Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, June 21, 2010

●親のウソvs子のウソ

●親のウソvs子のウソ(反動形成について)

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昔から、こう言う。
「No news is a good news.」と。
つまり「便りのないのは、よい知らせ」と。
が、この格言を裏から読むと、その反対に、
「便りがあるのは、悪い知らせ」とも、解釈できる。
たとえば結婚した息子や娘から、
「仲よくやっています」という便りが
届いたとする。
友人のA氏のもとに、昨年結婚した娘夫婦から、
そんな便りが届いたという。

そういうとき親は安心(?)する。
「仲よくやっていれば、いいこと」と。
A氏も、「何とかうまくやっているようです」と
喜んでいた。

しかし本当に安心してよいものか?
そういう言葉を、そのまま信じてよいものか?

人は、時として、自分の弱点(=ウソ)を隠すため、
またそれを気にするあまり、その反対の
自分を演ずることがある。

心理学でいう「反動形成」のひとつ。
たとえばよくある例として、こんなのがある。

「私は放任主義で、子どもを育ててきました」
「私は、子どもの進学校はどこでもかまいません。
子どもの能力に任せています」
「子どもは伸びやかなのが、いちばんいいです。
家では子どもの好きにさせています」と。

こうした言葉は、そのほとんどがウソと考えてよい。
・・・というより、ウソ。

そうことを言う親にかぎって、子どもに対して、過干渉、
過関心を繰り返している。
子どもの進学にかかりっきりになっている。
あるいは、子どもへの威圧が日常化しているため、
それを「威圧」とも思っていない。

つまりそういう自分を隠すため、その反対の
ことを口にする。

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●恋人たちの会話

 もっとわかりやすい例が、若い恋人たちの会話。
たとえば1人の女性が、1人の男性に向かって、こう言ったとする。
「私を信じて!」と。
あるいは「あなたを信じているわ!」でもよい。

 こういうケースのばあい、相手の男性を疑っているから、そういう言葉を
口にする。
つまり「私を信じて」というのは、相手に「ぼくを信じてほしい」と
言ってもらいため。
つまり不安だから。
また「あなたと信じているわ」というのは、相手を疑っているから。
本当に信じていたら、そういう言葉そのものが、口から出てこない。
わかりやすく言えば、自分がもっている心配や不安を打ち消すために、その
反対のことを言う。

 冒頭にあげた「仲よくやっています」というのも、それ。
だれも「仲よくやっていない」と、思っていない。
息子にせよ、娘にせよ、新婚早々であれば、仲がよいのが当たり前。
ラブラブ、アツアツ・・・。
親の方から、「仲よくやっているか?」という手紙でも書いて、その
返事でそう書くなら、わかる。
しかし親の方から何も聞いていないうちに、「仲よくやっています」は、ない。
つまり仲よくやっていない・・・?

●反動形成

 反動形成は、いろいろな場面で経験する。
よく知られた例として、長男、長女が見せる反動形成がある。
長男や長女は、下の子(弟や妹)に嫉妬しやすい。
親は、「兄も弟も、平等にかわいがっています」と言う。
しかし上の子ども(長男や長女)にしてみれば、その「平等」であることが不満。
それまで100%自分のものだった親の愛情が、半分に減った。

 そこで上の子どもは、赤ちゃんぽい自分を演出して、もう一度親の愛情を、100%、
自分のものとして取り返そうとする。
「赤ちゃん返り」というのは、そうして起こる。
本能的な部分で起こるので、叱ってなおるような問題ではない。
またそれが高じて、反対に、ときとして下の子どもに、攻撃的になることもある。
嫉妬がからんでいるだけに、陰湿かつ動物的。
下の子どもを、「殺す」ということもしかねない。

 が、それでは自分の立場がなくなる。
「あなたはお兄ちゃんでしょ(お姉ちゃんでしょ)!」と言われる。
そういう言葉で、抑圧される。
あるいは自らを抑圧する。
そこで上の子どもは、よい兄やよい姉を演ずるようになる。
「ぼくは弟(妹)が好き」などと、平然と言ったりする。
本当は弟(妹)が憎くてならないのだが、やさしくめんどうをみのよい兄(姉)を
演ずるようになる。
先にも書いたように、本能的な部分に根ざしているため、親はそれが仮面であることに気づくことはない。
外面だけを見て、こう判断する。
「うちの子は、いい子」と。
これが「反動形成」である。

 ほかに聖職者(牧師や僧侶、教師)と呼ばれる人たちの反動形成も
よく知られている。
みなにあがめられている間に、そういう人間を、自ら作っていってしまう。
たとえばだれかが、性的な話や卑猥な話をしたりすると、ことさらそれを嫌って
見せたりする、など。
これが「反動形成」である。

