Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, March 03, 2011

●浜松R町通り  ●日韓経済戦争

【R町通りを歩きながら】

●浜松市R町通り

 浜松市の中心街に、R町通りというのがある。
旧東海道沿いの通りである。
今は、国道1号線となっている。
このR町通り。
その先、つまり北の端で、直角に曲がり、そのまま東京方面へとつづいている。

 私が浜松へ来たころ、このあたりの人たちのことはよく知っていた。
Kショップという、赤ちゃん用具の専門店。
S堂という、画材道具の専門店。
T屋という、貸し呉服屋。
ほかにY屋という書店、N塾という塾などなど。

 今日、その中のひとつ、S堂に足を運んだ。
主人のKさんとは、40年来のつきあいということになる。
その奥さんと、近所の人たちの話になった。
「もうこのあたりで、残っているのは、うちと、Y屋書店だけです」と。

●ミキオ君

 T屋という貸し呉服店を営んでいた、Yさんは、よく知っている。
息子のM君は、私が浜松で知り合った、最初の友人。
そのM君、名前をミキオ君といったが、住むところがないと言うと、彼の両親の
別荘を貸してくれた。
「冬の間は、だれも使っていないから、使っていい」と。

 別荘は、浜松市内から電車で3つ目にある、弁天島というところにあった。
人工造成された島で、東海道新幹線と東海道線が、その南側を並んで走っている。
私は半年ほど、その別荘に住んだ。
海のそばの別荘だった。
管理人が、その西側の棟に住んでいた。

 が、そのミキオ君は、その直後、ブラジルへ単身渡り、そこで死んでしまった。
交通事故で死んだということだった。
だから今でも、「ミキオ」という名前は知っているが、漢字でどう書くのか知らない。

●K屋(赤ちゃんショップ)

 「T屋の息子さんは、ブラジルで亡くなったんですよ」と私が言うと、S堂の女主人は、
「そうですってねえ」と言った。
女主人にしても、遠い遠い昔の話。
40年前の話である。

 「K屋さんは、どうしましたか?」と聞くと、「ああ、K屋さんねえ。浜松の財産を
すべて売って、静岡に引っ越しました」と。
K屋の主人とは、直接のつきあいはない。
が、あるドクターのゴーストライターをしていたころ、K屋の主人は、毎週、その
ドクターを、妊産婦講座の講師として招いていた。
そのドクターに連れられて、よくその店に入った。
これも40年前の話である。

●佐藤栄作

 田舎の小さな町ならともかく、こんな大きな町でも、人の出入りがある。
私はそれに少なからず、驚いた。
40年前というが、2倍すれば、80年前。
3倍すれば、120年前。
江戸時代にさしかかる。

 その江戸時代。
S堂のちょうどまん前に、「平野屋」という名前の料理店があった。
東海道筋の元本陣宿。
大名行列でやってきた殿様だけが泊まる、格式の高い宿屋であったという。
その宿屋が、その後、料理店になった。
私はそこでよく昼食や夕食を食べた。
たしか昼食を、200円とか、250円で食べさせてくれた。
おかしなことに、私はその店で、佐藤栄作の何かのニュースを見たのを思えている。
当時の総理大臣だった。
が、何のニュースだったかは、よく覚えていない。

 退陣表明のニュースだったか?
新聞記者に「出て行け」というようなことを言っていた。
そのようなニュースだった。

●S堂にて

 そのR町通りを、今日、ワイフと2人で歩いた。
静岡銀行で円をオーストラリア・ドルに交換した。
その足で、教室に向かった。
S堂に寄ったのは、その途中のことだった。

 当時は毎日のように、そのあたりを歩き回った。
その近くの個人塾と進学塾で、講師をしていた。
家庭教師もしていた。
その家庭教師先の人の話になった。

私「Tさんは、お元気ですか?」
主「さあ、ここ数年、見ていませんね」
私「ご主人とは、ライオンズクラブで、仲間だったようです」
主「そうみたいですね」
私「Tさんの息子さん2人を、家庭教師していました」
主「そうですか?」と。

