Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, May 14, 2011

●マガジン過去版(2)

件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どもの仮面

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03-12-28号(339)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto797

●バカなフリをして、子どもを自立させる

 私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教師のフリをして、子どもの自立をうながすことがある。

「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強したほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がきたら、そのバカな親になればよい。

 バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカの意味が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」だけで、それこそ一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。

映画『フォレストガンプ』の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あくまでもフリであって、そのバカなことをしたことにはならない。

 子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけないときがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人格の「核」にふれるようなときだ。

しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれるようなときは、本気に相手にしてはいけない。そういう意味では、親子は対等ではない。が、バカな親というのは、それがちょうど反対になる。「あなたはダメな子ね」式に、子どもの人格を平気でキズつけながら(つまり「核」をキズつけながら)、それを茶化してしまう。

そして子どもに「バカ!」と言われたりすると、「親に向かって何よ!」と本気で相手にしてしまう。

 言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そして子どもが言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考えるときは、そういうこともふまえた上で考える。私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。

しかしそういうときは、こう言って反論する。「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイだ。私は大バカだ。まちがえるな!」と。子どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大切である。
  
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●会話でわかるママ診断

(過干渉ママの会話)私、子ども(年中児)に向かって、「きのうは、どこへ行ったの?」、母、会話をさえぎりながら、「きのうは、おじいちゃんの家に行ったわよね。そうでしょ」、再び私、子どもに向かって、「そう、楽しかった?」、母、再び会話をさえぎりながら、「楽しかったわね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

(親意識過剰ママの会話)母、子ども(四歳)に向かって、「楽チィワネエ~、ママとイッチョで、楽チィワネエ~」「おいチィー、おいチィー、このアイチュ、おいチィーネー」と。
(溺愛ママの会話)私、子ども(年長男児)に向かって、「あなたは大きくなったら、何になりたいのかな?」、母、子どもに向かって、「○○は、おとなになっても、ズ~と、ママのそばにいるわよねエ。どこへも行かないわよねエ~」と。

(過関心ママの会話)母、近所の女性に、「今度英会話教室の先生が、今まではイギリス人だったのですが、アイルランド人に変わったというではありませんか。ヘンなアクセントが身につくのではと、心配です」と。

(権威主義ママの会話)母、子どもに向かって、「親に向かって、何てこと、言うの! 私はあなたの親よ!」と。

(子ども不信ママの会話)子どもの話になると顔を曇らせて、「もう五歳になるのですがねエ~。こんなことでだいじょうぶですかネ~?」と。……などなど。

 会話を聞いていると、その親の子育て観が何となくわかるときがある。もっともここに書いたような会話をしたからといって、問題があるというわけではない。人はそれぞれだし、私はもともとこういうスパイ的な行為は好きではない。ただ職業柄、気になることはたしかだ。(だから電車などに乗っても、前に親子連れが座ったりすると、席をかわるようにしている。ホント!) 

 英語国では、親はいつも「あなたは私に何をしてほしいの?」とか、「あなたは何をしたいの?」とか、子どもに聞いている。こうした会話の違いは、日本を出てみるとよくわかる。

どちらがどうということはないが、率直に言えば、日本人の子育て観は、きわめて発展途上国的である。教育はともかくも、こと子育てについては、原始的なままと言ってもよい。家庭教育の充実が叫ばれているが、そもそも家庭教育が何であるか、それすらよくわかっていないのでは……? 旧態依然の親子観が崩壊し、今、日本は、新しい家庭教育を求めて模索し始めている段階と言ってもよい。

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【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

仮面をかぶらせるもの

●男の教師

 こんな話を聞いた。

 ある学校に、不登校児(小五男児)がいる。その子どもは、学校の校門までは、母親といっしょに行くのだが、そこから中へは、入らない。

 で、教師(女性)が、迎えに行くのだが、どのように説得しても、中へ入ろうとしない。が、別の教師(男性)が迎えに行くと、しぶしぶながらだが、中へ入っていくという。

 この話をしながら、その女性教師は、こう言った。「やはり、男と女のちがいなのでしょうか」と。

 似たような話は、家庭でもある。

 母親の言うことは聞かないが、父親の言うことは、聞く、と。

●気力

 一つの気力は、脳から、同時に発せられる、二つの指令によって、コントロールされる。活動命令と抑制命令である。

 活動命令は、気力を、亢進させる。一方、抑制命令は、気力を、抑制する。もし抑制命令がなければ、人間の気力は、限りなく亢進され、やがて、精神は限界を超え、破滅する。一方、行動命令がなければ、人間は、活動することすらやめる。

