Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, June 30, 2010

●溺愛

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●やるせない虚脱感

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多くの教師たちが今、ある種の
虚脱感に襲われている。

何かがおかしい。何かがへん。
しかしそれを声に出して言うこと
すら、許されない。

そんな虚脱感である。

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 少し前、ある小学校で、一人の子どもが、学校で飼っていたうさぎを、二階のベランダ
から落として殺すという事件があった。この事件は、新聞にも報道された。そのため、教
育者のみならず、親たちにも、大きな衝撃を与えるところとなった。

 こういう事件が起きると、現場の教師たちは、最初は、はげしい怒りに襲われる。しか
しつぎの瞬間、今度は、一転して、同じくはげしい無力感に襲われる。「やるせなさ」と言
ったらよいかもしれない。その事件を直接見聞きた、ある先生も、そう言っていた。

 怒り……それは当然だ。問題は、無力感。私にも、何度か、経験がある。

 もう三〇年ほど前になるだろうか。こんな事件があった。そのとき、私はある予備校で、
講師のアルバイトをしていた。そこでのこと。控え室へ戻って、飲みかけたお茶を飲もう
と思って、席に座った。気がつくと、三、四人の中学生が、ニヤニヤ笑いながら、私を見
つめているではないか。「どうしたの?」と聞いても、ただ笑っているだけ。

 で、一気に、お茶をぐいと飲んだ。おかしな臭(にお)いはしたが、私は、割とそうい
うことには無頓着。で、飲んでしまって、茶碗を下に置くと、一人の中学生が、こう言っ
た。

 「先生、へんな味はしなかった?」と。

 とたん、ピンときた。「君たち、ぼくのお茶の中に……」と。そこまで言いかけて、もう
一人の中学生の手を見ると、彼は殺虫剤のスプレー缶をにぎっていた。私は、カーッとな
って、こう叫んだ。

 「バカヤロー。冗談でしていいことと悪いことがある。お前たちには、それを判断する
能力もないのか。出て行け!」と。

 あとでマネージャーになだめられたが、私の腹のムシは収まらなかった。「即刻、退塾さ
せてほしい」と私は迫ったが、「それは待ってほしい」と。

で、そのあとである。私を、はげしい無力感が襲った。それは虚脱感と言ってもよかっ
た。そういうバカ(脳ミソのできふできを言うのではない。常識に欠ける行為をする人
間を、バカという)を相手に、知恵をつけなければならない虚(むな)しさ。相手にし
なければならない虚しさ。教えなければならない虚しさ。そういうものが、どっと私を
襲った。

 恐らく、その虚しさは、この世界の外にいる人には、理解できないものだろう。「教育を
否定されたかのような虚しさではありませんか?」とわかったようなことを言う人もいる
が、そんなものではない。それは自分のしていることを、のろいたくなるような虚しさで
ある。

 で、それでこの種の事件は終わったわけではない。それからも、つぎつぎと起きた。最
近でも起きた。それもその回数が、以前より、多くなった? 子どもたちの「質」が、明
らかに変化している。ものの考え方が、ギャグ化し、言動が、ゲーム化している? うさ
ぎを二階のベランダから落として殺したというのも、その一つにすぎない? まじめに考
えることを、今の子どもたちは、「ダサイ」と言う。そういう子どもたちに、いちいち腹を
たてていたら、仕事そのものが成りたたない。

 で、なぜ、こういう非常識な子どもが、ふえつつあるか、である。常識がないというか、
道理がわかっていない。自分で考える力さえ、ない。そのときの気分と、はずみで、メチ
ャメチャなことをしてしまう。頭のよし、あしには、関係ない。勉強ができる、できない
にも、関係ない。

 えてして親は、教師は、そして世間一般は、勉強がよくできる子どもイコール、人格者
と考える。学歴のある人イコール、人格者と考える。しかしこれはまったくの誤解。ウソ。
デタラメ。はっきり言えば、幻想。むしろ頭がよい分だけ、タチ(性質)が悪い。有名進
学高校ほど、陰湿ないじめが多いというのは、そういう理由による。

 最近の子どもたちは、何かを見落としたまま、知識や知恵を身につけている。親たちも、
その知識や知恵だけをみて、子どもを判断しようとする。こうしたイビツな教育観が、お
かしな子どもを、どんどんと生産している。