 Tさんは、当時、このあたり一帯を支配する文具店の卸問屋をしていた。
が、奇縁というのは、こういうことを言うのか。
その社員に、中学時代の同級生がいた。
同級生といっても、たがいの実家は、100メートルも離れていなかった。
M君といった。

 そのM君。
50歳になる前に、肺がんで命を落としている。
奥さんの話では、肺を切ったら、1リットルのタール状の腐った血が出てきたという。
壮絶な闘いだったらしい。
中学時代は、ずば抜けたスポーツ選手だった。
体育の授業のとき、みなの前で、大車輪(鉄棒)をしてみせたこともある。

●奥さん

 Tさん、つまり卸文具店の奥さんは、本当に、心のやさしい人だった。
私のような風来坊にでも、ていねいに接してくれた。
家庭教師が終ると、よく食事も出してくれた。
が、当時は、職業による身分意識も色濃く残っていた。
私のしている仕事が、奥さんには、そう見えたのだろう。
ある日、奥さんは、私にこう言った。

 「林さん(=私)、あなたにうちの息子たちのめんどうをみてもらうのは、
うれしいです。
しかしね、林さん、こういうことで、あなたの大切な将来を台無しにしていると
思うと、申し訳ない気がします」と。

 私はその言葉を聞いたあと、道を歩きながら、涙をこぼした。
ちょうどそのころ、私はすべてのものを失っていた。
それを奥さんは、私に気づかせてくれた。
……というか、はっきりさせてくれた。

 R町通りの一角には、そんな思い出もしみついている。

●栄枯盛衰

 「浮き沈み」という言葉は好きではない。
「栄枯盛衰」という言葉にしても、そうだ。
だれも浮かんではいない。
同じように沈んだわけでもない。
ただそこにいる人たちが、変わったということ。
「置き換わった」という言い方のほうが、正しいかもしれない。

人は、それぞれの時代に、それぞれの場所で、懸命に生きている。
私とのつながりが切れたというだけ。
それを「沈んだ」とは、言わない。
この私にしても、あと10年もすれば、人のうわさからも消え、20年もすれば、
この世から消える。
そういう私を「沈んだ」とは、言ってほしくない。

●袋小路の過去

 私とワイフは、その近くのコンビニで、昼食を買うつもりでいた。
が、改装中。
で、2、3軒隣の薬局へ入った。
まさか・・・と思って入ったが、弁当を売っていた。
私はいくつかの菓子パンと、ボトル入りのお茶を買った。

 外へ出ると、冬に逆戻りしたかのような冷気。
通りを歩く人もいなかった。

 「でもね、昔は、もう少し人の温もりがいたよ。今のようにだれの
ものともわからないビルばかりではなかった」と。
私がそう言うと、ワイフはあたりをゆっくりと見回した。

 42年前というが、その42年前の、ほんの1年前には、私はオーストラリア
にいた。
42年前の過去が、紙一枚で、オーストラリアの時代につながっている。
遠い遠い昔のはずだが、そのオーストラリアの時代は、すべてが、つい昨日の
ように現代とつながっている。
一方、R町通りの思い出は、その狭間にあって、たとえて言うなら、袋小路に
入ったような過去。
それが私にとっての、R町通りということになる。

●教室

 私とワイフは、その足で、教室に入った。
最初のクラスまで1時間ほど、あった。
私は菓子パンをかじりながら、教材のプリントを印刷した。
いつもの午後。
いつもの仕事。
こうして私の42年間が、過ぎた。

 そうそう書き忘れたが、同じR町通りのY屋書店には、毎日のように通った。
雨の日も風の日も。
空き時間が1時間でもあると、その書店に通った。
本を読んだ。
本を買った。

 そのY書店も、数年前、3階を閉鎖した。
少し前まで、午後9時まで営業していたが、それがこのところ8時になった。
人通りが少なくなった。
併せて、書籍の数も少なくなった。
私にとっては、そのほうがさみしい。

 教材のプリントを印刷しているとき、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 浜松市 連尺通り 連尺通りの思い出)









