Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, May 19, 2010

●心の防衛

【防衛機制】

●心を守る

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人は、大きく分けて、「他責型」と「自責型」がある。
これについては、何度も書いてきた。
たとえばお茶を自分の不注意でこぼしたとする。
そのときすかさず「こんなところにお茶を置いた
人が悪い!」と切り返すタイプの人を、「他責型」
つまり他責型人間という。

反対に、他人がこぼしても、「そこへお茶を置いた
私が悪い」と、自分を責めるタイプの人を、「自責型」
つまり自責型人間という。
見た目の様子で判断してはいけない。
明るく、かっ達な人が、自責型人間であったり、反対に、
静かでおとなしい人が、他責型人間であったりする。

この問題は、あなた自身はどうかという視点で
考えてみると、わかりやすい。

私自身は、いつもこうして攻撃的にものを書いて
いる。
たいていの人は、他席型人間と思うかも知れない。
が、実は、典型的な自責型人間。
何か問題が起きるたびに、内へ内へと、それを
ためこんでしまう。
日本の経済がおかしくなっても、自分の責任の
ように感じてしまう。
だからワイフはときどき、こう言う。
「あなたは、ひとりで、日本を背負っているみたい」と。
そういうおバカなところが、私には、ある。

が、これでは心はボロボロになってしまう。
……というのは、一例だが、心は、自分を守ろうとして、
さまざまな反応を示す。
フロイトは、こうした一連の反応を、「防衛機制」と
呼んだ。

ひとつずつ、例をあげて考えてみよう。

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●抑圧

 何か不愉快なことがあると、人は、心の中に別室をつくり、そこへその不愉快な部分を押し込もうとする。
それを「抑圧」という。
「心の別室」という言葉は、私が考えた。
が、一度、心の別室へ入ると、そこだけがほかの心から隔離されてしまい、(1)時間、(2)上書き、(3)修正の3つが、働かなくなる。

 「時間が働かない」というのは、10年前、20年前のことが、心の別室の中では、つい先日のできごとのように固定化され、そこに残ることをいう。
本来の人格とは別の、「別人格」が、そこにできるとわかりやすい。

私たち夫婦なども、よく夫婦喧嘩をするが、そのとき30年前、40年前のことを持ち出すことがある。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
とっくの昔に忘れてよいはずなのに、それがそのまま口から出てくる。
ある老夫婦(ともに80歳を過ぎている)のばあいも、それこそ50年以上も前のことを持ち出して喧嘩しているという。
(私たち夫婦は、そうはなりたくないと思っているが……。)

 子どもの世界でもよく見られる。
親子で喧嘩したようなとき、とっくの昔に忘れてしまってよいようなことを持ち出して、たがいに言い合ったりする。
「お父さんは、あのとき……!」「お前だって、あのときは……!」と。

 「上書きが働かない」というのは、たとえばその後に、楽しい思い出がいくつか重なったとしても、心の別室に入った記憶は、そのまま。
たとえばふつうの記憶のばあい、仮にいやなことがあったとしても、そのあと別の楽しい思い出ができれば、それ以前のいやな記憶は消え、楽しい思い出がその上にのる。
仲直りも、それでできる。
これを「上書き」という。

 また心の別室に入った記憶は、そのため、修正がきかない。
平常なとき、心の別室に入った記憶を修正しようとしても、心の別室の記憶は、そのまま。
話し合いを通して、「わかった」と当人は納得しても、またときとばあいに応じて、それがそのまま心の別室から飛び出してくる。
 
 私のばあいも、「今度、喧嘩しても、もう過去の古い話はやめよう」と思うことはある。
が、喧嘩が始まってしまうと、元の木阿弥。
いつもと同じように言い合ってしまう。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
 
 子育てにおいては、子どもの心に、心の別室を作らないようにする。
はげしい恐怖、怒り、不満、嫉妬、闘争などは、子どもの心にとっては、タブーと心得る。
つまり幼少期であるならなおさら、「抑圧」に警戒する。
親がきつく叱ったりすると、子どもによっては、一見、しおらしくおとなしくなるが、それはあくまでも「表面」。
もっと言えば、「仮面」。
子どもは心に別室を作り、そこに不愉快なものを閉じ込めようとする。
たった一度でも、それが衝撃的なものであったりすると、心の別室ができることがある。