 で、私のばあい、腹を立てることは、少なくなったが、虚しさだけは、どんどんとふく
らんでいる。それはたとえて言うなら、小さな苗を植えたところから、巨大なブルドーザ
ーで、踏み荒らされるような虚しさである。ときどき、この世界から足を洗いたくなるこ
ともある。私一人の力では、どうにもならない。いや、もし私に、それなりの退職金と年
金が入るなら、明日にでも足を洗うかもしれない。

 こうした現象を防ぐために、子どもには、静かに考える場所と、時間を提供すること。
一日、一時間や二時間では足りない。数時間単位で、ひとりで考えられるようにすること。
そのためには、テレビ、ゲームなどは避ける。少なくとも夕食後は、ひかえる。そしてあ
とは、自分で行動させ、自分で責任をとらせる。こうした積み重ねが、子どもを常識豊か
な子どもにする。

 そう、今、その常識豊かな子どもが、減ってきている。それは事実だ。
(030923)

【ギャグ化現象】

 日本語でも、昔から、「茶化す」「はぐらかす」「おちょくる」「からかう」「とぼける」「ご
まかす」などという表現がある。要するに、ものの本質から逃げて、相手を煙に巻くこと
をいう。

●逃避……たとえば「環境汚染が進んで、空気が汚染されたらどうする?」と問いかける
と、「パソコンで、青い空をつくればいい」と答えるのが、それ。
●仰天……相手の言っていることに対して、突飛もないことを言って、その場を、はぐら
かす。「地震がやってくるかもしれないね」と言ったことに対して、「巨大隕石が落ちて
くると、地球はこなごなになる」と言うのが、それ。
●飛来……思いついたことだけを、ペラペラと言う。「ラーメン、食べたい」「Xメンだ」
「からし明太子(めんたいこ)」と。前後の脈絡がない話を、つぎつぎとつなげていく。
●奇声……「どひゃー」「ウエウエ」「ドギドギ」というような、意味のわからない言葉で、
その場をごまかしてしまう。「明日の遠足のしたくはできているの?」と聞くと、「ジャ
ジャ~ン」と答えるなど。

 こうしたギャク化現象は、三〇年前には、なかった。こうしたギャクを口にすれば、そ
れだけで軽薄な人間と思われた。英語にも似たような現象はあるが、質が違う。オースト
ラリアの友人に、このことを話すと、その友人は、こう言った。

 「オーストラリア人は、ジョークを言うのが好きだ。しかし日本人は、ジョークを言わ
ない。その分だけ、ギャク化するのではないか」と。この問題は、また別の機会にほりさ
げて、考えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
虚脱感 教師の虚脱感5105)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【溺愛】

●母親の溺愛

 溺愛する親にせよ、ストーカー行為を繰りかえす人にせよ、それは「愛」によるもので
はない。「代償的愛」による。代償的愛というのは、いわば、愛もどきの愛。身勝手で、自
分本位の愛。自分の心のすき間を埋めるための愛。子どもや、その相手を、そのために利
用しているにすぎない。

 この代償的愛は、共通のものと考えてよい。私はこのことを、一人の母親に出会って、
知った。

 その母親(五五歳くらい)は、娘(現在、二八歳)を、溺愛した。それは恐ろしいほど
の溺愛だった。娘が幼稚園児のときは、遠足先まで、見え隠れしながら、自分で車を運転
して、ついてきたという。

 が、その娘は、あるときから、そういう母親の溺愛をうるさく思うようになった。そし
て事件は起きた。

 娘が母親の反対を押し切って、一人の男と結婚して、家を出てしまった。母親は、娘夫
婦といっしょに暮らすことを考えていた。が、その夢は、こなごなに、こわれた。とたん、
その母親は、ストーカーに変身した。

 その話を、その女性(娘)から聞いたままを、ドキュメンタリー風に、書いてみる。あ
まりにも生々しい話なので、事実だけを、そのまま書く。

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●娘をストーカーする母親

 ある夕方、H(女性、二八歳)が、食事のしたくをしていると、そこへ電話がかかって
きた。そこに住むようになって、数日目のことだった。受話器を取ると、母親からだった。
母親は、こう言った。

