医学・経穴編』(学研)をのぞいて、一度もなかった。)
その間、郵送によるやりとりが、数回以上は必要。
出版社へも出向かなくてはならない。
さらにここ30年だけをみても、出版についての条件が、毎年のようにきびしく
なっている。
30年前には、印税も、5%をくだることはなかった。
6~12%前後、出版と同時に支払ってくれる出版社もあった。
それが今では、印税も売れ高払い。
5%以下というのも、珍しくない。
そのため印税の支払いも、売り上げが確定したあとということで、最低でも
3か月、ふつうは6か月待たされる。
あるいは1年待たされるというのも、珍しくない。
●マネーか名誉か
が、最大の問題は、インターネットでは、それを収入につなげるのが、
たいへんむずかしいということ。
広告収入ということもあるが、実際には、私のばあい、月額4000~
5000円程度に過ぎない。
(ほかに方法はあるのだろうが、私は試していない。)
そこで私はつぎの択一に迫られた。
「収入を取るか、それとも生きがいを取るか」と。
「ものを書いて、収入を得るか」、それとも「より多くの人に読んでもらうか」
という選択と考えてもよい。
そういえば、昔、A出版社の社長が、私にこう言った。
「金(マネー)を取るか、名誉を取るか、どちらかにしてほしい。
両方というのは、ムシがよすぎる」と。
で、私のばあいは、(生きがい)を取った。
(……と書くと、少しおおげさに聞こえるかもしれない。
実際には、どちらか一方をあきらめることにした。)
それに本を出版していた時代に、あの(めんどうくささ)というか、
限界をよく知っていたこともある。
校正だの訂正だの、いろいろある。
加えて、30年前には、初刷りでも、6000部~1万2000部がふつうだった。
それが今では、3000部。
この部数は、全国の書店にやっと1~2冊並ぶか並ばないかという数である。
「だったらすべて無料で提供しよう」と私は考えた。
頭の中には、毎日のように、書きたいことがつぎつぎと浮かんでくる。
本を出版するときのように、たとえば出版社と連絡を取り合っている暇さえない。
書きたいことがつぎつぎと浮かんでくる。
それをパソコンのキーボードをたたいて、吐き出す。
それこそまさに、「肛門期の快感」(フロイト)ということになる。
たとえば量だけをみると、1か月に、40字x36行を1枚として、500~600
枚は、書いている。
その量は、単行本に換算すると、3~4冊分ということになる。
ふつう単行本のばあい、120~140枚で、1冊の本ができる。
それに私のばあい、ひとつのテーマにしばられるのが苦手。
苦手というより、苦痛。
教育論を書きながらも、宗教論や政治論についても、書いている。
若いころは東洋医学にも興味をもった。
最近は、宇宙に興味をもち始めている。
●著作権
問題は、著作権である。
私は過去においても、そして現在も、だれにも原稿の転載、流用を許可していない。
そういう申し出はよくあるが、すべて明確に断っている。
これは私のスタンス(立場)を明確にするために、重要なこと。
どこかでだれかに例外をつくると、それが元で、原稿が四方八方に散ってしまう。
収拾がつかなくなってしまう。
(だからもし、読者のみなさんが、私の書いていることと同じ内容、同じ文章を
見られたら、それはその人が、無断で使用していると考えてほしい。引用についても、
同じ。)
ともかくも、こうした裏話が、育児論、教育論に併せて、一貫性をもって書けるのも、
インターネットのすばらしさということになる。
読む、読まないの選択は、あくまでも読者のみなさんの手にゆだねるしかない。
この先、当然のことながら、「紙」という資源を使った本や雑誌は、衰退することは
あっても、その地位を再び確保するということは、ありえない。
アメリカでは、一時、インターネットに対して、新聞が奮闘した時代もあった。
ちょうど2000年ごろのことで、そうした問題がアメリカでも起きた。
アメリカの有力新聞社が善戦しているのを見て、「インターネット、恐れるに足りず」と
いう、社説をどこかの新聞で読んだこともある。
しかしそれはあくまでも一時的。
現在は世界的にみても、そのあと、新聞も、発行部数、読者数、広告収入ともに、
激減している。
で、最初の話に戻るが、要するに、広告媒体とインターネットをどう結びつけていくか。