 この二つの命令が、ほどよく調和したとき、人間の気力も、ほどよく調和する。このことは、躁うつ状態を、周期的に繰りかえす人をみればわかる。

 躁状態のときは、人と会い、快活に会話をし、新しい事業に挑戦したりする。しかしひとたびうつ状態になると、気分は沈み、なにごとにおいても、やる気をなくす。

● やる気のメカニズム

人間のやる気には、脳の中の辺縁系にある帯状回という組織が、深くかかわっているのではないかということが、最近の研究でわかってきた。

 それを助長するのが、達成感(自己効力感)と言われているものである。

 何かのことで達成感を覚え、それで満足すると、この帯状回の中で、モルヒネ様の物質(エンドロフィン系、エンケファリン系)の物質が、放出される。そしてその人(子ども)を、心地よい、陶酔感に導く。

 この心地よさが、つぎのやる気へとつながっていく。

● 不登校児のメカニズム

不登校児を観察してみると、この行動命令と抑制命令が、随所で、バラバラであることに気づく。決して、「学校へ行きたくない」と思っているのではない。本人自身は、「学校へ、行きたい」と思っている。

 しかもまったくの無気力というわけではない。学校を休んだ日には、家の中で、まったくふつうの子どもとして、行動する。ビデオを見たり、ゲームをしたり。友だちと会うこともできる。

 しかしいざ、学校へ行くという段階になると、脳の底の暗闇から、わき出るような抑制間に包まれる。そしてその抑制命令が、子どもの行動を、裏から操る。つまり、ここで意識的な行動命令と、無意識的な抑制命令の衝突が起きる。

 ある子ども(年長児)は、車の柱に両手を巻いて、園へ行くのを拒否した。母親と、女性教師の二人が、その子どもを、車から引き離そうとしたが、失敗。「信じられないほど、ものすごい力でした」と、あとになった母親は、そう言った。

 その信じられないような「力」の背景にあるのが、ここでいう「脳の底の暗闇からわき出るような抑制命令」ということになる。

 この行動命令と抑制命令が、不自然な形でアンバランスになった状態が、いわゆる学校拒否症による不登校と考えられる。

●遊離
 
 こうした命令系統が乱れてくると、子どもは、多重人格性をおびてくる。あるいはその前に、「わけのわからない子」といった、状態になる。よく知られている例が、「遊離」と言われている現象である。心(情意)と、表情が、不一致を起こす現象と考えると、わかりやすい。

 学校拒否症の子どもにも、広く観察されるこの現象は、一方、学校恐怖症の予防としても応用できる。つまり遊離症状が見られたら、学校拒否症の、初期症状とみることもできる。

●症状

 遊離が始まると、心の動きと、表情が、ちぐはぐになる。いやがっているハズなのに、柔和な笑みを浮かべる、など。あるいは悲しんでいるはずなのに、無表情でいる。

 教える側からみると、いわゆる「何を考えているかわからない子ども」ということになる。ただ注意しなければならないのは、この段階でも、家の中、とくに親の前では、ふつうの子どもであることが多いということ。

 親自身も、自分の子どもだけしか見ていないから、客観的に、自分の子どもがどういう状態であるかがわからない。そこで問題点を指摘しても、親自身がそれを理解できないばかりか、「私の子どものことは、私が一番よく知っている」という過信と誤解のもと、それをはねのけてしまう。

 こうして症状は、ますますこじれていく。そして結果として、子どもは、心の中にたまったストレスを発散できないまま、それをためこんでいく。

●臨界点

 こうしたストレスでこわいのは、臨界点を超えると、一挙に、爆発に向かうこと。その前の段階として、神経症による症状が、出てくる。

 ただ神経症による症状は、千差万別で、定型がない。チックや吃音(どもり)などが、よく知られている。夜尿や腹痛、頭痛もある。

 で、こうした神経症を手がかりに、心の内部での変化を知ることができる。私は、そのための診断シートを、作成したことがある。

(診断シート)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page143.html
(このページの末尾に添付)

