*How can we be me in cCommon Sense?
●世俗性と超越性
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世俗性と超越性は、常に対立する。
対立関係にある。
しかしどちらか一方では、困る。
世俗性を失えば、独善のみちに入りやすくなる。
超越性を失えば、世俗に流されやすくなる。
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私たちは常に世俗の世界に身を置く。
それを土台とするなら、その上で超越性を追求する。
あのピカソにしても、会って話をしている間は、いつもただのオジサンだったという。
(もちろんそうでない画家も多くいるが……。)
しかし世俗と接点を見失ったとたん、その人は世間から遊離してしまう。
人間の価値は他者とのかかわりの中で評価される。
超越性はそれ自体、重要なことかもしれない。
が、世俗とのかかわりを見失ったとたん、独善のワナにはまってしまう。
わかりやすく言えば、「私はぜったいに正しい」と思うのは、その人の勝手。
が、返す刀で、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
それが独善。
一方、私たちは常に、超越性をめざす。
それはとても楽しいことでもある。
というのも、人は、より賢くなってはじめて、それまでの自分が愚かだったことを
知る。
それはちょうど山登りに似ている。
下からだと低そうに見える山でも、登ってみると、意外と視界が広い。
その(広さ)が、そのまま喜びにつながる。
いわば、心の冒険のようなもの。
未知の世界を歩くようなスリルを覚えることもある。
が、やはり世俗を忘れてはいけない。
いくら高尚な教育論を説いても、子どもと接する機会を失ってはいけない。
ある幼稚園の園長が、以前、こんな話をしてくれた。
その園長は、園長になる前、ずっと高校の教師をしていた。
そのこともあって、園長という仕事に、なかなかなじめなかった。
で、ある日、その道半世紀という別の幼稚園の園長に相談すると、こう
教えてくれたという。
「子どもといっしょになって、プロレスをしてごらんなさい」と。
そこでその園長は、さっそく、それを実行してみた。
とたん、子どもの心をつかむことができるようになった。
高校での授業を(超越性)にたとえるなら、幼稚園での指導は、(世俗性)という
ことになる。
(あまりよいたとえではないかもしれないが……。)
もっと言えば、高邁な教育論も大切だが、子どもといっしょに、童心に返って遊ぶと
いう姿勢も大切ということ。
その反対でもよい。
子どもといっしょに、童心に返って遊びながら、その上に教育論を組み立てる。
世俗性と超越性は、心の中で、常に対立する。
言うなれば、その2つは、心の中の暴れ馬のようなもの。
教師は世俗に流されてはいけない。
昔、こんなことを言っていた幼稚園教師がいた。
「あの親は、私にさんざん迷惑をかけておきながら、盆のつけ届けひとつ、よこさない」
と。
世俗性に染まりすぎると、そういうことを平気で口にするようになる。
一方、超越性だけでも、教育はできない。
ある大学の講師は、幼稚園で英語を教えることになったのだが、1週間でギブアップ。
レコードを回して、手で拍子を取らせようとしたが、だれも応じなかったという。
当然である。
すばらしい学者だったかもしれないが、童心に返ることができなかった。
つまり、その2つをうまくコントロールするところに、人生の醍醐味がある。
世俗的でありながらも、世俗から超越する。
超越性を保ちながらも、世俗性を忘れない。
これは人生をより豊かに、楽しく生きるためのコツ。
Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司
●「富士山ナンバー」
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静岡県沼津市のほうへ行くと、「富士山」という
名を冠した、ナンバープレートが目につく。
「富士山12、12-34」とか、など。
そのあたり特製の(?)ナンバープレートだそうだ。
そのナンバーをもらうのに、料金がいるそうだ。
本来なら、「沼津ナンバー」ということだ、そうだ。
その話を聞いて、私はこう言った。
「じゃあ、浜松市は、『うなぎナンバー』というのはどう?」と。
が、ワイフは、こう言った。
「うなぎではねエ……?」と。
そこでいろいろ考える。
「浜名湖ナンバーはどうか?」
「楽器ナンバーはどうか?」
「バイクナンバーはどうか?」
思い切って、オーストラリアのメルボルン市のように、
「ガーデン・シティ」でもよい。
しかしやっぱり、「ギョーザ・ナンバー」がよい。
「ギョーザ123、12-2334」というのは、どうか?