それについても、新聞や雑誌とちがい、広告対象をしぼることによって、無駄な広告料を
節約することができる。
読者が若い男性なら、若い男性向けのコマーシャルを、ねらいうちする形で、配信する
ことができる。
しかしこれらのことは、同時に、これからのライター(=もの書き)の世界を、大きく変えることを意味する。
(1) 発信する情報の量そのものが、多くなる。(1人のライターが発信する文書の量が
多くなり、管理するのがむずかしくなる。)
(2) 利益を確保する方法、手段が、複雑化する。(本のばあいは、対出版社との交渉
だけで、それ以上のわずらわしさはない。)
(3) 自己責任の幅が大きくなる。本のばあいは、出版社、編集者の目を通ることで、
責任を回避することができる。しかしインターネットのばあいは、ライターの
書いた文章が、直接、読者に届くことになる。インターネットの世界には、「炎上」
という言葉がある。書き方をまちがえると、思わぬトラブルの原因となる。
ともあれ、いろいろ問題が起きているが、私は過渡的な現象ととらえている。
インターネットにしても、10数年前に産声(うぶごえ)をあげ、やっと少年期にたどり
つきつつあるといった状態である。
(あるいはやっとヨチヨチ歩き始めた、乳幼児の段階かもしれない。)
不完全ではあるが、今を見て、将来を判断してはいけない。
これからの可能性を考えるなら、インターネットの世界は、この宇宙を包み込むほどの
広さと大きさがある。
「第二の産業革命」と位置づける人もいる。
それがどんな世界かは、私にもわからない。
が、しかしこれだけは言える。
それがどんな世界であるにせよ、この時代を生きる私たちの思いや考えは、未来永劫に
残るということ。
いくらインターネットが進化しても、それを作るのは、人間だからである。
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
●不況の嵐
++++++++++++++++++++
毎月のように内閣府の発表する市況判断は、
下方へ、下方へと訂正される。
まるでジェットコースターか何かに乗っている
かのよう。
今朝の新聞によれば、「急速に悪化」という
言葉も見られた。
++++++++++++++++++++
●個人企業vs会社組織
++++++++++++++++++++++++++++
こういう不況時代になると、原則的には、個人企業が有利。
個人企業といっても、家族だけで経営する零細企業。
固定して支払わなければならない給料そのものがない。
収入が減れば、その分だけ、生活を切り詰めればよい。
が、もっとも、それにも限度がある。
一方、会社組織で運営している企業は、小回りがきかない。
一度赤字に転落すると、そのまま奈落の底へと転落していく。
そこで企業は、社員数を減らしたりして、「種」だけは残そうとする。
いつかまた景気が回復したとき、その種をまいて、再生をねらう。
が、それにもやはり限度がある。
++++++++++++++++++++++++++++
●株価大暴落
もっている株の株価が10分の1どころか、20分の1、30分の1になってしまった
人もいる。
先日、SCという会社の株をもっていて、1億円を、1000万円にしてしまった人の
話を書いた。
泣くに泣けない状態、とか。
「おおげさかな?」と思って調べてみると、SCという会社の株価は、昨年1年間だけで、
たしかに10分の1になっていた。
が、さらに去年の終わりから、今年にかけて、3分の1になっていることがわかった。
もし今でもその人が、その株価を塩漬けにしていたとすると、現在の評価額は、300
万円ということになる。
1億円が300万円である!
同情したくても、同情のしようが、ない。
ほかに財産のある人ではないので、これだけをみても、その人がいかに落ちこんでいる
かは、容易に察しがつく。
●お金で、ジャブジャブ
一方、世界中が、これだけお金(=マネー)を市中にばらまいているのだから、どこかで、
それを集めている人もいるはず。
経済誌などによれば、アメリカ・ドルも、日本・円も、「ジャブジャブの状態」(経済各誌)
だそうだ。
日本だけでも、50兆円。
アメリカも100兆円。
しかしそういうお金は、どこへ消えているのか?
