Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 15, 2009

*Emotional Quality of Children

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   16日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの社会適応性】

子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っ
ていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示
すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア~い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、
考える人もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考
える前に、それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚
園へ行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しか
し幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながら
に、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚
園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さん
が、「お兄ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。
そこで母親はもう一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザ
を食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。
心理学の世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとか
いう。少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこ
か暴力的で、私は好きではないが……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとし
ている。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がき
かなくなることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、
がんこ。また「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法
で対処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大
切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことに
こだわり、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常
なこだわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先
生に、一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、な
ど。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(が
んこさ)を示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わが
まま」と決めてかかって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめ
る。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、
臨機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔
軟な子どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」という
が……。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここ
でいう人格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた
子どもとみる。

(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度 はや
し浩司 金権教)

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ミニ・パソコンの故障

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愛用のミニパソが、立ち上がらなくなった。
電源ボタンを押しても、画面は真っ暗なまま。
そこでメーカーに問い合わせると、BIOSを
再インストールをしてくれ、とのこと。

BIOSの再インストールだって!
ゾーッ!

そこでHP上での指示に従って、

(1)BIOSファイルをダウンロード、解凍、保存。
(2)それを手持ちのUSBメモリーにコピー。
(3)そのメモリーを挿したまま、FnキーとEscキーを押しながら、
電源ボタンを押す。
(4)しばらくして、パソコンが起動→再起動。
(5)以上の手順を経て、修理完了!

私にもできた、BIOSの再インストール。
ハハハ。
しかしBIOS(バイオス)とは何か?
まったくわかっていないところが、おそろしい。
わかっていないまま、「直った」「直った」と喜んでいる
自分が、おそろしい。

(補記)「BIOS」というのは、Basic Input-Output Systemのことだそうだ。
「基本的な入出力を行うルーチンの集まり。あらかじめキーボードやディスク装置の
ような入出力装置のBIOSを規格化しておくと、様々なコンピュータ環境で、同一の
プログラムを動作させることができる」(標準パソコン用語事典・秀和システム)と
ある。

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【死の受容】

●「これで起こされることもない」

先日テレビを見ていたら、こんなシーンがあった。
ある男性が40数歳の若さで、アルツハイマー病を宣告された。
そのときのこと。
その男性は、こう言った。
「ああ、これで毎朝、思う存分、寝ていられる。起こされることもないと思った」と。

同じような経験だが、私も一度脳腫瘍を疑われて、開頭寸前のところまで
いったことがある。

実はそのとき、私も、同じように思った。
「これで今の仕事から解放される」と。

当時の私は、メチャメチャ忙しかった。
休みは月に1度あるかないかというような状態だった。

●死の受容

そのときがくれば、死の受容は意外と簡単なことではないかということ。
今は元気だから、死ぬのがこわい。
死の宣告をされたときの、自分がこわい。
しかしそれも一時的なもの。
そのときが来たら、そのとき。

ところで数日前、映画『ゴースト』で主役をした男優の記事が、どこかの
ニュースサイトに載っていた。
何でも今、すい臓がんで、闘病中とか。
『ゴースト』に出ていたときのような精悍さは、どこにもなかった。
細胞のひとつひとつから、水分をしぼり取ったような顔つきだった。
その男優はこう言っているという。
「悔しい。怒りがあふれてくる」(記事)と。

年齢は54歳とか。
(まちがっていたら、ごめん!)