やっぱりだめだろうナ。
Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司
●ガイドのおしゃべり
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ガイドにもよるが、今日のバスガイドは、最悪。
よくしゃべる。
「あの店は有名人がよく来る」とか、「タレントの○○も、よく食べる」とか、など。
どうでよい話ばかり。
おそらく、休みも日は、一日中、テレビばかり見ているのだろう。
通俗のかたまりのような、ガイド。
たわいもない情報を、ペラペラ、ペラペラ、またペラペラ……と。
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●政治家
ワイフがこう言った。
「今度は別のバス会社にしまようよ」と。
私は、すなお同意した。
ガイドなしのバスツアーも、最近はふえている。
そうでなくても、情報過多。
毎日、情報が、大洪水のように押し寄せてくる。
情報の選択だけでも、たいへん。
静かに考えることすら、できない。
ずいぶん前の話しだが、恩師の田丸先生が、こう言った。
「政治家の人たちは、毎日、分刻みで動き回っている。
ああいう人たちは、静かに考える時間をもっているのでしょうかねエ?」と。
その結果が、今である。
AS首相は言うに及ばず、NG財務相もそう。
頭の中は、カラッポ。
情報はぎっしりと詰まっているのだろうが、情報が多いからといって、
(考える人)ということにはならない。
賢い人ということには、ならない。
タカ派はタカ派だが、中曽根元首相のような人物が、なつかしい。
左派は左派だが、三木元首相もそうだ。
今は、ああいう一本筋の通った政治家がいない(?)。
そのつどラベルを張り替えて、カメレオンのように変化する。
●哲学の熟成
その人が、自分の哲学を熟成させるのは、容易なことではない。
10年とか、20年とかの年月を必要とする。
政治哲学となると、さらにそうだ。
悲しいかな、日本には、そういう見本となる人すらいない。
いまだに、坂本竜馬とか、高杉晋作とか、そんな人の名前しか出てこない。
彼らは、本当に、民衆のために戦った人なのか。
民主主義を求めて、戦った人なのか。
あとは推して量るべし。
……ということで、日本の教育論にまで、どうしても話が進んでしまう。
日本の教育は、基本的には、『もの言わぬ従順な民づくり』が、基本。
考える子どもをつくるしくみになっていない。
教師も、学生も、そして生徒も、政治活動をすることが、事実上、禁止されている。
政治の話すら、しない。
先ほどから、またガイドがしゃべりはじめた。
「渋滞ですね……」
「どうしたのでしょう……?」
「同じ観光地へ向かう人が多いのですね……」
「少し動きました……」
「お天気はいいですね……。みなさんの日ごろの心がけがいいですからよ」と。
●老人vs若い人たち
若いガイドから見れば、私たち老人は、みな、バカに見えるのかもしれない。
たしかにそういう老人も多い。
たった今も、トイレ休憩をしたが、手を洗っているとき、私の顔に、咳を吹きかけた
老人がいた。
ムッとして見返すと、私に構わず、洗面器に向かって、痰を這い出していた。
年齢は70歳くらいではなかったか。
しかし、だ。
私たち老人から見ると、今の若い人は、バカに見える(失礼!)。
ますますバカになっていくように感ずることもある。
「ウルサイ!」と叫びたいが、ここはがまん。
これが人間社会。
がまんは、つきもの。
この(がまん)ができなくなったら、私もおしまい。
それこそ本物の老人になってしまう。
(補記)
ガイドの話には、いつも「だから、どうなの?」という部分が、ない。
「このあたりは、鮎釣りの名所として知られています」
「このあたりに、トイレの神様がいます」
「このあたりでは、おいしい草もちが有名です」と。
そういう話を聞くたびに、「それがどうしたの?」と、聞き返したくなる。
それに、どうせすぐ忘れてしまう。
……とまあ、辛らつな批判をさせてもらったが、今日のガイドは、最悪。
どこかで暗記してきたような話を、ペラペラ、ペラペラ、ペラペラ……と。
ウルサイ!
+バカヤロー!