先日も、S氏(会社社長、70歳)と、そういう話になった。
S氏がいうには、金融機関の救済のために使われている、とのこと。
たとえば0・2%という公定歩合がいかに魅力的なものであるかは、具体的に数字を
放り込んでみると、わかる。
1億円借りて、1年間に返す利息は、たったの20万円。
1億円のマンションを買っても、月々の部屋代が、1万7000円程度ということになる。
5000万円のマンションなら、8000円程度。
つまりそういう形で、世界中が、今、お金で、ジャブジャブになっている。
私が「そういうお金は、庶民のところには回ってこないのですか?」と聞くと、
「天井の上をクルクル回っているだけで、下には落ちてこないよ」とのこと。
そんなわけで、この不況のあとにやってくるのは、猛烈なインフレ。
景気が回復のきざしを見せたとたん、そうなる。
結局は、そのツケは、一般の庶民が負うことになる。
これを『踏んだり蹴ったり』と言わずして、何という。
●じっと耐えるしかない
ここはじっと耐えるしかない。
ジタバタしたところで、どうにもならない。
が、こういうことは言える。
零細企業であろうが、大中の企業であろうが、最後までふんばったほうが勝ち。
その間に、ライバル企業(商店)が、力を落としていく。
そして景気の回復とともに、ふんばった企業が先頭に立って、復活する。
……といっても、それまでがたいへん。
どうやって食いつないくのか……?
今回の不況を、「50年来の不況」とか、「100年来の不況」とか言う人がいる。
それほどまでに深刻ということだが、しかし先が見えないわけではない。
人が生きている以上、そこには(動き)がある。
(動き)があれば、そこに経済がある。
小さな光でも、光が見えれば、回復は早い。
経済というのは、いつも先読みで回復する。
10分の1以下になった株価については、もとに戻ることはないにしても、
20~40%の範囲であれば、もとに戻る可能性は、高い。
まあ、こういうこともあるから、昔からこう言う。
『資産は、分散せよ!』と。
貯金、債権(外債)、国債、金、株……。
ひとつで損をしても、べつのところで儲けていく。
全体として、バランスをとっていく。
それが賢い利殖の仕方ということになる。
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
●赤いパンツ
+++++++++++++++++
何を血迷ったのか、ワイフが赤いパンツ
を買ってきた。
赤といっても、濃い、血のような赤。
「これぼくの?」と聞くと、「そうよ」と。
私の世代で、赤いパンツをはくような男はいない。
「赤」は、「女の色」ということに決まっている。
私「フ~~ン」
ワ「何が?」
私「赤いパンツなんて、生まれて始めてだよ」
ワ「あら、そう。似合うわよ」
私「そうかなあ……」と。
たしかに作りは男性用。
腰にあたるゴムの部分が太い。
それにちゃんとあの部分が袋のようになっている。
しかし、だ。
肝心の穴がない。
私「なあ、これって、女性用じゃ、ないのかア?」
ワ「ちゃんと、男性用コーナーで買ってきたわよ」
私「店員さんが、まちがえてそこに置いたのじゃ、ないのか?」
ワ「そんなことないわよ」
私「……?」
しかし習慣というのは、恐ろしい。
小便のとき、思わず指先で、穴をさがしてしまう。
しかしもとから穴はない。
そこでパンツを指でさぐる。
で、そのとき、やっと気がつく。
「ああ、このパンツには、穴がないのだ」と。
で、教室で、こんな話をした。
わんぱくで、やりたい放題、したい放題の子どもが1人、いる。
小学3年生。
男児。
名前を、H君という。
そのH君に、それとなく、こう言ってみた。
私「あのなあ、ぼくのパンツ、赤だよ」
H「フン」
私「フンって、信じないのか?」
H「信ずるわけがない」
私「本当なんだ。本当に赤なんだ」
H「そんなわけないよ、先生。ウソをつくなら、もっとマシなウソをつきな」
私「何なら、見せてあげようか」
H「ハハハ」と。
子どもでも、信じない。
で、家に帰って再び、パンツの話。
私「やっぱり、このパンツは、女性用だよ」
ワ「だったら、このふくらみは、何よ?」
私「たしかに袋のようには、なっている。でもね、中には、あの部分が大きくふくらん
でいる女性もいるかもしれないよ」
ワ「そんな女性はいないわよ」
私「そうかなあ……?」と。
最近のパンツは、男性用でも、穴がないのか?