 こうした経過的な症状を経たのち、臨界点を超えて、爆発する。そして不登校へと進んでいく。

 A・M・ジョンソンがいうところの、「学校拒否症」(School refusal)は、まさにこうした経緯を経て、発症する。

●前兆をとらえる

 大切なことは、「どうなおそうか」ではなく、発症にいたるまでに、その前兆をいかにうまくとらえ、そしてその段階で、適切に対処するかである。風邪にたとえるなら、軽い発熱があった段階で、体を休ませるということになる。

 しかし、これとて、簡単ではない。

 この日本では、(勉強から遠ざかること)イコール、(落ちこぼれ)と考える。たいていの親は、そう考えて、「そんなはずはない」「うちの子にかぎって」と、その前兆そのものを、否定してしまう。そしてさらに無理を重ねる。

 こうして親も、子どもも、行き着くところに、行く。学校拒否症は、あくまでも、その結果でしかない。

●さて、冒頭の話

 男の先生だから従う……というのは、その子どもの学校拒否症が、なおったということではない。仮面をかぶったとみる。あるいは、別の人格に、自分を押しこんだとみる。

 こうして現象は、幼児には、珍しくない。やさしい先生の前では、態度がぞんざいになり、きびしい先生の前では、おとなしくなるなど。

 こうした変化というのは、だれにでもあるものだが、その時点で、指導する側のものは、「どちらが本物の、本人なのか」という、見きわめは、いつもしなければならない。無理をしてがんばっている子どもを、さらに「がんばれ!」と、追いつめることは、危険なことでもある。

 がんばったら、その分、どこかで息抜きをさせる。この調整があってはじめて、子どもは、自分を保つことができる。

 で、冒頭の話だが、男の先生に従ったという時点で、その子どもは、自分をだましたことになる。一見、うまくいったように見えるが、その子どもの心の問題は、何も解決されてはいない。

 こうしたストレス(心的ひずみ)は、そのまま子どもの心の中に蓄積される。そして、ここにも書いたように、それがさまざまな形で、心のゆがみとなって、外に現れる。

●ほどよく、暖かい無視

 こうした子どもの心の問題は、無理をしないが、大原則。子どもの視点で、子どもの立場で、考える。

 学校に行く前に、子どもが「おなかが痛い」と言ったとする。そのとき、子どものおなかは、本当に痛いのだ。

 あるいは子どもの足が、校門の前で、たちすくんでしまったとする。そのとき、子どもの足は、本当に、重いのだ。

 安易に「気のせい」、「わがまま」と決めつけてはいけない。むしろ親がすべきことは、子どもの立場で、子どもの心を理解することである。そしてねぎらうことである。

 「あなたは、よくがんばっている」と。

 仮に子どもが、四時間なら、学校へ行きそうだったら、三時間できりあげる。それを親が、「せめて六時間まで。それが無理なら、五時間まで」と無理をするから、症状は悪化する。

 あとは、ほどよい親であることに努めながら、暖かい無視で、子どもを包む。これについては、今まで何度も書いてきたので、ここでは省略する。
(031220)

【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

キャッチミー・イフユーキャン(Catch me, if you can)

 トム・ハンクスと、ディカプリオ主演の、ビデオ「キャッチミー・イフユーキャン」を見た。好き好きがあるだろうが、私の評価は、★三つ。ワイフの評価は、★四つ。ワイフの評価は、いつも甘い。

 このビデオは、実話をもとにしているという。私は、その点に、興味をもった。しかしビデオを見終わったとき、さらに、その点に、興味をもった。

 内容は、一人の天才小切手詐欺師(ディカプリオ)が、FBIの捜査官(トム・ハンクス)に終われ、最後はつかまるという、何でもない、追っかけストーリー。が、トム・ハンクスも、ディカプリオも、私のファン。どんどんひきつけられて、私は、最後まで見てしまった。

 このところビデオを見ても、最後まで見るということが、少なくなった。本当のことを言うと、私は、何度も、途中で見るのをやめようと思った。しかし、「実話」ということが、私をひきつけた。

