Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, March 08, 2009

*March 9th 2009

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.QQ ∩ ∩ QQ         
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○   
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 3月 9日
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★★★HTML版★★★
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●失錯行為

+++++++++++++++++

思わず本音がポロリと出る……ということは、
よくある。
口にしてはいけないと思っていると、かえって
それが口から出てきてしまうこともある。
たとえば話している相手が、かなりの肥満体で、
内心では、「肥満の話はしてはいけない」と
思っていても、ふと話題が肥満に向いてしまう、など。

こういう行為を、失錯行為という。
私も、最近、この種の失敗をよくする。
脳みその緊張感が、それだけゆるんできたという
ことか?
が、これは、老後を迎える私たちにとっては、
深刻な問題と考えてよい。

++++++++++++++++++

●緊張感の減退

子どもとこんな会話をしたことがある。

ある日、デスクの上を見ると、昨日までそこにあったビーズ玉で作った
ネックレスがない。
「?」と思いつつも、ネックレスのことは忘れた。
が、レッスンが終わって、あいさつがすんだときのこと。
A子さん(小2・女児)に、「A子さん……」と声をかけた。
私はそのとき何か別の用があって、そう声をかけた。
が、A子さんは、すかさず、こう言い返した。
「私、何ももっていっていません」と。

瞬間、何のことかわからなかったが、ネックレスをもっていったのは、
A子さんと、私はわかった。
こういうのを失錯行為という。
A子さんは、私が声をかけたとたん、思わず、そう言い返してしまった。
そのとき私は、「子どもでも、失錯行為をするんだなあ」とまあ、へんな感心をした。

……ということだが、私自身も最近、ときどきこの失錯行為を経験する。
先にも書いたように、それだけ脳みその緊張感がゆるんできたということになる。
が、こうした傾向は、加齢とともに、ますます大きくことはあっても、小さくなる
ことはない。
自己管理能力そのものが、衰退する。

たとえば講演をしているようなとき、私は同時に脳みそが2つの部分で機能して
いるのを感ずる。
ひとつは、話している内容について機能している部分。
もうひとつは、そういう自分を別のところから客観的に判断している部分。
「残りの時間は、あと15分だぞ。そろそろまとめに入れ」とか、など。

コンピュータにたとえるなら、デュアル・コアということになるのか。
2つの仕事を、脳みそが同時進行の形で、処理している。
つまりその客観的に判断している部分の昨日が衰退する。
だから「思わず……」ということが多くなる。
が、この程度ですめば、まだよいほう。
もう少し進むと、いわゆるボロが出る、ということになる。

●ボロが出る

私の中心部に、(私の人間性)があるとする、
その(私の人間性)を包むように、無数の(私)がある。
中心部にある私を(芯)とするなら、まわりの私は、(皮)ということになる。
タマネギを想像すると、わかりやすい。

たとえば教室で美しい母親を見たとする。
そういうとき、「美しい人だな」と思う。
裸で肌をこすり合わせたら、さぞかし気持ちよいだろうなと思う。
思うが、そういうふうに思っていることを、相手の母親に悟られてはならない。
つまりそういうふうに思っていることを悟られないように、自分をコントロールする。
そういう力を、自己管理能力という。
(発達心理学でいう「自己管理能力」とは、少し意味がちがうかもしれない。)

その自己管理能力の元になっている力が、「気力」ということになる。
私はさも聖人であかのようなフリをして、「そういうことには興味はありません」
というような様子をしてみせる。

そういうふうに自分を隠す部分が、先に書いた、タマネギの皮の部分ということになる。
このタマネギの皮の部分ばかりが肥大化すると、仮面、つまりペルソナということに
なるが、そこまで深刻な問題ではない。
だれしも、その程度の(皮)はかぶる。
タクシーの運転手が、客に愛想がよいのも、店の若い女性が、ていねいな言い方を
するのも、多かれ少なかれ、この(皮)による。
わかりやすく言えば、「営業用の顔」。

しかし加齢とともに、その(皮)が薄くなる。
薄くなって、ボロが出る。
もしそれがわからなければ、老人ホームにいる老人たちを見ればよい。
彼らの多くは、自分をむき出しにして生きている。

●奥の人間性

だれしもタマネギの芯のような部分をもっている。
それはそれとして、その(芯)がよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、かなり警戒したほうがよい。
加齢とともに、その(芯)が、だれの目にもわかるようになる。

たとえばこの私は、芯となる素性が、あまりよくない。
自分でもそれがよくわかっている。
よく誤解されるが、(芯)は、人間性の問題。
生き様の問題。
経歴や学歴では決まらない。
頭のよさとも関係ない。
しかも長い年月をかけて、自分の中で熟成されるもの。

善人ぶることは簡単なこと。
それらしい顔をして、それらしい話をして、それらしく行動すればよい。
政治家の中には、この種の人間は、いくらでもいる。
しかし一度自分の中にしみついた(悪)を、自分から取り除くのは、
容易なことではない。

ほとんどのばあい、一生、残る。
死ぬまで残る。

それはちょうど健康論に似ている。
若いころは持病があっても、体力でそれをごまかすことができる。
しかしその体力が弱くなってくると、持病がドンと前に出てくる。

●では、どうするか?

若いころから、しかしできれば幼児期から、自分の人間性を磨くしかない。
「幼児期から?」と思う人もいるかもしれないが、幼児を見れば、すでに
その幼児の中に、どんな(芯)ができているかがわかる。

もちろんその(芯)を作るのは親ということになる。
とくに母親から受ける影響が大きい。
母親が正直で、まじめな人だと、子どもも、正直で、まじめになる。
しかもこうした連鎖は、教えずして、子どもに伝わる。

たとえば車の運転中に携帯電話がかかってきたとする。
そういうとき賢い母親は、そばにいる子どもに、代わりに電話に出させる。
「あなた、電話に出て。ママは運転中だから」と。
しかしそうでない母親は、そうでない。
子どものいる前でも、平気でルールを破る。
何気なく、破る。
携帯電話を片手に、平気で運転をつづける。
そういう姿を見て、子どもは、自分の中に(芯)を作っていく。

もう、答はおわかりかと思う。

私たちの中にある(芯)、つまり人間性は、日々の研鑽のみによって、作られる。
一瞬一瞬の行為が積み重なって、その人の人間性を作る。
といっても、これは難しいことではない。

約束を守る。
ウソをつかない。
この2つだけを積み重ねていく。
どんなばあいにも、子どもがいても、いなくても、それを守る。
こうした努力が、10年、20年……とつづいて、芯をつくる。
またそういうよい芯がしっかりしていれば、老後になっても、何も恐れる必要はない。

が、いくつかのコツがある。

私も努めてそうしているが、40歳を過ぎたら、つきあう人をどんどんと選択する。
とくに小ズルイ人は、避けたほうがよい。
もちろん悪人とはつきあわない。
そういう人と接していると、こちらの人間性までゆがんでくる。
若いときならまだしも、そういう人たちと交際して、無駄にできる時間は、もうない。
小ズルイ人とつきあっていると、そのつど、自分の人間性が逆戻りしていくのが
わかる。
とくに私のように、もともと素性がよくない人間はそうである。

で、あとは自然体。
なりゆきに任す
『類は友を呼ぶ』の格言どおり、あなたのまわりには、そういう人たちが集まってくる。
そうでない人は、あなたから遠ざかっていく。
人間性を磨くとは、そういうことをいう。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 失錯
失錯行為 ボロ 人間性)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●無意識下のウソ

++++++++++++++++++

ウソにもいろいろある。
その中でも本心から、ウソをつくときがある。
「本心から」というのも、おかしな言い方に
聞こえるかもしれない。
しかし自ら本心を偽りながら、ウソをつく。
もちろんウソという認識はない。
本人は、自分の心を作り変えることで、
ウソをウソと思わなくなる。

++++++++++++++++++

●子ども二態

こんな現象がある。
これはあくまでも一般論だが、どこかの試験会場のようなところで試験を受けて
きたような子どもに、こう聞く。
「どう、できた?」と。

そのとき、「うん、まあまあできたよ」と言う子どもは、たいてい結果がよくない。
「むずかしかった」「できなかった」と言う子どもは、たいてい結果がよい。

理由がある。

試験を受けてみて、むずかしい点がわかる、できなかったところがわかる、というのは
それだけ試験の内容が理解できたことを意味する。

むずかしかったところや、できなかったところを、集中的に気にする。
だから「できなかった」と言う。
一方、それすらもわからない子どもは、つまり自分ができなかったことすらわからない
そこで子どもは、「まあまあ、できた」と言う。
自分ができたところだけを過大に評価する。

ともにウソを言っているわけではない。
自分でそう思い込んでいるから、そう言う。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