「そうだろうな」とか、「そういうものかな」とか、思ったりする。

キューブラー・ロスの『死の受容段階論』を持ち出すまでもない。
人は、いくつかのプロセスを経て、最後は、死を受容するようになる。
そこは実におおらかで、ゆったりとして、満ち足りた世界(?)、だそうだ。
その男優は、ロスの段階論によれば、その一歩手前で、もがき、苦しんでいる(?)。

●大切なことは、完全燃焼

そこで大切なことは、いつ死の宣告をされてもよいように、心の準備だけは
しておくということ。
またそのとき悔いが残らないよう、今、できること、しなければならないことを、
懸命にしておく。
いや、懸命だけでは足りない。
自分を完全燃焼させておく。
それをしないまま、死の宣告を受けたら……?
それこそ、ゾッとする。

一方でぐうたらな生活をしておきながら、「神様、仏様、助けてください」は、ない。

つまり日々の生活の中にこそ、「真の自由」への道が隠されている。
言うまでもなく、「真の自由」とは、「死の恐怖からの解放」をいう。

●統合性

30代や40代の人にしてみれば、60代は、ずっと先の、ありえない
世界のように見えるかもしれない。
私も、そう思っていた。
しかし60代は、あっという間にやってくる。
あなたの人生が、あっという間に、30年、40年、過ぎたように、つぎの
30年、20年も、あっという間にやってくる。

そのとき、統合性の確立している人は、強い。
そうでない人は、そうでない。

統合性……つまり(自分がやるべきこと)と、(現実にしていること)を、
一致させることをいう。
ふつう(やるべきこと)には、苦痛がともなう。
できるなら、しないですませたい。
そういうブレーキも働く。
ふつうのブレーキではない。
強力なブレーキである。
しかし(やるべきこと)をする。

が、現実には、(やるべきこと)は、簡単には見つからない。
10年単位の熟成期間が必要である。
エリクソンという学者は、人生の正午と言われる、40歳くらいから、
それを始めろと説いている。
「60歳になりました。明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木でも植えてきます」
というわけにはいかない。

そこに至るには、それなりの下地というものが必要である。
一朝一夕には、できない。
その下地を、10年とか、20年とかかけて、作りあげる。
コツコツと作りあげる。
で、それには条件がある。

無私無欲、無条件プラス、非営利でなければならない。
我欲が混入したとたん、統合性は霧散する。

●あるべき老後

よく言われるように、孫の世話と庭いじり……。
そんな老後は、理想の老後ではない。
あるべき老後でもない。
またそんな老後を求めてはいけない。

何も老人なったからといって、老人らしく生きる必要はない。
年齢という「数字」にしばられることはない。
60歳から統合性の確立をめざしたところで、遅くはない。
しかし大半の人は、それすらもあきらめてしまう。
あきらめて、あとは年金をアテに、旅行をしたり、趣味の会に
顔を出したりする。
つまり死の待合室で顔を並べる。

●死の待合室

「死の待合室」……その待合室に入ると、明日が今日よりよくなるということは、
ありえない。
来年が今年よりよくなるということは、さらにありえない。
病気にビクビクし、小銭にしがみつき、汲々(きゅうきゅう)として生きる。
脳みその底に、大きな穴があいていることにすら、気がつかない。
それまでの知識や経験が、どんどんと下へ下へと、こぼれ出ていく。
簡単に言えば、どんどんとバカになっていく。
が、それだけではない。

若いころは、気力で、自分の人間性をごまかすことができる。
それらしく善人を装うこともできる。
しかし加齢とともに気力が弱くなり、中身の人間性がモロに表に出てくる。
ごまかしがきかなくなる。

こうして死の待合室の住人たちは、ますます愚かになっていく。
醜くなっていく。

●喜びの原点

死んだら、どうなるか?
死後の世界は、どんな世界か?
それを知るには、目を閉じてみるという方法がある。
しかし、閉じるだけでは足りない。
閉じても、モヤモヤとした暗闇が見える。

死後の世界とは、目を閉じた状態で、あなたの頭のうしろの世界ということになる。
あなたの頭のうしろには、何も見えない。
暗闇さえ見えない。
そこはどこまでもつづく(虚)の世界。
それが死後の世界である。