(補記)
うるさくて迷惑かける人と、それによって迷惑をこうむる人は、けっして平等ではない。
静かな人は、だれにも迷惑をかけない。
(迷惑をかける)ということと、(迷惑をかけない)ということは、平等ではない。
おしゃべりで、他人に迷惑をかける人は、もう少し、謙虚になってほしい。
Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司
●おしゃべりな女性
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どこの世界にも、おしゃべりな女性と
いうのはいる。
間断なく、しゃべる。
つぎつぎとしゃべる。
しゃべらなければならないといったふうに、しゃべる。
ペチャペチャ、ペチャペチャ……と。
たまたま今、私はバスの中にいる。
そのうしろの席の女性が、そうだ。
少し前、「もう少し小さい声で話していただけませんか」と
頼んだばかり。
しかし効果は、一時的。
またまたもとの声で、しゃべり始めた。
カラカラ、ケラケラ、カラカラ、ケラケラ……と。
携帯電話は禁止しているのに、おしゃべりは野放し。
この大矛盾を、いったい、どう解釈したらよいのか。
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●女性のおしゃべり
言語中枢は、左脳にあるとされる。
しかし最近の研究によれば、女性のばあい、右脳にもそれがあるらしい。
だから女性は、よくしゃべる……ということになる。
しかしこんな気になる事実もある。
ADHD児というと、男児に多いとされる。
出現率は5%と言われているが、程度の差もあり、実際にはもっと多い。
が、女児にも、いないわけではない。
ただ少し、症状がちがう。
チョコチョコと落ち着きなく動き回ることもあるが、多弁性が、その特徴。
このタイプの女児は、(男児もよくしゃべるが)、とにかくよくしゃべる。
強く注意しても、1~2分も、もたない。
これはある中学生(中2・女子)とした会話だが、こんなふうになる。
私「少しだまっていてくれない」
中「だまっていればいいの?」
私「だから、口を閉じてくれない?」
中「口を閉じたら、苦しいもん」
私「だから、何も言わなくていい」
中「何も言わなくていいの?」
私「静かに……」
中「だって、質問なんかは、どうするの?」
私「だから、そのときは、そのとき」
中「わからないときは、どうするの?」と。
こういう意味のない会話が、いつまでもつづく。
●おしゃべりの特徴
(1) 口先だけで、ペチャペチャとしゃべる。
(2) しゃべり慣れているのか、口の筋肉をほとんど使わない。
(3) 話題がつぎつぎと変わる。
(4) 考えてからしゃべるというよりは、脳に飛来した情報を音声にしている。
(5) 会話の内容が、浅い。
(6) しゃべっている間は、軽い興奮状態になる。
(7) 視線が定まらず、どこかフワフワした状態になる。しゃべっていないときは、
かえって視線が固定する。じっと凝視したようになり、目の生彩が消える。
よくしゃべる人は、(子どももそうだが……)、一見、利発に見える。
しかしそう見えるだけ。
中には、行動をそのまま言葉にする子どももいる。
子「あっ、鉛筆が落ちた……私、鉛筆を拾う……手が届かない……鉛筆が取れない
……鉛筆が取れた……これが鉛筆……」と。
こうした会話は、(会話ではないが)、そのつど注意して抑える。
が、しかし実際には、脳の機能の問題がからんでいるだけに、なおらない。
●うしろの席の女性
さてうしろの席の女性。
この30分ほどの間だけでも、話題が、無数に変化した。
順に話題を、ここに記録してみる。
★ リストラで、○○さんの嫁さんが仕事をやめて、家に入った。
★ 桜は、~~がきれい。
★ 旅行の申し込み方。
★ 「ガラスの森」へ行ってきた。
★ 天気の話。
★ 「分割ボタン?」がどうのこうのという、意味不明の話。
一方の女性が、一方的に話し、横の女性が、それに相槌を打つ。
その相槌に応じて、一方の女性が、またまた別の話題を持ち出す。
よく観察してみると、つぎのような特徴がある。
とくに話題を変えるときの、タイミングというか、スイッチングがうまい。
ビデオ編集の世界にも、「フェイード・イン、フェイード・アウト」という手法がある。
前の映像をぼかしながら、つぎの映像へとつなげていく。
うしろの女性の会話もそうである。
そのフェード・イン、フェイード・アウトが、うまい。