【本心論】

●認知的不協和理論

さて、本心論。
心理学の世界に、「認知的不協和理論」という理論がある。
アメリカの心理学者のフェスティンガーの発表した理論である。
人は自分の中に矛盾を感じたとき、どちらか一方を否定し、どちらか一方を合理化
することによって、その矛盾を解消しようとする。
その中間状態、つまり中途半端な状態にあるとき、人間の心理はたいへん不安定に
なる。
こうした不安定な状態は、『フリップ・フロップ理論』という理論で、説明される。

箱でもどちらか一方に倒れているときは、安定する。
しかし角で立てるなど、中途半端な状態だと、フラフラして落ち着かない。
「フリップ・フロップ」というのは、「フラフラしている」という意味である。
人間の心理もまた、同じ。
どちらかに心を決めてしまえば、落ち着く。
しかし中途半端だと、ずっと不安定なまま。
よくある例は、無神論の人が、有神論になるとき。
あるいは有神論の人が、無神論になるとき。
人間の心は、きわめて不安定になることが知られている。

が、このようにわかりやすいケースのほうが、少ない。
認知的不協和理論を説明するとき、心理学のテキストによく登場するのが、喫煙。
「タバコを吸うのは、体に悪い」、しかし「タバコを吸わざるをえない」と。
こういうばあい、その人は、(吸ってはだめ)(吸いたい)という矛盾の世界で、
葛藤する。
が、タバコを吸うのをやめることはできない。
そこでタバコを吸っていても元気な、80歳や90歳の人がいることを理由に、
自分を合理化しようとする。
「タバコを吸っていても、元気な人はいくらでもいる」と。

子どもの世界でもで、認知的不協和の状態は、よく観察される。
たとえばこんな例がある。

A君(中3)は、3日後に、大きなテストを控えている。
そんなとき、仲のよい友人が、遊びに来た。
A君は、テスト勉強をしなければならない。
しかし友人と遊んでいると楽しい。
こういうとき、A君は心理は、認知的不協和状態になる。

が、その状態を長く保つのは、むずかしい。
そこでA君は、テスト勉強があるから、友人に帰ってもらうか、
さもなければ、「テストはだいじょうぶ」と自分に言い聞かせることで、
友人と遊びつづけるかの、選択に迫られる。

で、A君は、後者のほうを選択した。
「今度のテストは簡単なものだ」という、別の友人の言葉を何度も頭の中で
繰り返すことで、自分を安心させた。

●深刻な例

B氏(40歳・男性)は学生時代から、無神論者だった。
無神論にもいろいろな程度があるが、B氏のばあいは、完全な無心論者だった。
しかし妻のほうは、そうではなかった。
どこかにそういう下地があったのだろう。
妻の家族はみな、急進的な宗教団体として知られているX教団の信者だった。
ある日突然、(本当はそれ以前から、夫に隠れて信仰していたのだが)、
X教団に入信してしまった。

X教団では、離婚することを強く戒めていたが、B氏は、そこで大きな選択を
迫られることになった。
B氏自身も入信するか、さもなければ、離婚か、と。
先にあげたフリップ・フロップ理論を借りるまでもなく、B氏の心理状態は、きわめて
不安定になった。
不安定ということは、心の緊張状態が取れないことをいう。
人間の心理は、緊張状態の程度にもよるが、それほど長くは、その緊張状態に
耐えられない。

結果、A氏はこう考えた。

「私の妻は、20年近く、私のためにがまんしてくれた。
つぎの20年は、私が妻のためにがまんする番だ」と。
B氏も、つづいてX教団に入信した。

●合理化

認知的不協和理論を考えていくと、何が本心で、何が本心でないかが、
よくわからなくなってくる。
本心と思っている(心)にしても、そのときの状況や雰囲気、環境によって、
自らがそう思い込んでいるだけというケースも少なくない。

心理学でいう(合理化)も、そのひとつということになる。

たとえば買ったばかりの宝くじの券を、どこかで落としてしまったとする。
そういうときその人は、「どうせあのクジははずれ券」と、自分をなぐさめる。
なぐさめることによって、損をしたという思いを打ち消す。

こうした心理操作は、私たちは日常の生活の中で、連続的にしている。
連続的にしながら、自分の本心(?)を作り上げていく。

子どもの世界でも、よくある。

先日も、C子さん(小6・女児)が、「私はおとなになったら、弁護士になる」と言った。
そこで私が、「本当になりたいの?」と何度も念を押したのだが、C子さんは、その
つど、しっかりと、「そうです」と答えた。

私「本心から、そう思っているの?」
C「もちろん」
私「でもどうして弁護士なの?」
C「弱い人の味方になりたいから」
私「じゃあ、どうやって、弱い人の味方になるの?」
C「……それは、わからない」と。

C子さんは、「弁護士になる」ということを口にしながら、家で、自分の立場を確保していた。
それを口癖にすれば、家で、わがままを通すことができた。
家事も手伝わないですんだ。

つまり「わがままを言いたい」「家事を手伝いたくない」という思いが別にあって、
C子さんは、「弁護士」という言葉を使うことを選んだ。
「弁護士になるために勉強する」と言えば、すべての手伝いや家事から解放された。
ほしいものは、何でも買ってもらえた。

●タバコ

こんな例もある。

Dさん夫婦は、Y教という、あるカルト教団の熱心な信者だった。
Y教というのは、手かざしで病気を治すという話で、よく知られている教団である。
が、10歳になった息子が、ある日、病気になってしまった。
どんな病気だったかは知らないが、Dさん夫婦は、病院へは連れていかなかった。
そのかわり、Y教の支部へ連れていった。
手かざしで息子の病気を治そうとした。
が、残念なことに、手かざしで治るような病気ではなかった。
息子はそれからしばらくして、死んでしまった。

ふつうならDさん夫婦は、Y教のインチキに気づき、Y教から離れる。
が、離れなかった。
離れられなかった。
かえってDさん夫婦は、さらに熱心な信者になってしまった。
しかし、これも認知的不協和理論を当てはめて考えてみると、理解できる。

もしY教がインチキだとするなら、息子を殺したのは、Dさん夫婦と自身いうことに
なってしまう。
そのとき病院へ連れていけば、治ったような病気である。
あとでそれがわかったが、Dさん夫婦がおかしな宗教を信じたために、息子は死んでしまった。
が、この事実を受け入れるのは、Dさん夫婦には、たいへんむずかしい。
そこでDさん夫婦は、より熱心な信者になることによって、その罪の意識から
逃れようとした。
「息子が死んだのは、私たちの信仰が足りなかったから」と。

●本心論

さて、本心論。
しかしこの「本心」ほど、アテにならないものはない。
卑近な例で考えてみよう。
私のワイフは、「お前は、ぼくのような男と結婚して、後悔していないか?」と
聞く。
するとかならず、「後悔していない」と答える。
そこで私が、「それはお前の本心ではないと思う」と言うと、「本心よ」と答える。
しかしこういう本心(?)は、まず、疑ってかかってみたほうがよい。

ワイフはワイフで、いろいろな場面で、認知的不協和状態になり、それを打開する
ために、私との関係を合理化してきた。
若いころの私は、男尊女卑的な思想をかなり強くもっていた。
仕事ばかりしていて、家庭を顧みなかった。
ワイフはそのつど、私との結婚に、疑問をもったにちがいない。
それをワイフは、心のどこかで感じていた(?)。
そのつど、自分を合理化することで、矛盾を別の心の中で、押しつぶしてきた(?)。

その結果が(今)であり、(ワイフの本心?)ということになる。
だからこの段階で、「後悔している」と認めることは、結婚生活そのものの否定につながる。
離婚程度で解決するような問題ではない。
その苦しさに耐えるくらいなら、自分の心をごまかしてでも、合理化したほうが得(?)。
だから「本心よ」と答える。

……と考えていくと、本心とは何か、ますますわからなくなってくる。
しかもこの本心というのは、他人によって作られるものではなく、自分によって
作られるもの。
だからよけいに、タチが悪い。
わけがわからなくなる。

実のところ私の中にも、本心と言ってよいものが、無数にある。
しかしその中でも、本当に、これが本心と言えるものは、ひょっとしたら、
ほとんどないのではないか。
「本心」というものは、そういうもの。
つまりずいぶんといいかげんなもの。
本心論を考えていると、そういう結論になってしまう。
さて、あなたはどうか?

