Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, December 14, 2010

●オーストラリア(2)

●オーストラリア(2)

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2011年、X月XX日。
ワイフと私はオーストラリアへ「行く」。
「行く」と構えるほど、私にとっては、重大事。
サケが長い回遊を経て、ふるさとの源流に
もどるようなもの。
私にとっては、オーストラリアは心の源流。

それをメールで知らせると、2人の友人から、すかさず
返事が届いた。
アデレードで2泊の予定だった。
が、2泊ではとても足りそうにない。
それにアデレードからメルボルンまでは、列車で移動する予定だった。
が、友人が言うには、車でオーストラリア大陸を縦断しよう、と。
そうなると、とても2泊では足りない。

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(International House in Melbourne Univ.)





●Rosin the Beau

 オーストラリアの友人が教えてくれた歌に、「ローザン・ザ・ボー」
というのがある。
アイルランドの民謡(drinking song)ということだが、私はその歌を
今でもソラで歌える。
しかし歌の題名がわからない。
YOUTUBEで調べてみた。
「Rosan the Ballか?」・・・ということで、調べてみたが、
うまくヒットできなかった。

 が、今日、その歌を教えてくれた友人から、返事が届いた。
正しくは、「Rosin the Beau」。
さっそくYOUTUBEで検索。
いくつかのシンガー・グループが歌っているのがわかった。
その中でも、「ザ・ダブリンズ」のが、そのままの歌い方だった。
こうした民謡は、歌手によって、アレンジの仕方がまちまち。
その歌を聴いていると、ポロポロと涙がこぼれた。
そのときの情景が、そのままそこにあった。
私はちょうど40年前に、タイムスリップした。

 それを横で見ていて、ワイフがこう言った。
「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。

 私は名前を教えてくれた友人に、返事を書いた。
「30年間、ぼくはこの歌をさがしつづけた。
やっとこの歌に、めぐり会えた。
ありがとう」と。

●1日が1年

 あのころの私は、1日を1年のように長く感じながら生きていた。
けっして大げさな言い方ではない。
本当に、そう感じた。
1日が終わり、ベッドに体を横たえた瞬間、そう感じた。
そんなある日のこと。
ちょうど3か月目のことだった。
私はこう思った。
「まだこの先、こんな生活が9か月もつづくのか!」と。
うれしかった。
それがたまらなく、うれしかった。

 私は留学する前、4年間、金沢の大学に通った。
そういう自分を振り返りながら、その密度のちがいに驚いた。
4年間、通ったはずなのに、その4年間の重みがどこにもない。
思い出がない。
あるにはあるが、オーストラリアでの経験があまりにも濃密すぎた。
そのため金沢での学生生活がかすんでしまった。
その感覚は、今でもそうで、青春時代というと、あの時代ばかりが光り輝く。
金沢での4年間もそうだが、さらに高校時代の3年間となると何も残っていない。
単調な生活。
スケールの小さな生活。
刺激のない生活。

「勉強」と言っても、暗記また暗記。
受験のための暗記。
あの時代には、(今でもそうだが)、自分で考えるということすら許されなかった。
疑問をもてば、なおさら。
疑問をもったとたん、「学校」というコースからはじき飛ばされてしまった。

●不思議な世界

 そうした様子は、『世にも不思議な留学記』に書いた。
地元の中日新聞と、金沢学生新聞に、あしかけ5年に渡って、連載させてもらった。
興味のある方は、ぜひ、読んでほしい。
私のホームページ(ウェブサイト)から、『世にも不思議な留学記』へと進んでもらえば
よい。

 が、時代が変わった。
今では高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。
私たちが学生のころには、考えられなかった。
往復の旅費(羽田・シドニー間)だけで、42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超え始めた時代である。

 私には、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
日本には綿棒すら、まだなかった。
バンドエイドもなかった。
風邪を引けば、風呂へ入ることを勧められた。
医学部の学生が部屋までやってきて、注射を打ってくれた。
こんなこともあった。

 カレッジ対抗で、演劇会をもつことになった。
大学の構内では、壁紙を張ることが、きびしく禁じられていた。
が、友だちが、「これからその案内のポスターを貼りに行く」と。
驚いてついていくと、彼らはそれを地面に貼っていた。
(地面だぞ!)

 あるいは冬の寒い日。
1人の女の子が私を、海へ誘ってくれた。
水着をもってくるように言われた。
今となっては本当かウソかよくわからないが、・・・というのも、
オーストラリア人は、この種のウソを平気でつくので、・・・名前をタマラ・ファクター
といった。
自分で、「私は、(化粧品の)マックス・ファクターの孫」と話していた。

 で、海へ行くと、・・・そういえばそこで私ははじめて、「ミート・パイ」という
パイを食べた。
オーストラリアでもっともよく食べられているパイである。
それを食べていると、彼女は、水着姿になってしまった。
泳ぐためではない。
「サン・ベイジング(日光浴)」のためだった。
・・・などなど。

言い忘れたが、冬に浜辺でサン・ベイジングなるものをするという
習慣は、当時の日本人にはなかった。
そう言えば、同じカレッジにいた友人は、冬の日でも、また雨の日でも、
金曜日の夕方になると、キャンピング道具をもって、近くの森へキャンプ
に出かけていた。
そういう習慣も、当時の日本人にはなかった。

 こうして書き出したら、キリがない。

●常識論

 アインシュタインは、常識について、「常識などというものは、その人が18歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と言った。
たしかにそれはそうで、子どもたちにしても、綿棒を見て驚く子どもはいない。
そこにあるものを、当然のものとして、受け入れていく。
が、それは18歳ごろ、常識として脳の中で、固まる。
それ以後は、その常識に反するものを、「異質なもの」として処理しようとする。
ときにそれが脳の中で、それまでの常識とはげしく対立することもある。

 たとえば私は向こうの女子学生たちが、みなノーブラで、それこそ乳首が飛び出て
いるような状態で、薄いシャツを着ているのを見て驚いたことがある。
その(驚いた部分)というのが、私の常識ということになる。

 では、何歳くらいの子どもだったら、驚かなかっただろうか。
15歳くらいか。
16歳くらいか。
それともアインシュタインが言うように、18歳くらいだろうか。
少なくとも私は驚いた。
そのとき私は23歳だった。
ということは、やはり18歳前後ということになる。
(アインシュタインという人は、本当にすごい!)

 そのころまでに「常識」が形成される。
それがその人の意識の基盤になる。

●自由

 が、今では、高校生でも驚かない。
綿棒を見ても、バンドエイドを見ても、驚かない。
むしろそちらのほうこそ、不思議!、ということになる。
彼らもまた、生まれながらにして、そこにあるものを、当然と思い込んでいる。

 話は大きく脱線したが、私には毎日が驚きの連続だった。
が、その中でも最大の驚きといえば、彼らの「自由」に対するものの考え方だった。
彼らがもっている自由の意識は、私がもっていた意識とは、明らかに異質のもの
だった。
たとえば職業観。
たとえば家族観。
たとえば人生観。
それを知るたびに、私の頭の中で火花がバチバチと飛び散るのを感じた。

 当時の私たちは職業といえば、迷わず、大企業への就職を選んだ。
「寄らば大樹の影」。
それが常識だった。
が、オーストラリア人には、それがなかった、などなど。
私などは、友人の父親たちが、収入に応じて、つぎつぎと家を移り替えていく。
「家」に対する意識も、ちがっていた。

 また私が大学で使ったテキストには、こうあった。
「日本は、君主(Royal=天皇)官僚主義国家」と。
が、これには私は反発した。
「日本は民主主義国家だ」と。
しかしだれも相手にしてくれなかった。

 日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、官僚主義国家。
首相以下、国会議員の大半は、元官僚。
県知事の大半も、元官僚。
大都市の知事も、これまた元官僚。
40年前の日本は、さらにそうだった!

●自由の意識

 もちろんオーストラリアでの生活は、私の人生観に大きな影響を与えた。
それがよかったのか、悪かったのか。
現在の私が、その「結果」とするなら、よい面もあるし、悪い面もある。
この日本は、組織社会。
組織に属している人は、実力以上の「得」をする。
たいした努力をしなくても、「得」をする。
今の公務員たちをみれば、それがわかる。
組織に属していない人は、実力があっても、「損」をする。
努力に努力を重ねても、「損」をする。
今の商工店主の人たちをみれば、それがわかる。

 「自由」を知らない国民には、それが常識かもしれない。
しかもそうした常識は、遠く江戸時代の昔から、しっかりと日本の社会に根を
おろしている。
そう簡単には、なおらない。
この国で組織に背を向けて生きるなどということ自体、常識ハズレ。
ほとんどのばあい、生きていくことすら、むずかしい。

 が、あえて私は自由の道を選んだ。
たいへんな道だったが、私は私の生き様を貫くことができた。
その原点が、あのオーストラリアでの学生生活にある。

 人は、友だちや師、さらには社会や国から、さまざまなものを学ぶ。
何を学ぶかは、それぞれの人によってちがう。
私のばあい、「生き様」を学んだ。
一編の論文を書いたわけではない。
もしあの時代の論文があるとすれば、今の私自身ということになる。
オーストラリアという国は、私にはそういう国。
・・・というより、「オーストラリア」という国の名前には、そういう意味がある。

 「旅行に行こう」「はい、行きます」と、安易に考えることは、私にはできない。


Hiroshi Hayashi++++++Dec 2010++++++はやし浩司(林浩司)