Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, March 31, 2008

*Un-seeable World beyond this seeable World

●4月1日(火曜日)、2008(April 1st, 2008)
I think of an un-seeable world beyond this seeable world.

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今朝、ワイフより少しだけ早く起きて、
ワイフにこう言った。

「オ~、外は雪だ。
雪が積もっている!」と。

それを聞いて、ワイフがフトンの中で、
首をすくめながら、こう言った。

「おかしな天気ね」と。

エイプリル・フール!

……という冗談が通じるほど、
今朝は寒かった。
冬に逆戻り?

そんな感じがした。

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●姫路城

昨日(3月31日)は、兵庫県は、姫路城まで行ってきた。
朝方、天気が心配されたが、行ってみると、晴。
ほどよく白い雲が浮かんでいて、写真撮影には、申し分なし。

おまけに桜が、部分的に、満開。
さすが、世界遺産。天下の名城。
まるで夢を見ているかのような、(ホント!)、景色だった。

あとでYOU TUBE用に、動画を編集してみるつもり。

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●光と分子の織りなす世界で……(Un-seeable Another World)
There may be another un-seeable world beyond this seeable world. What we can see now is not everything. Or we had better not think this seeable world is all.

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今、こうして見えるものだけを見て、
「これがすべて」と思ってはいけない。

この(見えるもの)の向こうには、
まったく別の世界がある?

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昨日、バスの中で、こんなことを考えた。
「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」と。

たとえば長野県の野辺山には、電波望遠鏡というものがある。
電波望遠鏡というのは、その名のとおり、宇宙からの電波をとらえて、それを(見る)
望遠鏡である。

もちろん人間の目では、電波を見ることはできない。
一度その電波を、人間の目にも(わかる)ように、画像に変換して、(見る)。

さらに(見る)といっても、実際には、大脳の後頭部にある視覚野に映った映像を、
脳が感知しているにすぎない。
わかりやすく言えば、視覚野というのは、パソコンのモニターのようなもの。
そこに映った映像を、脳が、(見る)。

そこにある物体にしても、そうだ。

どれも分子のかたまり。
かたまりというよりは、集まり。
しかし分子ということになれば、その間にある、空気(酸素や窒素)にしても、
これまた分子の集まり。

が、私たちは、空気を、直接見ることはできない。
「見ることができない」というよりは、「見えないようにできている」。

こうしておおざっぱに考えてみると、「見る」ということにしても、「そこに
物がある」ということにしても、たいへんあやふやなことであることがわかる。
私たちは、すべてのものを見ているように思っているかもしれないが、
その実、私たちのまわりには、見えないものも多い。

そこで私は、あらためて、周囲にある(物)を見てみる。

青い空、白い雲、若葉を吹き始めた山の木々……。
そこにある(色)にしても、これまたたいへん、あやふやなものである。
どうして青が、青なのか。
どうして緑が、緑なのか。
どうして白が、白なのか。

たとえば昆虫などは、人間にとっては同じ赤でも、いろいろな赤に見分けることが
できるという。
中には、人間には見えない、紫外線や赤外線を見ることができる動物もいるという。
つまり、私たちが見ている(色)にしても、絶対的なものではない。

……というふうに考えていくと、「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」
ということになってくる。
このことを逆に言うと、「見えているものだけがすべてではない」イコール、「見えて
いるものの向こうに、もっといろいろなものがある」ということになる。

このことをバスの中でワイフに話すと、ワイフはこう言った。

「でも、物は、ちゃんと、そこにあるわよ」「手でつかむことができるから」と。

それは、そうだ。

物は分子の(集まり)なら、手も分子の(集まり)。
ほどよく(硬さ)が同じなら、私たちは、その物を手でつかむことができる。
しかし「ほどよい」と言っても、たいへん微妙なもの。
たとえば空気などは、手でつかむことはできない。

反対に、人間の手が、空気のようなものだったら、これまたそこにある物を、
手でつかむことはできない。

(物)といっても、人間にとっての(物)であって、そこに「物がある」と断言
するのは、どうか?