となると、目を閉じたときに見える暗闇の世界ですら、ありがたい。
近くで光が動けば、それをまぶたの裏で追いかけることもできる。
「生きることの原点」はここにある。

息ができる。
音が聞こえる。
においがわかる。
目が見える。
体が動く。

それを生きる原点つる。
喜びの原点とする。
その原点に立ち返れば、世の中のありとあらゆる問題が、ささいで、つまらない
ものに見えてくる。

●「時」こそ「命」

今という「時」こそが「命」。
生きているという
「証(あかし)」。
あとはその「時」を、どう使うかということ。
時を「財産」にたとえるのは、あまり好きではないが、時にまさる財産はない。
が、その「時」は、生まれたその瞬間から、減っていく。
しかも加齢ともに、加速度的に、減っていく。

若いときの1年は、1年だが、50歳も過ぎると、その1年が半年になる。
60歳もすぎると、その1年が、数か月になる。
あっという間に1日は過ぎ、1週間は過ぎ、1か月は過ぎ、1年は過ぎる。
だとするなら、歳をとればとるほど、濃密に生きなければならない。
健康論に似ている。

若いときは1週間に1、2度の運動で、健康を維持できる。
しかし60歳を過ぎたら、それでは足りない。
毎日運動をしても、足りない。
肉体の健康もそうだが、脳みその健康、精神の健康も、同じに考えてよい。

「命とは何か?」と聞かれれば、そんなわけで、私は「時」と答える。
「今」という、この「時」が、財産。
一瞬一秒たりとも、無駄にできる時間は、ない。

……と考えて、明日もがんばるぞ。
がんばってがんばって、がんばりまくるぞ。
あえて急いでまで、死の待合室に顔を並べることはない。

(目標)
明日は、10キロを歩いてみる。
(自宅)→(佐鳴湖の北)→(舘山寺街道)→(バス)→(市内)。
コースは決まった。

【付記】
若いころ、近所に、小銭にうるさく、守銭奴のような女性がいた。
当時、60歳くらいではなかった。
話すことと言えば、お金の話ばかり。
お金の話だけ。
証券会社に出入りしては、「今日は、いくら儲けた」「今日は、いくら損をした」と、
そんな話ばかりをしていた。
印象に残っているのは、ある日、その女性が、株取引で、50万円儲けたという
話だった。
その女性は、その話で有頂天になっていた。

で、今、その女性は80歳近くになっている。
が、それだけお金に執着しながら、現在の状態はどうかというと、あのころと
まったく変わっていない。
相変わらず、貧乏の底を這うような生活をしている。
世間のうわさでは、かなりの財産をもっているということだが、私は、それは、
彼女一流の、作り話ではないかと思っている。
「金持ち」と思わせることで、他人の心を操っている(?)。
そういう人は、多い。

が、仮に金持ちであるとしても、彼女がもっているお金は、まさに死に金。
「何のために?」と問いかけても、その答が返ってこない。
今は、腰も半分、曲がり、歩くこともままならない。
そんな女性が、いまだに、「お金」「お金」と言っている。
そのおかしさ、そして悲しさ。

その呪縛感から解き放たれないかぎり、その女性には、安穏たる日は
やってこない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●金権教

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お金がすべて……。
お金しか、信じない。
そういう人は、多い。
称して、「金権教」という。

+++++++++++++++++

●戦争の後遺症

あの戦争が残した最大の後遺症と言えば、
金権教と考えてよい。
それまでは天皇が神だった。
その天皇が人間宣言をして、神の座をおりた。
とたん、多くの日本人は、行き場を失ってしまった。
心のより所を失ってしまった。
戦後しばらくの間、放心状態になってしまった人も多い。
戦後、雨後の竹の子のように新興宗教が生まれたのも
そのためと考えてよい。

が、中でも最大の新興宗教といえば、金権教ということになる。
「マネー教」と言ってもよい。
「マネーがすべて」「マネーがあれば幸せ」「マネーがあれば、どんな
夢もかなう」と。
基本的には、現在の日本は、いまだにその(流れ)の中にある。