あるいは外国では、男性でも、穴のないパンツをはくのか。
しかしどうやって、用を足すのだろう。
考えれば考えるほど、わからない。
私「どうやって、おしっこをするんだ?」
ワ「横から出すとか、上から出せばいいんじゃない?」
私「あのなあ、それはたいへんだよ。いちいち亀の頭を引き出すように、
外へ引き出さなければならない。めんどうだよ」
ワ「じゃあ、そこに穴をあけてあげましょうか」
私「どうするの?」
ワ「ハサミで切ればいいじゃない?」
私「それはまずいよ。それにこんなパンツをはいていたら、交通事故にもあえない」
ワ「どうして?」
私「医者や看護士が、ぼくのことを変態と思うかもしれないよ」
ワ「今どき、思わないわよ」と。
ともかくも、赤いパンツは、はき心地が、どうもよくない。
落ち着かない。
自分の中にできた思考回路を変えるのは、容易なことではない。
私たちの世代の男たちは、ぜったいに赤いパンツは、はかない。
それが私たちの世代の常識なのだア!
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
●思考回路
+++++++++++++++++++++
脳みそというのは、反復性のある行動、思考に
ついては、別回路をつくり、つぎに同じような
行動、思考をするようなとき、その回路にしたがって、
行動したり、思考したりする。
そのほうが、便利だからである。
+++++++++++++++++++++++
このことは、幼児に、同じ絵を何回も描かせてみる
とよくわかる。
たとえば帽子が三角、顔が丸、手と足が「十」に
なった(かかし)を描かせてみる。
「 △
○
十 」
最初はたどたどしく、描き方に迷っていた子どもでも、
4~10回も描くうちに、描き順が定まってくる。
思考回路が決まってきたことを意味する。
こうした思考回路は、無数にある。
たとえば目の前にあるお茶のコップにしても、それを手に
取るとき、指をどのように使うか、それをいちいち考えて
取る人はいない。
自然な形で、しかも何も考えないで、コップを取ることが
できる。
それが思考回路である。
この思考回路には、大きく、つぎのふたつに分けて考える
ことができる。
(1) 手続きや運動に関する思考回路…運動、動作に関する思考回路。
(2) 思考のパターンに関する思考回路…ものの考え方、論理の組み立て方。
「固定常識」(はやし浩司)も、それに含まれる。
ここでいう「固定常識」というのは、常識の中でも、傷口のかさぶたのように、
心の中で、固定してしまった常識をいう。
先日もワイフが私のためにと、赤いパンツを買ってきてくれた。
しかしどうも、はき心地が悪い。
子どものころから、「赤は女の色」と、そういう常識を叩き込まれたせいと
考えてよい(?)。
つまり心理学でいえば、私は、そのとき軽い(役割混乱)を起こしたことになる。
役割混乱…「男の子は男の子らしく」「女の子は女の子らしく」と、子どもは
成長の過程で、そうした(役割)を身につけていく。
だれに教えられるというわけではないが、常識(?)として、身につけていく。
しかしこの(役割)が混乱するときがある。
たとえば男の子に赤いスカートをはかせてみるとよい。
ふつう、子どもは、それに抵抗する。
が、それでもはかせてみると、精神状態そのものがたいへん不安定になる。
(実際には、はかないだろうが……。)
今回の赤いパンツがそうである。
つまり思考回路が、混線する。
たとえば自分でパンツを買いにいくときは、意識することもなく、(男らしい色)を、
私は選ぶ。
青とか、茶色とか、など。
それがここでいう「思考のパターンによる思考回路」という。
しかも、だ。
ワイフの買ってきたパンツには、穴がない!