ある女の子(2歳児)は、母親に強く叱られたのがきっかけで、それ以後、1人2役のひとり言をするようになってしまった。
母親は「不気味です。どうしたらいいでしょう」と相談してきた。
さらにひどくなると、多重人格性をもつこともある。
これは心の別室とは関係ないが、心というのは、ときとしてそれほどまでにデリケートということ。

●悲惨な事件

 私の住む隣町で、たいへん悲惨な事件が起きた。
30歳になる男性(無職、NEET)が、家族5、6人をつぎつぎと殺害するという事件である。
きっかけは、家族のだれかが、インターネットを止めたことだった。
それに激怒して、その男性は、家族をつぎつぎと殺害してしまった(2010年5月)。

 父親は、何かの職人をしていたが、給料は全額、その男性(息子)に渡していたという。
その中から、逆に、息子のほうから親たちが生活費をもらっていた(?)という。

 こういう事件を聞くと、おおかたの人は、「どうして?」と思う。
「世話になっている側が、世話をしている側を殺すなんて!」と。

 新聞で報道された範囲内でのことしかわからないが、その理由のひとつに、先に書いた「抑圧」があると考えてよい。
その男性は、幼少期に、何らかの形で、心の中に心の別室を作ってしまった。
そこで別人格を作ってしまった。
それが最後に、こういう形で爆発してしまった、と。
ワイフは、こう言った。

「……だって、父親が死ねば、困るのは自分でしょ?」と。

 そこが「抑圧」の、こわいところ。
当の男性は、平常なときには、それを理解する能力はある。
冷静に話し合えば、それなりの道理も通ずる。
(すでに断絶してしまって、会話が途絶えているケースも多いが……。)

しかし何かの拍子に、別室から出てきた「別人格」は、そうは思っていない。
「オレを産んだのは、お前だ。その責任を取れ!」となる。
あるいは「こんなオレにしたのは、お前だ! 責任を取れ!」となる。
意識の方向が、逆。
「親の世話になっている」と考える前に、「自分は親の犠牲者」と考える。
だからそのときになると、見境なく、親を殺してしまう。

●投影

 自分の心の中に、何か受け入れがたいことがあったとする。
よくある例は、(私たち夫婦がそうかもしれないが)、本当は自分が相手を嫌っているのに、相手が自分を嫌っていると決めつけ、相手を責める。
(ハハハ!)
それを「投影」という。
 
つまり自分の心を相手の中に投影して、自分を正当化する。
もう少し具体的に話すと、こうなる。
(ここから先は、私たち夫婦のことではない。)

 たとえば定年を迎えると、そこにドカッと待っているのは、老後。
それまでの生活のリズムが、人によっては、根底から狂うことがある。
ある妻は、こう言った。
「夫が、本当に粗大ごみに見えるようになった」と。
が、自分のほうから、夫を嫌っているとは言えない。
そこでそのかわり、「夫は私を嫌っている」と、自分でそう思い込んでしまう。
「夫が私を嫌っているから、私は夫から遠ざかる」と。
さらに進むと、「あなたは私を嫌っている」「私はそのたびに、つらい思いをする」「だからあなたのために、離婚してあげる」となる。

 もう少しわかりやすい例に、こんなのがある。

 これだけ騒がれても、受験生や受験生の親を相手にした悪徳商法は、後を絶たない。
書店で買えば、数万円ですむような教材を、「FAX指導付」「電話指導付」とかいうサービスをつけて、80万円近い値段で、受験生に売りつける。
そんな業者が、この浜松市内にも、支店を構えている。

(余計なことだが、FAX指導にせよ、電話指導にせよ、その程度の指導で、子どもの学力があがるということは、常識から考えても、ありえない。
もしそうなら、学校という教育機関は、不要ということになる。)