 私は、その天才詐欺師の話は、以前、ずっと前だが、だれからか聞いたことがある。ビデオの内容からすると、その詐欺師は、私とほぼ、同年齢。

 が、最後まで見たとき、私は、実話のおもしろさに、愕然(がくぜん)とした。その天才詐欺師は、やがてFBIの捜査官として、活躍するようになる。わかりやすく言うと、天才詐欺師が、その能力を買われて、今度はFBI捜査官になったというのだ。しかもそのため、刑期が短縮されたというのだ。

 ビデオを見終わったとき、「日本では、こういうことは、ありえない」と思った。ありえないことは、あなた自身も、よく知っている。

 しかしこの種の話は、日本以外では、よく耳にする。常識とまでは言えないが、常識に近い。オーストラリア人の友人の中には、小学校の教師を、五、六年したあと、国務省に入り、そこで一〇年ほど過ごし、さらにそのあと、今度は、大学の教授になった男がいる。

 日本でたとえて言うなら、小学校の教師をしたあと、自衛隊に入り、そのあと大学の教授になったようなもの。日本には、コースというものがある。そのコースから、はずれるということ自体、ありえない。またそれぞれのコースには、それぞれのコースを歩む人たちがいて、外から入ってくる人を、認めない。

 いわんや、犯罪者をそのまま、刑務所から引き出して、警視庁の捜査官にすることなど、日本では、絶対に考えられない! もしそんなことをすれば、頭ガチガチの常識人たち(?)が、猛反発するにちがいない。

 話は、かなり飛躍するが、こういうのを「自由」という。個人の自由のことではない。国としての自由をいう。そしてこういう自由というのは、外の世界から見てはじめてわかる自由であって、その国だけにしか住んだことのない人には、わからない。

 もちろん、子どもの教育にも、大きな影響を与えている。それについて書き始めたら、このエッセーは、終わらなくなってしまう。だからこの話は、ここまでにしておくが、もし、日本でも、その途中で、自由にコースを変えられ、それによるハンディが、なくなるようになれば、子どもの教育も、大きく変わることは事実。

 アメリカでは、ひょっとしたら何でもないビデオかもしれない。多分、アメリカ人なら、私のように考えることもなく、一つの娯楽映画として、気楽に見るだろう。しかし日本人の私には、そうではなかった。

 もしあなたも、このビデオを見たら、心のどこかでそんなことも考えながら見ると、またおもしろいのでは……? こまかいところはさておき、大筋では、いろいろと考えさせられる。
(031220)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●できない子を、できるように……

 ある大学生から、質問をもらった。「今度、卒論に、学習困難児について書きたいので、その定義を教えてほしい」というものだった。

 しかし学習障害児にせよ、困難児にせよ、定義など、ない。要するに、勉強が、目だってできないということ。それだけのこと。

 そこでその大学生は、二度目のメールで、「勉強ができない子どもを、指導するには、どうしたらいいか」と。

 しかし……。

 だれしも、こうした崇高な(?)理念をもって、教育の世界に飛びこむ。しかし現実は、そんなに甘くない。

 たとえば個別指導にしても、それをすれば、子どもは、バツととらえる。よい例が、残り勉強である。教師は、「子どものため」と思って、それをする。が、それを喜ぶ子どもなど、絶対に、いない。

 また(できない子ども)は、絶対的にできないのであって、(できない)で始まって、(できない)で終わる。いくら……というより、少しくらい教師が、がんばったところで、(できない子ども)が、できるようには、ならない。つまり、その間、その子どもは、もがき、苦しむ。そしてキズつく。

 一番、よい方法は、暖かく無視すること。

 というのも、日本の教育は、「皆が一〇〇点では困る。差がつかないから。しかし皆が〇点だと、もっと困る。差がわからないから」が、基本になっている。

 もしみなができるようになれば、ハードルは、さらに高くなるだけ。つまり(できない子ども)は、いつまでたっても、できない子どものまま。あるいは、仮にその子どもができるようになれば、別の子どもが、今度は、できない子どもになるだけ。