 それはそれだが、そういった状態が長く続くと、仮面をかぶるようになる。
高徳者を演じているあまり、本当の自分を見失ってしまう。
が、本当の自分が消えるわけではない。
本当の自分は、心の奥に抑圧され、押し込まれる。・・・あるいは、自分を
押し込む。

本当に自分が、別のところで、別の人格となって現れることもある。
欧米では、聖職者による少年や少女に対する暴行や虐待が、問題になら
ない日がないほど、多い。
そういう形で、つまり別の形で、抑圧された自分が外に出てくる。
「反動形成」のこわいところは、ここにある。

●心を隠す

 では、本当にうまくいっている夫婦のばあいは、どうか。
どういう手紙を書くか。
そういう夫婦のばあいは、心に余裕が生まれるため、相手をねぎらうようになる。
冒頭に書いた夫婦のばあいだと、「仲よくやっています(から、心配しないでくれ)
ではなく、「お父さん、お母さん、お元気ですか?」となる。
余裕がないから、自分たちの状態を見透かれないように、先手を打つ。
それが「ぼくたちは、仲よくやっています」という言葉になって、表れる。

 さらに中には、こちらが聞きもしないうちから、「私の夫(妻)は、すばらしい」
とほめちぎる人がいる。
「私は夫(妻)を愛しています」と、平然と言う人がいる。
それも日ごろの、夫(妻)への不満が、裏返して出てきたものと考えてよい。
本当に自分の夫(妻)がすばらしいと思っている人は、そういうことは言わない。
自分の夫(妻)を本当に愛している人も、そうだ。
そんなことは当たり前のことであり、またあまりにも当たり前のことだから、言わない。

 先に書いた、「私を信じて」「あなたを信じているわ」という言葉にしても、そうだ。
本当に自分が信じられるに値する人間なら、そういうことは言わない。
相手を信じているなら、言わない。
疑っているから、言う。

●詐欺

 私も長い人生の中で、いろいろな経験をした。
詐欺にあったこともある。
ひどい男だった。
人をだますという意識もないまま、人をだます。
そのときも、私がその相手を疑い始めると、その相手から、年賀状が届いた。
それには、こうあった。
「私を信じろ」「他人を信じるな」と。

 この男性のばあいも、先に書いた恋人同士の心理状態と同じと考えてよい。
自分が信じられるに値する人間でないことを、彼自身がいちばんよく知っている。
「私を信じろ」というのは、「私を詐欺罪で訴えるな」という意味。
「他人を信じるな」というのは、「お前を信じていない」という意味。
つまり自分がかかえる心配や不安を隠すために、その反対の言葉を口にする。

 そうそうその詐欺をした男だが、こんなエピソードもある。
私にお金を仮に来たのだが、そのときも、見たこともないような立派な(?)
借用書を前もって用意してきた。
それには返済期日と、返済額が、ズラリと表になっていた。
ずるい男は、そういうことが、平気でできる。

●結論

 で、このエッセーの結論。

二男は、先日、日本へ帰国したとき、私にこう言った。
「ぼくたち(夫婦)は、いつも喧嘩ばかりしているよ」と。
そこで嫁(アメリカ人)に、別のところで、「そうなのか?」と、聞くと、
あっさりと、「Yes!」と言って笑った。
が、私はそれを聞いて、むしろ安心した。
というのも、実は、私たち夫婦も、そうだからである。
私も他人に話すときは、「ぼくたちは毎月のように離婚話をしている」と言う。
あるいは、「夫婦の愛なんて、とっくの昔に消えてしまったよ」とも言う。

 「信じろ」「信じているわ」などという言葉は、この30年間、使ったことが
ない。
で、もし今、私の親が健在で、手紙を書くとしたら、きっとこう書くだろう。

「いつか離婚してやろうと考えながら、40年近くいっしょに暮らしましたが、
その勇気も度胸もなく、離婚もできませんでした。
あとは死ぬまで、このまま惰性で生きていきます」と。

 自分を飾るのも疲れた。
偽るのは、いや。
だからありのままの自分で生きたい。
残りの人生も、短いことだし・・・。

最後に私のワイフも、こう言った。
「Aさんとこの、娘夫婦は、うまくいってないのよ」と。
「そうだろうね」と、私は答えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 反動形成 うそ 虚言 抑圧)

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反動形成について書いた原稿を
添付します。
(09年6月6日の原稿より)

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●もう1人の自分(反動形成)(Another Man in Me)

