*What is Family to each Man?
【家族】(Spellbinding of Family)
Family works as a home base for each man, but also it works as a burden for each man in case its relationship is collapsed.
●家族がもつ二面性
常に「家族」には、二面性がともなう。
「家族のためにがんばる」というのが、正の自我群。
「家族であるがゆえに、追いつめられる」というのが、負の自我群。
発達心理学的に言えば、正の自我群というのは、その人を前向きに
引っ張る。
そういう意味で、強化の自我群と表現できる。
一方、負の自我群というのは、それ自体が大きなストレスとなって、
その人を後ろ向きに引っ張る。
そういう意味で、弱化の自我群と表現できる。
「正の自我群」「負の自我群」「強化の自我群」「弱化の自我群」という名称は
私が考えた。どこかで同じ文句を見られた人は、はやし浩司からのパクリと
思ってほしい。(ついでに連絡もしてほしい。)
ところで、どうして「群」という文字をつけるのか?
つまりそれだけ親子の関係が、複雑であることによる。
もろもろの要素が複雑にかみあって、「群」を形成する。
その群、つまりかたまりが、その人の心に影響を与える。
けっして、単純ではない。
同じ自我群でも、正になったり、負になったりする。
そのポイントは、つまるところ、人間関係によって決まる。
良好な人間関係が成立していれば、同じ自我群でも、「正の自我群」となる。
家族の犠牲になりながらも、むしろそれを楽しむことができる。
反対に、ひとたびその人間関係が崩れると、
同じ自我群でも、「負の自我群」となる。
ささいなことでも、大きなストレスとなって、その人を苦しめる。
夫婦関係、親子関係、兄弟関係、親戚関係、すべてについて、そうである。
●ある騒動
正の自我群はともかくも、負の自我群については、どうするか?
私のばあい、「時間」という視点から、こう考えるようにしている。
つまり楽しく過ごすのも、人生。
いやな思いをして過ごすのも、人生。
その人生には、時間という限りがある。
言うなれば、時間というのは、金の砂時計のようなもの。
お金に換算するのは正しくないかもしれないが、へたな遺産より、
はるかに価値がある。それに尊い。
どうせ過ごすなら、楽しく過ごしたほうがよい。
もっと言えば、お金の問題ではない。
いや、負の自我群というのは、たいていのばあい、何らかの形で、その底流で、
金銭問題がからんでいる。物欲がからんでいる。
私の知人の中には、親の遺産問題で、兄弟姉妹で、三つ巴(どもえ)、四つ巴の喧嘩を
くり返した人がいる。
「近所中に聞こえるほどの怒号が、毎晩のように聞こえた」という。
そういった状態が1年近くも、つづいた。
で、その結果だが、うち2人の人は、それから2年足らずの間に、
がんと、脳卒中で他界している。
もう1人は、現在、心臓の動脈硬化症で手術を受けている。
ワイフはその話をしながら、こう言った。
「きっとそのときのストレスが原因で、そうなったのよ」と。
言い忘れたが、その知人の「家族」では、長女が実家と土地を引き継ぎ、
長男と二女、三女が、金銭を受け取った。
受け取った金額は、1人あたり、7000万円だったという。
私「しかしね、7000万円受け取っても、そのあと死んでしまったのでは
意味ないね」
ワ「そうね」と。
私「でもさ、その人たち、7000万円も、どう使ったんだろうね」
ワ「そうね。1人は、家を新築したそうよ」と。
7000万円といえば、はんぱな額ではない。
しかしたとえ小銭でも、騒動の原因となることもある。
汲々(きゅうきゅう)としている人はいくらでもいる。
それが自我群の問題とからむと、とたんに負の自我群に変身する。
人間関係そのものを破壊することも珍しくない。
先の知人にしても、遺産分けがすんだあと、たがいの行き来は、
まったくなくなってしまったという。
兄弟姉妹でも、一度リズムが狂うと、兄弟姉妹であるが故に、憎しみあう。
他人以上の他人になる。そういう例は、ゴマンとある。
●割り切る
では、どうするか?