これはどう理解したらよいのか。
男性用のパンツには、穴がある。
そう決めてかかっているのも、実は、「思考のパターンによる思考回路」ということに
なる。
……しかし、こうした思考回路は、そのつど、できるだけ破壊してみたほうがよい。
破壊したとたん、そこに別の世界が広がる。
話は飛躍するが、ときどき映画を見ながら、私は、それを経験する。
たとえば『シクス・センス』『マトリックス』『ミラーズ』など。
これらの映画は、私に強烈な印象を残した。
またそういう映画は、楽しい。
脳みそがひっくり返るような、衝撃を覚える。
言いかえると、思考回路が、そのときひっくり返ったことになる。
先にも書いたように、そこにはいつも、別の世界が広がる。
予想もしなかったような、別の世界である。
…しかし、パンツだけは、やはり男の色がよい。
もしこの垣根を取り払ってしまうと、自分がどうなってしまうか。
それがこわい。
そのうちリカちゃん人形のコスチュームを着て、街を歩くようになるかもしれない。
私なら、そうなりそう(?)。
だからこわい。
(でも、楽しいだろうな?)
(付記)
少し前、二男夫婦が私の家に泊まったときのこと。
二男が、嫁さんの足の爪を、爪切りで切ってやっているのを、見た。
そのときも、私の頭の中の思考回路が、バチバチと火花が飛ぶのを感じた。
この日本では考えられない光景である。
またそういうことをしてやっている夫を見たことがない。
(もちろん私もしてやったことがない。)
そういう点では、二男夫婦を見ていると、よい勉強になる。
彼らは、教えずして、私にいろいろなことを教えてくれる。
で、思考回路が変更され、それ以後、私も、似たような行動を、ワイフに
してやることができるようになった。
「男だから……」とか、「女だから……」とか、『ダカラ論』で、ものごとを
考えてはいけない。
『ダカラ論』そのものが、私がいう「固定常識」ということになる。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
固定常識 役割形成 役割混乱 常識論 赤いパンツ だから論 ダカラ論 はやし浩司
思考回路 思考パターン)
(追記)
今日も電車の中で、ワイフとこんな会話をした。
もし(あの世)があるとするなら、という前提での話だが、私は、この世こそが、
あの世ではないかと思っている。
つまり本当は、私たちが思っているあの世こそ、リアルな世界で、今、私たちが
生きている(?)、この世が、あの世ではないか、と。
つまり地獄、極楽というのは、(天国、地獄でもよいが)、この世のように、ある、と。
話がわかりにくくなってきたので、こうしよう。
今、私たちが生きている、この世界を、A世界とする。
そして私たちが死んだら行くとされる、あの世(天国)を、B世界とする。
B世界の住人たちは、こんな会話をしている。
X「この世は善人ばかりで、つまらないですなあ。ところで私は、今度、あの世
(A世界)へ、遊びに行ってくることにしましたよ」
Y「どちらの国を選びましたか?」
X「ハハハ、あまり苦労をするのもいやだから、国は、日本という国にしました」
Y「日本ねえ……。そんな国があったのですか」
X「小さな国ですよ。そこでね、私は、思う存分、自由に生きてみたいと思いますよ」
Y「それはいい。あの世(A世界)へ行けば、いろいろと生きる原点のようなものを
体験できるそうですよ」
X「憎しみや悲しみ、喜びや楽しみ……、この世(B世界)には、ないものばかりです」
Y「ところで隣のイエスさん。ご存知ですか? あの方は、向こうでこの世の話をして
きたそうです。今度また、あの世へ行ってみたいと、今、申請を出しているそうですよ」
X「そうですかア。あのイエスさんが、ねえ……。しかしあの世で、この世の話をする
のは、禁止事項ではなかったのですか」
Y「何でも、特別許可をもらったそうです」
X「特別許可ねエ……。私は、もらえそうにもありませんから、ふつうの住民として、
行ってきますよ。まあ、そんなわけで、しばらく、あなたとは連絡を取れませんが、
よろしく」
Y「わかりました。で、何時間ほど、あの世(A世界)へ行ってくるのですか?」
X「一応、申請では、3時間15分ということになっています。向こうの時間では、
76年ということになるそうです」