 そういうセールスマンに罪悪感がないかといえば、ないことはない。
しかし彼らは、こう言って、自分の職業(?)を正当化する。
「この世は不公平だ。人生の入り口で、ほんの少し努力すれば、一生、楽な人生が送れる。そういう不公平があるから、オレたちは苦労する。80万円なんて、安いもの」と。
つまり受験生や受験生の親たちを、「悪者」に仕立て、自分の立場を正当化する。
「だから自分たちのしていることは、まちがっていない」と。

●合理化

 よく私たちは、自分の心をだます。
だましながら生きている。
何か失敗をしたり、損をしたようなときなど。
「どうせ、失敗するに決まっていた」とか、「大損でなくてよかった」とか思い直して、自分を納得させる。
こうした心理操作を、「合理化」という。

 今までに書いてきた、「抑圧」にせよ、「投影」にせよ、用語としては理解しにくい。
しかしこの「合理化」は、理解しやすい。
日本語でも、そのまま使う。
あえて言うなら、「正当化」というニュアンスも、それに含まれる。
「自己正当化」でもよい。
それには「弁解」「言い訳」「言い逃れ」「あと付け理由」「とりつくろい」「つじつま合わせ」などが含まれる。
ものごとを、自分の都合のよいように合理化しながら、自分の心をだます。

 先にあげた悪徳教材会社の社員の心理も、合理化で説明できなくはない。
「相手は悪人だ。だからそういう悪人をだましても、自分は悪くない」と。
この中で、「相手が悪人に見える」部分が、投影であり、「だから私は悪くない」と考える部分が、合理化ということになる。

 さらにこんな話を、私が商社マンだったころ、聞いたことがある。
中国には、『相手にだまされる前に、相手をだませ』という格言があるという。
そのため中国人は、「だまされるほうが、悪いと考える」と。

 これなども、「合理化」ということになる。
戦争について言えば、「殺される前に、殺せ」となる。
「自分を殺しにかかってくる人間は、どうせ悪人。だから殺してもいい」と。

 子どもの世界にも、似たような話がある。
受験競争の世界では、「相手を蹴落としてでも、合格せよ」とか、「相手が合格すれば、自分が不合格になるだけ」と考える。
だから相手の成績がさがれば、(あるいは全体の成績がさがれば)、相対的に、自分にとっては有利。
そういう形で、自分の行動や考え方を、合理化していく。
しかしここで悲劇が始まる。

 こうした合理化が一時的なもので終わればよし。
目的の学校に入学したとき、それで終わればよし。
が、たいていは、一生、そのままつづく。
思考回路というのはそういうもので、一度できると、そのまま残る。
何かのことでまずいことがあると、常に、責任を相手に転嫁しながら、自分を合理化していく。

 だから合理化も、ほどほどに!

●反動形成

 好きなのに、「嫌い」と言う。 
嫌いなのに、「好き」と言う。
子どもの世界でよく見られる現象だが、それが進んだ状態が、「反動形成」。
上の子(兄あるいは姉)に、よく見られる。

本当は下の子(弟あるいは妹)が、憎くてたまらないのだが、親の前では、「いい兄」「いい姉」を演じてみせる。
「演ずる」というよりは、本能的な部分で、そういう様子をしてみせる。

 「弟は好き?」と聞くと、「大好き」と答えたりする。
が、実際には、親の目を盗んでは、巧妙かつ執拗、かつ陰湿に、下の子(弟あるいは妹)をいじめたりする。
殺す寸前のところまで、する。
「弟(妹)が嫌い」などと言うと、自分の立場がなくなる。

 こうした現象は、おとなの世界でも見られる。
牧師などの聖職者が、ことさら「性」の話を、忌み嫌ってみせるのも、その一例。

 この「反動形成」は、今まで書いてきた、「抑圧」「投影」「合理化」と、大きな共通点がある。
つまりどれも、自分の「心」を偽ること。
が、それがどんなばあいであれ、けっして望ましいことではない。

●すなおな心

 「すなおな子ども」というときには、(おとなでもよいが)、2つの意味がある。
ひとつは、心のゆがみ、たとえばいじける、ひがむ、つっぱる、ねたむなどのゆがみがないこと。
もうひとつは、心の状態(情意)と、顔の様子(表情)が一致していること。
思ったことを言い、それを表情でそのまま表現する。
簡単なことのようだが、できない人には、できない。
幼児でも、表情が乏しい子どもは、20%はいる。
(表情が乏しいから、すなおでないということにはならないが……。)
抑圧、投影、合理化、それに反動軽形成にしても、それらはすべて心を偽ることにつながる。