【日韓経済戦争】「日韓経済は一蓮托生」

●物価上昇

 世界の穀物価格は、平均して、この
1年間で、30%弱も上昇。
この3年間で、約2・5~3・0倍に上昇。

たとえば大豆価格……08年比で、2・6倍
小麦価格……08年比で、2・3倍
とうもろこし価格……08年比で、3・1倍。
(農林水産省調べ・MMF・2010)

 原因は、

(1)2010年7月以降の、ロシアの干ばつ、
(2)アメリカが、生産量見込みの大幅な下方修正をしたこと、
(3)大豆については、アルゼンチンの降雨不足、
(4)小麦は、豪州東部の洪水と、米国大平原の土壌水分不足。
  (以上、農林水産省HPより)。

 こうした穀物価格の上昇は、韓国をも直撃している。

 韓国、東亜日報は、「とくに、低所得層のエンゲル係数は、5年ぶりに最高値を記録し、食品物価の上昇により、家計負担が相当大きかったことが分かった」(東亜日報・3月1日、
2011)と報道している。

 もう少し具体的に数字を並べてみる。
朝鮮日報(2011-03-03)は、つぎのように書いている。

『物価統計に含まれる489品目のうち、魚、野菜、果物など51品目だけを計算した新鮮食品指数(生鮮食品指数)は、昨年6月から9か月連続で2桁台の上昇を続けており、2月には25%の上昇を記録した』と。

 「昨年6月から9か月連続で2桁台の上昇」というのは、ふつうではない。
ならば、ウォン高に誘導し、輸入価格を引き下げればよいということになる。
もっとも手っ取り早い方法は、公定歩合をあげる。
つまり中央銀行の貸出金利をあげる。
が、それができないところに、韓国経済のジレンマがある。

●増える個人債務

 朝鮮日報(2011-03-01)は、つぎのように書いている。

 『……韓国の家計債務が急速に増加し、昨年末には795兆ウォン(約58兆円)に達し、800兆ウォンの大台に迫った。家庭向け融資残高(クレジットカード債務を含む)は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権期(2003-07年)には192兆ウォン(約14兆円)、李明博(イ・ミョンバク)政権に入ってからの3年間で165兆ウォン(約12兆円)増えた。両政権で融資残高が357兆ウォン(約26兆円)も増加し、韓国の各世帯の財務状況は破綻寸前だ』と。

 つまり、『韓国の家計債務が、急速に増加し、2010末には、58兆円になった』と。

 朝鮮日報は、一例として、あるガソリンスタンドの店主を例にあげている。

『…… ガソリンスタンド保守業を営む男性(50)は、過去3年で借金が雪だるま式に膨らみ、これ以上耐えきれなくなった。
08年4月に事業資金に充てるため、自宅を担保に銀行から3億ウォン(約2190万円)を借り入れた。
3年の返済猶予付きの25年間の分割ローンで、毎月200万ウォン(約14万6000円)の利子を支払っていた。
08年初めには月に400万ウォン(約29万1000円)稼いでいたため、利払いに耐えられたが、景気が悪化し、現在は月収が150万ウォン(約10万9000円)前後だ。
男性は「利払いや生活費など月に100万ウォン(約7万3000円)以上の不足分は、クレジットカードで支払っていたため、カード債務だけで7000万ウォン(約510万円)に膨らんだ」と話した』(以上、朝鮮日報)と。

詳細は、
http://www.chosunonline.com/news/20110301000021

 別の統計によれば、「平均所得は、09年度比で、5・8%しかふえていないのに、利子支出は、16・2%もふえている」(朝鮮日報)という。

 もしここで貸出金利を1%でもあげたら、それこそ韓国経済は、奈落の底に叩き落とされることになる。
平たく言えば、こうだ。

 「インフレ(=物価高)を抑制するために、金利をあげたい。
しかし金利をあげれば、個人債務者の破綻がつづく」と。
が、これは韓国だけの問題ではない。
そのままこの日本の問題でもある。