いつ話題が変わったかがわからないような方法で、変わっていく。
先ほどから、その接点をさぐろうとしているが、それがつかめない。
文章のときは、たとえば「ところで……」とか、「話は変わるが……」とか、
そういう書き方をする。
しかし、それがない。
たとえば今もそうだ。
「J店で魚を買ってきた……」
「あそこは、(値段が)高い……」
「駅前の店はどう……?」
「そうそう、あそこはいいわねエ……」
「うちの隣の人も、駅前で買うみたい……」
「どこの人……?」
「ほら、この前、○○会に顔を出したでしょ……」
「ご主人様が、ちょっと、こういう人よ(何かのジェスチャで示しているらしい)」
「だから奥さん、スッ飛んでくるのよ……」
「この前も歯医者へね……」
「頼りになる人がいるといいわねエ……」と。
最大の特徴は、考えるという操作を頭の中でしていないということ。
相手が言ったことに対しても、即座にペラペラとやり返す。
またそれが正しい会話の仕方と思いこんでいるといったふう。
●日本人のマナー
全体としてみると、日本人は、騒音に寛大。
寛大というか、無神経。
以前、バス停やエレベータに、声のガイダンスがついていたことに
驚いていた外人がいた。
自動車のガイダンスに驚いていた外人いた。
さすがに最近は少なくなったが、今でも観光地で観光船の乗ったりすると、
ガンガンとガイドを流すところがある。
「右に見えますのは、~~山、左に見えますのは、~~峠」と。
一方、欧米では、騒音に対して、たいへんうるさい。
1、 2キロ先のニワトリが鳴いただけで、騒動になる。
が、日本ではそうではない。
この国では、おしゃべりなど、何でもない。
だれも気にしない。
だれも注意しない。
しかしそれも(考える習慣)と、深く結びついている。
さらに言えば、文化性の問題?
以前はというと、バスツアーでも、喫煙は自由だった。
カラオケも定番だった。
最近まで、ビデオも定番。
が、今でも女性のおしゃべりは、健在。
カラカラ、キャーッ、ゲラゲラ、ワハハハ……と。
結論を先に言えば、要するに、日本人は、考えないということ。
情報量が多いということを、「賢い」と誤解している。
よくしゃべる人を、利口な人と誤解している。
こうした誤解が、そのまま日本人の常識になっている。
しかし、それはぜったいに、世界の常識ではない。
……ということで、私は、イヤホンを耳につこんで、DVDを
見ることにした。
(補記)
うしろの席の女性について、午後にもう一度、静かにしてほしいと
頼んだ。
しかし効果はやはり、一時的だった。
言い方をまちがえると、相手も不愉快になるだろう。
私のほうも、どうしても遠慮がちになる。
で、結局、その女性は、午前中4時間、午後4時間、ほとんど間断なく、
しゃべりっぱなしだった。
「よくしゃべる」というよりは、どこか病的(?)。
軽くて甲高い声で、ペラペラと早口でしゃべりつづける。
私は何度か目を閉じて眠ろうとしたが、できなかった。
と、同時に、こう思った。
「こんな女性と結婚しなくて、よかった」と。
1日つきあっただけで、気がヘンになりそう。
(相手も、そう思っているだろうが……。)
(ワイフの質問)
その女性について、あとでワイフがこんな質問をした。
「本人には、その自覚はないのかしら?」と。
つまり「自分がおしゃべりということに、気がついていないのかしら?」と。
答は簡単。
「自覚もないし、気がついてもいない」。
……というくらい、自分を知るのはむずかしい。
このタイプの女性は、(男性でもよいが)、むしろ自分は頭がよく、みなを
楽しませる才にたけていると思っている。……思い込んでいる。
「あなたはおしゃべりだね」と言っても、「あら、そう? 楽しかった?」と、
言い返される。
とにかく、口を閉じることができない。
だから昔の人は、こう言った。
『沈黙の価値のわからぬ者は、しゃべるな』と。
沈黙の価値そのものが、理解できない。
Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司
●2月19日
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昨夜、義兄の父が死去。
通夜ということで、仕事から帰ってきたあと、弔問。
そんなわけで、床についたのが、午後11時半過ぎ。
1、 2度、20年ほど前に会っただけだが、このところ
知人の死が、ズシンズシンと心に響く。