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
本心論 認知的不協和理論 フェスティンガー 合理化 正当化 自己正当化)

●失錯行為

+++++++++++++++++

思わず本音がポロリと出る……ということは、
よくある。
口にしてはいけないと思っていると、かえって
それが口から出てきてしまうこともある。
たとえば話している相手が、かなりの肥満体で、
内心では、「肥満の話はしてはいけない」と
思っていても、ふと話題が肥満に向いてしまう、など。

こういう行為を、失錯行為という。
私も、最近、この種の失敗をよくする。
脳みその緊張感が、それだけゆるんできたという
ことか?
が、これは、老後を迎える私たちにとっては、
深刻な問題と考えてよい。

++++++++++++++++++

●緊張感の減退

子どもとこんな会話をしたことがある。

ある日、デスクの上を見ると、昨日までそこにあったビーズ玉で作った
ネックレスがない。
「?」と思いつつも、ネックレスのことは忘れた。
が、レッスンが終わって、あいさつがすんだときのこと。
A子さん(小2・女児)に、「A子さん……」と声をかけた。
私はそのとき何か別の用があって、そう声をかけた。
が、A子さんは、すかさず、こう言い返した。
「私、何ももっていっていません」と。

瞬間、何のことかわからなかったが、ネックレスをもっていったのは、
A子さんと、私はわかった。
こういうのを失錯行為という。
A子さんは、私が声をかけたとたん、思わず、そう言い返してしまった。
そのとき私は、「子どもでも、失錯行為をするんだなあ」とまあ、へんな感心をした。

……ということだが、私自身も最近、ときどきこの失錯行為を経験する。
先にも書いたように、それだけ脳みその緊張感がゆるんできたということになる。
が、こうした傾向は、加齢とともに、ますます大きくことはあっても、小さくなる
ことはない。
自己管理能力そのものが、衰退する。

たとえば講演をしているようなとき、私は同時に脳みそが2つの部分で機能して
いるのを感ずる。
ひとつは、話している内容について機能している部分。
もうひとつは、そういう自分を別のところから客観的に判断している部分。
「残りの時間は、あと15分だぞ。そろそろまとめに入れ」とか、など。

コンピュータにたとえるなら、デュアル・コアということになるのか。
2つの仕事を、脳みそが同時進行の形で、処理している。
つまりその客観的に判断している部分の昨日が衰退する。
だから「思わず……」ということが多くなる。
が、この程度ですめば、まだよいほう。
もう少し進むと、いわゆるボロが出る、ということになる。

●ボロが出る

私の中心部に、(私の人間性)があるとする、
その(私の人間性)を包むように、無数の(私)がある。
中心部にある私を(芯)とするなら、まわりの私は、(皮)ということになる。
タマネギを想像すると、わかりやすい。

たとえば教室で美しい母親を見たとする。
そういうとき、「美しい人だな」と思う。
裸で肌をこすり合わせたら、さぞかし気持ちよいだろうなと思う。
思うが、そういうふうに思っていることを、相手の母親に悟られてはならない。
つまりそういうふうに思っていることを悟られないように、自分をコントロールする。
そういう力を、自己管理能力という。
(発達心理学でいう「自己管理能力」とは、少し意味がちがうかもしれない。)

その自己管理能力の元になっている力が、「気力」ということになる。
私はさも聖人であかのようなフリをして、「そういうことには興味はありません」
というような様子をしてみせる。

そういうふうに自分を隠す部分が、先に書いた、タマネギの皮の部分ということになる。
このタマネギの皮の部分ばかりが肥大化すると、仮面、つまりペルソナということに
なるが、そこまで深刻な問題ではない。
だれしも、その程度の(皮)はかぶる。
タクシーの運転手が、客に愛想がよいのも、店の若い女性が、ていねいな言い方を
するのも、多かれ少なかれ、この(皮)による。
わかりやすく言えば、「営業用の顔」。

しかし加齢とともに、その(皮)が薄くなる。
薄くなって、ボロが出る。
もしそれがわからなければ、老人ホームにいる老人たちを見ればよい。
彼らの多くは、自分をむき出しにして生きている。

●奥の人間性

だれしもタマネギの芯のような部分をもっている。
それはそれとして、その(芯)がよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、かなり警戒したほうがよい。
加齢とともに、その(芯)が、だれの目にもわかるようになる。

たとえばこの私は、芯となる素性が、あまりよくない。
自分でもそれがよくわかっている。
よく誤解されるが、(芯)は、人間性の問題。
生き様の問題。
経歴や学歴では決まらない。
頭のよさとも関係ない。
しかも長い年月をかけて、自分の中で熟成されるもの。

善人ぶることは簡単なこと。
それらしい顔をして、それらしい話をして、それらしく行動すればよい。
政治家の中には、この種の人間は、いくらでもいる。
しかし一度自分の中にしみついた(悪)を、自分から取り除くのは、
容易なことではない。

ほとんどのばあい、一生、残る。
死ぬまで残る。

それはちょうど健康論に似ている。
若いころは持病があっても、体力でそれをごまかすことができる。
しかしその体力が弱くなってくると、持病がドンと前に出てくる。

●では、どうするか?

若いころから、しかしできれば幼児期から、自分の人間性を磨くしかない。
「幼児期から?」と思う人もいるかもしれないが、幼児を見れば、すでに
その幼児の中に、どんな(芯)ができているかがわかる。

もちろんその(芯)を作るのは親ということになる。
とくに母親から受ける影響が大きい。
母親が正直で、まじめな人だと、子どもも、正直で、まじめになる。
しかもこうした連鎖は、教えずして、子どもに伝わる。

たとえば車の運転中に携帯電話がかかってきたとする。
そういうとき賢い母親は、そばにいる子どもに、代わりに電話に出させる。
「あなた、電話に出て。ママは運転中だから」と。
しかしそうでない母親は、そうでない。
子どものいる前でも、平気でルールを破る。
何気なく、破る。
携帯電話を片手に、平気で運転をつづける。
そういう姿を見て、子どもは、自分の中に(芯)を作っていく。

もう、答はおわかりかと思う。

私たちの中にある(芯)、つまり人間性は、日々の研鑽のみによって、作られる。
一瞬一瞬の行為が積み重なって、その人の人間性を作る。
といっても、これは難しいことではない。

約束を守る。
ウソをつかない。
この2つだけを積み重ねていく。
どんなばあいにも、子どもがいても、いなくても、それを守る。
こうした努力が、10年、20年……とつづいて、芯をつくる。
またそういうよい芯がしっかりしていれば、老後になっても、何も恐れる必要はない。

が、いくつかのコツがある。

私も努めてそうしているが、40歳を過ぎたら、つきあう人をどんどんと選択する。
とくに小ズルイ人は、避けたほうがよい。
もちろん悪人とはつきあわない。
そういう人と接していると、こちらの人間性までゆがんでくる。
若いときならまだしも、そういう人たちと交際して、無駄にできる時間は、もうない。
小ズルイ人とつきあっていると、そのつど、自分の人間性が逆戻りしていくのが
わかる。
とくに私のように、もともと素性がよくない人間はそうである。

で、あとは自然体。
なりゆきに任す
『類は友を呼ぶ』の格言どおり、あなたのまわりには、そういう人たちが集まってくる。
そうでない人は、あなたから遠ざかっていく。
人間性を磨くとは、そういうことをいう。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 失錯
失錯行為 ボロ 人間性)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●無意識下のウソ

++++++++++++++++++

ウソにもいろいろある。
その中でも本心から、ウソをつくときがある。
「本心から」というのも、おかしな言い方に
聞こえるかもしれない。
しかし自ら本心を偽りながら、ウソをつく。
もちろんウソという認識はない。
本人は、自分の心を作り変えることで、
ウソをウソと思わなくなる。

++++++++++++++++++

●子ども二態

こんな現象がある。
これはあくまでも一般論だが、どこかの試験会場のようなところで試験を受けて
きたような子どもに、こう聞く。
「どう、できた?」と。

そのとき、「うん、まあまあできたよ」と言う子どもは、たいてい結果がよくない。
「むずかしかった」「できなかった」と言う子どもは、たいてい結果がよい。

理由がある。

試験を受けてみて、むずかしい点がわかる、できなかったところがわかる、というのは
それだけ試験の内容が理解できたことを意味する。

むずかしかったところや、できなかったところを、集中的に気にする。
だから「できなかった」と言う。
一方、それすらもわからない子どもは、つまり自分ができなかったことすらわからない
そこで子どもは、「まあまあ、できた」と言う。
自分ができたところだけを過大に評価する。

ともにウソを言っているわけではない。
自分でそう思い込んでいるから、そう言う。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

【本心論】

●認知的不協和理論

さて、本心論。
心理学の世界に、「認知的不協和理論」という理論がある。
アメリカの心理学者のフェスティンガーの発表した理論である。
人は自分の中に矛盾を感じたとき、どちらか一方を否定し、どちらか一方を合理化
することによって、その矛盾を解消しようとする。
その中間状態、つまり中途半端な状態にあるとき、人間の心理はたいへん不安定に
なる。
こうした不安定な状態は、『フリップ・フロップ理論』という理論で、説明される。

箱でもどちらか一方に倒れているときは、安定する。
しかし角で立てるなど、中途半端な状態だと、フラフラして落ち着かない。
「フリップ・フロップ」というのは、「フラフラしている」という意味である。
人間の心理もまた、同じ。
どちらかに心を決めてしまえば、落ち着く。
しかし中途半端だと、ずっと不安定なまま。
よくある例は、無神論の人が、有神論になるとき。
あるいは有神論の人が、無神論になるとき。
人間の心は、きわめて不安定になることが知られている。

