Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, March 24, 2008

*March 25, 2008 (3300 accesses and Prof. Tamaru)

【今日・あれこれ】(March 25th)
3300 accesses to one of my blogs were counted yesterday. It is a great thing for me.

●3300件!

昨日、G・Blog、ひとつだけで、アクセス数、3300件を記録した。
1日の記録しては、今までの中でも、最高。
もちろん3300件イコール、3300人というわけではない。
重複閲覧も、その中に含まれる。
しかし、これはものすごいことだと思う。

月間ベースでみれば、3300x30=10万件となる。

ほかに私は、毎日、5つのBLOGを発行している。
そちらのほうも、平均して、毎日、300~500件のアクセスがある。

もちろんHPへのアクセスもある。
しかしこちらのほうは、実数は、わからない。
アクセス・カウンターをつけているのもあるし、ないのもある。

またメインのHPと、ハイパーリンクでつないでいるHPが、6~7つある。
ページ数だけでも、数百ページ以上。
合計で、500MB前後。

その中でも、最近、人気があるのが、「音楽と私」。
このコーナーだけでも、毎日、300~600件ものアクセスがある。(毎日だぞ!)
この1月に開設したばかりのコーナーなのだが……。

が、何といっても、私にとって重要なのが、電子マガジン。
こちらのほうは、読者数が、合計で、3000人になった。
毎月、12~13回、発行しているから、延べにして、約4万人。

毎回、20~30枚分(40x36)の原稿を載せているから、
原稿枚数(400枚詰め)に換算すると、1回分が90枚。
1か月で、1125枚。
それに読者数の3000を掛けて、340万枚。
つまり340万枚の原稿を、毎月、配信していることになる。

「ものすごいことだと思う」というのは、数字ばかりではない。
こんなことが、浜松という地方都市に住んでいて、できるということ。
しかもそういうことが、東京を通り越して、全世界に向けてできる。

が、おかしなことに、本当におかしなことに、その(実感)が、ほとんどない。
私の目の前にあるのは、パソコンの画面だけ。

今、その画面をながめながら、「この画面の向こうにねエ~」と、思った。
この画面の向こうに、この地球と同じくらい広い、世界がある?


●TK先生(My Friend, Prof. TK)

TK先生の体の具合が、あまりよくないらしい。
昨夜も、メールが届いた。
「憂うつです」と、それにはあった。
私も、先生のメールを読んで、憂うつになった。

TK先生との出会いは、1970年。
ちょうどあの三島由紀夫が割腹自殺を遂げた前後のころのことだった。
ラジオか何かのニュースでそれを知り、TK先生にそれを告げたのを覚えている。

以来、今年で、38年目になる。
近くもなく、遠くもなく、それでいて、たがいに言いたいことを、言いあっている。
実のところ、TK先生は、「先生」というよりは、「友」。
身分も立場も、まるでちがうのに、そんな関係でつきあってきた。

こんなことがあった。

いつものように東大の理学部へ遊びに行くと、こう言った。
「5時まで、遊んでいきなさいよ」と。

そのときは、へんに時刻にこだわる人だなあと思った。
が、その5時になって、理由がわかった。
TK先生、専用の黒塗りの乗用車が、理学部の玄関の前に横付けになった。
今は知らないが、東大の副総長(早朝特別補佐)になると、そういう車があてがわれる。
それがちょうど5時にやってきた。

TK先生は、それに私を乗せたかったらしい。
TK先生も私も、車の中では、一言も話さなかった。
が、車を出ると、たがいにゲラゲラと笑いあった。
笑いながら、東京駅の下にあったレストランで、食事をした。
あのとき私は、生まれてはじめて、マンゴーなる果物を口にした。

私がまだ、30歳になる前のことではなかったか?

……こうして書き始めると、思い出はつきない。
しかしそのTK先生が、私の生き方を決めた。
私はTK先生に会ったのがきっかけで、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で
生きてやる」と決めた。
その経緯を話せば長くなるが、ともかくも、TK先生との出会いは、それほどまでに
大きな影響を、私に与えた。

そのことを昨夜もワイフに話すと、こう言った。

「TK先生と出会ったのが、あなたにとってよかったのか、悪かったのか、
わからないわね」と。

TK先生の父親の、TS氏は、日本学士院の院長まで務めている。
「親子2代、つづけて、日本化学会の会長をしました」と、いつだったか、
TK先生が話してくれたのも覚えている。

TK先生のばあい、地位や肩書きだけでも、今では数百以上になるのでは……?
上は国際触媒学会の前会長に始まって、下は鎌倉テニスクラブの会長まで。
ときどき天皇陛下も、そのクラブにやってきて、テニスをする。

それで私は、TK先生に反発した。
反発して、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で生きてやる」と。

……以来、38年。

先生との出会いが、遠い昔のことのようにも思われるし、つい先日のことのようにも、
思われる。

昨夜の返事に、こう書いた。

「一度、そちらへ行きますよ」と。

私はいつもTK先生を追いかけてきた。
今も追いかけている。
だから今度ばかりは、どうしても会わなければならない。

「ひとりで行きます。そうればパジャマ姿でも、先生は気になさらないでしょうから」と、
メールには書いた。

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こんな原稿を書いたことがある。
(中日新聞、発表済み。
「世に無不思議な留学記」より。

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処刑になったT君【12】

●日本人にまちがえられたT君

 私の一番仲のよかった友人に、T君というのがいた。マレ-シアン中国人で、経済学部に籍をおいていた。

 最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。そのT君。ある日私にこう言った。

 「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、「じゃ、お前の名前を、日本語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中国語じゃないか」と笑った。

 そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、マレー人そのものを、どこか「下」に見ていた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にまちがえられると、もっと怒る。T君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。街を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、T君は、地面を足で蹴飛ばしながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのT君には一人のガ-ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとしなかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。が、やがて卒業式が近づいてきた。

 T君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そのT君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニ-は……」と。喉の奥から絞り出すような声だった。「ジェニ-は42歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、夫から訴えられている」と。

 そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのT君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教授の部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。

 田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。教授はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、T君がマレ-シアで処刑されたと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

 この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでT君が生きているとしたら、それはそれですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、T君は、マレ-シアで、1980年ごろ処刑されている。T君は大学を卒業すると同時に、ジェニ-とクアラルンプ-ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。

 しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をしてみたが、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、見つけた新聞記事によるものだ。

 その後、T君は、マレ-シアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポ-ルの墓地に埋葬されているという。

 田丸教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼に出会ってからというもの、「私は日本人だ」と言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きている。