●日本

 世界の穀物価格は、08年度比で、約3倍に上昇している(前述)。
が、この日本では、それほどの実感はない。
その上昇分は、円高が吸収した。

 リーマンショック(08年)以前は、1ドルが120円前後だった。
現在は、82円前後。
これで計算すると、円は32%も上昇したことになる。
この上昇分のおかげで、食料価格は安定した(?)動きをみせている。

 ただここで誤解してはいけないことがある。
これだけ「円」をたれ流しても、円高がつづくのは、それだけ「円」が強いからではない。
それだけ相対的に、世界経済が不安定だから、である。
「まだ日本の円のほうが安全」ということで、世界の投機資金は、日本に向かっている。

が、その一方で、日本の「円高」は、今まさに風前の灯火。
ほとんどの経済学者は、「日本の国家破綻(デフォルト=債務超過)は、可能性の問題ではなく、時間の問題」と述べている。

 こうした漠然とした不安感に、どこかで火がつけば、一気に日本経済は破綻に向かう。
ギリシア危機を例にあげるまでもない。
「一気」である。

 その一気がいつやってくるか?
つまり引き金を引くのは、いつか?
そのひとつの火薬庫が、韓国ということになる。

●日韓経済は一蓮托生

 長い間、私は「日韓経済戦争」について書いてきた。
すでに10年になる。
が、その間、破竹の進撃を繰り返す韓国。
何もかも、裏目、裏目と出る日本。
昨今の経済ニュースによれば、2040~45年には、1人当たりのGDPにおいて、
韓国は日本を追い抜くと予想されている。
それがはっきりしたとき、つまり昨年の夏ごろを最後に、私は「日韓経済戦争」について
書くのをやめた。

 ……今さらあの当時の日本人のノー天気ぶりを嘆いても、始まらない。
知性も理性もかなぐり捨て、よい年齢のオバチャンたちが、韓国の若い俳優を追い
かけ回す。
これを「国辱」と言わずして、何という。

 が、ここにきて韓国経済が、音をたててきしみ始めた。
日韓経済戦争ということになれば、「敵」の衰退は、即、味方の興隆につながる。
ふつうならそう考える。
が、日本の経済とて、ガタガタ。
まるでユラユラと揺れる台座の上で、かろうじてバランスを保っているようなもの。
もしここで足の一本でも折れたら、台座はそのまま崩れてしまう。
韓国経済は、その足の一本ということになる。
つまり一蓮托生。

●どうするか?

 ならば、どうするか?
……と書きつつ、ここからは日本の問題。
私たち自身の問題。

 要するに極東アジアの小国どうしが、いがみあっていても仕方ないということ。
世界から見れば、区別するのも不可能なほど、よく似た兄弟民族。
兄弟国家。
が、かといって、日本の知的財産を、そのまま韓国に譲渡するというわけにもいかない。
韓国が日本を追い抜くのを、指をくわえて見ているわけにもいかない。
あれほどの反日国家が力をもったら、この日本はどうなるか。
それをほんの少しでも、頭の中で想像してみればよい。

 中には、「仲よくすればいい」という意見もあるかもしれない。
しかし私がUNESCOの交換学生として韓国へ渡ってから、44年。
韓国人のもつ反日感情は、ほとんど変わっていない。
むしろ力をますにつれて、反日感情は、先鋭化している。
竹島(独島)問題を例にあげるまでもない。
この先、10年や20年で、彼らのもつ対日感情が、劇的に変化することなど、
ありえない。

 つまりここに、日本には日本のジレンマがある。
考えれば考えるほど、袋小路に迷い込んでしまう。
ゆいいつの救済法があるとするなら、日本は日本で国力を回復すること。
結果として、日本経済の足腰を強くすること。

国家破綻が時間の問題なら、ここは大出血を覚悟で、先手、先手で、対策を実行すること。
破綻してから大騒ぎするか。
破綻する前に大騒ぎするか。
どちらを選ぶか。

 私は後者を選ぶべきと考えるが、与党内部でさえ、足の引っ張りあいがつづいている。
これでは嵐を前に、家の中で夫婦げんかをしているようなもの。
情けないというか、心もとないというか……。

 日本は、まさにその正念場を迎えつつある。
2011/03/04記


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司