 短期であれ、(長期であればなおさらだが)、心に与える悪影響には、計り知れないものがある。
仮にそうせざるをえない状況であるにしても、そういう自分をどこかで客観的に評価しながら、そうする。
あるいはそうであることを知る。

 まずいのは、そういう自分であることに気がつかないまま、それを「性格」として定着化してしまうこと。
同じ失敗を繰り返すこと。

 反動形成にしても、先に書いたように、「聖職者」と呼ばれる人ほど、そのワナにハマりやすい。
「先生」「先生」と呼ばれているうちに、自分を見失ってしまう。
そのうち本当の自分が、わからなくなってしまう。
これがこわい。

●否認

 そのものがほしい。
しかし手に入らない。
そういうとき、人は、「否認」することによって、自分の心を防衛する。

 たとえばそこ自分が心寄せる女性(男性)がいたとする。
が、その女性は、別の男性と、よい関係にある。
そういうとき、その人はそれを知って、「本当はあんな男、大嫌い」と、言ったりする。
「ああいうのは、私のタイプではない」と。
それが「否認」である。

 私にもこんな経験がある。

 小学5年生のときのこと。
私はAMさんという女の子に、好意を寄せていた。
が、その女の子は、私に一向に関心を示さなかった。
そこで私がつぎにとった行動は、(意地悪)だった。
わざとその女の子を無視したり、悪口を言ったりした。
廊下ですれ違っても、わざと避けてみせた。

 その女の子は、ますます私から遠ざかってしまった。
そしてあの事件が起きた。
「起きた」のではなく、私が「起こした」。

 私はその女の子が教室にいない間に、その女の子の机の中から、その女の子ノートを取り出し、鉛筆で、落書きをしてしまった。
グイグイと手の動くまま、線を描いてしまった。

 ……そのあと記憶は、とだえている。
私が覚えているのは、その女の子が泣いている姿。
さめざめと泣いていた。
私はそのあと、担任の先生にひどく叱られたと思うが、それはよく覚えていない。

 これは、否認が高じて、(いじめ)に発展したケースである。
ただそのときの自分の心の状態を、今でもよく覚えている。
「何てことをしたのだ!」と、自分を責める「私」。
「ザマーミロ!」と、それを笑う「私」。
2人の「私」が、交互に私の中に現れたり、消えたりした。

 そういう点では、私の心は、かなりゆがんでいた。
原因はいろいろ考えられるが、ともかくも、かなりゆがんでいた。
今もし、身近にそういう子どもがいたら、私は迷わずその子どもの親に、こう言うだろう。
「あなたのお子さんの心は、かなりゆがんでいますね」と。

 否認にしても、心を偽ることを意味する。
子どもの世界では、けっして好ましいことではない。
だから今、私たちは子どもたち(幼児)を教えながら、ときどき、こういう会話をする。

私「君たちは、ママのおっぱいが好きか?」
子「……嫌いだよ~」
私「ウソをつくな! 好きだったら、好きだと言え! ウソをつくな!」と。

 こういう言い方をして、子どもの心を開放させていく。

●補償

 以上は、(このましくない防衛機制)ということになる。
これに対して、(好ましい防衛機制)というのもある。
それが「補償」である。
(中には、好ましくない「補償」もあるには、ある。)

 何か自分の中に欠点を見つけたら、それを克服しようと努力するのが、それ。
あるいは、勉強が苦手だから、スポーツでがんばるというのも、それ。
が、このタイプの補償は、えてして補償は、自虐的になりやすい。
たとえば現在、有名になっているスポーツ選手の中には、それを思わせる人は少なくない。
朝は暗いうちに起き、バットの素振り練習をし、夜はみなが寝る時刻まで、やはり練習をした、など。
スポーツを楽しむというよりは、スポーツを通して、自分の立場をつくる。
心を防衛する。