親子や兄弟はともかくも、親類については、はなから他人と思えばよい。
私の親類にしても、口を出してくる人は多いが、いまだかって
金銭的な援助をしてくれた人は、ひとりもいない。
そういう人たちは、最初から、自我群の(外)置けばよい。
つまり相手にしない。
相手が何を言っても、「ああ、そうですか」と、ヘラヘラと笑っていればよい。
ずいぶんと辛らつな言い方に聞こえるかもしれないが、
そうでもしないと、この自我群による幻惑(=呪縛感)から解放されることはない。
言いかえると、自我群による幻惑は、それほどまでに強力であるということ。
本能に近い部分にまで、情報がインプットされているから、
少しぐらい抵抗したところで、ビクともしない。
ともかくも、よき人間関係は、それ自体が、すばらしい財産である。
それを維持するには、コツがある。
(失敗ばかりしている私が、こういうことを言うのも、おかしなことだが……。)
(1) 家庭問題には、干渉しない。
(2) 金銭問題については、いつも明確にしておく。
(3) グチ、悪口は、タブー中のタブー。
なおこれは余談だが、加えて、加齢とともに、脳みそそのものが硬直する。
硬直した頭で、ぶつかりあうから、たがいに譲らない。
結果として、大騒動に発展する。……発展しやすい。
私も似たようなケースに遭遇しているが、ときどき、その相手との間に、
どうしようもないほど、遠い距離感を覚えることがある。
「この人に説明して、わからせるためには、数年かかるかもしれないな」とか、
「不可能に近いだろうな」とか。
とくに冠婚葬祭の問題がからんでくると、そうである。
「それは迷信だと思います」とでも言おうものなら、
狂ったように、反発してくる。
「お前は、ご先祖様を、どう考えているのかア!」と。
価値観というより、人生観。人生観というより、哲学そのものがちがう。
いや、そういう人には、もとから哲学など、ない。
過去を踏襲しているだけ。
だから私のばあい、適当に合わせて、それですますようにしている。
この世の中、角を立てれば、何かと、やりにくい。住みにくい。
●子育ての中で……
仲がよく見える兄弟・姉妹でも、そこに利害関係がからむと、とたんに様子が一変する。
それが兄弟・姉妹と考えてよい。
一般論から言うと、名前で呼びあう兄弟、姉妹は、仲がよい。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん」ではなく、「太郎くん」「花子さん」と呼びあう。
上下関係をつくらない、あるいは上下意識をもたせない。
たとえばアメリカやオーストラリアなどでは、こうした上下関係は、いっさい、ない。
親子でも、ない。夫婦でも、ない。先生と生徒、社長と社員にしても、
学校や会社を一歩離れたら、(対等)となる。
しかしこの日本では、そうはいかない。
とくに権威主義的なものの考え方をする人ほど、そうである。
「ぼくは長男だから」「あなたは男だから」と。
安易な『ダカラ論』をもちだして、自分の立場を正当化しようとする。
このダカラ論が、その関係をより複雑にする。
「私は二男なのに、両親のめんどうをみた」
「私は、嫁で出た身分なので、関係ない」とか、など。
話がそれたが、子どもが複数いるときは、「常に平等」を心がける。
ただ農村地域については、(農業を、後継者に伝えていく)という立場から、
何もかも平等というわけにはいかないかもしれない。
そのため昔ながらの長子存続という習慣も、残っている。
が、その一方で、その習慣にしばられ、もがき苦しんでいる人が多いのも事実。
親類、縁者の目。
近所のつきあい。
年老いていく両親の問題、などなど。
そうした自我群の中で、がんじがらめになっている。
自我群の中で犠牲になった人の苦悩も、これまた大きい。
が、親としては、こうした苦しみを子どもに残すことは、最小限にしたい。
その準備というか、努力は、怠ってはいけない。
とくに今、(財産)と言えるものをもっている人ほど、そうではないか。
「子育て」というと、えてして、(親子関係)を中心に考える。
しかしそれ以上に大切なのは、(兄弟関係)ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 家族 家族論 家族という自我群 正の自我 正の自我群 幻惑)
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