が、このようにわかりやすいケースのほうが、少ない。
認知的不協和理論を説明するとき、心理学のテキストによく登場するのが、喫煙。
「タバコを吸うのは、体に悪い」、しかし「タバコを吸わざるをえない」と。
こういうばあい、その人は、(吸ってはだめ)(吸いたい)という矛盾の世界で、
葛藤する。
が、タバコを吸うのをやめることはできない。
そこでタバコを吸っていても元気な、80歳や90歳の人がいることを理由に、
自分を合理化しようとする。
「タバコを吸っていても、元気な人はいくらでもいる」と。

子どもの世界でもで、認知的不協和の状態は、よく観察される。
たとえばこんな例がある。

A君(中3)は、3日後に、大きなテストを控えている。
そんなとき、仲のよい友人が、遊びに来た。
A君は、テスト勉強をしなければならない。
しかし友人と遊んでいると楽しい。
こういうとき、A君は心理は、認知的不協和状態になる。

が、その状態を長く保つのは、むずかしい。
そこでA君は、テスト勉強があるから、友人に帰ってもらうか、
さもなければ、「テストはだいじょうぶ」と自分に言い聞かせることで、
友人と遊びつづけるかの、選択に迫られる。

で、A君は、後者のほうを選択した。
「今度のテストは簡単なものだ」という、別の友人の言葉を何度も頭の中で
繰り返すことで、自分を安心させた。

●深刻な例

B氏(40歳・男性)は学生時代から、無神論者だった。
無神論にもいろいろな程度があるが、B氏のばあいは、完全な無心論者だった。
しかし妻のほうは、そうではなかった。
どこかにそういう下地があったのだろう。
妻の家族はみな、急進的な宗教団体として知られているX教団の信者だった。
ある日突然、(本当はそれ以前から、夫に隠れて信仰していたのだが)、
X教団に入信してしまった。

X教団では、離婚することを強く戒めていたが、B氏は、そこで大きな選択を
迫られることになった。
B氏自身も入信するか、さもなければ、離婚か、と。
先にあげたフリップ・フロップ理論を借りるまでもなく、B氏の心理状態は、きわめて
不安定になった。
不安定ということは、心の緊張状態が取れないことをいう。
人間の心理は、緊張状態の程度にもよるが、それほど長くは、その緊張状態に
耐えられない。

結果、A氏はこう考えた。

「私の妻は、20年近く、私のためにがまんしてくれた。
つぎの20年は、私が妻のためにがまんする番だ」と。
B氏も、つづいてX教団に入信した。

●合理化

認知的不協和理論を考えていくと、何が本心で、何が本心でないかが、
よくわからなくなってくる。
本心と思っている(心)にしても、そのときの状況や雰囲気、環境によって、
自らがそう思い込んでいるだけというケースも少なくない。

心理学でいう(合理化)も、そのひとつということになる。

たとえば買ったばかりの宝くじの券を、どこかで落としてしまったとする。
そういうときその人は、「どうせあのクジははずれ券」と、自分をなぐさめる。
なぐさめることによって、損をしたという思いを打ち消す。

こうした心理操作は、私たちは日常の生活の中で、連続的にしている。
連続的にしながら、自分の本心(?)を作り上げていく。

子どもの世界でも、よくある。

先日も、C子さん(小6・女児)が、「私はおとなになったら、弁護士になる」と言った。
そこで私が、「本当になりたいの?」と何度も念を押したのだが、C子さんは、その
つど、しっかりと、「そうです」と答えた。

私「本心から、そう思っているの?」
C「もちろん」
私「でもどうして弁護士なの?」
C「弱い人の味方になりたいから」
私「じゃあ、どうやって、弱い人の味方になるの?」
C「……それは、わからない」と。

C子さんは、「弁護士になる」ということを口にしながら、家で、自分の立場を確保していた。
それを口癖にすれば、家で、わがままを通すことができた。
家事も手伝わないですんだ。

つまり「わがままを言いたい」「家事を手伝いたくない」という思いが別にあって、
C子さんは、「弁護士」という言葉を使うことを選んだ。
「弁護士になるために勉強する」と言えば、すべての手伝いや家事から解放された。
ほしいものは、何でも買ってもらえた。

●タバコ

こんな例もある。

Dさん夫婦は、Y教という、あるカルト教団の熱心な信者だった。
Y教というのは、手かざしで病気を治すという話で、よく知られている教団である。
が、10歳になった息子が、ある日、病気になってしまった。
どんな病気だったかは知らないが、Dさん夫婦は、病院へは連れていかなかった。
そのかわり、Y教の支部へ連れていった。
手かざしで息子の病気を治そうとした。
が、残念なことに、手かざしで治るような病気ではなかった。
息子はそれからしばらくして、死んでしまった。

ふつうならDさん夫婦は、Y教のインチキに気づき、Y教から離れる。
が、離れなかった。
離れられなかった。
かえってDさん夫婦は、さらに熱心な信者になってしまった。
しかし、これも認知的不協和理論を当てはめて考えてみると、理解できる。

もしY教がインチキだとするなら、息子を殺したのは、Dさん夫婦と自身いうことに
なってしまう。
そのとき病院へ連れていけば、治ったような病気である。
あとでそれがわかったが、Dさん夫婦がおかしな宗教を信じたために、息子は死んでしまった。
が、この事実を受け入れるのは、Dさん夫婦には、たいへんむずかしい。
そこでDさん夫婦は、より熱心な信者になることによって、その罪の意識から
逃れようとした。
「息子が死んだのは、私たちの信仰が足りなかったから」と。

●本心論

さて、本心論。
しかしこの「本心」ほど、アテにならないものはない。
卑近な例で考えてみよう。
私のワイフは、「お前は、ぼくのような男と結婚して、後悔していないか?」と
聞く。
するとかならず、「後悔していない」と答える。
そこで私が、「それはお前の本心ではないと思う」と言うと、「本心よ」と答える。
しかしこういう本心(?)は、まず、疑ってかかってみたほうがよい。

ワイフはワイフで、いろいろな場面で、認知的不協和状態になり、それを打開する
ために、私との関係を合理化してきた。
若いころの私は、男尊女卑的な思想をかなり強くもっていた。
仕事ばかりしていて、家庭を顧みなかった。
ワイフはそのつど、私との結婚に、疑問をもったにちがいない。
それをワイフは、心のどこかで感じていた(?)。
そのつど、自分を合理化することで、矛盾を別の心の中で、押しつぶしてきた(?)。

その結果が(今)であり、(ワイフの本心?)ということになる。
だからこの段階で、「後悔している」と認めることは、結婚生活そのものの否定につながる。
離婚程度で解決するような問題ではない。
その苦しさに耐えるくらいなら、自分の心をごまかしてでも、合理化したほうが得(?)。
だから「本心よ」と答える。

……と考えていくと、本心とは何か、ますますわからなくなってくる。
しかもこの本心というのは、他人によって作られるものではなく、自分によって
作られるもの。
だからよけいに、タチが悪い。
わけがわからなくなる。

実のところ私の中にも、本心と言ってよいものが、無数にある。
しかしその中でも、本当に、これが本心と言えるものは、ひょっとしたら、
ほとんどないのではないか。
「本心」というものは、そういうもの。
つまりずいぶんといいかげんなもの。
本心論を考えていると、そういう結論になってしまう。
さて、あなたはどうか?

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
本心論 認知的不協和理論 フェスティンガー 合理化 正当化 自己正当化)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●本能

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私たち人間の行動、心理、精神作用を
ながめていると、どこからどこまでが
本能で、どこから先が本能でないか、
それがわからなくなる。

まず、本脳について、調べてみる。

+++++++++++++++++

深堀元文著「心理学のすべて」(日本実業出版社)によれば、本脳は、つぎの4つに分類
されるという。

(1)種別性(種のちがいによって、本脳の内容が異なる。)
(2)生得性(生まれながらにしてもっている。)
(3)固定制(学習性がない。)
(4)不可逆性(順序が変わると、できなくなる。)(かっこ内は、私のコメント。)

同書は、具体的に、つぎのような例をあげている。

(1)種別性(種のちがいによって、本脳の内容が異なる。)
同じヒナでも、ニワトリのヒナは水に入ることを嫌がるが、アヒルのヒナは、
水に入ることをいやがらない。このように同じ鳥の、同じヒナでも、種の
ちがいによって、本脳の内容も異なる。

(2)生得性(生まれながらにしてもっている。)
同書は、クモの巣づくりを例にあげて、説明している。
クモはだれに教わったわけでもないのに、精巧な巣を自分で作ることができる。
生まれながらにして、そういう本脳を身につけている。

(3)固定制(学習性がない。)
本能と学習はいつも対比して考えられている。人間は学習によって、自らを
進歩させることができる。
しかし本脳には、それがない。
同書は、こんな興味深い例をあげている。
たとえばカモメは、貝殻を拾うと、それを空中から落とす習性があるそうだ。
私自身は、そういう光景を見たことがないので、同書の説明に従うしかない。
で、そのとき、落とした貝殻のうち、岩場などに当たった貝殻が割れる。
そうでない、たとえば砂浜に落とした貝殻などは、割れない。
が、カモメはそれを見ながらも、拾った貝殻を、無分別に、地面に落とし
つづけるという。
もしカモメに学習能力があるなら、つぎに落とすときは、岩場をめざして
落とすはず。