 「あんた、今日はダサイ服を着てたわね。何よ、あの赤いスカート!」と。驚いてHが、
「どうして知ってるの?」と聞くと、「スーパーで見かけたからよ」と。

 しかしその娘が行くスーパーには、母親は行かないはず。それに実家からは、距離も離
れている。母親は、ネチネチとした言い方で、あれこれ話し始めた。

 「あんた、インスタント食品ばかり買ってたでしょ。それにスパゲッティに、ウーロン
茶? いったい、どういう取り合わせをしてるの? 体によくないわよね。それとも、あ
んたのダンナを早く、殺したいの? ちゃんと、料理してあげなさいよ」と。

 Hは、母が自分のことを怒っていることを知っていた。母の反対を押し切って、結婚し
た。実際には、結婚式は、できなかった。今の夫とは、駈け落ちするかのようにして、家
を出た。あとで父に聞くと、その夜、母は、狂乱状態になって暴れたという。そんな負い
目があった。Hは、母親の話をだまって聞くしかなかった。

 が、それは、それからつづく、いやがらせの、ほんのはじめに過ぎなかった。

 電話は、翌日もかかってきた。そして今度は、こう言った。

 「この親不孝者め。親を捨てて家を出るということが、どういうことなのか、あんたに
はわかっているの。あのね、親を捨てる者は、地獄へ落ちるのよ。そう、あんたなんか、
地獄へ落ちればいいのよ」と。

 それは前日と同じように、ネチネチした言い方だった。Hは、電話にとまどいながらも、
反発することすらできなかった。相手は親だ。しかも自分は、その親に、かわいがっても
らった。ほしいものは、たいてい何でも買ってもらった。

 大学は家から通ったが、家では、一番日当たりのよい、二階の三部屋を自由に使うこと
ができた。学費のほか、毎月一〇万円の小づかいをもらっていたが、そのほとんどは遊興
費に使うことができた。しかし親は、何も文句は言わなかった。

H「お母さん、ごめんなさい。親不孝者だということは、自分でもわかっているわ」
母「そうよ。あんたなんか、地獄へ落ちるのよ。私が先に死ぬからね。あの世で、あんた
が地獄へ落ちるのを、楽しみに見ていてあげるからね」
H「でも、そんなつもりはないの」
母「そんなつもりって、何だい? 親を捨てたことかい?」
H「捨ててなんか、いないわ。いつもお母さんのことを、大切に思っているわ」
母「ああ、私はね、足が痛いんだよ。年齢も年齢だからね。だれが、病院へ連れていって
くれるのかね」と。

 こうした電話が、ほとんど、毎日、かかってきた。ときには、朝早い時刻に。ときには、
真夜中に。Hは、電話のベルが鳴るたびに、不安感を覚えるようになった。「心の底をえぐ
られるような不安感」と、Hは言った。

 しかしHは、母からの電話については、夫には言わなかった。ときどき夫が電話に出る
ことはあったが、母は、夫には、別人のように、やさしくていねいな言い方をした。夫は、
いつも、Hに、「おまえの母さんは、いい母さんだな」と言っていた。

 そう、母親は、近所では、「仏様」というニックネームをつけられていた。穏やかな顔立
ち、それに低い、物腰。何かと小うるさい女性ではあったが、嫌われるということは、な
かった。しかし娘のHには、違った。

 その日は、夫がいない夜に、電話がかかってきた。母は、夫が泊りがけの出張で、家に
いないことを知っていた。

母「あんたの手料理が食べたいよオ~」
H「何を?」
母「昨日は、ダンナと、スキヤキを食べたんだろ?」
H「どうして、それを知っているの?」
母「母さんは、何でも知ってるんだよ」

H「どうしてスキヤキって、知っているの? 見てたの? どこで?」
母「そんなのは、私の勝手だろ。私はね、あんたが家を出てからというもの、毎晩、泣い
て過ごしているんだよ」
H「そんな……」
母「あんたも、もうすぐ母親になるんだろ。子どもが生まれるんだろ。だったら、そんな
狭いアパートなんかにいないでさ、うちへ戻っておいでよ。あんな風采のあがらないダン
ナなんかとは、別れなさいよ」

