Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, May 06, 2009

*Over-Controlles Society

●日本に希望はあるのか?(Can we share hopes in Japan?)
(超管理社会)

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資格と規則で、がんじがらめ。
何をするにも、許可だの認可だのが必要。
地方の小さな町で、観光ガイドをするにも必要。
祭りにさえ、自由に出られない。
服装から持ち物まで決められ、許可証まで必要。
こんな国で生きていこうと思ったら、
小さく、狭い世界で、閉じこもるしかない。

ここまで書いて、以前、こんなことを
書いたことがある。

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●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の中学生(中2女子)がこう言った。「ない」と。

「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。

「毎日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15~17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、41・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(01年4月)。タクシーにはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転してくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけならまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)

●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、一一人の人からいろいろな投書が寄せられていた(2001年8月静岡県版)。それをまとめると、次のようであった。

女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほしい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情をもって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。
 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるときは、その児童に出席停止を命ずることができる。

一、 他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、 職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、 施設または設備を損壊する行為。
四、 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。

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 新聞社への投書の中で、16歳の少女が、「同じ立場でもあきれる。恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり」と書いている点が、気になる。が、私に言わせれば、こういう優等生のほうに、あきれる。「恥ずかしくないかっこうって何か」と。「まただれに対して、恥ずかしくあってはいけないのか」と。

 顔のある子どもは、その顔を大切にすればよい。幸せな子どもだ。しかし顔のない子どもは、どうやって生きていけばよいのか。

 あえて告白しよう。最近、……といっても、この5、6年のことだが、私はあのホームレスの人たちを見ると、言いようのない親近感を覚える。ときどき話しかけて、冗談を言いあうこともある。そのホームレスの人たちというのは、その少女の感覚からすれば、「恥ずかしい部類の人間」ということになる。

 しかしどうしてそういう人たちが、恥ずかしいのか。多分、その投書を書いた少女は、そういうホームレスの人たちを見ると、あきれるのだろう。もしそうなら、どうして、その少女は、あきれるのか。私には、よく理解できない。

 そう、私は、子どもたちを教えながらも、その優等生が、嫌い。ぞっとするほど、大嫌い。以前、こんな原稿も書いたことがある。それを掲載しておく。少し話が脱線するが、許してほしい。

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【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が……」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立するかも、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているかを気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にする。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタイプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったのか」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほしいと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほしいと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフをどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まるということ。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言っているのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にした生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋など)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラックだ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象をもつにちがいない」と、瞬間だが、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めているのに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、これまた瞬間だが、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待らしい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればかりか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していない別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。
代理ミュンヒハウゼン症候群によるものとまでは断言できないが、それに近かった。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだった。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけない。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたように思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にしている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみせたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをしながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさんは、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこういうことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今まで、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大きいのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するようになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、代々と引き継がれる。S君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

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 これからますます、「顔」が問題になってくる。それともほとんどの人たちは、老齢になるとともに、その顔を、放棄してしまうのか。これから先、私自身がどう変化していくか、それを静かに観察してみたい。
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