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●介護でバラバラになる兄弟、姉妹
ところで同じ昨日、健康診断に行くと、看護婦の人が、
こんな話をしてくれた。
20年も通っていると、それなりに親しくなる。
いわく、「親の介護を10年もしたという話を聞くと、
『ああ、この家族もバラバラになっているだろうな』と
思います」と。
どうしてその看護婦がそういう話をし始めたかはわからない。
しかしそう言った。
つまり、こういうこと。
「親の介護も10年つづくと、子どもたちの関係がおかしくなる」と。
その看護婦は、「親の介護で、家族がバラバラになる」と言った。
すかさず、私も、それに同意した。
「そうですね。介護の負担、介護疲れ、介護費用の問題、それに遺産相続の
問題もからんできますからね。
それに親子いっても、いろいろありますから」と。
私のばあいは、10年というか、実のところ、この40年近くもつづいていた。
介護そのものは、5、6年というところだが、しかしいろいろな問題が、
ひっきりなしにつづいた。
一時は、(というより、そのつど)、気がヘンになりそうになった。
しかし「運命は受け入れる」。
そう自分に言ってきかせて、それを乗り越えることができた。
●運命論
『運命というのは、それを避けようとすると、キバをむいて襲いかかってくる。
しかし受け入れてしまえば、運命のほうから、シッポを巻いて逃げていく』。
これは私が、自分の体験から考えた格言である。
それぞれの人には、それぞれ、どうしようもない問題をかかえている。
親の介護、家族の問題、仕事の問題などがそうだ。
そしてそれぞれの問題が、その人を、思わぬ方向に引っ張っていってしまうことが
ある。
それが「運命」ということになれば、それが運命。
ただこういうことは言えるのではないか。
こうした問題に直面したとき、それを重荷とするか、それとも笑って過ごせるかは、
もっぱらにその人の文化性による、と。
つまりなぜ私たちが常に、自分の文化性を磨くか、磨いていかねばならないかといえば、
こうした問題に直面したとき、うろたえないためではないか。
『浅瀬に仇波(あだなみ)』という諺(ことわざ)があるように、文化性の低い人ほど、
運命を前にして、大騒ぎする。
そうでない人は、そうでない。
●文化性(宗教性)
これはワイフの意見だが、ワイフはこう言った。
「宗教観も必要なのではないかしら」と。
「ほら、キリスト教などでは、愛を説くでしょ。もしマザーテレサがもっていたような
愛の1万分1でも、みなにあれば、たとえば親の介護の問題程度のことで、ガタガタしないわよ」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかしそれ以上に大切なのは、やはりまわりの人たちを思う心ではないか。
それがあればよし。
というのも、親の介護にしても、子どもの世話にしても、きれいごとだけでは
できない。
私も6か月、母の便の世話をしたが、こんなことがあった。
そのあと母は、特養老人ホームに入居した。
それからしばらくしたときのこと。
母が、再び、私の自宅に戻ってくるというような話がもちあがった。
そのときのこと。
それに対して、私は生理的な拒絶反応を示した。
母を嫌うとか、そういうことではない。
「再び、便の始末ができるか」と自問したとき、自分自身の中の私が、猛烈に
それに反発した。
それははげしい拒否反応だった。
……ということで、母を再び、私の自宅に迎えることができなかった。
つまり(きれいごと)だけでは、で・き・な・い。
(あるいはこれは、私の哲学観の欠陥によるものか?)
ともかくも、看護婦の女性の話のように、親の介護が原因で、子どもどうし
(兄弟姉妹)が、いがみあうようになるケースは、少なくない。
だから看護婦の女性は、こう言った。
「私はね、その人が10年も親の介護をしたという話を聞くとね、
ああ、兄弟姉妹は、バラバラだろうなと思いますよ」と。
●では、どうするか
これは私の経験だが、(1)とにかく誠実に、(2)とにかくウソをつかない、
(3)とにかく約束を守る、(4)とにかく他人にグチを言わない。
これだけは、とくに親の介護をするときの、大原則。
この大原則を破ると、兄弟姉妹の関係は、ギクシャクしたものになる。
小さな誤解が、とたんに大増幅し、爆発する。
そしてここが重要だが、一度壊れた人間関係は、元には戻らない。
兄弟姉妹とて、例外ではない。
親の介護には、そういう深刻な問題も含まれる。
なぜか?
