Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, December 14, 2007

*High Ideology and Common Way of Living

●高理と世俗(High Ideology and Common Way of Living)

We are always between the high ideology and the common way of living. We sometimes swing to the high ideology and in other times we swing to the common way of living. To live with the high ideology is not easy but it is more important for us not to get harmed by the common of living. What shall we do if we wish to live unharmed by the common way of living. My teacher Kenzi Tamaru teaches me, the other day, “Just appreciate that we are here and we are living.” Yes! We are here and living, seeing, hearing, acting, and thinking. From this point of view, everything around us looks tiny things, which brings us up to the higher ideology.

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高い理念を、「高理」という。
私が勝手に、そう名づけた。

その正反対の位置にあるのが、「世俗」

人は、この高理と世俗の中間あたりで、いつも、どちらかに行ったり来たりする。
引っ張られる。
それは綱引きの綱のようなもの。
高理に揺れたり、世俗に揺れたりする。
わかりやすい例で、説明しよう。

たとえば寒い朝、仕事に向かう。
そのとき、自動車の乗って行くという方法がある。
そのほうが楽だし、冬の冷気を避けることができる。

しかし一方、健康のためなら、自転車で行くほうがよい。
青い空、白い雲、そういうものを見ながら、思いっきりペダルをこぐ。
その瞬間、生きている喜びを覚える。
ものが見える。ものが聞こえる。体が動く。
それが喜びとなって、はね返ってくる。

世俗的な視点からみれば、大型車をゆうゆうと運転していくほうが、かっこよい。
反対に、自転車で、道路の隅を、ユラユラと走るには、かっこ悪い。

しかし健康、もう少し大げさな言い方をすれば、生きているという視点からものを見ると、自転車に乗って行くほうが、意味がある。
プラス、すばらしい。

私のばあいだが、どちらかひとつを選べと言われたら、このところ、自転車に乗って行くほうを、選ぶ。
実は、今日も、そうだった。
朝、家族で、サイクリングをした。 
ちょうど、40分。
1単位の運動をこなしたことになる。

それを知っているから、ワイフがこう言った。
「今日は、車で、送っていくわ」と。
しかし私は断った。
自転車に乗って行くほうが、ずっと、楽しい。
気持ちよい。

そういう私だから、大型の高級車に乗っている人が、うらやましいと思ったことはない。ほんとうに、ない。

むしろうらやましいと思うときは、こんなときだ。

先日も、ある小学校で講演をさせてもらった。
その学校でのこと。

その小学校の校長が、精悍(せいかん)な顔つきをしていた。
引き締まった顔立ち、体格。ピンと伸びた背筋。
キビキビと、校長室と職員室を行ったり来たりしていた。

年齢は、私より、たった数歳、若いだけ。
だから私は、思わず、こう聞いた。
「何か、運動をなさっているのですか?」と。

するとその校長は、こう言った。
「私は、体育系ですから」
「毎朝、子どもたちと、30分、運動場を走っています」と。

その校長を見たとき、「うらやましい」と思った。
校長の全身から飛び散るような健康さを感じた。
それを「うらやましい」と思った。

長い話になってしまったが、大型の高級車をうらやましいと思うのは、「世俗」、健康な肉体をうらやましいと思うのは、「高理」ということになる。

健康や、時間の使い方、文化や伝統に関する考え方は、わかりやすい。
ボランティア活動を生きがいにしている人は、多い。
真・善・美の追求に、情熱を燃やしている人も多い。
しかしこと、お金の問題となると、世俗に毒されている人は、多い。
多いと言うより、ほとんどが、そうではないか。

たとえば親の遺産をめぐって、言い争っている人は、多い。
分配をめぐって、たがいに不愉快な思いをしている人は、さらに多い。

お金(=マネー)そのものが、(世俗)の象徴と考えてよい。
実際、この世界は、そのお金で成り立っている。
お金で幸福は買えないが、お金がなければ、不幸になる。
そのため人は、ますます世俗に毒されるようになる。

少し前のことだが、ある知人の家に遊びに行ったとき、こんなことがあった。
10数年ぶりに会ったのだが、話すことと言えば、お金のことばかり。
「あの男は、自分の家を、x千万円で、改築した」
「あの男は、投信で、x千万円、もうけた」と。

この程度の話はしかたないとしても、帰り際、私が、「タクシーを呼んでいただけますか」と聞くと、こう言った。
「タクシー代を、オレに払ってもらえないか。駅まで送っていく」と。

私は、そのあさましさに、心底、驚いた。
がっかりした。
人も、お金に窮すると、そこまで言うようになる。
世俗に毒されると、そこまで言うようになる。

と、同時に、私との人間関係は、それで消えた。

しかし貧しいから、世俗に毒されるとか、反対に、金持ちだから、高理になるというわけではない。
貧しくても、高理の人はいくらでもいる。
金持ちでも、世俗に毒されている人も、これまたいくらでもいる。

遺産の話になるが、世の中には、数億の金融財産をもちながら、わずか数百万の遺産問題で、兄弟たちと、はげしく言い争っている人もいる。
大切なのは、生きざまということになる。
心のもち方ということになる。

では、高理に生きるためには、どうすればよいのか。

先月、恩師の田丸謙二先生が、こんなメールをくれた。
「お元気ですか?」と書いた、メールへの返信だった。
「老いと戦うすばらしさ。感謝、感謝」と。

私は、この言葉に感動した。
「感謝」という言葉に、感動した。

目が見える、ものが聞こえる、体を動かすことができる。
生きていること自体が、すばらしい。
アインシュタインは、それを「奇跡」と呼んだが、まさに奇跡。

この世界で生きている以上、世俗から自分を切り離すことはできない。
しかし高理に生きることによって、世俗との間に、一線を引くことは、できる。
その一線を引けば、世俗に毒されることを、防ぐことができる。

人は、この高理と世俗の中間あたりで、いつも、どちらかに行ったり来たりする。
引っ張られる。
それは綱引きの綱のようなもの。
高理に揺れたり、世俗に揺れたりする。

それはしかたのないことかもしれないが、そのつど、自分がどこにいるか、それを知ることは、とても大切なこと。
今朝は、それを発見した。
07年12月15日

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 世俗 高理 世俗的な生き方)