(4)不可逆性(順序が変わると、できなくなる。)(かっこ内は、私のコメント。)
「産卵前のジバチは、地面に穴を掘り、アオムシを見つけると、麻酔で眠らせ、
穴に引き入れる。
その体内に産卵し、穴を埋めてしまう」
「(しかしその作業の途中で、ほかの虫などのよる)妨害を受けると、(作業を)
継続できなくなる。つまり順序を変えて行動できない」(同書P63)と。
わかりやすく説明すると、ジバチは、(穴を掘る)→(アオムシを麻酔で
眠らせる)→(アオムシの体内に産卵する)→(穴を埋める)という一連の
行動をする。
しかしその途中で、ほかの虫などの妨害が入ると、そこで作業を中断してしまい、再び、途中から作業をすることができなくなるという。
たとえば(アオムシを麻酔で眠らせた)とき、ほかの虫の妨害が入ったとする。
するとジバチは、その虫と対峙するが、それが終わったとき、その途中から
もとの作業に戻ることができない、と。

以上の話を、「では、人間なら……」と、自分に当てはめて考えてみると、おもしろい。

(1)人間だから水の中に入るのを嫌がるとか、嫌がらないとかいうことはない。

(2)クモは、精巧な巣づくりをするというが、人間にも似たような習性がある。
これは哺乳動物一般に共通する本脳だそうだが、巣づくりをするときは、中央に自分の
巣をつくり、余計なものを周囲に積み重ねる。
イヌもネコも似たような行動をする。
人間も、モノを壁にそって周囲に置く。

(3)人間なら、貝殻の殻がどういうときに割れて、どういうときに割れないかを
観察して、そこで学習をする。
そしてつぎに貝殻を落とすときは、岩場に向けて落とす。

(4)何が本当的な作業で、また何が本能的な作業でないのか、人間自身もよくわかって
いないので、安易に「人間なら……」とは、書けない。
書けないが、作業が途中で中断しても、人間なら、つぎは、途中からまた作業を再開
するだろう。
たとえばワイフとセックスをしている最中に、電話がかかってきたようなばあいを、
考えてみればよい。
(電話の内容にもよるだろうが……。)

●本脳論

ここまで予習して、さて本脳論。
先にも書いたように、本脳と学習は、常に対比して考えられていれる。
しかし(学習)といっても、個人差がはげしい。
歳をとればとるほど、学習能力も劣ってくる。
脳は柔軟性を失い、それまでにできあがった固定観念に、より固着するようになる。
しかも人間の行動、心理、精神作用のほとんどが、実は本脳に根ざしている。
「性」を例にあげるまでもない。

これも順に考えてみよう。

(1)人間の男性は、女性の裸体を見ると、性的に興奮する。
しかしイルカの裸体を見て、興奮する人はいない。
これなどは、「種のちがい」とは、言わないのだろうか。

(2)人間は自分の住居を構えるとき、四角形、もしくは円形の住居にする。
これに対して、ハチなどは、六角形を基本とする。
これなどは、「本能」とは、言わないのだろうか。

(3)基本的には、人間は怠け者である。
「学習」にしても、そこに至る過程で、ものごとを分析しなければならない。
分析したものを、つぎに論理的に組み立てなければならない。
これがけっこう、めんどうな作業で、たいていの人は、できるならそうした
作業を避けようとする。
そのかわり、てっとり早く、だれかに方法だけを教えてもらおうとする。
子どもに例えるなら、解答用紙だけをまる写しにして、宿題をすますようなことを、
平気でする。

では、(4)の不可逆性はどうか?
ジバチは、途中で作業が妨害されると、その作業を中断してしまうという。
そしてまたイチから作業を始めるという。
要するにジバチには、脳の柔軟性がないということになる。
しかしこれも程度の差こそあれ、人間も共通して経験することである。
とくに思想の世界で、それを経験する。

たとえば私の近くに、「親は絶対」と説く人がいる。
が、何度話を聞いても、同じ話を最初から、する。
時間がないので、途中で話をやめて別れるが、つぎに会ったときも、また同じ話を
最初からする。
「この前は、ここまで話したから、今日はここから話しましょう」ということが、
できない。
あるいは「親は絶対」という話を基盤にして、「親孝行論」を説いたり、「最近の
若者は……」とか言ったりする。
そういう人は、先にあげたジバチと、どこがどうちがうのかということになる。
あるいは話が、少し脱線しているかな?
しかしこういうことは言える。

私のような年齢になると、性欲からかなり解放される。
と、同時に、性欲といったものが、どういうものか、それがわかるようになる。
そういう視点で自分の過去を振り返ってみると、逆に私の人生のほとんどが、
その性欲に支配されていたことを知る。
学生時代には、1日24時間のち、20時間以上は、女性のことを考えていた。
(性欲)、さらにはその基盤になっている(種族保存)のための本脳は、まさに本脳。
自分からそれを取り除いたら、(私)と言えるものが、ほとんど残っていないのを
知る。
タマネギの皮を順にむいていったら、最後には何も残らない……といったことが、
自分の中でも起こる。

つまり私たちは動物の本能を知ることで、「私たち人間はちがう」と思うかもしれないが、
私たち人間も、やってきることと考えていることは、そこらの虫と同じ。
ちがうと考える方が、おかしい。
脳みそにしても、「昆虫のような脳みそ」(田丸先生弁)をもった人間は、いくらでもいる。
そこで(学習)ということになる。

人間は学習によって、本脳から自分を解放させることができる。
またそれができる人を、(人間)という。
釈迦も、それを「精進」という言葉を使って、説明した。
が、その力は、弱い。
本脳のもつ力を巨大なブルドーザーにたとえるなら、(学習)がもつ力は、
スコップで穴を掘る程度の力しかない。

だから誤解がないように言っておくが、(性欲からの解放)は、けっして悪いものでは
ない。
私も50代の半ばごろ、男性の更年期症候群とやらで(?)、一時、性欲から解放された
気分を味わったことがある。
そのとき感じた軽快感というか、総快感は、いまだに忘れない。
私が(私)に、ぐんと近づいたような気分になった。

……本能、されど本能ということか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
本脳論 本脳 本脳と学習)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●金を受け取った人も逮捕?

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少し前、浜松市で、郵便局強盗がつづいた。
その事件に関して、2人の男性が、逮捕された。
2人は、共同で郵便局強盗を働いた。
強盗罪の適応は、当然である。

しかし、である。
新聞の報道によれば、その強盗犯から、
お金を受け取った別の男性まで、今回、
いっしょに逮捕されたという。
相手が強盗で得たお金であることを
知りつつ受け取ったのが、その理由で
あるという。

が、これはおかしい!

++++++++++++++++++++

古物に関しては、古物営業法というのがある。
最近では、古物のほか、商品券や乗車券、それにチケットなども含まれるようになった。
こういった商品を、盗品と知りつつ、古物商が受け取ったり、買い取ったりしたら、
古物営業法により処罰される。
それはわかる。
しかし古物でなく、現金だったら、どうなのか。
さらに古物営業法になじまない、個人であったらどうなのか。

今回の事件は、あくまでも新聞によって報道された範囲での話だが、こういうことだ。

郵便局で強盗を働いた犯人の1人が、強盗で得たお金であることを話しつつ、別の
男性に、お金を渡した。
その別の男性は、相手が、郵便局強盗で得たお金と知りつつ、それを受け取った。
で、今回の逮捕劇へとつながっていった。
しかし、どうして?

その第一、お金を受け取った男性に、警察への通報義務はない。
郵便局強盗をしたのがだれか知っていたとしても、それはその人たちの範囲での話。
通報しなかったからといって、罪に問われることはない。

その第二、古物のばあいは、そのモノが特定できる。
カメラにせよ、絵画にせよ、ほかに2つとて、同じものはない。
しかし現金のばあいは、それはどうか。
だいたい、どれがどのお金か、特定できない。
仮にお金を受け取ったとしても、そのお金はべつのところから得たお金かもしれない。
たとえば郵便局で強盗を働いた男に、それなりの貯金があったばあいを考えてみれば
よい。
いくら相手が、「これは強盗で得たお金だ」と言っても、お金に名前があるわけではない。
札の番号を照合することもできない。

百歩譲って、現金を受け取った男性が、「あれは冗談だと思いました」と法廷で述べたら、
どうなのか?
それですべておしまい。
それとも刑法が改正になったのだろうか。
大学を卒業して以来、それなりにつきあったのは、民事訴訟法だけ。
もしこんなことで逮捕されるようになったら、世の中はメチャメチャになってしまう。
それこそ連座制にまで発展してしまう。

たとえば夫が銀行強盗を働いたとしよう。
妻はそのときは、まったく知らなかった。
関係もしていなかった。
しかしあとになって、それを夫から告白されたとする。
「なあ、お前、このお金はなあ、オレが銀行から強盗したものだよ」と。
ついでに息子に、「お前の学費は、オレが銀行から強盗したものだよ」と。

妻も息子も、それをだれにも告げないで、だまっていた。
そしてしばらくして、夫は、銀行強盗で逮捕された。
容疑も固まった。

こういうケースのばあい、妻も息子も逮捕されることになる。

フ~~~ン?