H[それは、できないわ]
母「どうしてだい。親よりも、ダンナのほうが大切だと言うのかい?」
H「そうではないけど、私には、私の生活があるのよ」
母「じゃあ聞くけど、私の人生は何だったのよ。私の人生を返してよ。あんたには、いく
らお金をかけたか、わからない。あんたがピアノをひけるようになったのも、私が毎週、
毎週、高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。その恩を忘れた
の?」
H「忘れてはいないわ。でも、私は私の生活をしたいの」
母「この親不孝者めが!」(ガチャン)と。

 Hによると、電話での母の声の調子は、毎日のように変わるという。はげしく罵声した
かと思うと、その翌日には、ネコなで声で、甘えるような言い方をするなど。あるいは、
怒った言い方をした翌日は、今度は一転、弱々しい言い方をするときもあるという。一度
は、今にも死にそうな声で、「助けてくれ」と電話がかかってきたこともある。

 あわててHが実家へ戻ってみると、母は台所で、ピンピンしていたという。そしてこう
言ったという。「お帰りなさい。あんたが帰ってくると思ったから、おいしいごちそうを用
意しておいたからね」と。

 Hは夫に、あれこれ口実をつくって、アパートをかえることにした。夫は、それに従っ
てくれた。Hは、もちろん母に内緒で、今度は、市内でも、実家からは反対側にある、E
町に住居を移した。が、電話線を引いたその翌日には、母から電話がかかってきた。

母「引っ越したんだってね。どんなところだい。家賃は、一二万円というじゃないかい。
豪勢な生活だね」
H「……」
母「私に内緒で引っ越しても、ムダだよ。親と神様は、すべてをお見通しだよ」

H「お願いだから、私のことは私に任せて」
母「任せて? よくもまあ、そんな生意気な口がきけたもののね。あんたは、だれのおか
げで、言葉が話せるようになったか、それがわかっているの? 親の私よ。どこに、子ど
もに言葉を教えない親がいるもんかね」

 そこでHは、ふりしぼるような声で、こう言った。

H「お母さん……、私に、どうかお願いだから、もう構わないで……」と。

 「構わないで」という言い方は、Hが母親に対して、はじめて使った言葉である。Hが、
使いたくても使えなかった言葉。いつものどまで出かかっていたが、そこで止まっていた
言葉。予想どおり、その言葉は、母を激怒させた。母は、ヒステリックな金きり声をあげ
て、こう叫んだ。

「何てこと言うの! 親に向かって! この恩知らずめ!」(ガチャン)と。

 この話は、現在進行形である。私も、最初、この話を聞いたときには、自分の耳を疑っ
た。しかし、ここに書いたことは、事実。こうした(常識にはずれた話)を書くときは、
私はできるだけ聞いたとおりを、忠実に書く。

 で、この話とは別に、私は一つの事実に気づいた。それが冒頭に書いた、子どもを溺愛
する親が感ずる「愛もどきの愛」と、ストーカーする人が口にする、「愛もどきの愛」とは、
同質のものである、と。もともと親の身勝手な愛という点で、共通している。

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●溺愛

 溺愛ママには、いくつかの特徴があります。
それについては、以前にも、いくつかの原稿
を書いてきました。その一つ(子育ての最前
線にいるあなたへ」(中日新聞社・掲載済み)
を、ここに転載します。

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●溺愛ママの溺愛児

 「先生、私、異常でしょうか」と、その母親は言った。「娘(年中児)が、病気で休んで
くれると、私、うれしいのです。私のそばにいてくれると思うだけで、うれしいのです。
主人なんか、いてもいなくても、どちらでもいいような気がします」と。私はそれに答え
て、こう言った。「異常です」と。

 今、子どもを溺愛する親は、珍しくない。親と子どもの間に、距離感がない。ある母親
は自分の子ども(年長男児)が、泊り保育に行った夜、さみしさに耐え切れず、一晩中、
泣き明かしたという。また別の母親はこう言った。「息子(中学生)の汚した服や下着を見
ると、いとおしくて、ほおずりしたくなります」と。