Y「76年ですかア? みんなあの世へ行ったときは、それを長く感ずるようですが、
帰ってくると、あっという間だったと言いますね。これもおもしろい現象です」
X「そりゃあ、そうですよ。3時間15分ですから……。エート、旅行社がくれた
プログラムによれば、息子が3人できるということになっています」
Y「それはまた、平凡なコースを選びましたねエ」
X「みんなに嫌われて、最期は、どこかの病院でさみしく死ぬという、まあ、そんな
ありきたりのコースですよ」
Y「ハハハ、それもよい経験になりますよ。またあの世(A世界)から帰ってきたら、
みやげ話でもしてください」
X「わかりました。楽しみにしておいてください。で、もうそろそろ行かなくてはいけ
ません。失礼します」
Y「お元気で!」と。
あなたも一度、この世とあの世を、ひっくり返して考えてみては、どうだろうか。
既存の思考回路が、バチバチを音をたてるはず。
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
●法事
++++++++++++++++++
実は今日は、実家の法事で、郷里の
M市に来ている。
M市では、いつも長良川沿いにある
緑風荘という旅館に泊まることにしている。
今、その緑風荘の一室で、この文章を
書いている。
時は、1月22日木曜日、午前5時。
昨夜、風呂に入ったあと、午後9時ごろ、
床についた。
それで、今朝は、午前3時起き。
++++++++++++++++++
●母の日記
実家を整理しているとき、戸棚から、母の日記が出てきた。
2冊、あった。
日記といっても、「何があった」「だれが来た」とかいう、メモ帳のようなもの。
それを先ほどまで、1時間くらいかけて、読んだ。
それを読んで、いろいろ考えさせられた。
「母も1人の人間として、生きていたのだなあ」という思い。
「老後と懸命に闘っていたのだなあ」という思い。
そういう(思い)が、無数に頭の中で折り重なっては、消えた。
が、それについては、もう少し頭の中を整理してから書いてみたい。
今は、ペンディング……ということにしておきたい。
安易にそれについて書くのは、慎みたい。
●日記
私がこうして書いている文章にしても、日記のようなもの。
しかし私の息子たちは、私の文章を読むようなデリカシー(?)は、もっていない。
「いつか読んでほしい」とは思っているが、期待はしていない。
そういう期待は、とっくの昔に、捨てた。
孫の誠司にしても、芽衣にしても、そうだ。
それともいつか、日本語を読めるようになるのだろうか。
読めるようになっても、まず、私の書いた文章は、読まないだろう……。
それに、こういう仕事をしているせいもあるが、私は、今では、
自分の子どもも、他人の子どもも、区別していない。
そう感ずるようになったのは、40歳も半ばごろではなかったか。
反対に、今、生徒の中には、自分の孫のように感ずる子どもが、何人かいる。
毎週、その子どもに会うのが楽しみ。
みな、男児だが、それは言わない。
私がすべきことは、いつも一歩退いて、その子の成長を見守ること。
で、子どもたち(生徒たち)には、いつもこう言っている。
「ぼくはいろいろなことを書いている。
いつか君たちがおとなになったら、ぼくの書いている文章を読んでね」と。
あとで日付を照合すればよい。
そうすれば、たとえば「ああ、このことは、ぼくのことだ」と、わかるはず。
(ただし名前のアルファベットは、そのつど変えているので、注意。
たとえば、麻生君は、HT君というように。ルールは、ない。)
そういう子どもたちも、ひょっとしたら、何人か出てくるかもしれない。
楽しみというより、どこか、切ない(?)。
こうして私は文章を残し、彼らがそれを読むときは、100%、私はこの世にいない。
……そう言えば、住職が読経してくれているときも、その切なさを、心のどこかで
感じた。
母や兄の死を悼(いた)みながら、生きることにまつわる切なさを感じた。
今は今だが、やがてすぐ、私も、母や兄のように、跡形(あとかた)もなく、消える。
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
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