 そして、その(できる・できない)は、結局は、入試→人間選別での、有利、不利へとつながっていく。

 何だかんだといっても、この日本には、学歴社会は、歴然として残っている。不公平社会も、根強く残っている。こういう日本で、受験競争に背を向けるということは、そのまま「落ちこぼれ」を意味する。

 つまり勉強というのが、そのための尺度を測る、道具になっている。が、それだけではない。

 こうした勉強は、どこかのエラーイ、学者先生が組みたてた。だから、おもしろくない。だから役にたたない。

たしかに将来、数学者になるためには、日本の数学教育は、たいへん体系的にできている。将来、英文法学者になるためには、日本の英語教育は、たいへん体系的にできている。

 しかし将来、数学者になったり、英文法学者になる子どもは、いったい、何%、いるというのか。

 そういう(勉強)を、できる、できないを論じても、あまり意味がない。

 この大学生も、自分の受けてきた教育に、何ら疑問をもたないまま、大学生になっている。恐らく、それが人間形成に必要不可欠な知識と思いこまされて、微分や積分、三角関数を学んできたに違いない。あるいは関係副詞を学び、従属接続詞を学んきたに違いない。そして今、その結果として、教師になり、今度は、それを子どもたちに、教えようとしている。

 どこか、視点が違うのでは、ないか? 明治時代なら、いざ知らず。しかし今は、時代が違う。にも、かかわらず、「基礎学力」という亡霊が、いまだに、この日本には、はびこっている。

 どうして、勉強というのは、できなければいけないのか? 一次方程式や二次方程式が、どうして解けなければいけないのか? 私など、文科系の学生ということもあったが、大学を卒業して以来このかた、ただの一度も、二次方程式はもちろんのこと、一次方程式すら、日常生活で、使ったことは、ただの、一度も、ない。

 私はその大学生の疑問に答えながら、何とも言われない絶望感を覚えた。自分自身が、その大学生のもつ価値観の中に、巻きこまれていくかのような絶望感である。本当の私は、こう言いたかった。

 「勉強? できなくてもいいのです。そのかわり、もっと教育の多様性を認めて、料理がじょうずな子どもは、その道で。水泳が得意な子どもは、その道で。工作が得意な子どもは、その道で。そうしたことが、それぞれの子どもについて、伸ばせるような教育環境をつくることのほうが、大切なのです。

 今のように、中学、高校、大学と、その関門ごとに、その学力で、ふるい落とされていく、日本の教育システムのほうが、おかしいのです。

 せっかくすばらしい才能をもちながら、受験勉強になじまないという理由だけで、その才能をつぶされていく子どもたちが、あまりにも多いのです。勉強どころではないのです。

 微分や積分などわからなくても、人間味豊かな子どもは、いくらでもいます。たとえばそういう子どもが医者になったら、この日本は、もう少し、住みやすくなるはずです」と。

 そうそう、この日本では、一度、そのコースから離れると、そのコースに戻るのは、ほぼ、不可能。とくに、公的なコースは、そうで、それが日本の官僚社会の基盤になっている。

私たちがすべきことは、その「行政改革(=官僚政治の是正)」だが、それがいかにむずかしいことかは、もう、みなさん、ご存知のとおりである。
(031221)

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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●女児のADHD

 圧倒的に男児に多いが、女児にも、ADHD児はいる。その比率は、四対一とも、五対一とも言われている。しかも女児のADHDは、男子のそれとは、症状が、やや異なる。

 女児のばあい、(1)いつもケチャケチャと騒いだり、はしゃいだりする。言動が活発。(2)しばしば抑えがきかない。自分勝手な行動が目立つ。(3)明るく天衣無縫といった印象を与える。創造力、空想力が豊か。(4)よくしゃべり、一度しゃべると、他人の話を聞かず、一方的にしゃべりつづける。異常な多弁性、など。