かなり大ざっぱな書き方をしたが、大筋ではまちがっていない。

●仕事第一主義

ひとつの価値観を妄信すると、他の別の価値観が犠牲になる。
これは私の価値観というよりは、私たちの世代に共通した価値観と言ってもよい。
今でこそ、「仕事より家族のほうが大切」と考える人は多い。
しかし私たちが、20代、30代のころは、そうではなかった。
「仕事か家族か」と問われれば、みな、まちがいなく「仕事」を選んだ。
「仕事あっての家族」と考える人もいた。

だから「仕事」という言葉は、それ自体が、トランプでいえば、ジョーカー
の働きをした。

A「明日、会合に出てくれますか?」
B「私は、仕事がありますから」
A「ああ、それなら結構です」と。

戦前の「お国のため」が、「会社のため」になった。
戦前の「兵士」が、「企業戦士」となった。
仕事第一主義は、そこから生まれた。
「会社人間」という言葉も、そこから生まれた。

しかしそれを裏から支えたのが、金権教ということになる。

●ぜいたくが当たり前

お金がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかしお金では、幸福は買えない。
それもまた事実。
お金で私たちは欲望を満足させることはできる。
しかしその欲望には、際限がない。

戦後生まれの私たちと、今の人たちを比較するのもどうかと思うが、
いろいろな場面で、私は、その(ちがい)を強く感ずる。
とくに今の若い人たちの(ぜいたく)を見たりすると、ときに、それに
ついていけないときがある。

もう15年近くも前のことだが、こんなことがあった。
息子たちが、スキーに出かけた。
スキーをするということ自体、私たちの世代には、考えられないことだった。
どこかの金持ちの、最高のぜいたくということになっていた。
が、その息子が、手ぶらでスキーにでかけ、手ぶらで、スキーから帰ってきた。
「荷物はどうした?」と聞くと、息子たちは、平然とこう答えた。
「宅急便で送った」と。

私には、その(ぜいたくさ)が理解できなかった。
そこで息子たちを叱ったのだが、少しあとになって、そのことを友人に話すと、
「今は、みな、そうだ」という返事をもらった。

あとは、この繰り返し。
それが無数に積み重なって、現代という時代になった。

●あるのが当たり前

しかし今はよい。
何とか日本の経済は、持ちこたえている。
しかし日本の経済が、後退期に入ったら、どうなるか。

たとえば今では、子ども部屋といっても、完全冷暖房が常識。
夏は、一晩中、冷房をかけっぱなしにしている。
冬は、一晩中、暖房をかけっぱなしにしている。
今の子どもたちに、ボットン便所で用を足せと言っても、できないだろう。
何でも、「あるのが当たり前」という生活をしている。

これではいくらお金があっても、足りない。
足りないから、その負担は、結局は、親に回ってくる。
ざっと見聞きした範囲でも、現在、親から仕送りしてもらっている若い夫婦は、
約50%はいるとみてよい。
結婚式の費用、新居の費用、出産の費用などなど。
さらには子ども(=孫)のおけいこ代まで。

しかしこうした(ゆがんだ生活観)を支えているのも、金権教ということになる。
「お金を出してやれば、親子の絆(きずな)は深まるはず」
「お金を出してやれば、子どもは、それに感謝するはず」と。

子どもについて言えば、クリスマスのプレゼントにせよ、誕生日のプレゼントにせよ、
より高価なものであればあるほど、よいということになっている。

●金権教と闘う

金権教といっても、まさにカルト。
一度自分の体にしみついたカルトを抜くのは、容易なことではない。
長い時間をかけて、その人の人生観、さらには人生哲学になっている。

「あなたはまちがっていますよ」と言っても、意味はない。
その人は、かえって混乱状態に陥ってしまう。
言うなら言うで、それに代わる別の価値観を容易してやらなければならない。
……と書いたが、それは私たち自身の問題でもある。

金権教と闘うといっても、金権教自体と闘っても、意味はない。
自分の中に新しい価値観を構築し、その結果として、金権教と闘う。
金権教を自分の中で、無意味化する。

が、だからといって、マネーを否定せよとか、マネーには意味がないとか、
そんなことを言っているのではない。
現代社会では、マネーに背を向けては、生きていけない。
しかし毒されすぎるのも、危険と、私は言っている。
へたをすれば、人生そのものを、棒に振ってしまう。
事実、そういう人は多い。

