*Integration of Ourselves
●自己の統合性(The integration of ourselves)
When we get old, we should integrate ourselves to what we should do.
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どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。
それが統合性の問題ということになる。
が、それを一言で言い表した人がいた。
マルチン・ルーサー・キングである。
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マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。
If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティン・ルーサー・キング・Jr)
わかりぬくい言い回しだが、キング博士はこう言っている。
「私は何をすべきか、それをつかむのに失敗した人は、生きている価値はない」と。
そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。
老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらりと、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わかったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!)
しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。
命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいはんが、そうではないか?
「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。
ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、そのままここに紹介させてもらう。
「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。
勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)と出会う。彼女は退職届を出すところだった。
「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。
この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞している。
そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」(「きれい塾hp」)と。
今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。
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●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)
1 いのち短し 恋せよ乙女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
2 いのち短し 恋せよ乙女
いざ手をとりて 彼(か)の舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰れも 来ぬものを
3 いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
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私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自己の統合性 老後の統合性 生きざま)
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