Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, May 20, 2010

●感情論

【感情論】(感情と感動、そして教育とは)

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人は悲しいから、泣くのか。
泣くから、悲しいのか。

「悲しいから、泣く」という説を、
中枢神経起源説という。
「泣くから、悲しい」という説を、
末梢神経起源説という。
(以上、齋藤勇著「心理学の基本が
すべてわかる本」より)。

ほかにも、
(1) ジェームス・ランゲの末梢神経説
(2) キャノン・バードの中枢神経説
(3) アーノルドの情緒評価説
(4) プルチックの心理進化説
(5) シャクターの認知―生理説
があるという(同書、P53)。

 どれも一長一短というか、納得できる部分もあれば、
そうでない部分もある。
人がもつ「感情」というのは、それぞれの
ばあいにおいて、複雑なメカニズムを通して
生まれるものらしい。

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●共鳴性

 私たちは、「心の暖かい人」というとき、どういう人を、心の暖かい人というのか。
また「心が暖かい」というのは、心のどういう状態をいうのか。
一方、「心の冷たい人」というとき、どういう人を、心の冷たい人というのか。
また「心が冷たい」
というのは、心のどういう状態をいうのか。

 EQ論(情緒指数=人格の完成論)では、他者との共鳴性の高い人を、人格の完成度の高い人という。
わかりやすく言えば、「心のポケット」が多い人を、共鳴性の高い人という。
その分だけ、他人の悲しみや苦しみを、よりよく理解できる。
相手の立場で、相手の気持ちになって、ものを考えることができる。
ただ、そういう人を、短絡的に、「心の暖かい人」と言ってよいかどうかはわからない。
共鳴性が高い人は、概して、「心の暖かい人」とみる。
しかし共鳴性が低いからといって、「心の冷たい人」ということにはならない。

 たとえば私は、実兄、実母の介護を経験してはじめて、介護の苦労というものがわかった。
それまでの私には、わからなかった。
「私」という人間は同じ人間なのに、介護の経験をする前と後とでは、介護をする人に対する共鳴性は、大きく変わった。
今だと、介護で苦労している人の気持ちがよく理解できる。
相手の立場で、ものを考えることができる。
心のポケットができたためと考えてよい。
が、つまりだからといって、私が「心の暖かい人間」になったとは、言えない。

 心が暖かい、冷たいという基本的な部分は、ポケットの有無によっては、変わらない。
ポケットの有無にかかわらず、それ以前に、その人の性質として備わっている。
それが共鳴性ということになる。

●脳のCPU(中央演算装置)

 一方、私の知人にこんな人(男性、65歳くらい)がいる。
他人の不幸が、何よりも楽しいらしい。
用もないのに他人の家の不幸をのぞいては、それを酒の肴(さかな)にして、楽しんでいる。
心の壊れた人だが、当人は、そうは思っていない。
おかしなことに、自分では、他人の面倒をよくみる、心の暖かい人物と思い込んでいる。
脳のCPU(中央演算装置)が狂っているから、自分を客観的に評価することができない。
自分を基準にして、自分を見る。

 心の冷たい人というには、そういう人をいう。
……と断言するのも、むずかしい(?)。
で、そこで登場するのが、「感情論」。

 私たちがもつ「感情」というのは、いったい、脳のどの部分で、どのようにして生まれるのか。
それがわかれば、心の暖かい人と、そうでない人を、大脳生理学的に分類することができる。
感情が豊かで、何かにつけ共鳴性の高い人を、「心の暖かい人」という。
たとえば映画『男はつらいよ』の中に出てくる、寅さん的な人を、想像すればよい。
感情が平坦で、共鳴性の乏しい人を、「心の冷たい人」という。
たとえばコミック『ゴルゴ13』に出てくる、ゴルゴ13的な人を、想像すればよい。

●泣くから悲しい

 冒頭に書いたことを、もう一度、考えてみる。

人は悲しいから、泣くのか。
泣くから、悲しいのか。

「悲しいから、泣く」という説を、中枢神経起源説という。
「泣くから、悲しい」という説を、末梢神経起源説という。
が、同書によれば、現在は、「このふたつの中間のような生理・認知二因説をとっている」「感情は生理的興奮と認知のふたつによって起こるという説」(同書、P54)ということらしい(シャクター)。

 「悲しいから、泣く」というのは、常識的な考え方ということになる。
が、「泣くから、悲しい」というのも、合理性がある。
同書は、こんな例をあげている。

 たとえば車を運転していて、突然道路に人が飛び出してきた。
運転していた人は、あわててブレーキを踏む。
すべてが終わったあと、「ああ、こわかった」と。

 つまり「こわかった」という感情は、このばあい、あとから出てきた感情と考える。
こわかったから、ブレーキを踏んだのではない。
ブレーキを踏んだから、こわかった(?)。

もう少し専門的にいうと、(脳があることがらに反応する)→(それが脳に向かう求心性神経を経て)→(脳の中枢神経)に伝わる。
その情報を得て、(脳の中枢神経)が、「これは悲しむべきことだ」と知り、「悲しみという感情を覚える」(同書)と。