 全体に、お茶目な感じがするが、同時に、善悪の判断にうとく、してよいことと、悪いことの区別がつかないことが多い。無遠慮、無警戒、無頓着などの特徴も見られる。

 こうした女児のADHDは、男児のADHDほど、まだ理解されていず、当然のことながら、誤解も多い。

 数年前だが、こんな事件があった。

 その子ども(年長女児)は、ここでいうADHD児であった。しかし専門の機関で、そう診断されたわけではない。

 で、母親は、その子どもを叱りつづけた。しかしADHDは、叱ってなおるような問題ではない。そのため、その叱り方は、ますますはげしくなった。

 ここで問題が起きた。その女の子の祖父母、つまり父親の実父母が、それを「虐待」と、騒ぎ出したのである。「嫁が、孫を虐待している!」と。

 この事件を知ったとき、私は、その子どもの問題点を、両親と祖父母に伝えるべきかどうか、かなり迷った。しかし私には、診断権限はない。しかも親から、具体的に相談があったわけではない。

 結局、最後の最後まで迷ったが、私は、ADHDの話はしなかった。祖父母の訴えで、一度、母親は、児童相談所の指導を受けることになった。しかしそれでも、私は、ADHDの話はしなかった。……できなかった。

 あとで聞いたら、この話はこじれにこじれて、離婚騒動にまで発展したという。

 こうした誤解(?)にもとづく悲喜劇は、多い。母親が、もう少し正確に子どもの症状を把握し、その問題点を知っていたら、その対処のし方も、ちがっていたかもしれない。少なくとも、叱ってなおるような問題ではないとわかっていただけでも、ちがっていたかもしれない。

 もちろん母親は、子どもを虐待していたのではない。その騒々しさに手を焼いていただけ。あるいは、何とか、静かに人の話を聞けるようにしただけ。そういう姿を、垣間見た祖父母は誤解した。それでこの事件は、起きた。

(付記)
 たまたまテレビを見ていたら、タレントのK女史が、ペラペラとしゃべっていた。昔からよくしゃべる人だとは思っていたが、その一方的にしゃべる姿を見ていたら、ふと、この女性は子どものころ、ADHD児ではなかったかと思った。それで、この原稿を書いた。
(031220)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●2003年

【文を書く】

 今年は、毎日、A四サイズで、一〇~一五枚の原稿を書いた。単行本にすれば、ざっと計算しても、三〇冊分近くになる。

 九九・九%は、ゴミにもならない駄文だが、しかし私には、それが楽しかった。毎日、広い荒野をひとりで、歩いているような気分だった。風邪をひいて、頭が痛いときもパソコンに向った。

 こうして書いた文章を、電子マガジンとして、発行した。おかしな世界で、読者といっても、マガジン社から教えられる「数字」だけ。「本当に読んでもらっているのだろうか」という迷いは、いつもあった。

しかし、ときどき、「読んでますよ」という言ってくれる人がいた。賛助会に入ってくれた人も、一〇人近くいた。本にたとえれば、一〇冊売れたということか? 何一〇万冊も売れるベストセラーからみれば、限りなくゼロに近い数字だが、うれしかった。

 おかげで、肝心の出版点数は、今年は、ゼロ。雑誌社や新聞社への働きかけも、できなかった。「できなかった」というより、しなかった。実のところ、こうした「働きかけ」を、むなしく感ずるようになった。多分、来年も、その気持は、変わらないだろうと思う。


【健康】

 おかげで、この一年間、健康だった。運動は、欠かさなかったし、食べ物にも、気をつけた。数日前に、ある人から教えられたが、私の年齢で、髪の毛が黒いのは、珍しいそうだ。それに、いまだに、フサフサしている。

 このところ少し、太り気味かもしれない。食事が、おいしい。適正体重は、六三~四キロ前後だが、多分、今は、六七キロくらいはあると思う。この数週間、こわくて、体重計の上にも、乗っていない。(ひょっとしたら、六八キロ以上!)


【人間関係】

 ますます居直りが強くなったように思う。私のことを、よく思っていない人も、多い。若いころは、そうした人間関係を修復しようとあれこれ、努力したこともあった。が、今は、もう、そういうことは考えない。

 「どうぞ、語勝手に!」と。

 私にとって大切なことは、この部分だと思う。生真面目というか、生真面目すぎるというか。自分で、自分を追いこんでしまう。だから、私のような人間にとっては、(いいかげんさ)が、大切なのだ。

 ……とまあ、勝手にそう思っている。「いい人」という仮面をかぶるのも、結構、疲れる。だから、今年は、自分をさらけ出し、ありのままの自分で、いることに努めた。来年は、もっと、自分にすなおに、生きてみたい。