たとえばこの宇宙には、電波の集合体のような、巨大な生物がいるかもしれない。
もしそんな生物がいたとするなら、地球など、スルスルとすり抜けてしまう
かもしれない。

……というのは、荒唐無稽な話だが、たとえばイルカなどは、超音波を発信して、
その反射波をとらえて、脳の中に映像らしきものを映し出すことができるという。
(見る)といっても、いろいろな見方があるということ。
またそれによって、見えるものも、すべてちがうということ。

つまり人間について言うなら、私たちは、人間という生物の目を通して、
それを見ているにすぎない。
しかもその見えるものと言えば、あくまでも人間にとって、見えるものにすぎない。

もし人間が、紫外線まで見ることができたとするなら、青い空は、紫色に見えるはず。
そしてそこにオゾンホールのようなものがあれば、私たちが白い雲を見るように、
紫色の雲を、そこに見るはず。

さらに赤外線まで見ることができたとするなら、光のない真夜中でも、熱を発する
生物を見ることができるはず。
ちょうど軍隊が使っている、赤外線スコープのように、だ。

(物)といっても、光が反射しているから、物としてわかるにすぎない。

私「この世界は、映画、『マトリックス』の世界のようなものかもしれないね」
ワ「どういうこと?」
私「つまりね、ぼくたち自身が、実は仮想現実の世界で生きているかもしれない
ということ」
ワ「別のところに、別の世界があるということ?」

私「そうかもしれない。しかしその別の世界というのは、この世界とは、まったく
異質の世界かもしれないよ」
ワ「まるで、ホーキング博士みたい……」
私「何が?」
ワ「ホーキング博士も、私たちが住んでいるような大宇宙は、ここにも、そこにも、
無数にあると言っているわ」

私「そう……。でもぼくたちは、それを見ることができない。さわることもできない」
ワ「不思議な世界ね」
私「いやね、そういう世界が不思議というわけではないんだよ。ぼくたちが生きている、
この世界もまた、不思議な世界だということだよ」
ワ「……?」
私「いいか。こちらから向こうの世界を見ると、不思議な世界と思うかもしれないが、
向こうの世界からこちらの世界を見ると、不思議な世界に見えるはず」と。

考えれば考えるほど、私たちは、不思議な世界に生きている。
この大宇宙にしても、もとはと言えば、(無)がふたつに分かれてできたという説が
ある。(線)のような世界が、爆発してできたという説もある。

どうやってこの宇宙が生まれたかは別にして、ともかくも、私たちは、風船
(=バブル)のような大宇宙の中で生きている。

この風船のような大宇宙の向こうには、何があるのか。
その向こうは、どうなっているのか。
あるいはひょっとしたら、私たちは、(無)の世界で、生きているのかもしれない。
繰りかえすが、あのホーキング博士は、そうした大宇宙が、ここにも、そこにも、
無数にあると説いている。

しかしそうした世界は、人間が見るかぎり、(無)である。
仮に私の横に、そうした大宇宙があるとしても、私は見ることも、さわることもできない。

さらに仮にその大宇宙の中に、無数の銀河があり、その銀河の一角に地球に似た惑星
があり、そこに生物がいるとしても、それを見ることも、さわることもできない。
私たちにしてみれば、その大宇宙も、世界も、そこに住む生物も、(無)ということになる。

しかし反対に、向こう側の宇宙から見れば、私たちが住む大宇宙も、世界も、ここに
住む私たちも(無)ということになる。

今、私たちが見ている世界の向こうに、いったい、どんな世界があるのか?
それは私にもわからない。
わからないが、これだけは事実である。

そこには、私たちの知らない、まったく別の世界がある。
想像もつかないような、まったく別の世界で、ある。
私たちが見ているこの世界だけを、けっして、すべてと思ってはいけない。