そこでもしあなたに子どもがいるなら、育児の場で、金権教と闘ってみよう。

(1)子どもには、ぜいたくをさせない。
(2)子どもには、高価なものを買い与えない。
(3)子どもには、必要なものだけを買い与える。

少しテーマがちがうが、あのバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)は、
こう書いている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれ
ど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを
与えられる」と。

要するに、「程度を超えない」ということ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『ミラーズ』

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昨日、T町に住む友人を訪ねながら、帰りに劇場で、
映画を見てきた。
隣町まで行って、映画を見るのは、これがはじめて。
主演は……、だったかな?
題名は、『ミラーズ』。
星は、4つの★★★★。

最後の最後のところで、ドキッとした。
久々に、ドキッとした。
ブルース・ウィリス主演の『シックス・センス』
にまさるとも劣らない衝撃だった。

まっ、劇場で見ても損はない映画。

内容は……、最後のどんでん返しが、おもしろい。
映画も終わって、何でこんなシーンがあるのかなあ……
と思っていると……。
ドキッ!!
(この先は書かないでおきますので、あとはみなさん、
自分で映画をご覧になってください。)
ただしR15。

(注)主演は、キーファー・サザーランド。

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●極楽と地獄

兄が死んで、5ヶ月、母が死んで、3ヶ月になる。
「地蔵十王経」という経典によれば、(この経典は、日本製のまったくの
ニセ経だが)、死んだ人は7日目ごとに10人の大王の審判を受けるという。
10人目は、あのエンマ大王。
その大王の審判を受けて、地獄へ行くか、極楽へ行くかが決まる。
「初七日」とか、「四九日」とかいう法事も、そこから生まれた。

中国では、「七」という数字を嫌うらしい。
一説によると、「七」という漢字は、腹を十の字に切り、その切り口から
血がしたたる様子を表したものという。

で、今日、ワイフとドライブをしながら、こんな会話をした。

私「兄や母は、極楽へ行っただろうか?」
ワ「そうねエ……」と。

で、そのときワイフがおもしろいことを言った。
「極楽と言っても、日本では、おいしいものを食べて、楽しい音楽を聴いて……
という、つまり安楽な世界を言うわね」と。
つまり欲望を満足させてくれる世界を、極楽という、と。

私「となるとね、極楽って、そんなに行きたくないね」
ワ「私も、そんな世界だったら、行きたくないわ」
私「そうだなア。安楽な生活イコール、幸福ということでもないし」と。

たとえば私の母は、何かおいしいものを出してやったりすると、
口癖のように、こう言った。
「極楽や、極楽や……」と。
温泉へ連れていってやったときも、そうだった。
母には母なりの極楽観があったようだ。

では、極楽とは、どんな世界をいうのか。
いろいろ考える。
が、つぎつぎと思い浮かんでは、そのまま消えてしまう。
あえて言うなら、苦しみや悲しみのない世界をいう。
しかし幸福かどうかは、苦しみや悲しみがあってはじめてわかること。
極楽では、どうやってその幸福を実感するのだろう?

私「裸の、ポテポテした体つきの女性が、琵琶(びわ)を弾いているとか……」
ワ「どこかのお寺に、そんな絵が飾ってあったわね」
私「そうだね。しかしポテポテした体つきの女性は、ぼくの好みじゃないよ」
ワ「あら、そう? でもそういう女性は、どこから来たのかしら?」
私「やはり極楽へ来た人ということになるのかな。それとも天女(てんにょ)
かもしれない」

ワ「天女といっても、もとは人間でしょ。それはおかしいわよ」
私「極楽にも、分担があるのかもしれないよ。『君は若くて美しいから、
おっぱいをポロリと出して、琵琶でも弾いていなさい』とか何とか」
ワ「つまりエンターティナーというわけ?」
私「そういうことかなあ……」
ワ「女性をバカにしているわ」と。

