*To Lose is to get Something
【金銭的価値観】
●損の哲学
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私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。
私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。
が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。
つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!
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●失った鑑賞能力
ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべきことである。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよんだら、さらに悲しむべきことである。
テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、それぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという番組である。
ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作品から、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござれ! が、私には、苦い経験がある。
私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だった。そのころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもないが、おとなになると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるようになった。それはある意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。
最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、カトラン、ピカソ……とつづいた。
が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。このリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラフ)ほど、よい絵であり、価値があると思いこむようになった。
しかしこれはとんでもないまちがいだった。
だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって決まる。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、ほとんど知られていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、この日本でのみ通用する、作られた価値であることを知った。
つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、うまく宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」とか、何とか宣伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、ごく当たり前のようになされている。
が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!
そういううらみがある。そのうらみは、大きい。
その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心というのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、値段を見て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段が安かったりすると、その絵画から目をそらしてしまう。
私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。
●損をすることの重要さ
お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお金では、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。
それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。
そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということは、それ自体が、人生、最大の命題といってもよい。
そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。もちろん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重ねていくと、やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるようになる。ときに、その人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。
損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかしそのボランティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。
反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お金……」と生きている人たちである。
そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。
●お金に毒された社会
話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってしまっている。とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまった。
その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、ものにおよばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてその幸福感も、相対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小さな車に乗っているから、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするようになってしまった。
それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。反対に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ幸福感まで、金銭的な尺度で判断してしまう。
そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわけではない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組となる。
が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組によって、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうして日本人の心は、ますます毒されていく。
司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。
ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はどうなるか? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレビ番組が嫌いな理由でもある。
今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言われている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、そのときでさえも、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。
それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして何ら恥じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになってしまった。意識というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒されると、自分がもっている意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そして本来、価値のないものを価値あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるものと思いこむ。そして結局は、自分の感性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にする。
だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこの世界では、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。
損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 金権教 金万能主義 カルト)
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