今度金沢で同窓会があるから、弁護士をしているK君に、聞いてみる。
どうも納得できない。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●2月6日(Feb. 6th, 2009)

X日、近江八幡から、私は安土城跡をめざして、10キロの道のりを歩く。
10キロといえば、中級コース。
そのため今週は、2度、7~8キロの距離を歩いてみた。
万歩計で、約1万2000歩。
10キロともなると、1万5000歩を超える。
だいじょうぶかな?
途中で疲れたら、タクシーにでも乗ろうと、まあ、そんなずるいことを、
今、考えている。

●地球温暖化一考(Global Warming)

オーストラリアでも、100年来の~~、中国でも、100年来の~~という、
異常気象がつづいている。
オーストラリアでは熱波と大洪水、中国では干ばつなどなど。
その深刻さは、ひょっとしたら日本という島国に住んでいる私たちには、
理解できないかもしれない。
熱波で家が焼かれていく。
干ばつで、家畜がつぎつぎと死んでいく。
世界各地で、今、生き地獄というにふさわしい現実が、進行している。

が、その半面、ラッキーなことに、本当にラッキーなことに、日本は四方を海に囲まれ、
そこを南北に、3000メートル級の山脈が貫いている。
四方を海に囲まれているため、気候の変動を受けにくい。
3000メートル級の山脈が貫いているため、雨が降り、干ばつになりにくい。

世界が滅んでも、日本は最後の最後まで、生き残る。

それを喜ぶわけではないが、そのため日本がすべきことは、多い。
言うなれば、まわりの国々がみな、家庭騒動でゴタゴタしている。
が、日本だけが、夫婦円満、家族円満。
あまりたとえはよくないかもしれないが、であるからこそ、日本は世界の国々に対して、
よきアドバイザーとなる。
それを目指す。

ところで今回の大不況は、地球温暖化の伏線と考えたらよい。
モノ、モノ、モノ……。
あふれかえるモノ、モノ、モノ……。
そのモノが一方で、地球温暖化の原因となり、そのモノが売れなくなって、今回の
大不況を引き起こした。
(モノ)を間において、地球温暖化と大不況が、つながっている(?)。

少し飛躍した考えに聞こえるかもしれないが、しかし地球温暖化がさらに進めば、
その深刻さは、大不況どころではなくなる。
貯金通帳がゼロになる程度ですめば、まだよいほう。
家ごと、山火事に燃やされたり、洪水で流されたりする。
命だって奪われるかもしれない。
「火災保険に入っているから、だいじょうぶ」などとあなたが考えているとしたら、
とんでもないまちがい。
その前に保険会社が、消えてなくなる。

もちろんだからといって、大不況がよいというわけではない。
しかしこんなのは、まだ序の口。
地球温暖化が、やがて人々の心を不安にし、それが社会を混乱させる。
暴動や戦争を引き起こす。
が、私が心配するのは、地球温暖化そのものではない。
そこに至るプロセス。
過程。
略奪、暴行、犯罪が頻発するようになる。
それがこわい。

簡単に言えば、人間には、その心の準備ができていない。
ガソリンの値上がりについては心配するが、ガソリンの消費が引きこす地球温暖化
にまでは、まだ気が回らない(?)。
その視野の未熟さこそが、問題と考えてよい。

もちろん今回の大不況も、大不況とはいうものの、一時的なもので終わる。
1~2年もすれば、過去の笑い話となるだろう。
しかしこうした大不況は、そのあとも頻繁に起こるようになる。
繰り返し起こるようになる。
50年来の大不況、100年来の大不況、さらには有史始まって以来の大不況、と。

理由は明白。

地球あっての人間。
人間あってのモノづくり。
モノづくりが地球を滅ぼすとしたら、モノづくりにブレーキをかけるしかない。


●宇宙人一考

宇宙人は、たしかにいる。
もしいないというなら、私とワイフがあの夜見た、巨大なUFOは、いったい
何かということになる。
目撃例がないわけではない。

クラリオン星人、金星人オーソン、プレアデス星人、宇宙人ラーマなどなど。
こうした名前は、その種の本に、よく登場する。
昔から知られているのに、火星人というのもいる。
真偽のほどはともかくも、地球人だけがこの宇宙の、(太陽系でもよいが)、
住人と考えるほうが、おかしい。

私は、自分が死ぬまでに、あの夜見た巨大なUFOの正体を知りたい。
何としても、知りたい。
当時、みなが私たちに、こう言った。
「飛行機の見まちがいではないか」と。
さらに「君は教育評論家を名乗っているから、そういうことは口にしないほうがいい」と
言った人もいた。

しかしあれは飛行機などというものではない。
飛行機はそれ以前も、そのあとも、毎日のように見ている。
見まちがえるはずがない。

それに見たものは、見た。
ブーメラン型のもので、幅だけでも、数キロはあった。
しかも飛び去るとき、飛び去りながら消えたというよりは、少しずつ透明になって、
まるで空に溶け込むかのようにして消えていった。
とても人間が作った飛行体には、見えなかった。
が、あれは何だったのか?
私自身の名誉を回復するためにも、あのUFOの正体を知りたい。

……ということで、私とワイフは、そのつど夜空を見あげている。
このところ澄んだ夜空がつづいている。

ただしUFOを見たり、宇宙人を見たら、逃げたほうがよいそうだ。
過去にも、いろいろな人がいわゆる第三種接近遭遇というのを経験しているというが、
みな、ひどいめにあっている。
殺された人もいる。
向こうは向こうで、人間をこわがっているらしい。
100にひとつでも、その危険性があるなら、逃げたほうがよい。


●巨額詐欺事件

数年前、近未来通信という名前の、あやしげな通信会社が、巨額の投資詐欺事件を
引き起こした。
実は、私も、ある人に、その投資に強く勧誘されたという経緯がある。
一口、1000~1200万円ではなかったか。
投資すれば、私の地域の中継局を任してもらえるという話だった。
しかし、最初からこの話は、おかしい。

中身は、IP電話。
テレビ電話もできるという。
しかし当時すでに、IP電話は常識。
プロバイダー(サーバー)に申し込めば、だれでも簡単にでできた。
テレビ電話については、SKYPE(スカイプ)があった。
こちらは無料。
どうしてそんなときに、有料で、しかも別枠で、IP電話に加入する人がいるだろうか。
何よりもおかしいのは、中継局。
インターネットを利用したIP電話に、中継局は必要ない。

で、その投資に私を勧誘したのは、大学の1年先輩のX氏。
今から思うと、とんでもない先輩である。
あのころの時計を逆に回してみると、すでにそのとき、近未来通信は、
あやしげな経営を繰り返していた。
そういうときに私を勧誘した。
つまりその先輩は、私を投資に誘うことで、自分の投資を救済しようとした(?)。

……ということで、これからもこうしたあやしげな投資に関する話は、つぎつぎと
飛び込んでくるだろう。
その第一に選ばれるのが、健康食品。
カモとして選ばれるのが、老人。

今回のL社による巨大詐欺事件にしても、もとはといえば、健康食品の販売が
ベースになっていたという。
しくみは、こうだ。

10万円投資すれば、10万円分の買い物ができる電子マネー(「円天」という
名前のカード)を送ってくる。
投資した人は、そのカードを使って、買い物をする。
しかし1年後、また10万円がそのカードに振り込まれ、投資した人は、また
10万円分に買い物ができる。
こうして不思議なことに、そのカードをもっている人は、永遠にそのカードを
使うことができる。

しかしどこでもそのカードが使えるわけではない。
その会社が指定した提携ショップのみ。
しかもその提携ショップにしても、L社に請求をしても、25%しかお金が戻って
こなかったという。
だからどの店も、そのカードで買い物をする人には、4倍の値段をつけていたという。
わかるかな?
しくみは、こうだ。

だれかがあなたのショップにやってきて、10万円の買い物をしたとする。
あなたは10万円分の商品を渡す。
で、そのあと、L社に払い戻しの請求をする。
当然、あなたは10万円、払い戻してもらえると思うかもしれない。
しかし答は、NO!
請求しても、売上代金の25%、つまり2万5000円しか返ってこない。
あなたは7万5000円の損ということになる。
そこであなたは、そのカードで買い物をする客については、4倍の値段で売る。
カードを使う側にすれば、10万円のカードで、2万5000円分の買い物しか
できない。
健康食品というのは、もともと値段があってないようなもの。
だから4倍の値段で売ったところで、客には、それがわからない。