このあたりのことを、日本の仏教会は、どのように考えているのだろう。
一度、統一見解というものを、示してほしい。

(1)極楽とはどんな世界を言うのか。(半面、地獄はわかりやすいが……。)
(2)極楽へ行く基準は、あるのか。あるとすれば、その基準を示してほしい。
(3)仏教(=和式仏教)にまつわる男尊女卑観をどう考えているか。
(4)ついでに戒名をつけるのに、なぜ高額の布施が必要なのか。

で、話を戻す。

兄と母は、極楽へ行ったか?
それとも地獄へ行ったか?

私「よいことをしたから、善人というわけではない。悪いことをしなかったから、
善人というわけでもない。善人が善人であるためには、悪と戦わねばならない。
悪と戦ってはじめて、その人は、善人になる」と。

善人ぶることなら、だれにでもできる。
それらしい顔をして、それらしいことを言えばよい。
それらしいボランティア活動をするのもよい。

悪いことをしないから、善人というわけでもない。
もしそうなら、こじんまりと、自分の世界だけで生きればよい。
そうすれば、みな、善人ということになってしまう。

善人が善人であるためには、身近な悪と戦わねばならない。
自分の中に潜む邪悪さと戦うことも大切。
悪と戦って、人は、はじめて善人になる。

そういう意味では、兄にしても、母にしても、自分のしたいことだけをして、
一生を終えた。
とくに悪人というわけではなかったが、しかしここでいう善人の定義には当てはまらない。
地獄へ行くことはないにしても、極楽へ行けるかどうかとなると、私にはわからない。
もっとも、そのために、つまり2人が極楽へ行けるようにするため、法事に法事を重ねる。
親や兄弟が極楽へ行けるようにするのは、残された私たちの努めということになる。

近く母の百か日法要がある。
そのすぐあとには、父の33回忌もある。

しかし、それもよくよく考えてみると、おかしい……?
エンマ大王は、どんな基準で、極楽へ行く人と、地獄へ行く人を決めているのだろう。
観客席で、ワーワーとはやしたてる人が多ければ多いほど、極楽へ行けるとでも
いうのだろうか。

????

そこで登場するのが、輪廻転生論。
人は死ぬと何かに生まれ変わるという、あれである。
この世でよい行いをした人は、生まれ変わったとき、再び人間に生まれることが
できる(?)。
そうでない人は、そうでない(?)。
たとえば動物や虫などに生まれ変わる(?)。
輪廻転生論は、もともとはヒンズー教の教えで、それが釈迦仏教の中に混入した。

しかしこれも、またおかしい。

私はもし生まれ変わることができるとするなら、つぎは鳥に生まれ変わりたい。
そう願っている。
が、チベット密教によれば、鳥に生まれ変わることは、最悪(=地獄)と考えられて
いる。
チベットでは、今でも鳥葬(死者は切り刻まれ、鳥の餌となる)が行われている。
だから鳥は不吉な動物ということになっている。
動物を人間より下等にみる。
しかしそうした生物観は、どこから生まれるのか?

とまあ、考えれば考えるほど、矛盾が生まれてくる。

……ということで、昔、私の祖父が口癖のように言っていた言葉を思い出す。
「地獄も極楽も、この世」と。

この考え方だったら、私もすなおに納得できる。
要は生き様、生き方の問題。
その中身で、地獄も極楽も決まる。

と、考えていたら、本当に、「極R湯」という看板が目についた。
このあたりでも評判の大浴場である。
行った人が、みな、「よかった」と言っている。
私たちも一度は……と思いつつ、その機会がなくて、今日になった。

ワ「今度、行ってみたいわ」
私「そうだな。名前がいい。ぼくの友だちの中にも、常連客が多い」
ワ「極楽みたいだから、極R湯って、言うのよ。ハハハ」
私「ハハハ」と。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
地獄 地獄論 地獄と極楽 極楽論 極楽 地獄 輪廻転生 輪廻転生論)


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