 親が子どもを溺愛する背景には、親自身の精神的な未熟さや、情緒的な欠陥があるとみ
る。そういう問題が基本にあって、夫婦仲が悪い、生活苦に追われる、やっとのことで子
どもに恵まれたなどという事実が引き金となって、親は、溺愛に走るようになる。肉親の
死や事故がきっかけで、子どもを溺愛するようになるケースも少なくない。そして本来、
夫や家庭、他人や社会に向けるべき愛まで、すべて子どもに注いでしまう。その溺愛ママ
の典型的な会話。

先生、子どもに向かって、「A君は、おとなになったら、何になるのかな?」
母親、会話に割り込みながら、「Aは、どこへも行かないわよね。ずっと、ママのそばにい
るわよねエ。そうよねエ~」と。

 親が子どもを溺愛すると、子どもは、いわゆる溺愛児になる。柔和でおとなしく、覇気
がない。幼児性の持続(いつまでも赤ちゃんぽい)や退行性(約束やルールが守れない、
生活習慣がだらしなくなる)が見られることが多い。満足げにおっとりしているが、人格
の核形成が遅れる。ここでいう「核」というのは、つかみどころをいう。輪郭といっても
よい。

子どもは年長児の中ごろから、少年少女期へと移行するが、溺愛児には、そのときにな
っても、「この子はこういう子だ」という輪郭が見えてこない。乳幼児のまま、大きくな
る。ちょうどひざに抱かれたペットのようだから、私は「ペット児」と呼んでいる。

 このタイプの子どもは、やがて次のような経路をたどる。一つはそのままおとなになる
ケース。以前『冬彦さん』というドラマがあったが、そうなる。結婚してからも、「ママ、
ママ」と言って、母親のふとんの中へ入って寝たりする。これが全体の約三〇%。もう一
つは、その反動からか、やがて親に猛烈に反発するようになるケース。

ふつうの反発ではない。はげしい家庭内暴力をともなうことが多い。乳幼児期から少年
少女期への移行期に、しっかりとそのカラを脱いでおかなかったために、そうなる。だ
からたいていの親はこう言って、うろたえる。「小さいころは、いい子だったんです。ど
うして、こんな子どもになってしまったのでしょうか」と。これが残りの約七〇%。

 子どもがかわいいのは、当たり前。本能がそう思わせる。だから親は子どもを育てる。
しかしそれはあくまでも本能。性欲や食欲と同じ、本能。その本能に溺れてよいことは、
何もない。

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同じような内容ですが、「マザコン人間」(失礼!)に
ついて書いた原稿を転載します。

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●マザコン人間

 マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあ
なたが好きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似
た話はいくらでもある。総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が
歌う、『おふくろさん』。世界広しといえども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、
ママー」と涙をこぼす民族は、そうはいない。

 そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、
マザコンタイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、
マザコンタイプの息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。
その双方が互いにそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずな
い。

意識のズレというのはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私
やあなたのような他人がとやかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性
の周囲にいる人たちである。男性の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後
から自分の夫がマザコンであることに気づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親
と連絡を取りあっているというのだ。何かあると、ときには妻であるその女性に話す前
に、実家の母親に報告することもあるという。

しかし彼女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫
に抗議すると、「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」
と言って、まったく取りあおうとしないという。

 いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた
「マザコン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係
だけを想像しがちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることが
ある。そして息子と同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であ
ると思い込む女性は少なくない。

このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばら
しい」と決めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞
きたくない!」と、それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、
親を必要以上に美化する一方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。

つぎの問題は、このとき起きる。息子や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうで
ないときには、互いがはげしく衝突する。実際には、息子や娘がそれを受け入れる例は
少なくない。こうした基本的な価値観の衝突は、「キレツ」程度ではすまない。たいてい
はその段階で、「断絶」する。

 マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らの
マザコン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。

【追記】ことさらおおげさに、親孝行論を唱えたり、親を絶対視する人は、まず、その人
の中に潜む、ここでいう「マザコン性」を疑ってみるとよい。このタイプの人は、自らの
マザコン性を正当化するために、親を絶対視する傾向が強い。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係で、その「質」が決まる。少なくとも親は、「親
である」という、「である」論に甘えてはいけない。親は親で、どこまでも気高く、前向き
に生きていく。それが親としての、真のやさしさではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
溺愛 子どもを溺愛する母親 溺愛ママ でき愛ママ)