 ただ中には、好ましくない補償もある。
たとえば子どもの世界には、(おとなの世界にもあるが)、「いじめ」がある。
子どものいじめは、複雑である。
いじめるためにいじめるというのもあるが、じめられる前にいじめるというのもある。
あるいはいじめのグループに加わり、自分がいじめられるのを、避けようとするのもある。
中には、学校でいつもいじめられている子どもが、別の世界では、いじめを繰り返すというケースもある。
いじめられる前にいじめる、あるいはいじめる側に回って、いじめられるのを避けるというのも、広い意味で、「補償」ということになる。

●置き換え 

 これは広い意味での「合理化」に似ている。
たとえばA君に恋を打ち明けたが、断られてしまった。
そこでA君に代わりに、今度はB君に恋を打ち明ける、など。

自分の満たされない欲求を、別の対象に置き換えて、満足させる。
だから「置き換え」という。

 私のばあいは、これを置き換えと言ってよいかどうかはわからないが、心が塞いだようなとき、何か買い物をして、心を紛らわすことがある。
おかしな癖があって、複雑な電子製品を買うと、心がよく紛れる。

 考えてみれば、人生には、いつも「選択」がついて回る。
何かの映画のテーマにも、なっていた。
私たちは毎日、何かの選択をしながら、生きている。
その選択するという部分で、人はいつも、置き換えを経験する。
たとえば今の私にしても、そうだ。
本当は孤独。
友がほしい。
わかりあえる友がほしい。
が、そういう友が近くにいない。
だから、そのかわりに、こうして文章を書いて、一般世間に向かって自分の気持ちを訴える。
「置き換え」である。

●心

 こうした一連の言葉をフロイトは使ったが、ほかにもいろいろ考えられる。
はやし浩司流、補足ということになる。

(1)八つ当たり(関係ない人に、怒りを転嫁する。)
(2)徘徊(近くをブラブラあるいて、気を紛らわす。)
(3)愚痴(愚痴をこぼして、気を晴らす。)
(4)運動転嫁(汗を出すような運動をして、忘れる。)
(5)思想昇華(文章を書いて、自分を昇華する。)
(6)復讐(憎い相手を、窮地に追い込む。)、などなど。

 フロイト学説にとらわれる必要はない。
また言葉の解釈は、心理学者と呼ばれる人たちに、任せておけばよい。
(私もときどき、「君の解釈はまちがっている」というようなコメントをもらう。)

 大切なことは、私たちの「心」というのは、それほどまでにデリケートで、傷つきやすいということ。
それがわかるだけでも、心の見方が大きく、変わってくる。
自分の見方も変わってくる。

 では、どうするか?

 要するに、ありのままの自分を見つめながら、すなおに生きていくということ。
一見簡単そうに見えるが、実際には、むずかしい。
むずかしいが、それが正道。
その努力だけは、怠ってはいけない。

私「おっぱいが好きだったら、好きと言え」
子「……?」
私「自分の心を偽ってはいけない」
子「……先生は、好き?」
私「好きだよ」
子「……だったら、ぼくも、好き」と。

 あなたも一度、そんな会話を、子どもとしてみるとよい。

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【補記】

 昔、「ぼくは台風が大好き」と言った、アメリカ人がいた。
「台風が来ると、ベランダに椅子を置いて、そこから外をながめている」と。
私はそれを聞いて、驚いた。
私も内心では好きと思っていたが、それをこの日本で口に出して言うことは、どこかタブー視されていた。
とくにあの伊勢湾台風を経験した私たちの世代は、そうだった。

 が、それを聞いて、「ナーンダ、そうだったのか」と、私は安心した。
「台風が好き」と思う私を、私はどこかおかしいと思っていた。
だからそれを口に出して言うことはできなかった。

 またこんな男性もいた。
その人の母親は、特別擁護老人ホームに入って、もう10年になるという。
その母親について、その男性は、こう言った。
「見舞いに行くといっても、年に1、2度かな?」と。

 年に1、2度?