親の問題は、それくらい根が深いということ。
兄弟姉妹といえども、親を大木とするなら、枝葉にすぎない。
親の問題でギクシャクすれば、枝葉は当然、揺れる。
私にも姉がいるが、????。
遠方に住んでいることもあって、誤解が誤解を生むということもあった。
だからそうならないように、先の4つの大原則は守る。
これは運命と闘うためのコツということにもなる。
(補足)
しかし(自分の力や努力でどうにかなる問題)については、ふんばる。
土俵際に追いつめられても、ふんばる。
ふんばってふんばりまくる。
そのふんばるところに、人間の生きる価値がある。
ドラマもそこから生まれる。
私たちがなぜ生きているかといえば、そのドラマにこそ、生きる価値が
あるからではないか。
平凡は美徳だが、その平凡からは、何も生まれない。
平凡であることを、喜んではいけない。
Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司
2月17日(火曜日(2009)
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寒い朝だ。
おとといまでの陽気は、昨日の台風並みの風で、
南の彼方へ吹き飛んでしまった。
で、再三再四で恐縮だが、「この世・あの世論」。
今のところ、こんなばかげた(論)を展開しているのは、
どうやらこの私だけのよう。
つまり、この世が、あの世で、あの世が、この世。
わかるかな?
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●実は、この世があの世?
私たちが思っている(この世)、つまり此岸(しがん)こそが、実は、あの世の、
彼岸(ひがん)であるという説。
私たちは、あの世に、天国や地獄があると教えられている。
(極楽と地獄でもよいが……。)
しかし天国も地獄も、みなさんご存知のように、実はこの世にある。
天国に住んでいるような生活をしている人もいれば、地獄に住んでいるような
生活をしている人もいる。
……と考えると、実は、私たちが言っている、(あの世)こそが、実は、元の世界、
つまり(この世)ということではないのか。
私たちは、元の世界(=この世)から、こうしてあの世(=私たちが「現世」と
呼んでいる、この世)へ、やってきた。
そう考えるほうが、何かにつけ、合理的である。
話をわかりやすくするために、こうしよう。
私たちが今、こうして住んでいる世界を、(世界A)とする。
私たちが死んだら行くという、あの世を、(世界B)とする。
たとえばその世界の、(時間的長さ)にしても、世界Aのそれは、あまりにも短い。
長生きをしたとしても、100年前後が限度。
(たったの100年だぞ!)
しかし世界Bでは、時間は永遠。
世界Aとは、比較にならない。
それだけでも、世界Bのほうが、(元の世界)ということになる。
つまり私たちは、世界Bのほうから、ときどき世界Aのほうへやってくる。
ときどきやってきては、天国や地獄を経験する。
世界Aのほうには、天国も地獄もある。
わかりやすく言うと、天国Bの住人たちは、折につけ、世界Aのほうへやってくる。
世界Aのほうへやってきて、天国や地獄を経験する。
もちろん努力によって、世界Aのほうでも、地獄を天国に変えることはできる。
反対に、天国を地獄にしてしまうこともある。
(どういう状態を「天国」といい、どういう状態を「地獄」というかについては、
いろいろな意見があると思うが……。)
……とまあ、突飛もないことを考えているが、そう考えることによって、私たちが
住んでいるこの世界Aを、また別の角度から、眺めることができる。
と、同時に生きるということがどういうことなのか、別の角度から、考えることが
できる。
●かぎりない自己中心性
この世がこの世と思うのは、あまりにも自己中心的。
かぎりなく幼稚。
幼児は、「自分たちが今、ここに住んでいるから、この世界が(元)」と考える。
こうした幼稚性は、自分たちの住んでいる世界から、一歩、外へ出てみるとわかる。
こんな例で考えてみよう。
少し前、息子夫婦が、義理の妹(アメリカ人)を連れて日本へ来た。
そのときのこと。
その妹は、日本の海苔(のり)を食べることができなかった。
寿司屋でも、軍艦寿司は、そのつど海苔をはずして食べていた。
私は、その話をワイフから聞いたとき、心底、驚いた。
どういうわけか、驚いた。
いろいろな話は聞いていたが、海苔を食べられない外人の話は、聞いたことがない。
(あとで、そういう外人も多いということは知ったが……。)
「世界の人は、海苔が好きなはず」と思っていた私は、それだけ自己中心的な
ものの考え方をしていたということになる。
つまりこういうこまかいことが積み重なって、世界Aをつくる。
私たちには常識的な世界かもしれないが、常識そのものが、自分に都合のよいように、
作られていく。
言うなれば、むしろこちらの世界のほうが、虚構の世界ということになる。
もし、世界Bが本当に存在するとするなら、(私は存在しないと思っているが)、
私たちが「この世」と呼んでいる、世界Aのほうこそが、世界Bから見れば、
「あの世」ということになる。
つまり私たちは、この世で、あの世のあの世を生きていることになる。
もしも、本当に、あの世(世界B)があるとするなら……という前提での
話だが……。
Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司
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