 飾らないで……。虚勢を張らないで……。人の目を気にしないで……。どうせ、二人の人に、よい顔はできない。


【仕事】

 こういうご時勢だから、しかたない? しかし夏前から、私の仕事も、少しずつ、上向いてきたような気がする。日本の経済全体も、そうなっているというから、一応、その「波」には、乗っているのかもしれない。

 しかし政府が、これだけ、お金をバラまいているのだから、多少、国民のふところが豊かになったところで、おかしくはない。しかし日本の経済が、本当に、よくなりつつあるかどうかということについては、疑問。

日本を、家庭にたとえるなら、働きもしないドラ息子に、遊ぶための小づかいを、ポンポンと、惜しみなく与えているようなもの。

 これでいいのかなあ?

 来年も、今年と、同じように仕事ができれば、恩の字。もう高望みは、しない。……できない。仕事があるということだけでも、感謝をしなければ……。

 そう言えば、男の更年期を無事、過ぎたせいか、このところ、体の調子が、またよくなってきた感じ。先日、Kペイントの監査役をしていた、T氏(現在七〇歳)が、こう言った。

 「男が、本当にいい仕事ができるのは、五五歳から六五歳の間だよ」と。

 その言葉を、信じよう!


【家族】

 いろいろあったが、ワイフが、「あまり詳しく書かないで」と、クギを刺してきたので、ここまで。


【抱負】

 〇四年の抱負は、とにかく現状維持。ここにも書いたように、仕事にせよ、健康にせよ、現状維持できるというだけでも、ラッキー。ぜいたくを言ってはいけない。

 現在、マガジンは、第三四〇号前後。今のペースを守れば、〇四年度中に、第五〇〇号を発行できる。折り返し点ということになる。

 ほかに大きな計画はないが、オーストラリアとアメリカへ、一度ずつ、行くつもり。(……一応、その計画をたてている。)

本は、どうせ売れないから……と、あきらめている。考えてみれば、今年は、原稿にして、三〇冊分のも原稿を書いて、売れたのは、本に換算すると、たったの一〇冊! これもみんな、不景気が悪いのだ! 政治が悪いのだ! そういう政治家を選ぶ、私たちが悪いのだ!

 またまたグチになってしまった。〇四年度は、もうグチは、やめよう。前向きに、明るく生きよう。

 とにかく、マガジン発行に全力を注ぐ。一〇〇〇号まで、がんばるぞ! がんばるぞ!
(031219)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

マガジン読者の方が、合計で、1240人になりました!

……と書いても、実感が、まったくわいてきません。そこで読者の方を、「○」で表してみました。○(まる)一個が、一人というわけです。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○M○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(ここまでで、一〇〇〇人)
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(ここまで、ちょうど、一二四〇人)

 ちょうど、ほぼ原稿用紙(A四サイズ)で、一枚分の方ということになります。

 この並んだ○を見ていたとき、少しですが、実感がわいてきました。と、同時に、ズシリとした責任感を覚えました。(中央のMが、「あなた」です。)

 考えてみれば、いつも、いいかげんなことばかり書いてきたように思います。読者の方の中には、怒ったり、不愉快に思っている人もいらっしゃると思います。でも、何とか、マガジンを購読してくださっている……?

 本当にありがたいことだと思っています。これからも、みなさんがご家庭で、そしてその子育てで、お役にたてる記事を、どんどんと書いていくつもりです。どうか、末長く、よろしくご購読ください。

 一〇〇〇号までは、まだ長い道のりですが、やっとその三分の一まで、たどりつくことができました。現在、三四〇号前後かと思います。「意外と、早かったなあ(ヤレヤレ!)」という、思いもあれば、「まだ三分の二もあるのか(ゾーッ!)」という、思いもあります。「一〇〇〇号まではつづければ、何か、ある」と、私は信じています。「何か、ある」と、です。

 それが何んである、今はわかりませんが、何か、あるはじです。それを、自分で発見してみたいです。

 どうか、よい新年をお迎えください。みなさんと、みなさんのお子さんの、ご健康と、ご多幸を、心より、念願しています。
(03012末)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