 自分にとって、受けいれがたい、もう1人の自分を感じたとき、その自分を抑圧するために、人は、それとは正反対の自分を演ずることがある。
これを「反動形成」という。

 その中でも、とくによく知られているのが、牧師や教師による、反動形成。
たとえば、牧師や教師の中には、ことさら、セックスの話や、露骨な話を嫌ってみせる人がいる。

 特徴は、「ことさら」、つまり、不自然なほど、大げさな様子を見せること。
信者や生徒が、「セックス」という言葉を口にしただけで、「オー、NO!」と大声で、叫んでみせたりする。

 これは自分の職業観とは相容れない、許しがたい欲望を、自分の中で、抑圧しようとして起きる現象である。

 ほかに幼児の世界で、よく知られている反動形成の例に、弟(妹)思いの、よい兄(姉)がいる。本当の自分は、弟や妹を、殺したいほど憎んでいるのかもしれない。
しかしそんな感情を表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。

 そこでその兄や姉は、ことさら、人前で、よい兄や姉を演じてみせたりする。
しかしこれは意識的な行為というよりは、無意識下でする行為と考えてよい。本人に、その自覚はない。

 さらに、その醜い本心を偽るために、仏様のように(できた人)を演ずる人もいる。
老人に多い。
自分自身の醜い素性を、隠すためである。このタイプの人は、何十年もかけて(ニセの自分)をみがきあげているので、ちょっとやそっとでは、他人には、それを見抜くことができない。
何十年も近くで住んでいる親類にすら、「仏様」と思いこませてしまう。

 反動形成であるかどうかは、先にも書いたように、「ことさらおおげさな」様子を見せるかどうかで判断する。
反動形成による行為は、どこか様子が不自然で、ぎこちない。ときにサービス過剰になったりする。

 本当はその客の来訪を嫌っているにもかかわらず、満面に笑顔を浮かべ、愛想よくしてみせる、など。

 こうして人は、本当の自分を抑圧するために、その反対側の自分を演ずることがよくある。

 たとえば力のない政治家が、わざとふんぞりかえって歩いて見せるなど。
あるいは体の弱い子どもが、みなの前で、かえって乱暴に振る舞ったりするのも、それ。

 ほかにもいろいろな反動形成がある。

 本当は、たいへんケチな人が、豪快に、人に太っ腹なところを見せる。
 心の中では憎しみを感じている社員が、その上司に、必要以上にへつらう。
 自分に自信のない人が、わざと大型の馬力の大きな車に乗ってみせる、など。
 もう少し、その反動形成を、自分なりに、整理してみる。

(嫉妬、ねたみ)→(見えすいた親切、やさしさ)
(欲望、願望)→(見えすいた禁欲者、謙虚さ)
(悪魔性、邪悪な心)→(見えすいた善人、道徳者)
(闘争心、野心)→(見えすいた謙虚さ、温厚さ)
(ケチ、独占欲)→(見えすいた寛大さ、おおらかさ)
(劣等感、コンプレックス)→(見えすいた傲慢さ、大物)
(だらしない性格)→(見えすいた完ぺき主義者、潔癖主義)など。

 この表をわかりやすく説明すると、こうなる。
たとえば嫉妬深く、ねたみやすい人は、反対にその反動として、人前では見えすいた親切心を発揮したり、妙に他人にやさしくしてみせたりする、など。

 わかりやすく言えば、反動形成というのは、自分の心を偽ることをいう。中には、夫を心の中で憎みながら、その反動として、つつしみ深く、できのよい妻を演ずることもあるそうだ。(私のワイフなどは、その1人かもしれない? ゾーッ!)

 あなたの中には、はたしてその反動形成による部分は、ないか? それを知るのも、また別の自分を発見することにつながるのではないかと思う。

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(補足)

 たまたま今日、年長児のクラスで、おっぱいの話になった。
そのときのこと。
私が子どもたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、みな、おおげさな言い方で、「嫌いだヨ~」と叫んだ。

 これも反動形成の一つと考えてよい。このころになると、子どもは「恥ずかしい」という言葉の意味がわかるようになる。たとえば、赤ちゃんに見られることは、恥ずかしいことと考える。だから(おっぱいが好き)イコール、(赤ちゃん)と考えて、それをあえておおげさに否定してみせたりする。

 しかしおっぱいが嫌いな子どもは、いない。とくに男児においては、そうだ。
が、中に、正直な子どもがいたりして、私が、「ウソをついてはダメだ」と、強くたしなめると、小声で、しかも少し顔を赤らめながら、「好きだよ……」と言う子どももいるにはいる。
しかしそういう子どもは、例外と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++June 2010++++++はやし浩司