 もし私の郷里の人たちが聞いたら、「何という親不孝者!」と、思うことだろう。
しかし私はその男性に、ほかでは感じない、すがすがしさを覚えた。
まったく自分を飾らない。
偽らない。
そう感じた。
その男性は、ありのままに生きていた。
自分の心を正直に表現していた。
(それがよいことか、悪いことかという判断は別にして……。)

 自分にすなおに生きる。
それが心を偽らない、第一歩ということになる。
他人がとやかく言っても、気にすることはない。
それを恐れる必要もない。
私は私。
あなたはあなた。
いつも心の中に、さわやかな風を通しながら生きる。
それが「私」ということになる。

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2010++++++はやし浩司

●退職後の夫婦生活

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「みんな今ごろ、どうしているんだろう?」と、
そんなことをよく考える。
健康問題、経済問題、そして家族問題などなど。
60歳を過ぎてから、こうした問題が、質的に
変化したのを、私は直接、肌で感じている。

それまでは、かなり楽天的だった。
「どうにかなる」という思いが強かった。
しかし今は、ちがう。
どのひとつをとっても、深刻さがましている。
あるいは考えれば考えるほど、袋小路に入って
しまう。

夫婦関係についても、そうだ。
たとえば私たち夫婦は、よく喧嘩する。
喧嘩といっても、私の側からの一方的なもの。
が、たいへん幸いなことに、私のワイフは、精神的に、
きわめて安定している。
だからふつうだったら、喧嘩にならないはず。
ワイフは、いつも私を軽くあしらう。
私を無視する。
だから喧嘩する(?)。

が、喧嘩が悪いというのではない。
たいてい1~2日で、仲直りする。
私のほうがあやまれば、それですむ。
つまりは、いつも私のひとり芝居?

が、その喧嘩も、このところ(さみしさ)を帯びてきた。
若いときのような「お祭り」では、すまなくなってきた。
あれほど気丈夫だったワイフも、60歳。
気弱になった。
「私には、あなたしかいない……」と、そんな弱音を
吐くこともある。

が、この年齢で、マンネリほど、恐ろしいものはない。
「そこにあなたがいて、ここに私がいる」というような
状態では、たがいに息が詰まってしまう。
そこで私たちは、この危機(?)を乗り越えるため、
2010年に入って、こんなことをするようになった。
「一泊旅行」である。

講演に招かれるたびに、それを利用して、2人で旅行をする。
何かネットでよい情報が飛び込んできたら、すかさず、それを
利用する。
たがいの倦怠感を吹き飛ばすには、旅行がいちばん。

……ということで、今夜は、細江町にある国民宿舎にやってきた。
キャンペーン中ということで、一泊9000円弱で泊まれた。
新装、増改築したばかりで、星はもちろん5つの★★★★★。
(星の数は、(料金の満足度)x(サービスの満足度)で計算。)

【注:国民宿舎奥浜名湖、電話、053-522-1115。
〒431-1305 静岡県浜松市北区細江町気賀1023-1
JR浜松駅からは、車で40分ほど。
東名西インターからは、15分ほど。
この国民宿舎の売り物は、何と言っても、窓からの景色。
小高い丘の山頂にあって、見晴らしがすばらしい。】

何といっても、風呂が清潔なのがよい。
食事も、料金が料金だから、ぜいたくは言えない。
満足+大満足。

またこういう旅館でワイフを見ると、別人(愛人かな?)のように
新鮮に見えるから不思議。
遠くへ行くのもよいが、こうして近くにある温泉をめぐるのも、
また楽しい。

60歳を過ぎて、夫婦関係に悩んでいる人は、ぜひ一度、
旅行を試してみてほしい。
行くまでは何かと迷うが、こうして来てしまうと、いつも
「よかったね」となる。

そう、今夜も食事が終わった後、ワイフに「来てよかったね」と
声をかけると、ワイフもうれしそうに笑った。
これでしばらくは(?)、我が家も平穏な日々がつづきそう。
……と言いながら、すでに来週の行動計画を立て始めている。

そうそう、6月は、あちこちへ講演で呼ばれる。
その前後にどこかの旅館に、一泊する。
忙しくなりそう!

(はやし浩司 国民宿舎 奥浜名湖 夫婦の倦怠期 老後の夫婦 夫婦問題)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2010++++++はやし浩司