Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, March 25, 2008

*Mismatch of Mind *Whatever he is ....

●心と表情のミスマッチ(mismatch between mind and facial expression) 
 
 子どもの心は風船玉のようなものだ。「家庭」で圧力を加えると、「園や学校」で荒れる。反対に「園や学校」で圧力を加えると、「家庭」で荒れる。友人との「外の世界」で荒れることもある。

問題は、荒れることではなく、こうした子どもたちが、いわゆる仮面をかぶり、二重人格性をもつことだ。親の前では、恐ろしくよい子ぶりながら、その裏で、陰湿な弟や妹いじめを繰り返す、など。家庭内暴力を起こす子どもなどは、外の世界では、信じられないほど、よい子を演ずることが多い。

 一般論として、情意(心)と表情が遊離し始めると、心に膜がかかったかのようになる。教える側から見ると、「何を考えているかわからない子ども」、親から見ると、「ぐずな子ども」ということになる。あるいは「静かで、おとなしい子ども」という評価をくだすこともある。ともかくも心と表情が、ミスマッチ(遊離)するようになる。

ブランコを横取りされても、笑みを浮かべながら渡す。失敗して皆に笑われているようなときでも、表情を変えず平然としている、など。「ふつうの子どもならこういうとき、こうするだろうな」という自然さが消える。が、問題はそれで終わらない。

 このタイプの子どもは、表情のおだやかさとは別に、その裏で、虚構の世界を作ることが多い。作るだけならまだしも、その世界に住んでしまう。ゲームのキャラクターにハマりこんでしまい、現実と空想の区別がつかなくなってしまう、など。

ある中学生は、毎晩、ゲームで覚えた呪文を、空に向かって唱えていた。「超能力をください」と。あるいはものの考え方が極端化し、先鋭化することもある。異常な嫉妬心や自尊心をもつことも多い。

 原因の多くは、家庭環境にある。威圧的な過干渉、権威主義的な子育て、親のはげしい情緒不安、虐待など。異常な教育的過関心も原因になることがある。子どもの側からみて、息を抜けない環境が、子どもの心をゆがめる。子どもは、先ほども書いたように、一見「よい子」になるが、それはあくまでも仮面。この仮面にだまされてはいけない。

 子育ては、『まじめ八割、いいかげん二割』と覚えておく。これは車のハンドルの遊びのようなもの。子どもはこの「いいかげんな部分」で、羽をのばし、自分を伸ばす。が、その「いいかげん」を許さない人がいる。許さないというより、妥協しない。外から帰ってきたら、必ず手洗いさせるとか、うがいさせるなど。

このタイプの親は、何ごとにつけ完ぺきさを求め、それを子どもに強要する。そしてそれが子どもの心をゆがめる。が、悲劇はまだ続く。このタイプの親に限って、その自覚がない。ないばかりか、自分は理想的な親だと思い込んでしまう。中には父母会の席などで、堂々とそれを誇示する人もいる。

 子どもの二重人格性を知るのは、それほど難しいことではない。園や学校の参観日に行ってみて、家庭における子どもと、園や学校での子どもの「違い」を見ればわかる。もしあなたの子どもが、家庭でも園や学校でも、同じようであれば、問題はない。

しかし園や学校では、別人のようであれば、ここに書いた子どもを疑ってみる。そしてもしそうなら、心の開放を、何よりも大切にする。一人静かにぼんやりとできる時間を大切にする。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●生命力を大切に(Whatever your child is, it is your child.)

 昔から、『できの悪い子どもほど、かわいい』という。それはその通りで、できのよい子どもほど、自分で勝手に成長していく。……成長してしまう。そのためどうしても親子の情が薄くなる。しかしできの悪い子は、そうではない。

 I君(小二)は、そのできの悪い子どもだった。言葉の発達もおくれ、その年齢になっても、文字や数にほとんど興味を示さなかった。I君の父親は心やさしい人だったが、学習面でI君に無理を強いた。しかしそれがかえって逆効果。(無理をする)→(逃げる)→(もっと無理をする)の悪循環の中で、I君はますます勉強から遠ざかっていった。

 時に父親はI君をはげしく叱った。あるいは脅した。「こんなことでは、勉強におくれてしまうぞ」と。そのたびにI君は、涙をポロポロとこぼしながら、父親にあやまった。一方、父親は父親で、そういうI君を見ながら、はがゆさと切なさで身を焦がした。「泣きながら私の胸に飛び込んできてくれれば、どれほど私も気が楽になることか。叱れば叱るほど、Iの気持ちが遠ざかっていくのがわかった。それがまた、私にはつらかった」と。

 このI君のケースでは、母親がおだやかでやさしい人だったのが幸いした。父親が暴走しそうになると、間に入って、父親とI君の間を調整した。母親はこう言った。「主人は主人なりに息子のことを心配して、そういう行動に出るのですね。息子もそれがわかっているから、つらがるのでしょう」と。

形こそ多少いびつだが、それも親の愛。子どものできが悪いがゆえに燃えあがる、親の愛。その父親が私を食事に誘ってくれた。私はその席で意を決して、父親にこう告げた。

 「お父さん、もうあきらめましょう。お父さんががんばればがんばるほど、I君は、ますます勉強から遠ざかっていきます。心がゆがむかもしれません。しかし今ならまだ間にあいます。あきらめて、I君の好きなようにさせましょう」と。

 そのとき父親の箸をもつ手が、小刻みに震えるのを、私は見た。

「先生、そうはおっしゃるが、このままでは息子は、ダメになってしまいます」
「しかしI君の顔から、笑顔が消えたら、どうしますか」
「私は嫌われてもいい。嫌われるぐらいですむなら、がまんできます。しかしこのまま息子が、落ちこぼれていくのには耐えられません」
「落ちこぼれる? 何から落ちこぼれるのですか」
「先生は、他人の子どもだから、そういうふうに言うことができる」
「他人の子ども? 実は私はその問題で、一〇年以上も悩んだのです。自分の子ども、他人の子ども、ということでね。しかし今は、もうありません。今は、そういう区別をしていません」

 いかに子どものできが悪くても、子ども自身がもつ生命力さえ残っていれば、必ずその子どもは自立する。そして何十年後かには、心豊かな家庭を築くことができる。しかし親があせって、その生命力までつぶしてしまうと、ことは簡単ではない。一生ナヨナヨとした人間になってしまう。立ちなおるということは、たいへん難しい。I君はそのとき、その瀬戸ぎわにいた。