では、どうやってL社は、経営をつづけるか。

単純に計算すれば、10万円の投資家に対して、10万円分の商品を渡すのに、
4年の猶予があることになる。
(毎年、2万5000円ずつ、返すことになるから、4年間。)
その4年間に、さらに会員をふやせばよい。
(実際には会員に、会員を勧誘させる。)
1人の会員が毎年、さらに1人の会員を連れてくればよい。
つまりここでネズミ講方式の詐欺が始まる。
新たに会員を連れてきた人には、ボーナスを支払う。
こうして勧誘を奨励する。
が、この方式は、やがて行きづまる。

……しかし、こういうことを考える人も、頭がよい。
それを実行するのだから、行動力もある。
ある週刊誌にはこう書いてあった。
「そうした能力をもっと別の方面に使えば、あの人(主犯格の男)も、すばらしい人物に
なっていただろう」と。

が、同じ報道によると、その男は、若いときから詐欺事件を繰り返していたという。
金の亡者というのは、そういう男をいう。


●今朝は5時起き(2月7日)

今朝は、5時起き。
私とワイフは、結婚以来、ひとつのふとんの中で寝ている。
そのこともあって、たがいに、ひとりでは寝られない。
とくに冬場は、そうだ。

が、ときどき体が離れるときがある。
そういうとき、私は、恐ろしい夢を見る。
今朝の夢は、どこかの宇宙人に追いかけられるという夢だった。
ギコギコと機械じかけのロボットが、どこまでも私を追いかけてくる。
私は知恵をふりしぼって、あちこちに隠れる。
しかしロボットは、私の行動を先に読んで、どこまでも追いかけてくる……。
(このあたりは、映画『ターミネーター』の影響かな?)

で、5時起き。
昨夜は、午前1時ごろまで、ワイフと雑談をしていたので、睡眠時間は、
たったの4時間。
あとで朝風呂に入って、もう一度寝なおすつもり。
しかしそれにしても、静かな朝だ。
遠くで、カラスが鳴いた。
あとはいつもの耳鳴り。
どこか風邪ぽくなると、耳鳴りがひどくなる。
そういえば、この数日、鼻水が出る。
ほかに症状はない。

P.S.

私のワイフについて、常々、うらやましいと思うのは、ワイフは、一度眠ったら、
ぐっすりと、朝まで目を覚まさないということ。
不眠症という言葉は、ワイフには、ない。
夢も見ないという。
見た目はともかくも、ほんとうにのんきな性格と思う。


●パソコン中毒

私は、いつも近くにパソコンがないと、落ち着かない。
が、私がパソコン中毒と考えるのは、少し待ってほしい。
もう少し詳しく分析すると、私の指先が、(指先が、だぞ!)、パソコンを求めている。

これは一種の神経症のようなもの。
子どものモノいじりに、似ている。
指しゃぶりに始まって、毛布の先をいじったり、ボタンをいじったり、
さらにひどくなると、髪の毛をいじったりする。
鉛筆の先をかんだり、自慰をするのもその仲間に入る。

指先からの刺激が、脳内に作用して、エンケファリン系、エンドロフィン系の
脳内ホルモンを分泌すると考えてよい。
わかりやすく言えば、モルヒネ系の物質が脳内を満たす。
そのことは、それをしている子どもたちの表情を見ればわかる。
うっとりとした、陶酔感に浸っている。

で、私も、指先でパソコンのキーボードをいじっていると、気分が落ち着く。
気持ちよい。
 
が、悪いばかりではない。
中国では、昔から、老人たちはモノをいじることで、ボケ防止をしている。
石や金属でできた丸い玉を、手の中でクルクルといじって、それをしている。
指先からの刺激は、脳みそを活性化させるという。

だからパソコンでものを書くというのは、あくまでもその結果でしかない。
ピアノの演奏家の中には、いつも鍵盤に指が触れていないと落ち着かないという人も
いるそうだ。

何かの本で、ある演奏家が、鍵盤の材質にこだわっているという話を読んだことがある。
材質というよりは、感触か?

私もパソコンを選ぶときは、キーボードの感触を大切にしている。
いくら性能がよくても、キーボードの感触の悪いのは、だめ。
その点、最近のパソコンは、とくにミニやノートは、キータッチがソフトすぎて、
物足りない。
もう少し、歯ごたえのあるものにならないものか。
そのほうがキーを叩いていて、気持ちよい。


●テポドン2号(A Missile of North Korea)

もし私がAS首相なら、今ごろオバマ大統領に、こんな電話をしているだろう。

「Mr. President, as to the missile of North Korea, the best choice we can do is just
to ignore it whatever it is. But if you want to shoot it down, we would cooperate
with you to do so. If not, what we can do is just to ignore it, since we have no power
or ability to shoot it down by ourselves. They would probably insist it IS a satellite
and it is not a Missile. But how can we distinguish a satellite from a missile, at
the initial stage of the launch while it flies over the Japan Sea? If we shoot it
down they will be crazy and noisy against us. Now is not the time, however, when we
can cope with such and such tiny problem of a tiny nation. Again therefore I think
the best way is just to ignore it, which will work most effective against them. What
do you think about this?

久しぶりに、英文のほうを先に考えた。
ふだんは日本語で書いてから、それを英文に翻訳する。
こう書いた。

「K国のミサイルについて、それが何であれ、今は無視するのが、最善かと思います。
が、もし貴殿がそれを迎撃するというのであれば、協力いたします。
ただ日本としては、単独で迎撃することはできません。
K国はそれを衛星と主張し、ミサイルではないと主張するかもしれません。
発射初期の段階で、つまり日本海を飛んでいるときに、それを見極める方法はあるの
でしょうか。
もしわれわれが迎撃すれば、K国は発狂するでしょう。
しかし今は、小さな国のこうした問題にかまっているべきときではありません。
それゆえに、もっとも効果的な方法は、やはり無視することです。
どうお考えですか」と。

+++++++++++++++++++

私のHPへのアクセスについては、どこのだれが、いつ、何時にアクセスしてきたが、
それがわかるようになっている。
その中でも、最近多くなったのが、「アメリカ軍」。
ズバリ、「アメリカ軍」(FC2)と、日本語で表記してある。
つまり私のHPやBLOGを、アメリカ軍が見ている(=監視している?)。

だったら英語で書かない手はない。
うまくいけば、私の書いたことが、オバマ大統領に、直接、伝わる。
イヒヒヒ……。
これは楽しい。


●YOU TUBE

++++++++++++++++++

このところ毎日のように、YOU TUBEに
動画をアプロードしているが、無制限なのが
驚き。
1回に10本までとか、一本につき1GBまでとか
いう制限はあるが、その気になれば、無制限。
どういうしくみになっているのだろう。
おそらくYOU TUBE社のほうへは、毎分、毎時間、
大河のように情報が流れ込んでいるはず。
それを蓄積する能力もすごいが、逆に瞬時にファイルを
呼び出せるしくみも、すごい!

あるいはそのうち、制限が加えられるようになるかも
しれない。
が、ともかくも今は、無制限。
だから今のうちに、動画をどんどんとアプロードしていく。

++++++++++++++++++++

●新しい試み

書店へ行けば、当然そこには本しかない。
育児本については、さらにそうである。
(CDブックというのはあるが……。)

そこで新しい試み。
育児書を音声で作る。
しかもインターネットを利用すれば、自分の
聞きたいところだけを、選択して聞くことが
できる。

これはおもしろい!
未来性を秘めている!
これからはそういう時代になるかもしれない。

問題は、それをどうやって収入につなげて
いくかだが、私のばあい、もとから収入は
考えていない。

私が楽しければ、それでよい。
それにまさる目的はない。

が、受け取る側の人たちは、どうなのだろう?
どんな思いで、見たり、聞いたりしてくれるのだろう。
それを知るひとつの方法が、アクセス数という
ことになる。
アクセス数がふえれば、よし。
そうでなければ、そうでない。
しかしとにかく、この1年は、それをつづけてみよう。
そこに何があるかわからない。
未知の世界。
言うなれば、これは冒険の旅。

どうか読者のみなさん、私のHPをのぞいてみて
ください。
HPのトップページから、『芽衣の部屋』へ
進んでみてください。

(付記)

だれも行ったことのない世界へ、自分だけが行ってみる。
そこに何があるかわからない。
何が待っているかもわからない。
それを「冒険」という。

生きる楽しさは、その冒険をするところにある。
またそれで失敗しても、悔いはない。
しないで後悔するよりも、そのほうが、ずっと楽しい。

他人のうしろについて、コソコソと歩くのは簡単なこと。
他人の失敗を見ながら、それを笑いながら生きるのも、
これまた簡単なこと。
しかしそんな人生に、どんな意味があるというのか。

私は私だけの道を歩いてきたし、これからも歩いていく。
そうそう言い忘れたが、冒険といっても、何も、
旅行だけが冒険ではない。
本当の冒険は、その人の生きざまの中にある。
思考の中にある。

さあ、あなたも勇気を出して、冒険の旅に出てみよう。
未知なる世界へ、飛び出してみよう。
すべての束縛から、解放されて!