●シャクターの認知―生理説

 シャクターの認知―生理説は、つぎのように説明する(同書P53)。

(刺激)→(身体的反応の高まり、状況検討)→(情緒判断)→(情緒)。

 つまり(刺激)があって、それを脳の中枢神経が判断し、それが情緒、つまり感情へとつながっていく、と。

 この説で重要なところは、(とくに心の暖かさという点で重要なことは)、「脳の中枢神経が判断する」という部分。
「判断する部分」の状態で、大きな(差)が生まれる。
ここが重要!
私にもこんな経験がある。

●映画『ベン・ハー』

 私はビデオを手に入れてからというもの、毎年のように、映画『ベン・ハー』を観た。
その映画を観ているとき、こんな奇妙な現象が現れた。
涙が出てくるシーンが決まっていたこと。
またそのシーンが近づいてくると、まだそのシーンになっていないのに、先に、涙が出てくるようになったこと。
ここ10年ほどは、あまり観ていないが、つい先月、BS放送で、久しぶりに『ベン・ハー』を観た。
そのときも、そうだった。
涙が出てくるシーンが近づいてくると、やはり先に目頭がジーンとしてきた。

 これはパバロフの条件反射によるものなのか。
それとも脳の中枢神経が、先に判断して、それを遠心性神経系を通じて、末梢神経に「涙を流せ」と命令しているためなのか。
どうであるにせよ、脳の中枢部にある判断力が、感情に大きな影響を与えているのは事実。
(判断力が強く働く)……それが強い感情となって、末梢神経に伝わる。
そこで「悲しい」「うれしい」という感情が生まれて、涙腺を刺激する。

●脳とが支配する感情

 この話を、つまり先に書いた、ブレーキを踏んだ話を、たまたま中学2年生の女子にしてみた。
聡明な子どもである。
その子どもはそれを聞いて、「へえ~、そうなんだ!」と驚いて見せた。
このばあいも、脳の中枢神経がまず、「おもしろい!」と判断したことになる。
それを遠心性神経が末梢神経に情報を伝え、(驚く)という感情につなげた。

 が、このばあい、もし中枢神経が「おもしろい!」と思わなかったら、どうなるか。
あるいはその子どもが、それが理解できるほど、聡明でなかったとしたら……?
その子どもは、(驚く)という感情を示さなかったことになる。

●なぜ人間なのか

 このことは、感情について、重要な教訓を示唆している。
つまり感情は、訓練によって、その幅を深みを増すことができるということ。
それはちょうど、学習することによって、知識や経験を深めることができるのに似ている。
が、そうでなければ、そうでない。
感情も、退化する(?)。

 どちらがよいかということになれば、当然、感情というのは、豊かであればあるほど、よい。
もしだれかが、「人間はなぜ人間なのか」と問えば、私は迷わず、「感情があるから」と答える。
たとえば人間が、映画『スタートレック』の中に出てくる、ミスター・スポックのようになってしまったら、人間の織りなす世界は、まさに昆虫の世界と同じ。
味気なく、つまらないものになる。
どちらがよいかということになれば、感情は豊かであればあるほどよい。
もしだれかが、「人間はなぜ生きるか」と問えば、私は迷わず、「感動があるから」と答える。

 感情のない人間、感動のない人生……。
それは即、人間性の否定、さらには命の否定と考えてよい。

●では、どうすればよいか

 「感情」というと、どこか得体の知れないものに考える人もいるかもしれない。
しかしそうではなく、脳の中枢神経が支配するものと考えると、先にも書いたように、「訓練」という言葉を、そのまま使うことができるようになる。

 感情は、訓練によって、その幅を深みを増すことができる!
あとはその方法をさがし、訓練すればよい。

 たとえば音楽を聴く。
たとえばすばらしい映画を観る。
旅行をする。
方法はいろいろある。
要するに日常の生活の中に、「感動」を呼び込む。
その感動が、中枢神経を刺激する。
私も、日常的に、こんなことを経験している。

 先日も、リチャード・ギア主演の『HACHI(忠犬ハチ公)』というDVDを観た。
よかった。
何度も涙をもらした。
そのあとのこと。
家で飼っているハナ(ポインター犬)が、それまでになく、いとおしく見えた。
庭に出て、何度もハナをさすってやった。

 あるいはYOUTUBEをサーフィンしながら、いろいろな音楽を聴く。
1~2時間も聴いていると、頭の中に、いろいろな音楽が浮かんでくるようになる。
テーブルの上の果物を見ても、浮かんでくる。
庭先の菜園を見ても、浮かんでくる。
ワイフと話していても、食事をしていても、浮かんでくる。
中枢神経が、音楽でいっぱいになる。

●感情

 ……ということで、子どもの世界では、「感動させる」ことが、いかに重要なことかがわかってくる。
たとえば教育を通して、「知識」を教えるのではない。
「知識をもつ喜び」を教える。
「学ぶ喜び」を分かち合う。
その感動が大切。
知識を覚えたかどうかということは、つぎのつぎ。
(だからといって、知識を否定しているのではない。誤解のないように!)

 つまり、少しおおげさな言い方に聞こえるかもしれないが、「教育」で大切なことは、「人間を育てる」こと。
その第一歩が、「感動を与える」ということになる。

感情論。
一読すると、無意味な論争に見えるかもしれないが、その奥は深い。
久々に、新しい知識を得て、私は、今、感動している。

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