Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, March 26, 2008

Brains that is to be rusted

●ボケといく頭(Brains that is to be rusted)
I saw a movie last night with my wife, which is about Alzheimer's disease. It was a nice one and I thought about again what is the brain.)

昨夜、渡辺健、樋口可南子主演の「明日の記憶」(邦画)を見た。
若年性アルツハイマー病をテーマにした映画だった。
よい映画だった。
(あえて星はつけないでおく。)

ヤフーの映画紹介欄には、つぎのようにある。

『第18回山本周五郎賞を受賞した、荻原浩の同名長編を原作に、
『トリック』や『ケイゾク』の堤幸彦監督が映画化した人間ドラマ。
若年性アルツハイマー病に侵された男と、ともに喪失を乗り越えようとする
妻の夫婦の情愛をたおやかに描く。互いを受け止め合い、痛みを共有する
熟年夫婦を、渡辺謙と樋口可南子が好演。人を愛することの根源的な意味を
問いかける重厚なテーマを、ソフトな語り口でつづる堤監督の演出手腕が
冴え渡る感動作』と。

その映画を見ながら、随所で、「明日は、わが身」を実感した。

ただ、私もこのところ、アルツハイマー病になった人たちを、見る機会がよくある。
が、症状は、もっと深刻。
顔つき、そのものが、変化する。
顔じゅうから、緊張感が消え、ダラーッとした感じになる。

映画の中の渡辺謙は、最後の最後まで、りりしい(?)表情をしていたが、
そのあたりでは、少し違和感を覚えた。

で、そのあと、私とワイフは、脳みその検査をしあった。
ああでもない、こうでもない、と。

私「なあ、最近、ぼくの様子、少し、ヘンじゃないか?」
ワ「ヘンじゃ、ないわよ」
私「ボケたとか、そういうふうに思うことはないか?」
ワ「ないわねエ……」
私「でもさ、お前も、同じようにボケ始めていたら、たがいにそれがわからないよ」と。

映画の中でも、最初、渡辺謙は、自分が病気であることに、強く反発する。
ものを投げつけたり、机を蹴飛ばしたり、怒鳴ったりして、反発する。
それもそのはず。
脳みその中枢部分が変化する。
パソコンでいえば、クロック数そのものが、落ちる。
だから自分で自分の変化を知るのは、(理論的には)、不可能。

これは何も、アルツハイマー病にかぎらない。

加齢とともに、脳みその機能が低下する。
しかし低下したことを自分で知るのは、(理論的には)、不可能。
ほとんどの人は、低下していることにすら気づかない。
気づかないだけならまだしも、「私はふつう」「私はまとも」と、がんばる。

それを繰り返しながら、徐々に、5年、10年単位で、ボケていく。

で、最近、私は、こんな経験をした。

6年前の生徒たちの写真を見たときのこと。
全員、幼児教室の生徒たちである。
そこには、5人の子どもたちの顔が写っていた。
が、うち4人まで、名前どころか、そういう子どもがいたことすら、思い出せなかった。

たった、6年前である!

この数字で計算すると、私は、6年前の記憶のうち、80%を失ったことになる。
6年前といえば、2002年。
「2002年には、どんなことをしたか?」と聞かれると、さらに困る。
何があったかさえも、思い出せない。

言い換えると、今という(現在)にしても、6年後には、そのうちの80%が
消えることになる。
さらにその2倍の12年後には、残りの20%のうちの、さらに80%を失う。
ざっと計算してみると、残っているのは、たったの4%!
私が、72歳になるころには、今という(現在)の記憶は、4%しか、残っていない?
生徒数で考えると、100人の生徒のうち、4人しか、覚えていない?

この数字を見て、ゾーッとしない人は、いないと思う。
いや、中には、「私はだいじょうぶ」と思っている人もいるかもしれない。

しかしほんとうに、そうか?
そう信じてよいのか?
むしろ、そういう人のほうが、あぶない?

……と書いただけで終わったのでは、エッセーにならない。
問題は、では、どうしたらよいか、ということ。
どうすれば、ボケていく自分の脳みそと、戦うことができるかということ。

映画「明日の記憶」の中では、妻を演ずる樋口加奈子が、アルバムから写真を
抜き取って、それを部屋中に、張ったり、並べたりする。
この方法は、アルツハイマー病には効果は、あまりないかもしれない。
しかしボケ防止には、よいかもしれない。
記憶を繰り返し再燃させることによって、脳みそ活性化する。
が、問題がないわけではない。
活性化できるとしても、その部分だけ?
ほかの記憶は、どうしたらよいのか?

さらに思考力の維持となると、もっとむずかしい?
思考力が低下すれば、表面的な会話しか、できなくなる。
現在の私の母が、そうである。
「元気?」
「元気だよ」と。
それでおしまい。

(そう言えば、あの母にしても、ほんの5、6前までは、「私はボケていない!」と
がんばっていたゾ。
私が、「おまえ、少しボケたんじゃ、ない?」と言ったときも、そうだった。
母は、ムキになって、それに反発した。)

……ということで、この問題だけは、考えれば考えるほど、袋小路に入ってしまう。
わけがわからなくなってしまう。

そこで映画の中で、だれかが、こう言う。
私のボケかけた脳みその記憶によるものなので、不正確かもしれないが、こう言う。

「ものごとには、始まりがあれば、終わりがある」と。
つまりそういう状態になることを、(終わり)ととらえれば、よい、と。

「終わりねエ……」と思ったところで、この話は、おしまい。
考えたところで、どうにもならないし……。