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●映画『アフター・デイズ(After Days)』

+++++++++++++++++++++

人類すべてが、ある日突然、消えていなくなったら……、
という映画が、これ。
主演者ゼロ、脇役ゼロという、どこかSF的、しかし
どこかドキュメンタリー風の映画。

おもしろくはないが、それでいておもしろい映画。
星はつけようがないが、あえてつければ2つの、★★。

要するに人間などいなくても、かまわないという映画。
「地球は人間必要としない。
しかし人間は地球を必要とする」と。

「そういうものだろうな」というのが、見終わったあとの
感想。

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●私の偏見?

DVD「アフター・デイズ」は、要するに「人間などいなくても、地球は困らない」
という映画である。
だから「地球を大切にしろ」ともとれるが、しかしその一方で、その底流に、
強烈なニヒリズムが流れているのがわかる。
「人間どもよ、自らの愚かさを知れ」と。

しかしこれは私の偏見かもしれない。
現在、地球温暖化の問題は、深刻さをましている。
心のどこかで、私たち人間は、罪の意識というか、うしろめたさを感じている。
そうした心情に、この映画が重なった。

この映画の本当のねらいは、(監督はそういう意図で、この映画を制作したのだろうが)、
「もっと地球を大切に」というところにあるのかもしれない。
しかしその力は、あまり強くない。
それで私は、「強烈なニヒリズム」を感じてしまった。

●ニヒリズム

ニヒリズムといえば、ニーチェ。
1844~1900年の人物である。
名前を、フリ-ドリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェという。

彼の思想の特徴といえば、恨み(ルサンチマン)ということになる。
つまり恨みが積もりに積もって、それがやがて虚無主義へとつながっていく。
が、よく誤解されるように、だからといってニーチェは、「生きることが空しい」と
説いたわけではない。
むしろ逆。

こうした虚無主義と闘うためには、人間は「超人」であるべきと、ニーチェは説いた。
超人というのは、強靭な精神力をもった、スーパーマンのような人物をいう。
もちろんその背景には、キリスト教的な理想郷の否定がある。
「天国などはない」「そういうものに救いを求めてはいけない」と。
だから繰り返すが、ニヒリズム、イコール、現実の否定ではない。
むしろ現実を徹底的に肯定するところに、(当然、自分の存在を解放するところに)、
ニヒリズムの原点がある。

●恨み(ルサンチマン)の増大

地球温暖化が進めば進むほど、人々の心の奥に、恨みが増大する。
やりようのない恨みである。
怒りの矛先を向けたくても、その向け先すらわからない。
ニーチェの時代には、それはキリスト教的な呪縛感を言った。
が、今は、地球温暖化。
ニヒリズムが生まれる土壌は、じゅうぶんある。
そしてそれが今、熟成されつつある。

そこで重要なのは、まず私たち人間は、自分の弱さと不完全さを再認識すること。
いくらがんばったところで、神の世界はやってこないし、またそういうものに
期待を寄せたところで、何一つ、問題は解決しない。
そこで私たちは今、どんな現実に直面しているかを知る。

しかしそれは言うまでもなく、このままでも、またこのままでなくても、
人類はやがてすぐ滅亡するという現実である。

●地球温暖化(地球火星化)

地球温暖化は、いわゆる温室効果によってもたらされる。
映画『アフター・デイズ』の中では、人間が消えれば、地球は元にもどるという
ような筋書きになっている。
が、実際には、そうではない。

温室の原因となっている、温室そのものは、仮に今、世界中の人間が化石燃料の
使用をやめたところで、消えるわけではない。
このまましばらく、(「しばらく」といっても、地球的規模の時間をさすが)、地球を
覆いつづける。
その結果、地球の気温は、2100年以後も、2200年以後も、上昇しつづける。

2100年までに、地球気温は平均して4~5度上昇すると言われている。
が、それで止まるわけではない。
一説によれば、それはいつのことかはわからないが、最終的には、地球の気温は、
400度近くにまで上昇すると言われている。

400度と言えば、「何とかなるような温度」ではない。

●では、どうするか?

…………?

この宇宙空間に放り出された人間には、もともと始まりはない。
そのため終わりもない。
ニーチェの思想によれば、われわれは神によって創造された特別な存在ではない。
無数の生き物の、ワンオブゼム(生き物の一部)でしかない。
まず、それを認める。
もっとわかりやすく言えば、滅亡することを恐れる必要はない。
仮に人類が滅亡し、やがて地球の気温が400度になったところで、それは地球の
歴史からみれば、「ほんのまばたきの瞬間」(「アフター・デイズ」)でしかない。
やがて地球に氷河期が訪れ、そのあと地球は、再生される。

そのとき人間でない人間が、再びこの地球に、誕生する可能性は、じゅうぶんある。
今は微生物かもしれないが、100万年後には、小さな哺乳動物のようになる。
さらに100万年後には、姿形は、まったくちがうかもしれないが、「人間」を
名乗るようになる。

これはあくまでもニーチェ思想に従えばという話になるが、個人という人間が、
いつかかならず(死)を受け入れるように、人類もまた、(全体としての死)を
受け入れる。

それがニーチェが説く、二ヒリズム、またそれができる人が、
「超人」ということになる。

●ニヒリズムの否定

私が感じた、強烈な二ヒリズムについて、ニーチェの思想に準じて、
私なりに解釈を加えてみた。
しかしニーチェ思想が、正しいわけではない。
また哲学にしても、ニーチェで完成されたわけではない。
少し辛辣(しんらつ)な言い方になるが、ニーチェは、「哲学の破壊者」にすぎない。

ニーチェのあと、ハイデッガー、サルトル……とつづいたように、私たちは
別の、(生きるための哲学)を模索している。
それについてはまた別の機会に書くとして、映画『アフター・デイズ』を見るときは、
そのニヒリズムに陥らないように注意する。
ニヒリズムはニヒリズムとして、一歩退いたところからながめる。

で、やはりここは、「自然を大切に」というテーマで、この映画に対する感想をしめくくり
たい。
けっして「生きるのは無駄」と思ってはいけない。
また最後の最後まで、夢と希望をあきらめてはいけない。
それができる間、私たちは人間として生き残ることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ニヒリズム ニーチェ 超人 哲学の破壊者 恨み ルサンチマン)


【4】(子育て危険度)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(一部を紹介します。もっと読んでくださる方は……
http://hiroshihayashi9.ninja-web.net/page012.html#label1
へ、おいでください。)

【子育て失敗危険度】
あなたは、だいじょうぶ?


                     はやし浩司

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「狂騒する子どもの世界」

狂った親たちの世界をえぐりだしながら、新しい教育観を提言。このままでは本当に日本
はだめになる。そういう切実な危機感からこの本を書いた。

第一章……常識からはずれる親たち
第二章……子どもをダメにする親たち
第三章……親バカにならないために

はじめに……

この原稿は、2000年ごろ、今から9年前に書いたものです。
ある出版社からの依頼があり、それで書き始めたものです。
が、当時、この原稿を世に発表する勇気がなく(?)、
今日に至ってしまいました。

もう一度、(現在)という視点で、書き直しながら、
子育ては今、どうあるべきかを考え直してみたいと願っています。
なおこの種の原稿の常として、登場する人物、話の内容は、
すべてフィクションです。

他人から聞いた話を、自分のエピソードに仕上げたり、
反対に自分のエピソードを、他人から聞いた話に仕上げたりしています。
あるいは2つの話を1つにまとめたり、1つの話を2つに分けたり
した部分もあります。
親類の話を他人の話にしたり、その逆のこともあります。

そんなわけで、もし読者の方の中に、「これは私の話だ」と思う人がいても、
どうか、それは誤解であることを、ご理解ください。
私はいかなるばあいも、現在、関わりのある人や、交際している人の話を
書くということはしません。

                     はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

第一章……常識からはずれる親たち

 子育てはまさに迷いの連続。迷いのない子育てはないし、迷って当たり前。しかし迷っ
ているうち、ふと袋小路に入ってしまうことがある。問題はそのとき。

 迷いながらも、どこかに指針があれば、その方向に出口を見出すことができる。しかし
その指針がないと、迷うまま、まっ暗な世界に入ってしまう。そしていつの間にか、とん
でもない非常識なことをしながら、それが非常識だとさえわからなくなってしまう。そん
な失敗例を集めたのが、第一章、「常識からはずれる親たち」。

 私はそれを皆さんに伝えながらも、こうした非常識な親を笑っているのではない。楽し
んでいるのでもない。こうした失敗は(失敗という言葉は好きではないが……)、だれにで
もあるもの。まただれにでも起こりえるもの。決して他人のことではない。第一章は、そ
んなあなたの指針となることを願って書いた。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi